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第2話: 崩壊した家
五年前——ヴェルナー公爵邸の門扉《もんぴ》を初めて見上げた時、私は自分の足が止まっていることに気づいた。
鉄と石で組まれた門は、没落寸前のメルツ伯爵邸の三倍はある。左右に連なる石壁はどこまでも続き、春だというのに庭木の手入れだけが完璧に行き届いている。
王都随一の名門、ヴェルナー公爵家。
その門の前に、田舎伯爵家の養育係志望が一人。革鞄ひとつで立ち尽くしている構図は、我ながら滑稽だった。
前世でも、こういう場面があった。
初めて保育園に出勤した朝。園長先生が「0歳児クラスをお願いね」と笑って、私は汗だくで園庭に立っていた。園舎はこの公爵邸よりずっと小さかったけれど、あの日の緊張は今と同じだ。
いや、今のほうが酷い。前世では少なくとも保育の教科書があった。この世界には「保育」という言葉すらない。
門番に名を告げると、侍女が一人迎えに来た。三十歳《さんじゅう》前後の、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「マルタと申します。お荷物をお持ちしますわ」
革鞄ひとつしかない私を見ても、表情を変えなかった。
荷物の少なさに同情するでもなく、見下すでもない。静かに、ただ事実を受け止める目をしていた。
応接間ではなく、離れの小さな居室に通された。
陽当たりのいい窓辺に、銀髪の婦人が座っていた。杖が壁に立てかけてある。かつては王都随一の美貌と称されたというが、今は頬がこけ、病の影が色濃い。
それでも眼光だけが、鋭かった。
「フィオナ・メルツですね。話は聞いていますよ」
イルマ・ヴェルナー公爵夫人。エドワード様の母君であり、この家の裏の支柱だ。
「はい。メルツ伯爵家のフィオナでございます。本日より養育係として——」
「堅苦しい挨拶は結構です」
イルマ様は右手を小さく振った。その動作だけで、この人が長年どれだけの権威を持ってきたかが分かる。
「率直に申しましょう。わたくしは、あなたに賭けています」
賭けている。面談の冒頭で、そう言われるとは思わなかった。
「メルツ家の使用人から聞きました。あなたが幼い従弟《いとこ》の世話をした時、泣き止まない子に歌を歌い、食べない子に畑で遊ばせ、一月で表情が変わったと」
私は頭を下げた。あれはたまたまではなく、前世の知識を試しただけだ。けれどそれを言うわけにはいかない。
「嫁のアンネが逝って二週間です」
イルマ様の声が低くなった。
「ルーカスは一言も話さなくなりました。エミリアは毎晩泣き叫びます。マティアスは生まれたばかりなのに、乳母の乳を受けつけない」
一つ一つが、前世の保育士の耳に突き刺さる。
「エドワードは子供たちの顔を見ません。子供部屋に足を運んだのは、アンネの死後、一度だけです」
イルマ様の指が、膝の上で微かに震えた。
「主任教育係のヒルデは有能ですが、『養育は養育係の仕事、教育は教育係の仕事』と線を引く人です。六歳から教育が始まりますので、三歳のエミリアにはまだ興味を示しませんし、新生児のマティアスは完全に管轄外」
六歳まで養育係、六歳から教育係。この世界の制度では、その間の「育ちの支援」という発想がそもそもない。
「ルーカス様は七歳ですから、ヒルデ様の管轄では——」
「ええ。ですが、ルーカスが話せなくなったことを、ヒルデは『怠惰』だと言いました。『話す気がないのだ』と」
違う。
声には出さなかったけれど、前世の保育士がはっきりと否定していた。七歳の子供が母親を亡くして一言も話せなくなった。それは怠惰ではない。心が、声を閉じたのだ。
イルマ様は私の表情を見て、かすかに微笑んだ。
「……やはり、あなたが正しい人のようですね」
子供部屋は最上階の隅にあった。
大人の足で階段を三つ上り、廊下を奥まで進む。公爵邸の中心からは最も遠い場所だ。子供の声が届かないほど遠い。
前世の園長先生が聞いたら、何と言うだろう。
マルタが扉を開けた瞬間、臭いが来た。
