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トシユキくんの恋(1)
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トシユキくんが大学に行ってから、俺は家中をあてどなく歩きまわっていた。そうしていないと、暗い気配が背後からしのび寄ってきて、総身を握りつぶそうとするのだ。
慕情を貫き、白黒の車輌に乗せられるトシユキくんの姿が眼前に見えた気がした。それを見て悔恨と涙に暮れるパパさんとママさんの姿も――。
俺は頭を振ってその幻想を打ち消した。トシユキくんはそんな人ではない。
彼が子供の時分は、俺が一緒じゃないと眠れないと言って、よくぐずっていたものだ。あれほど純粋で幼気だった彼が、少女愛などに傾倒するはずもない。少女を熟視していたのはきっと、微笑ましく思って見守っていただけなのだ。かつての自身の姿を重ねて。
そう考えると、失われたはずの精気が漲ってきた。それと同時に、疑義の念を抱いていた自分が恥ずかしくなる。
あの老爺に、青木家の人々は禍患になどならないと言っておきながら、俺自身が疑うなどあってはならないことだ。
俺はトシユキくんの部屋の床に蹲った。
エレキギターやアコースティックギターが鎮座する、年頃の男の子らしい部屋。すっかり馴染んだトシユキくんの匂いと、少し背伸びしたムスクの薫香が鼻腔をくすぐる。
ふと視線を横に向けると、ベッドの下の暗闇にぶつかった。普段は気にも留めないその空間に何かが見えた気がして、目を凝らす。
短い前脚を伸ばしてみると、紙の分厚い感触が触れた。
引っ張り出すと、それは雑誌だった。華美なせきちく色の上表紙に、中学生ほどの女の子が二人頬を寄せ合って笑んでいる。顔の下には、「やんちゃかわいい秋服」、「中学生モデル、スクバの中身」といった字句が雑然と踊る。なんの変哲もない、女子小中学生向けのファッション誌だ。
問題は、これが遮蔽されていた場所だ。なぜこんなものが、トシユキくんのベッドの下にあるのか。言わずもがな、トシユキくんは大学生の男の子だ。妹もいない。
先刻押しやったはずの憶説が、嫌な予覚とともに再び脳裏をよぎった。
翌日、庭でひとり勘案していると、門の向こうに見知った風姿を見つけた。
胡粉色のやわらかな被毛。丸みを帯びた小さな耳。光を反射して輝く、ビー玉のようなつぶらな瞳子。
「ましろちゃん」
隣家に住むポメラニアンの彼女は、どうやらひとりのようだった。また抜け出してきたのだろう。
ましろちゃんは、いたずらっぽく舌を出して笑った。
「退屈だから、遊びに来ちゃった」
「来てくれるのは嬉しいけど、あんまり心配かけちゃだめだよ」
口から漏れたのは、優等生じみた、あまりに似つかわしくない呟きだった。
「柴太郎さん、なんだか元気がないわね」
透き通った呂色の眸子が、心配げに俺の顔を覗き込む。
「なにかあったの? 悩みがあるなら聞くわ」
彼女の瞳子に映る自分が、迷子のような、心許なげな面様で見つめてくる。
「ましろちゃん……。それが、実は――」
逡巡した後、ましろちゃんにトシユキくんのことを話した。
河川敷で女児を熟視していたこと。ベッドの下に、女子小中学生向けの雑誌をしのばせていたこと。
老爺のことは伏せた。うまく説明できる自信がなかったし、そんな奇態な話をしたら余計に心配させてしまうかもしれない。
一渡り話を聞き終えて、彼女が言った。
「そんなことがあったのね。あのトシユキさんが……」
ましろちゃんはトシユキくんを知っている。俺が来る何年も前からここに住んでいるためだ。また、逍遥で会うことも多い。
「信じたくはないけど、もし正道を外れようとしているなら、止めなくちゃ」
老爺の言葉が耳朶に甦る。――たとえ今は兆候がなくとも、遠くない未来に禍難は発生し、一家の心を喰い荒らすであろう。
「落ち着いて、柴太郎さん。それがもし本当だとしても、無理に抑えつけるのはよくないかもしれないわ」
「どういうこと?」
「もし、もしもよ。無理やり抑えつけて、トシユキさんの欲心がかえって増大するようなことになったら……。その衝迫が真っすぐに女の子に向かったら、傷つくのはその子なのよ」
「じゃあ、どうすれば……」
「児女への関心を自然になくしてくれればいいのだけれど……」
熟考する俺たちの耳に、下校途中の男子中学生の会話が聞こえてきた。
「怯弱なやつだな。一人で延々と考えていないで、早く告白すればいいだろう」
「できるわけないだろう。彼女には好きな男がいるんだから」
「だからこそだよ。やってみれば存外うまくいくかもしれないし、たとえだめでも、気持ちさえ伝えればいずれは振り切れる。気持ちを伝えることが肝要なんだ」
それを聞いて、思わず顔を見交わした。
「気持ちを伝えることが肝要……」
迅雷に打たれたように、ましろちゃんが呟く。
「この場合はだめだよ。それこそ捕まっちゃう」
「そりゃあ、口や手を出したらそうなるでしょうね」
「ましろちゃん……?」
