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一章
上司の同期
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「えええ~!臨時休業?!!」
とある店の前で麻友が、不満を大いに含んだ声で叫んだ。その店はシャッターが下りていて、一枚の張り紙がしてあり、そこには店主の体調不良により臨時休業と記されていた。
奥野との関係が始まってから四度目の金曜日の夜、花耶は麻友の家に泊りに行く約束をしていた。何の事はない、奥野との週末を三回過ごした花耶は、精神的肉体的な疲労に限界を感じ、奥野から逃げ出したのだ。お互いに予定がなければ…と言う前提で週末を過ごしていたので、無理やり麻友に頼み込んで予定を作り、麻友の家に逃げ込むことで奥野を回避しようとした。
と言うのも、奥野と過ごす時間はたっぷりと甘やかされて居心地がいいのだが、それが仮の関係と言うところが花耶を悩ませていた。好きになる事なんてありえないと思ってはいるのだが、あまりにも甘く優しく接して来られると、勘違いしそうな自分がいるからだ。
また、奥野の思うままに抱かれるのは、体力差があってかなりきつかった。先週などは金曜日の夜から共に過ごしたため、その疲労感は花耶の限界を超えていた。このままでは仕事にも支障が出るし、疲れが溜まる一方だ。奥野としてはかなり手加減していたのだが、そんな事は花耶には知る由もなかった。
今日選んだ店は、麻友が以前から行きたいと言っていた、新鮮な野菜をふんだんに使ったヘルシーなメニューが人気の店だった。人気の高いこの店は、質もよかったがお値段もそこそこよかったため、花耶や麻友が幾にはちょっと敷居が高かった。幸い給料が出た直後と言うのもあって、せっかくだから行ってみようと言う話になったのだ。
だが、いざ行ってみると店にはシャッターが下りていた。視線の高さには一枚の張り紙があり、その紙には、店主の体調不良で休業と記されていた。人気があるのに予約を受け付けてくれないこの店は、今回も花耶達にチャンスをくれなかった。
「もう、信じられない。何で今日に限って…」
ずっと楽しみにしていたのに…と繰り返す麻友に、花耶は同意しながらも、他の店に思いを馳せた。この近くで気軽には入れそうな店は…と思うが、この手の事に疎い花耶には思い浮かばなかった。これは麻友に任せるしかないな、と麻友が落ち着くのを待つことにした。もう、信じられない、何で今日に限って…と悪態をつく麻友は、花耶から見ても可愛らしかった。
「あれぇ、麻友ちゃん?」
店の前に佇む二人に、花耶には聞き慣れない麻友を呼ぶ声が届いた。
「え?熊谷さん?」
「あ、やっぱり麻友ちゃんだった」
背後からかけられた声に、麻友は弾けるように反応して声の主の方に向いたため、花耶も遅れてその方に視線を向けて、目を見開いた。
(っ…)
花耶の視線に入ったのは、背の高い男性に話しかけながら近づく麻友と、その少し後ろに佇む奥野の姿だった。何でよりによってこんなところで…と思ったが、幸いにも麻友が一緒だったし向こうも連れがいた。最悪の事態は免れたように感じた。
「麻友ちゃん、こんなところで奇遇~何か言ってたけど、どうしたの?」
「え?やだ、聞こえてました?」
