「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました

歩人

文字の大きさ
2 / 4

第2話: 崩壊した家

 五年前——ヴェルナー公爵邸の門扉《もんぴ》を初めて見上げた時、私は自分の足が止まっていることに気づいた。

 鉄と石で組まれた門は、没落寸前のメルツ伯爵邸の三倍はある。左右に連なる石壁はどこまでも続き、春だというのに庭木の手入れだけが完璧に行き届いている。
 王都随一の名門、ヴェルナー公爵家。
 その門の前に、田舎伯爵家の養育係志望が一人。革鞄ひとつで立ち尽くしている構図は、我ながら滑稽だった。

 前世でも、こういう場面があった。

 初めて保育園に出勤した朝。園長先生が「0歳児クラスをお願いね」と笑って、私は汗だくで園庭に立っていた。園舎はこの公爵邸よりずっと小さかったけれど、あの日の緊張は今と同じだ。
 いや、今のほうが酷い。前世では少なくとも保育の教科書があった。この世界には「保育」という言葉すらない。

 門番に名を告げると、侍女が一人迎えに来た。三十歳《さんじゅう》前後の、落ち着いた雰囲気の女性だった。
 「マルタと申します。お荷物をお持ちしますわ」
 革鞄ひとつしかない私を見ても、表情を変えなかった。
 荷物の少なさに同情するでもなく、見下すでもない。静かに、ただ事実を受け止める目をしていた。



 応接間ではなく、離れの小さな居室に通された。
 陽当たりのいい窓辺に、銀髪の婦人が座っていた。杖が壁に立てかけてある。かつては王都随一の美貌と称されたというが、今は頬がこけ、病の影が色濃い。
 それでも眼光だけが、鋭かった。

 「フィオナ・メルツですね。話は聞いていますよ」

 イルマ・ヴェルナー公爵夫人。エドワード様の母君であり、この家の裏の支柱だ。

 「はい。メルツ伯爵家のフィオナでございます。本日より養育係として——」
 「堅苦しい挨拶は結構です」

 イルマ様は右手を小さく振った。その動作だけで、この人が長年どれだけの権威を持ってきたかが分かる。

 「率直に申しましょう。わたくしは、あなたに賭けています」

 賭けている。面談の冒頭で、そう言われるとは思わなかった。

 「メルツ家の使用人から聞きました。あなたが幼い従弟《いとこ》の世話をした時、泣き止まない子に歌を歌い、食べない子に畑で遊ばせ、一月で表情が変わったと」

 私は頭を下げた。あれはたまたまではなく、前世の知識を試しただけだ。けれどそれを言うわけにはいかない。

 「嫁のアンネが逝って二週間です」

 イルマ様の声が低くなった。

 「ルーカスは一言も話さなくなりました。エミリアは毎晩泣き叫びます。マティアスは生まれたばかりなのに、乳母の乳を受けつけない」

 一つ一つが、前世の保育士の耳に突き刺さる。

 「エドワードは子供たちの顔を見ません。子供部屋に足を運んだのは、アンネの死後、一度だけです」

 イルマ様の指が、膝の上で微かに震えた。

 「主任教育係のヒルデは有能ですが、『養育は養育係の仕事、教育は教育係の仕事』と線を引く人です。六歳から教育が始まりますので、三歳のエミリアにはまだ興味を示しませんし、新生児のマティアスは完全に管轄外」

 六歳まで養育係、六歳から教育係。この世界の制度では、その間の「育ちの支援」という発想がそもそもない。

 「ルーカス様は七歳ですから、ヒルデ様の管轄では——」
 「ええ。ですが、ルーカスが話せなくなったことを、ヒルデは『怠惰』だと言いました。『話す気がないのだ』と」

 違う。
 声には出さなかったけれど、前世の保育士がはっきりと否定していた。七歳の子供が母親を亡くして一言も話せなくなった。それは怠惰ではない。心が、声を閉じたのだ。

 イルマ様は私の表情を見て、かすかに微笑んだ。

 「……やはり、あなたが正しい人のようですね」



 子供部屋は最上階の隅にあった。
 大人の足で階段を三つ上り、廊下を奥まで進む。公爵邸の中心からは最も遠い場所だ。子供の声が届かないほど遠い。
 前世の園長先生が聞いたら、何と言うだろう。