ミルクの酸えた臭いと、汚れた布の臭い。暖炉の灰が放置された焦げ臭さ。換気されていない部屋特有の、澱《よど》んだ空気。
これは、二週間の臭いではない。
部屋に入って、最初に目に飛び込んできたのは揺り籠だった。
木製の揺り籠の中で、小さな赤ん坊が目を開けている。泣いていない。泣く力も残っていないのだと、直感で分かった。
マティアス。生後二週間。
頬の肉が薄い。新生児にしては、明らかに小さすぎる。
「乳母はどちらに——」
マルタが首を横に振った。
「三人目の乳母が、昨日辞めました。どの乳母も、この子が乳首を咥えないと」
授乳拒否。
前世の知識が頭の中を巡る。母親の死という環境の激変。嗅覚の変化。喉がうまく動かなくなっている可能性。原因はいくつも考えられるが、今この瞬間に重要なのは原因ではない。
この子は、飢えている。
「フィオナ様」
マルタの声に振り返ると、部屋の隅を指差していた。
暗がりに、小さな人影が二つ。
寝台の脇に、七歳の少年が膝を抱えて座っていた。黒髪に、柔らかい茶色の瞳。父エドワード様に似た輪郭だが、その目には父にはない優しさがある。ただし今は、何も映していなかった。
虚《うつ》ろだった。壁の一点を見つめたまま、瞬きすらしない。
ルーカス・ヴェルナー。七歳。
その膝の上で、小さな女の子が丸くなっていた。
栗色の巻き毛が汗で額に張りつき、泣き腫らした目元が真っ赤だ。起きているのか眠っているのか分からない。ぼんやりと虚空を見つめながら、握りしめた手がルーカスの上着の裾を離さない。時折ひくりと肩が痙攣《けいれん》するのは、長く泣いた後の名残だった。
三歳という年齢にしては、体も小さい。食事も十分に摂れていないのかもしれない。
エミリア・ヴェルナー。三歳。
ああ。
分かった。この子たちは、壊れかけているのではない。
もう壊れている。
私は革鞄を下ろし、エプロンの袖をまくった。
「マルタ様。温かいお湯をいただけますか。清潔な布と、できれば山羊の乳を。人肌に温めたものを、小さな器に」
マルタは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いて部屋を出た。
前世の記憶が、体を動かしていた。授乳拒否の赤ん坊に試せることはある。直接の授乳が駄目なら、スプーン授乳。スプーンが駄目なら、布の端に乳を染み込ませて吸わせる。
手段はある。時間がないだけだ。
揺り籠の横に膝をつき、マティアスを抱き上げた。
軽い。あまりにも軽い。生後二週間の赤ん坊が、こんなに軽いはずがない。
頬に触れると、かすかに体温がある。低い。
「大丈夫。大丈夫だよ」
赤ん坊に話しかけても、まだ言葉は分からない。けれど声の振動は伝わる。抱き方の温度は伝わる。それを前世で、何十人もの赤ん坊から教わった。
マティアスが、私の指を握った。
反射かもしれない。新生児の把握反射はこの時期にはまだある。でも、その小さな指の力が、私の心臓を掴んだ。
「……っ」
泣きそうになった。だめだ、ここで泣いたら。子供の前で泣かないと決めている。前世からずっと、子供の前で、泣いてはいけない。
足音が聞こえた。
廊下から、硬い靴音が近づいてくる。マルタの柔らかい足音とは違う。規則正しく、冷たい音。
扉が開いた。
「何だ。来ていたのか」
エドワード・ヴェルナー。二十九歳。公爵嫡男。
黒髪に鋭い灰色の瞳。整った容姿と冷淡な表情が同居している。子供部屋に足を踏み入れたが、視線は子供たちに向いていなかった。私の方をまっすぐに見ている。
「本日より養育係としてお世話になります。フィオナ・メルツでございます」
マティアスを抱いたまま頭を下げた。
「ああ。母が選んだのだったな」
それだけだった。
エドワード様は部屋を一度も見回さなかった。揺り籠の汚れた布も、床に散らばった使用済みの替え布も、隅で膝を抱える息子の虚ろな目も、何も、見ていなかった。
「マルティンはどうだ」
マルティン。
一瞬、誰のことか分からなかった。
マティアス様です。
