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一章

あれで終わりじゃ…

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(つ、疲れた…)

 約束通り日曜日の夕方、奥野に車で家まで送られた花耶は、部屋に戻るなりへたり込んでしまった。突発的に起きた奥野との関係も、その後の劇甘っぷりも花耶の想定外で、花耶にしてみれば嵐のど真ん中に何の準備もなく放り込まれて散々揺さぶられた気分だった。
 あの後も思い出すのも恥ずかしい目に散々遭い、鬱血痕も増えたお陰で、花耶の精神力のゲージはもはや枯渇寸前だった。さすがに痛む秘所に無体な事はされなかったため、明日の出勤に影響がなさそうなのだけが幸いだろうか。とはいえ、筋肉痛が増えたために数日は駅の階段を上るのがきつそうだ。
 幸いなのは奥野の補佐はプロジェクトが終わるまでと言う、期間限定だった事だろう。プロジェクトさえ終わってしまえば花耶は経理課に戻るし、そうなったら奥野との会社での接点はほぼゼロになるからだ。フロアも違うので、すれ違う事すら殆どなくなるだろう。

 花耶の気持ちについて奥野は、無理をしなくていい、ゆっくり考えてくれればいい、と言ったが、身体から口説き落とすとも言って、尊重しているのかいないのか、花耶にはさっぱりわからなかった。訳が分からないうちに流されてしまい、その流れが花耶の想定よりも早くて激しいものだったのもあり、花耶は考える間もなく今日まで来てしまったのだ。精神的にも肉体的にも疲れてしまった花耶は、その日はさっさと寝てしまった。



 月曜日、花耶はどんな顔をして会社に行けばいいのかと、一人悶々としながら出勤した。もちろん、表情にはそんな事は欠片も出さなかったが。
 営業三課の事務所に着くと既に奥野は出勤していて、花耶はその姿を確認して胸がドキリと跳ねたのを感じた。奥野はパソコンに向かって作業を始めていた。朝は朝礼までにメールチェックを済ませるのが奥野の癖なのを、これまでの日々で何となくだが察していた。
 花耶はこれまでとは違う類の緊張を強いられながら、奥野の隣の自分の席まで進み、おはようございますと声をかけた。どんな反応が返ってくるのかと冷や冷やしていたが、奥野は視界の片隅に花耶の姿をとらえると、表情も変えずにおはようとだけ返した。会社ではさすがに一線を引くだろうとは思っていた花耶だったが、あまりにも今まで通り過ぎる態度に、ホッとするような寂しいような気持になった。

 それからも、奥野の態度は一貫して他人行儀だった。あの週末は何だったのかと思うほど、一貫して一部下への態度に始終していた。もしかすると以前よりも素っ気なくなったかもしれない、と思えるほどには奥野の会社での態度は変わりがなかった。花耶としては会社の人たちにばれて吊るし上げられる心配が減ったのは有難かったが。

 奥野は本気なような事を言っていたが、花耶はそれをそのまま受け取る事はなかった。どうしても自分との差の大きさに釣り合わないという想いが拭えなかったからだ。
奥野なら相手など選び放題なのだから、もっと美人でスタイルもよく、仕事も出来る相手を望んでも許されるはずだ。仕事に有益なコネを持つ人だっているし、あれだけの能力があればどこかの会社の社長の娘の婿に…なんて事も夢ではない。資金力のある実家を持つ相手なら、独立する事も余裕をもって出来るだろう。
 
 本気だと言ってはいるが、自分を選んだのは一時的な相手と言う意味合いで、せいぜい本命に出会うまでの繋ぎなのだろうと花耶は思っていた。自己主張もせず、社内でも人付き合いが希薄な花耶は、そう言う相手としてはうってつけだろう。もし奥野が付き合っていないと言えば、殆どの人が奥野を信じるのは目に見えていた。
 自分の性格からしても、ある日突然別れると言われても、それ以上深追いする事はしないだろうなと思う。恋愛経験はないが、花耶はこれまでに誰かに執着した事はない。変質者に執着された事ならあるが、その気のない相手に執着される気持ち悪さや不快感が身に染みているため、自分が誰かに執着したとしても、相手にそれが伝わる様な事はしたくなかった。一方的な想いなど、相手の負担でしかないから。