そう指摘されて、麻友がばつが悪そうに苦笑しながらも、親しげに返事をした。相手の男性は奥野と同じくらい背が高く、猫背気味で髪もぼさぼさで、いつもきちっとしている奥野とは対照的だが、年齢は同じくらいのように見えた。きっちりしていないところが逆に取っつきやすく、奥野のような威圧感がない。麻友と話す様も柔らかい口調と表情で、穏やかな性格が伺えた。何となく見覚えがあり奥野と一緒である事から、社内の人間だと思われた。こうして一緒にいるという事は、奥野と仲がいいのだろうか。だとしたら要注意だな、と奥野との関りを少しでも減らしたい花耶は、人物リストにその旨を追加した。
「ね、花耶。熊谷さんたちと一緒でもいいよね」
熊谷についての考察をしていた花耶に、麻友の少し興奮気味の声が響いた。はっと我に返って、え?何?と問い返すと、麻友が聞いてなかったの?もう、と可愛く拗ねながらも、熊谷さんが一緒にって言うけどいいよね?と再度聞いてきた。花耶は驚いて麻友を見上げたが、いいでしょ~美味しいお店に連れて行ってくれるんだって、と嬉しそうに言い、横にいた熊谷が、遠慮しなくていいよ~とのんびりした口調で麻友を援護した。先輩社員と思われる熊谷にそう言われては、花耶も否やとは言えなかった。
よりにもよって奥野も一緒という展開に、花耶はどう反応していいのかと戸惑ったが、麻友がほら行くよ~と言って歩き出してしまったため、慌てて後に続いた。二人の関係を麻友はまだ知らないし、多分熊谷と麻友が呼ぶ男性も知らないだろう。せっかくこの週は奥野と離れられると思っていた花耶は、何だか悪い夢を見ている気がした。突然の事で心の準備が出来ていない中、奥野の表情を知るのが怖くて、花耶は視線を向ける事が出来なかった。
連れて来られたのは、先ほどの店から二区画ほど離れた場所にある、和風の創作料理の店だった。美味しい魚を出してくれる店があるんだと、熊谷が道すがら麻友にそう話しているのを聞きながら、花耶は奥野と共に後ろをついて歩いた。花耶はこの状況で奥野と一緒だなんて、それ何て罰ゲーム…と頭を抱えたい気分だった。熊谷がどこまで知っているのかもわからないし、気を付けないと社内の人にばれてしまうのでは…と花耶は最悪の事を想像して肝を冷やした。
「花耶は初めてかな?こちら熊谷係長。先月から本社に異動になったの」
注文を入れた後に麻友が紹介してくれた男性は、営業二課の係長の熊谷淳一郎と名乗った。聞けば花耶が入社して半年後に支社に異動になり、それからはずっと支社勤務だった。半年ほど前、二課の係長の一人が親の介護のために地元に帰りたいと異動願を出し、熊谷が代わりに本社勤務になったという。花耶が知らなかったのも無理はなく、でも見覚えがあったのは、半年ほどの間にどこかで接点があったからのようだ。
奥野とは同期で仲がいいらしく、今日は本社への異動と昇進のお祝いも兼ねて二人で飲みに来たらしい。花耶が、経理の三原です。よろしくお願いします、と挨拶をすると、熊谷はへらっと笑って、ああ、あの三原花耶ちゃんね、と答えた。ほぼ初対面なのに花耶の事を知っている風の熊谷に花耶は面食らったが、それは麻友も同じだった。
「あれ?熊谷さん、花耶のこと知ってました?」
「え?うん、前から知ってたよ。奥野の想い人でしょ?」
「えええ?!」
「……!」
まるで何でもないと言うようにあっさりそう告げた熊谷に、花耶はこれ以上ないほど目を見開いて絶句した。何か返そうにも言葉が出てこない。もし飲み物を口にしていたら、盛大に噴出したかもしれない。
隣にいた麻友も、声を上げたはいいが、それっきり何も言えないようだった。麻友は初めて聞いた話だったのと、相手が花耶という事にも驚いて、珍しくその先が告げられなかったのだろう。
「ええ?お、お、想い人って、奥野さんが…花耶の事を…?」
「え、うん、そうだよ。知らなかった?」
「え、ええ…まったく…」