心の中で訂正したが、口には出さなかった。この人は、三人目の子供の名前すら正確に覚えていないのだ。
「……授乳を拒んでおられます。これから対処いたします」
「そうか。子供の世話をしろ。それだけだ」
踵を返す直前、ルーカスが動いた。
膝を抱えたまま、口が微かに開く。何か言おうとしている。唇が震えている。
「……ち、ち……」
父上、と言いたいのだろう。
声にならない。音が途切れ、喉が詰まり、ルーカスの目にみるみる涙が溜まっていく。
エドワード様は振り返らなかった。
「ヒルデが教育方針について説明するだろう。養育係は養育だけをしていればいい」
靴音が遠ざかる。
扉が閉まった。
ルーカスの口が、ゆっくりと閉じた。言葉を諦めるように。そして膝の上のエミリアの頭を、片手でぎこちなく撫でた。七歳の手で。弟と妹を、一人で守ろうとする手で。
エミリアがその手に頬を擦りつけた。無意識なのかもしれない。けれどその仕草が、この三歳の子がどれだけ兄にしがみついているかを物語っていた。
この子は、話せないのではない。
話すことを、やめたのだ。
前世の知識が告げている。心が原因で声が出なくなる症状がある。母の死だけではない。この家の冷たさが、この子の声を奪ったのだ。
マルタが湯と山羊の乳を持って戻ってきた。
私はマティアスを片腕に抱いたまま、もう片方の手で清潔な布の端を乳に浸した。
「マティアス。ね、ここだよ」
布の先端をそっと唇に当てる。
最初は反応がなかった。三人の乳母が匙を投げた赤ん坊だ。簡単にはいかない。
もう一度。唇の端に、そっと。
舌が、動いた。
ほんの微かに。布に染みた乳を、反射的に舐めた。一滴。もう一滴。
「……そう。上手だね。上手」
涙が出そうだった。堪えた。
一滴ずつ。一滴ずつでいい。今日はこれでいい。
ルーカスが、こちらを見ていた。
壁を見つめていたあの虚ろな目が、初めて焦点を結んでいた。私と、私の腕の中のマティアスを。
「ルーカス様。初めまして。私はフィオナです」
返事はなかった。
でも、目が逸れなかった。
エミリアがルーカスの膝の上で身じろぎした。薄く目を開け、私の顔をぼんやりと見つめる。涙の跡が頬に筋を作っている。小さな口が動いた。
「……まま」
その一言が、静かな子供部屋に落ちた。
ママではないよ、とは言えなかった。代わりに、できるだけ柔らかい声で言った。
「大丈夫だよ。ここにいるよ」
エミリアの瞳が揺れた。私の声を聞いたのか、それとも誰かがそばにいるという事実に反応したのか。判断はつかない。けれどその目が、ほんの一瞬だけ、何かを探すように動いた。
マティアスが布からもう一滴、乳を吸った。
三人の子供が、それぞれの壊れ方で、同じ部屋にいる。
七歳のルーカスは声を失い、三歳のエミリアはもういない母を呼び、生後二週間のマティアスは飢えている。
これが、ヴェルナー公爵家の「養育」の現実だった。
大丈夫。
私は知っている。子供は壊れても、また育つ。折れた枝からも新しい芽が出る。それを前世で何度も見てきた。
ただし、条件がひとつだけある。
そばに、気づく人がいること。
革鞄の中から、一冊のノートを取り出した。表紙にはまだ何も書いていない。真新しい白紙のノート。
最初のページを開き、今日の日付を書いた。
観察記録。第一日。
ルーカス(七歳):発語なし。視線の固着あり。膝の上で妹を抱えたまま動かない。衰弱の兆候あり。
エミリア(三歳):泣き疲れた状態。覚醒時も虚ろ。寝言で「まま」。目元の腫脹が著しい。体格がやや小さい。
マティアス(〇歳):授乳拒否。体重減少の疑い。布端授乳で微量の摂取を確認。
三行。たった三行の記録。
けれどこのノートを、私は一日も欠かさず書き続けることになる。
あの時の私にはまだ分からなかった。このノートがいつか、全てを変えることになるとは。
だが今の私は知っている。
だから、書き残す。五年前のあの春の日から、全てを。
鉄と石で組まれた門は、没落寸前のメルツ伯爵邸の三倍はある。左右に連なる石壁はどこまでも続き、春だというのに庭木の手入れだけが完璧に行き届いている。