 マルタが扉を開けた瞬間、臭いが来た。

 ミルクの酸えた臭いと、汚れた布の臭い。暖炉の灰が放置された焦げ臭さ。換気されていない部屋特有の、澱《よど》んだ空気。
 これは、二週間の臭いではない。

 部屋に入って、最初に目に飛び込んできたのは揺り籠だった。
 木製の揺り籠の中で、小さな赤ん坊が目を開けている。泣いていない。泣く力も残っていないのだと、直感で分かった。
 マティアス。生後二週間。
 頬の肉が薄い。新生児にしては、明らかに小さすぎる。

 「乳母はどちらに——」

 マルタが首を横に振った。

 「三人目の乳母が、昨日辞めました。どの乳母も、この子が乳首を咥えないと」

 授乳拒否。
 前世の知識が頭の中を巡る。母親の死という環境の激変。嗅覚の変化。喉がうまく動かなくなっている可能性。原因はいくつも考えられるが、今この瞬間に重要なのは原因ではない。

 この子は、飢えている。

 「フィオナ様」

 マルタの声に振り返ると、部屋の隅を指差していた。

 暗がりに、小さな人影が二つ。
 寝台の脇に、七歳の少年が膝を抱えて座っていた。黒髪に、柔らかい茶色の瞳。父エドワード様に似た輪郭だが、その目には父にはない優しさがある。ただし今は、何も映していなかった。
 虚《うつ》ろだった。壁の一点を見つめたまま、瞬きすらしない。

 ルーカス・ヴェルナー。七歳。

 その膝の上で、小さな女の子が丸くなっていた。
 栗色の巻き毛が汗で額に張りつき、泣き腫らした目元が真っ赤だ。起きているのか眠っているのか分からない。ぼんやりと虚空を見つめながら、握りしめた手がルーカスの上着の裾を離さない。時折ひくりと肩が痙攣《けいれん》するのは、長く泣いた後の名残だった。
 三歳という年齢にしては、体も小さい。食事も十分に摂れていないのかもしれない。

 エミリア・ヴェルナー。三歳。

 ああ。
 分かった。この子たちは、壊れかけているのではない。
 もう壊れている。

 私は革鞄を下ろし、エプロンの袖をまくった。

 「マルタ様。温かいお湯をいただけますか。清潔な布と、できれば山羊の乳を。人肌に温めたものを、小さな器に」

 マルタは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いて部屋を出た。
 前世の記憶が、体を動かしていた。授乳拒否の赤ん坊に試せることはある。直接の授乳が駄目なら、スプーン授乳。スプーンが駄目なら、布の端に乳を染み込ませて吸わせる。
 手段はある。時間がないだけだ。

 揺り籠の横に膝をつき、マティアスを抱き上げた。
 軽い。あまりにも軽い。生後二週間の赤ん坊が、こんなに軽いはずがない。
 頬に触れると、かすかに体温がある。低い。

 「大丈夫。大丈夫だよ」

 赤ん坊に話しかけても、まだ言葉は分からない。けれど声の振動は伝わる。抱き方の温度は伝わる。それを前世で、何十人もの赤ん坊から教わった。

 マティアスが、私の指を握った。

 反射かもしれない。新生児の把握反射はこの時期にはまだある。でも、その小さな指の力が、私の心臓を掴んだ。

 「……っ」

 泣きそうになった。だめだ、ここで泣いたら。子供の前で泣かないと決めている。前世からずっと、子供の前で、泣いてはいけない。

 足音が聞こえた。
 廊下から、硬い靴音が近づいてくる。マルタの柔らかい足音とは違う。規則正しく、冷たい音。

 扉が開いた。

 「何だ。来ていたのか」

 エドワード・ヴェルナー。二十九歳。公爵嫡男。
 黒髪に鋭い灰色の瞳。整った容姿と冷淡な表情が同居している。子供部屋に足を踏み入れたが、視線は子供たちに向いていなかった。私の方をまっすぐに見ている。

 「本日より養育係としてお世話になります。フィオナ・メルツでございます」

 マティアスを抱いたまま頭を下げた。

 「ああ。母が選んだのだったな」

 それだけだった。
 エドワード様は部屋を一度も見回さなかった。揺り籠の汚れた布も、床に散らばった使用済みの替え布も、隅で膝を抱える息子の虚ろな目も、何も、見ていなかった。