暫く花耶や奥野を交互に見ていた麻友だったが、未だに返事も出来ない花耶に変わって口を開いた。当事者ではなかった分花耶よりは衝撃は小さかったらしい。花耶は誰にも話す気がなかったため、熊谷の爆弾発言にどう反応していいのかわからず、またどこまで知られているのかもわからなかったため、下手に発言できなかった。
「え、いや、奥野から聞いてたけんだけど?あ、もしかして言っちゃまずかった?」
二人の驚きように驚いたのは熊谷で、慌てて奥野の方を見ると、奥野は別に、とだけ答えたので、ああよかった~とホッとした表情を浮かべた。熊谷の視線に釣られて花耶も奥野の方を見てしまったが、奥野はいつもの無表情で花耶の方を見もしないため、花耶の気まずさは増す一方だった。一方で花耶はなぜそこであっさり肯定するのかと頭を抱えたくなった。
「えっと…それって、どれくらい前から…」
さすがに奥野に関する事を本人の前で聞くのは勇気がいったのだろうが、好奇心が勝ったのか熊谷がいるせいなのか、麻友がおずおずと熊谷に尋ねた。
「え~っと、聞いたのは割と最近だよ。こっちに戻ってきてからだから」
「そ、そうなんですか」
「うん。隙が無いから中々誘うのも出来ないって。この奥野が声かけれないってどんなんだよ、って思ってたんだ」
「そうですか…」
「そう。でも以前から松永さんのお気に入りって噂は支社でも聞いてたよ。仕事出来るのに控えめでいい子だって。辞められたら困るから、松永さんが睨み利かしてるって」
「あ、ああ、それはわかります。松永さん、花耶の事気に入ってますもん」
「やっぱり?あの松永さんに気に入られるなんて凄いよね。でもまぁ、松永さんの目があるから誘うのも勇気いるけどね」
「え?松永さん?そんな怖そうに見えませんよ?」
温厚でいいお父さんというイメージしかない麻友は、熊谷の言い方を不思議に思ったのだろう。素直にそう言うと、松永さんみたいな大人しい人ほど怒ると怖いんだよ、と熊谷が言ったので、ああ、そういう事ですか、と麻友は受け止めた。今は松永の事よりも、花耶と奥野の方が気になって仕方なかったらしい。
「でも、三原ちゃんみたいな子からすると、奥野っておっかないよね。目つき悪いしガタイでかくて威圧感満載で。でも根はいい奴だからよろしくね」
花耶にそう告げた熊谷は、にこにこしながら隣で沈黙している奥野の肩を小突いた。しかし言われた方の花耶は、どう返していいのか判断が付かず、返答のしようもなかった。
「あんまり余計な事言うな。三原が困ってる」
「え、あ、ああ、ごめんごめん」
二人の時とは逆に素っ気ないほどの奥野の指摘に熊谷が慌てて謝ったが、それで花耶の動揺が収まるわけではなかった。ただ、奥野がああ言った事もあって、この話はこれで終わりになり、花耶はホッと安堵した。麻友は色々と聞きたそうにしているから、帰ったら質問攻めなのは確定している様なものだった。花耶はこのまま自分の家に帰って、麻友に話すべきかどうかも含めてこの件についてゆっくり考えたかった。
それから程なくして料理が運ばれてきて、麻友と熊谷が主に話し、そこに時折奥野が加わって、花耶は振られた時返事をする、と言う形で会は進んだ。
「三原ちゃんってほんと大人しいね」
「あ~花耶、いつもこんな感じなんです」
殆ど喋らない花耶に熊谷が気を使ってか話しかけてきた。花耶にしてみれば飲み会でもあまり喋らないのでこれでも平常運転なのだが、初対面の熊谷には気を使わせてしまったらしい。
「えっと…すみません」
「あ、いや、ごめんごめん。責めてるとかじゃないから謝らなくていいよ。営業じゃ我がきつい子が多いから、三原ちゃんみたいな子は珍しくて。楽しんでるならいいけど、無理しないでね」