王都随一の名門、ヴェルナー公爵家。
その門の前に、田舎伯爵家の養育係志望が一人。革鞄ひとつで立ち尽くしている構図は、我ながら滑稽だった。
前世でも、こういう場面があった。
初めて保育園に出勤した朝。園長先生が「0歳児クラスをお願いね」と笑って、私は汗だくで園庭に立っていた。園舎はこの公爵邸よりずっと小さかったけれど、あの日の緊張は今と同じだ。
いや、今のほうが酷い。前世では少なくとも保育の教科書があった。この世界には「保育」という言葉すらない。
門番に名を告げると、侍女が一人迎えに来た。三十歳《さんじゅう》前後の、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「マルタと申します。お荷物をお持ちしますわ」
革鞄ひとつしかない私を見ても、表情を変えなかった。
荷物の少なさに同情するでもなく、見下すでもない。静かに、ただ事実を受け止める目をしていた。
応接間ではなく、離れの小さな居室に通された。
陽当たりのいい窓辺に、銀髪の婦人が座っていた。杖が壁に立てかけてある。かつては王都随一の美貌と称されたというが、今は頬がこけ、病の影が色濃い。
それでも眼光だけが、鋭かった。
「フィオナ・メルツですね。話は聞いていますよ」
イルマ・ヴェルナー公爵夫人。エドワード様の母君であり、この家の裏の支柱だ。
「はい。メルツ伯爵家のフィオナでございます。本日より養育係として——」
「堅苦しい挨拶は結構です」
イルマ様は右手を小さく振った。その動作だけで、この人が長年どれだけの権威を持ってきたかが分かる。
「率直に申しましょう。わたくしは、あなたに賭けています」
賭けている。面談の冒頭で、そう言われるとは思わなかった。
「メルツ家の使用人から聞きました。あなたが幼い従弟《いとこ》の世話をした時、泣き止まない子に歌を歌い、食べない子に畑で遊ばせ、一月で表情が変わったと」
私は頭を下げた。あれはたまたまではなく、前世の知識を試しただけだ。けれどそれを言うわけにはいかない。
「嫁のアンネが逝って二週間です」
イルマ様の声が低くなった。
「ルーカスは一言も話さなくなりました。エミリアは毎晩泣き叫びます。マティアスは生まれたばかりなのに、乳母の乳を受けつけない」
一つ一つが、前世の保育士の耳に突き刺さる。
「エドワードは子供たちの顔を見ません。子供部屋に足を運んだのは、アンネの死後、一度だけです」
イルマ様の指が、膝の上で微かに震えた。
「主任教育係のヒルデは有能ですが、『養育は養育係の仕事、教育は教育係の仕事』と線を引く人です。六歳から教育が始まりますので、三歳のエミリアにはまだ興味を示しませんし、新生児のマティアスは完全に管轄外」
六歳まで養育係、六歳から教育係。この世界の制度では、その間の「育ちの支援」という発想がそもそもない。
「ルーカス様は七歳ですから、ヒルデ様の管轄では——」
「ええ。ですが、ルーカスが話せなくなったことを、ヒルデは『怠惰』だと言いました。『話す気がないのだ』と」
違う。
声には出さなかったけれど、前世の保育士がはっきりと否定していた。七歳の子供が母親を亡くして一言も話せなくなった。それは怠惰ではない。心が、声を閉じたのだ。
イルマ様は私の表情を見て、かすかに微笑んだ。
「……やはり、あなたが正しい人のようですね」
子供部屋は最上階の隅にあった。
大人の足で階段を三つ上り、廊下を奥まで進む。公爵邸の中心からは最も遠い場所だ。子供の声が届かないほど遠い。
前世の園長先生が聞いたら、何と言うだろう。
マルタが扉を開けた瞬間、臭いが来た。
ミルクの酸えた臭いと、汚れた布の臭い。暖炉の灰が放置された焦げ臭さ。換気されていない部屋特有の、澱《よど》んだ空気。
これは、二週間の臭いではない。
部屋に入って、最初に目に飛び込んできたのは揺り籠だった。
木製の揺り籠の中で、小さな赤ん坊が目を開けている。泣いていない。泣く力も残っていないのだと、直感で分かった。
マティアス。生後二週間。