 「マルティンはどうだ」

 マルティン。
 一瞬、誰のことか分からなかった。

 マティアス様です。
 心の中で訂正したが、口には出さなかった。この人は、三人目の子供の名前すら正確に覚えていないのだ。

 「……授乳を拒んでおられます。これから対処いたします」

 「そうか。子供の世話をしろ。それだけだ」

 踵を返す直前、ルーカスが動いた。
 膝を抱えたまま、口が微かに開く。何か言おうとしている。唇が震えている。

 「……ち、ち……」

 父上、と言いたいのだろう。
 声にならない。音が途切れ、喉が詰まり、ルーカスの目にみるみる涙が溜まっていく。

 エドワード様は振り返らなかった。

 「ヒルデが教育方針について説明するだろう。養育係は養育だけをしていればいい」

 靴音が遠ざかる。
 扉が閉まった。

 ルーカスの口が、ゆっくりと閉じた。言葉を諦めるように。そして膝の上のエミリアの頭を、片手でぎこちなく撫でた。七歳の手で。弟と妹を、一人で守ろうとする手で。
 エミリアがその手に頬を擦りつけた。無意識なのかもしれない。けれどその仕草が、この三歳の子がどれだけ兄にしがみついているかを物語っていた。

 この子は、話せないのではない。
 話すことを、やめたのだ。

 前世の知識が告げている。心が原因で声が出なくなる症状がある。母の死だけではない。この家の冷たさが、この子の声を奪ったのだ。

 マルタが湯と山羊の乳を持って戻ってきた。
 私はマティアスを片腕に抱いたまま、もう片方の手で清潔な布の端を乳に浸した。

 「マティアス。ね、ここだよ」

 布の先端をそっと唇に当てる。
 最初は反応がなかった。三人の乳母が匙を投げた赤ん坊だ。簡単にはいかない。

 もう一度。唇の端に、そっと。

 舌が、動いた。

 ほんの微かに。布に染みた乳を、反射的に舐めた。一滴。もう一滴。

 「……そう。上手だね。上手」

 涙が出そうだった。堪えた。
 一滴ずつ。一滴ずつでいい。今日はこれでいい。

 ルーカスが、こちらを見ていた。
 壁を見つめていたあの虚ろな目が、初めて焦点を結んでいた。私と、私の腕の中のマティアスを。

 「ルーカス様。初めまして。私はフィオナです」

 返事はなかった。
 でも、目が逸れなかった。

 エミリアがルーカスの膝の上で身じろぎした。薄く目を開け、私の顔をぼんやりと見つめる。涙の跡が頬に筋を作っている。小さな口が動いた。
 「……まま」
 その一言が、静かな子供部屋に落ちた。
 ママではないよ、とは言えなかった。代わりに、できるだけ柔らかい声で言った。

 「大丈夫だよ。ここにいるよ」

 エミリアの瞳が揺れた。私の声を聞いたのか、それとも誰かがそばにいるという事実に反応したのか。判断はつかない。けれどその目が、ほんの一瞬だけ、何かを探すように動いた。

 マティアスが布からもう一滴、乳を吸った。

 三人の子供が、それぞれの壊れ方で、同じ部屋にいる。
 七歳のルーカスは声を失い、三歳のエミリアはもういない母を呼び、生後二週間のマティアスは飢えている。

 これが、ヴェルナー公爵家の「養育」の現実だった。

 大丈夫。
 私は知っている。子供は壊れても、また育つ。折れた枝からも新しい芽が出る。それを前世で何度も見てきた。
 ただし、条件がひとつだけある。

 そばに、気づく人がいること。

 革鞄の中から、一冊のノートを取り出した。表紙にはまだ何も書いていない。真新しい白紙のノート。

 最初のページを開き、今日の日付を書いた。

 観察記録。第一日。
 ルーカス(七歳):発語なし。視線の固着あり。膝の上で妹を抱えたまま動かない。衰弱の兆候あり。
 エミリア(三歳):泣き疲れた状態。覚醒時も虚ろ。寝言で「まま」。目元の腫脹が著しい。体格がやや小さい。
 マティアス(〇歳):授乳拒否。体重減少の疑い。布端授乳で微量の摂取を確認。