 それだけではない。花耶が奥野の本気を信じられなかった一番の理由は、奥野が花耶の気持ちを全く顧みなかったからだ。花耶の気持ちを確認する事もしなかったし、最後まで自分の気持ちを優先させていた。本当に相手を大切に想うなら、相手の気持ちを一番に尊重するものではないだろうか、と花耶は思う。自分なら好きな相手がいたとしても、気持ちを押し付ける事など出来そうになかった。この価値観の違いは、花耶にはとても大きく見えた。花耶にとっては、奥野がやった事はある意味変質者たちと何ら変わりなかった。花耶の意志を無視した、という一点において。

 こうして花耶は、奥野の気持ちについて信用出来ず、自分は一時的な遊び相手、いわゆるセフレなのだろうと結論づけた。出来る事ならこれっきりにして欲しかったし、本音を言えば仕事でも関わりたくなかった。




「え…」

 奥野が会社では今まで通りだったため、花耶は日を追うごとにあの日の事を一夜限りと確信を深めていたが、一本の電話がそれを揺るがした。スマホに映し出された発信者の名前に、花耶は大いに動揺し、手にしていた卵を床に落としてしまった。ああ…掃除が面倒…とそっちに意識がいったのは、きっとこれが夢だと思いたかったからかもしれない。鳴り続ける着信音に無言の圧力を感じ取り、花耶は恐る恐る通話ボタンを押した。

「え…?土曜日、って…」
「何だ?そう約束しただろう?つれない事を言うんだな、花耶は」

 告げられた言葉に花耶は動揺を隠す事が出来なかった。奥野の要件は、今度の金曜日の夜に急遽取引先との会食が入り、会えないと言うものだった。かわりに土曜日の朝に迎えに行く、そこから週末を過ごそうという内容のもので、花耶の記憶には欠片もそんな約束は残っていなかった。全く覚えのないそれに、いつそんな約束をしたのかと花耶は問うた。

「ちゃんと約束したぞ。これからは週末を一緒に過ごそうなって言ったら、花耶が約束するって何度も言ってた」
「で、ですから、いつそんな約束を…」
「ん?ああ、それはもちろん…」

 ベッドの上で、とたっぷりと艶を含んだ声で意味深に囁かれて、花耶の身体に鳥肌が立った。その感覚に身を震わせ終わると、今度はその内容に思い至って身悶えた。今、自宅に一人でよかったと本当に思う。うそ…いつの間に…と唖然とした花耶に奥野は、詳しく説明するか?と思わせぶりに言ってきたので、花耶は即座に断った。奥野の様子からして、絶対に恥ずかしくて口にも出せない事のようにしか思えない。相手から見えないのにも関わらず、花耶は頭をブンブン振ってその提案を断った。残念…と電話の向こうで嬉しそうに告げる奥野に、花耶は週末の奥野の劇甘っぷりを思い出した。じゃあ、土曜日の十時には行くから、と告げた後、戸締りをしっかりするように、愛している、週末が待ち遠しいと、花耶が困惑するのを楽しむかのように甘い言葉を重ねて、奥野は通話を終わらせた。

 スマホを握りしめたまま、花耶は暫くその場から動けなかった。約束した事実などあっただろうかと記憶をたどった末、思い当たる場面に行き着いたからだ。あの時は痛みが残る花耶を気持ちよくするだけだと言って、散々啼かされ喘がされていて、もう無理、やめて欲しいと懇願する花耶に奥野は、それなら…と交換条件のように、用事がない限りこれからの週末は一緒に過ごすことを約束させられたのだ。約束しても、その後も解放されなかったのだが…
 すっかり油断していたところへの不意打ちに、花耶は悪夢を見ている様な気分になった。いっそどこかに出かけてしまおうかとも思ったが、確かあの時奥野は、週末がだめなら会社で口説くしかないがいいのか?と言っていた。会社でそんな事をされたら、どんな事になるか想像もつかな過ぎて怖すぎる。確実に女性社員から吊るし上げられるし、会社に居られなくなるだろう。一人暮らしで頼る者もいない身としては、職を失う事だけは避けたかった。自身の生存のためにも今は、奥野の提案を受け入れるしかない。どうしたら穏便に奥野から逃れられるだろうかと考えながら、花耶は落とした卵の片づけを始めた。


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