頬の肉が薄い。新生児にしては、明らかに小さすぎる。
「乳母はどちらに——」
マルタが首を横に振った。
「三人目の乳母が、昨日辞めました。どの乳母も、この子が乳首を咥えないと」
授乳拒否。
前世の知識が頭の中を巡る。母親の死という環境の激変。嗅覚の変化。喉がうまく動かなくなっている可能性。原因はいくつも考えられるが、今この瞬間に重要なのは原因ではない。
この子は、飢えている。
「フィオナ様」
マルタの声に振り返ると、部屋の隅を指差していた。
暗がりに、小さな人影が二つ。
寝台の脇に、七歳の少年が膝を抱えて座っていた。黒髪に、柔らかい茶色の瞳。父エドワード様に似た輪郭だが、その目には父にはない優しさがある。ただし今は、何も映していなかった。
虚《うつ》ろだった。壁の一点を見つめたまま、瞬きすらしない。
ルーカス・ヴェルナー。七歳。
その膝の上で、小さな女の子が丸くなっていた。
栗色の巻き毛が汗で額に張りつき、泣き腫らした目元が真っ赤だ。起きているのか眠っているのか分からない。ぼんやりと虚空を見つめながら、握りしめた手がルーカスの上着の裾を離さない。時折ひくりと肩が痙攣《けいれん》するのは、長く泣いた後の名残だった。
三歳という年齢にしては、体も小さい。食事も十分に摂れていないのかもしれない。
エミリア・ヴェルナー。三歳。
ああ。
分かった。この子たちは、壊れかけているのではない。
もう壊れている。
私は革鞄を下ろし、エプロンの袖をまくった。
「マルタ様。温かいお湯をいただけますか。清潔な布と、できれば山羊の乳を。人肌に温めたものを、小さな器に」
マルタは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いて部屋を出た。
前世の記憶が、体を動かしていた。授乳拒否の赤ん坊に試せることはある。直接の授乳が駄目なら、スプーン授乳。スプーンが駄目なら、布の端に乳を染み込ませて吸わせる。
手段はある。時間がないだけだ。
揺り籠の横に膝をつき、マティアスを抱き上げた。
軽い。あまりにも軽い。生後二週間の赤ん坊が、こんなに軽いはずがない。
頬に触れると、かすかに体温がある。低い。
「大丈夫。大丈夫だよ」
赤ん坊に話しかけても、まだ言葉は分からない。けれど声の振動は伝わる。抱き方の温度は伝わる。それを前世で、何十人もの赤ん坊から教わった。
マティアスが、私の指を握った。
反射かもしれない。新生児の把握反射はこの時期にはまだある。でも、その小さな指の力が、私の心臓を掴んだ。
「……っ」
泣きそうになった。だめだ、ここで泣いたら。子供の前で泣かないと決めている。前世からずっと、子供の前で、泣いてはいけない。
足音が聞こえた。
廊下から、硬い靴音が近づいてくる。マルタの柔らかい足音とは違う。規則正しく、冷たい音。
扉が開いた。
「何だ。来ていたのか」
エドワード・ヴェルナー。二十九歳。公爵嫡男。
黒髪に鋭い灰色の瞳。整った容姿と冷淡な表情が同居している。子供部屋に足を踏み入れたが、視線は子供たちに向いていなかった。私の方をまっすぐに見ている。
「本日より養育係としてお世話になります。フィオナ・メルツでございます」
マティアスを抱いたまま頭を下げた。
「ああ。母が選んだのだったな」
それだけだった。
エドワード様は部屋を一度も見回さなかった。揺り籠の汚れた布も、床に散らばった使用済みの替え布も、隅で膝を抱える息子の虚ろな目も、何も、見ていなかった。
「マルティンはどうだ」
マルティン。
一瞬、誰のことか分からなかった。
マティアス様です。
心の中で訂正したが、口には出さなかった。この人は、三人目の子供の名前すら正確に覚えていないのだ。
「……授乳を拒んでおられます。これから対処いたします」
「そうか。子供の世話をしろ。それだけだ」
踵を返す直前、ルーカスが動いた。
膝を抱えたまま、口が微かに開く。何か言おうとしている。唇が震えている。
「……ち、ち……」
父上、と言いたいのだろう。
声にならない。音が途切れ、喉が詰まり、ルーカスの目にみるみる涙が溜まっていく。