彼女の愛らしい双眸がきらきらと煌めいた。その頼もしい微笑みに、少し背筋が震える。
「言葉にしなくても、触れ合わなくても、伝えることはできるわ」
慕情を貫き、白黒の車輌に乗せられるトシユキくんの姿が眼前に見えた気がした。それを見て悔恨と涙に暮れるパパさんとママさんの姿も――。
俺は頭を振ってその幻想を打ち消した。トシユキくんはそんな人ではない。
彼が子供の時分は、俺が一緒じゃないと眠れないと言って、よくぐずっていたものだ。あれほど純粋で幼気だった彼が、少女愛などに傾倒するはずもない。少女を熟視していたのはきっと、微笑ましく思って見守っていただけなのだ。かつての自身の姿を重ねて。
そう考えると、失われたはずの精気が漲ってきた。それと同時に、疑義の念を抱いていた自分が恥ずかしくなる。
あの老爺に、青木家の人々は禍患になどならないと言っておきながら、俺自身が疑うなどあってはならないことだ。
俺はトシユキくんの部屋の床に蹲った。
エレキギターやアコースティックギターが鎮座する、年頃の男の子らしい部屋。すっかり馴染んだトシユキくんの匂いと、少し背伸びしたムスクの薫香が鼻腔をくすぐる。
ふと視線を横に向けると、ベッドの下の暗闇にぶつかった。普段は気にも留めないその空間に何かが見えた気がして、目を凝らす。
短い前脚を伸ばしてみると、紙の分厚い感触が触れた。
引っ張り出すと、それは雑誌だった。華美なせきちく色の上表紙に、中学生ほどの女の子が二人頬を寄せ合って笑んでいる。顔の下には、「やんちゃかわいい秋服」、「中学生モデル、スクバの中身」といった字句が雑然と踊る。なんの変哲もない、女子小中学生向けのファッション誌だ。
問題は、これが遮蔽されていた場所だ。なぜこんなものが、トシユキくんのベッドの下にあるのか。言わずもがな、トシユキくんは大学生の男の子だ。妹もいない。
先刻押しやったはずの憶説が、嫌な予覚とともに再び脳裏をよぎった。
翌日、庭でひとり勘案していると、門の向こうに見知った風姿を見つけた。
胡粉色のやわらかな被毛。丸みを帯びた小さな耳。光を反射して輝く、ビー玉のようなつぶらな瞳子。
「ましろちゃん」
隣家に住むポメラニアンの彼女は、どうやらひとりのようだった。また抜け出してきたのだろう。
ましろちゃんは、いたずらっぽく舌を出して笑った。
「退屈だから、遊びに来ちゃった」
「来てくれるのは嬉しいけど、あんまり心配かけちゃだめだよ」
口から漏れたのは、優等生じみた、あまりに似つかわしくない呟きだった。
「柴太郎さん、なんだか元気がないわね」
透き通った呂色の眸子が、心配げに俺の顔を覗き込む。
「なにかあったの? 悩みがあるなら聞くわ」
彼女の瞳子に映る自分が、迷子のような、心許なげな面様で見つめてくる。
「ましろちゃん……。それが、実は――」
逡巡した後、ましろちゃんにトシユキくんのことを話した。
河川敷で女児を熟視していたこと。ベッドの下に、女子小中学生向けの雑誌をしのばせていたこと。
老爺のことは伏せた。うまく説明できる自信がなかったし、そんな奇態な話をしたら余計に心配させてしまうかもしれない。
一渡り話を聞き終えて、彼女が言った。
「そんなことがあったのね。あのトシユキさんが……」
ましろちゃんはトシユキくんを知っている。俺が来る何年も前からここに住んでいるためだ。また、逍遥で会うことも多い。
「信じたくはないけど、もし正道を外れようとしているなら、止めなくちゃ」
老爺の言葉が耳朶に甦る。――たとえ今は兆候がなくとも、遠くない未来に禍難は発生し、一家の心を喰い荒らすであろう。
「落ち着いて、柴太郎さん。それがもし本当だとしても、無理に抑えつけるのはよくないかもしれないわ」
「どういうこと?」
「もし、もしもよ。無理やり抑えつけて、トシユキさんの欲心がかえって増大するようなことになったら……。その衝迫が真っすぐに女の子に向かったら、傷つくのはその子なのよ」
「じゃあ、どうすれば……」
「児女への関心を自然になくしてくれればいいのだけれど……」
熟考する俺たちの耳に、下校途中の男子中学生の会話が聞こえてきた。
「怯弱なやつだな。一人で延々と考えていないで、早く告白すればいいだろう」
「できるわけないだろう。彼女には好きな男がいるんだから」
「だからこそだよ。やってみれば存外うまくいくかもしれないし、たとえだめでも、気持ちさえ伝えればいずれは振り切れる。気持ちを伝えることが肝要なんだ」
それを聞いて、思わず顔を見交わした。
「気持ちを伝えることが肝要……」
迅雷に打たれたように、ましろちゃんが呟く。
「この場合はだめだよ。それこそ捕まっちゃう」
「そりゃあ、口や手を出したらそうなるでしょうね」
「ましろちゃん……?」
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「言葉にしなくても、触れ合わなくても、伝えることはできるわ」
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