 三行。たった三行の記録。
 けれどこのノートを、私は一日も欠かさず書き続けることになる。

 あの時の私にはまだ分からなかった。このノートがいつか、全てを変えることになるとは。

 だが今の私は知っている。
 だから、書き残す。五年前のあの春の日から、全てを。

感想 1

あなたにおすすめの小説

「不細工なお前とは婚約破棄したい」と言ってみたら、秒で破棄されました。

桜乃
ファンタジー
ロイ王子の婚約者は、不細工と言われているテレーゼ・ハイウォール公爵令嬢。彼女からの愛を確かめたくて、思ってもいない事を言ってしまう。 「不細工なお前とは婚約破棄したい」 この一言が重要な言葉だなんて思いもよらずに。 ※短編です。11/21に完結いたします。 ※1回の投稿文字数は少な目です。 ※前半と後半はストーリーの雰囲気が変わります。 表紙は「かんたん表紙メーカー2」にて作成いたしました。 ❇❇❇❇❇❇❇❇❇ 2024年10月追記 お読みいただき、ありがとうございます。 こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。 1ページの文字数は少な目です。 約4800文字程度の番外編です。 バストリー・アルマンって誰やねん……という読者様のお声が聞こえてきそう……(;´∀`) ロイ王子の側近です。(←言っちゃう作者 笑) ※番外編投稿後は完結表記に致します。再び、番外編等を投稿する際には連載表記となりますこと、ご容赦いただけますと幸いです。

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

不器量令嬢は、婚約破棄の断罪が面倒くさい

あんど もあ
ファンタジー
不器量なマルグリットは、婚約者の美しい第一王子からずっと容姿を貶められる日々。とうとう王立学園の卒業パーティーで王子に婚約破棄を宣言され、「王子から解放される! それいいかも!」となったが、続く断罪が面倒くさくて他の人に丸投げする事にする。

それは、最低の求婚だった。

あんど もあ
ファンタジー
三十歳年上の男の後妻として結婚させられた姉は、夜会で再会した妹に哀れな女とあざ笑われる。 そう、それは最低な縁談のはずだったから……。

不要だと言われたので、王都の結界更新をやめて辺境へ参ります

なかすあき
恋愛
第一王子レオンハルトに「未来の王妃には華やかさが必要だ」と婚約破棄された伯爵令嬢リュシエンヌ。 しかも彼は、彼女が王都守護結界の保守に使っていた魔道具を“ガラクタ”と切り捨てる。 だが、王子は知らなかった。結界の重要性だけではなく、それを誰が支えていたのかを。 婚約解消とともに王家との保守契約を終了した翌日、王都の結界は乱れ始める。 一方、北方辺境へ向かったリュシエンヌは、小さな村の夜を守るために新たな結界を立て直していた。 不要だと言われたその手が、ようやく正しく必要とされる場所へ辿り着く、婚約破棄から始まる静かな逆転劇。

追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?

タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。 白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。 しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。 王妃リディアの嫉妬。 王太子レオンの盲信。 そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。 「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」 そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。 彼女はただ一言だけ残した。 「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」 誰もそれを脅しとは受け取らなかった。 だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。

善人ぶった姉に奪われ続けてきましたが、逃げた先で溺愛されて私のスキルで領地は豊作です

しろこねこ
ファンタジー
「あなたのためを思って」という一見優しい伯爵家の姉ジュリナに虐げられている妹セリナ。醜いセリナの言うことを家族は誰も聞いてくれない。そんな中、唯一差別しない家庭教師に貴族子女にははしたないとされる魔法を教わるが、親切ぶってセリナを孤立させる姉。植物魔法に目覚めたセリナはペット?のヴィリオをともに家を出て南の辺境を目指す。

忘れて幸せになってください。〜冷酷な妻として追い出せれましたが、貴方の呪いは私が肩代わりしていました〜

しょくぱん
恋愛
「君のような冷酷な女は知らない」――英雄と称えられる公爵夫人のエルゼは、魔王の呪いを受けた夫・アルフレートに離縁を突きつけられる。 しかし、夫が正気を保っているのは、エルゼが『代償魔導』で彼の呪いと苦痛をすべて肩代わりしていたからだった。 ボロボロの体で城を追われるエルゼ。記憶を失い、偽りの聖女と愛を囁く夫。 だが、彼女が離れた瞬間、夫に「真実の代償」が襲いかかる。