エドワード様は振り返らなかった。
「ヒルデが教育方針について説明するだろう。養育係は養育だけをしていればいい」
靴音が遠ざかる。
扉が閉まった。
ルーカスの口が、ゆっくりと閉じた。言葉を諦めるように。そして膝の上のエミリアの頭を、片手でぎこちなく撫でた。七歳の手で。弟と妹を、一人で守ろうとする手で。
エミリアがその手に頬を擦りつけた。無意識なのかもしれない。けれどその仕草が、この三歳の子がどれだけ兄にしがみついているかを物語っていた。
この子は、話せないのではない。
話すことを、やめたのだ。
前世の知識が告げている。心が原因で声が出なくなる症状がある。母の死だけではない。この家の冷たさが、この子の声を奪ったのだ。
マルタが湯と山羊の乳を持って戻ってきた。
私はマティアスを片腕に抱いたまま、もう片方の手で清潔な布の端を乳に浸した。
「マティアス。ね、ここだよ」
布の先端をそっと唇に当てる。
最初は反応がなかった。三人の乳母が匙を投げた赤ん坊だ。簡単にはいかない。
もう一度。唇の端に、そっと。
舌が、動いた。
ほんの微かに。布に染みた乳を、反射的に舐めた。一滴。もう一滴。
「……そう。上手だね。上手」
涙が出そうだった。堪えた。
一滴ずつ。一滴ずつでいい。今日はこれでいい。
ルーカスが、こちらを見ていた。
壁を見つめていたあの虚ろな目が、初めて焦点を結んでいた。私と、私の腕の中のマティアスを。
「ルーカス様。初めまして。私はフィオナです」
返事はなかった。
でも、目が逸れなかった。
エミリアがルーカスの膝の上で身じろぎした。薄く目を開け、私の顔をぼんやりと見つめる。涙の跡が頬に筋を作っている。小さな口が動いた。
「……まま」
その一言が、静かな子供部屋に落ちた。
ママではないよ、とは言えなかった。代わりに、できるだけ柔らかい声で言った。
「大丈夫だよ。ここにいるよ」
エミリアの瞳が揺れた。私の声を聞いたのか、それとも誰かがそばにいるという事実に反応したのか。判断はつかない。けれどその目が、ほんの一瞬だけ、何かを探すように動いた。
マティアスが布からもう一滴、乳を吸った。
三人の子供が、それぞれの壊れ方で、同じ部屋にいる。
七歳のルーカスは声を失い、三歳のエミリアはもういない母を呼び、生後二週間のマティアスは飢えている。
これが、ヴェルナー公爵家の「養育」の現実だった。
大丈夫。
私は知っている。子供は壊れても、また育つ。折れた枝からも新しい芽が出る。それを前世で何度も見てきた。
ただし、条件がひとつだけある。
そばに、気づく人がいること。
革鞄の中から、一冊のノートを取り出した。表紙にはまだ何も書いていない。真新しい白紙のノート。
最初のページを開き、今日の日付を書いた。
観察記録。第一日。
ルーカス(七歳):発語なし。視線の固着あり。膝の上で妹を抱えたまま動かない。衰弱の兆候あり。
エミリア(三歳):泣き疲れた状態。覚醒時も虚ろ。寝言で「まま」。目元の腫脹が著しい。体格がやや小さい。
マティアス(〇歳):授乳拒否。体重減少の疑い。布端授乳で微量の摂取を確認。
三行。たった三行の記録。
けれどこのノートを、私は一日も欠かさず書き続けることになる。
あの時の私にはまだ分からなかった。このノートがいつか、全てを変えることになるとは。
だが今の私は知っている。
だから、書き残す。五年前のあの春の日から、全てを。
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※前半と後半はストーリーの雰囲気が変わります。
表紙は「かんたん表紙メーカー2」にて作成いたしました。
❇❇❇❇❇❇❇❇❇
2024年10月追記
お読みいただき、ありがとうございます。
こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。
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