「ありがとうございます。大丈夫です」
さすがに気を使わせてしまっていた事が申し訳なくて、花耶はぎこちないながらも笑みを浮かべれ熊谷の気遣いに礼を伝えた。花耶の表情が緩んだのを感じてか、熊谷もにへらっと笑みを浮かべた。
「花耶は高校の頃から痴漢とかにあってるから男の人が苦手なんです。初対面だと特にそうだけど、嫌がってるとかじゃないから大丈夫です」
ね、花耶?と麻友がフォローしてくれたお陰で、熊谷も表情を緩めたのを見て、花耶もホッとした。こういう時、麻友は花耶の心情を汲んでフォローに回ってくれるので、とてもありがたかった。麻友の機転もあって、この後の食事は先ほどよりも和やかになり会話も弾んだ。
とある店の前で麻友が、不満を大いに含んだ声で叫んだ。その店はシャッターが下りていて、一枚の張り紙がしてあり、そこには店主の体調不良により臨時休業と記されていた。
奥野との関係が始まってから四度目の金曜日の夜、花耶は麻友の家に泊りに行く約束をしていた。何の事はない、奥野との週末を三回過ごした花耶は、精神的肉体的な疲労に限界を感じ、奥野から逃げ出したのだ。お互いに予定がなければ…と言う前提で週末を過ごしていたので、無理やり麻友に頼み込んで予定を作り、麻友の家に逃げ込むことで奥野を回避しようとした。
と言うのも、奥野と過ごす時間はたっぷりと甘やかされて居心地がいいのだが、それが仮の関係と言うところが花耶を悩ませていた。好きになる事なんてありえないと思ってはいるのだが、あまりにも甘く優しく接して来られると、勘違いしそうな自分がいるからだ。
また、奥野の思うままに抱かれるのは、体力差があってかなりきつかった。先週などは金曜日の夜から共に過ごしたため、その疲労感は花耶の限界を超えていた。このままでは仕事にも支障が出るし、疲れが溜まる一方だ。奥野としてはかなり手加減していたのだが、そんな事は花耶には知る由もなかった。
今日選んだ店は、麻友が以前から行きたいと言っていた、新鮮な野菜をふんだんに使ったヘルシーなメニューが人気の店だった。人気の高いこの店は、質もよかったがお値段もそこそこよかったため、花耶や麻友が幾にはちょっと敷居が高かった。幸い給料が出た直後と言うのもあって、せっかくだから行ってみようと言う話になったのだ。
だが、いざ行ってみると店にはシャッターが下りていた。視線の高さには一枚の張り紙があり、その紙には、店主の体調不良で休業と記されていた。人気があるのに予約を受け付けてくれないこの店は、今回も花耶達にチャンスをくれなかった。
「もう、信じられない。何で今日に限って…」
ずっと楽しみにしていたのに…と繰り返す麻友に、花耶は同意しながらも、他の店に思いを馳せた。この近くで気軽には入れそうな店は…と思うが、この手の事に疎い花耶には思い浮かばなかった。これは麻友に任せるしかないな、と麻友が落ち着くのを待つことにした。もう、信じられない、何で今日に限って…と悪態をつく麻友は、花耶から見ても可愛らしかった。
「あれぇ、麻友ちゃん?」
店の前に佇む二人に、花耶には聞き慣れない麻友を呼ぶ声が届いた。
「え?熊谷さん?」
「あ、やっぱり麻友ちゃんだった」
背後からかけられた声に、麻友は弾けるように反応して声の主の方に向いたため、花耶も遅れてその方に視線を向けて、目を見開いた。
(っ…)
花耶の視線に入ったのは、背の高い男性に話しかけながら近づく麻友と、その少し後ろに佇む奥野の姿だった。何でよりによってこんなところで…と思ったが、幸いにも麻友が一緒だったし向こうも連れがいた。最悪の事態は免れたように感じた。
「麻友ちゃん、こんなところで奇遇~何か言ってたけど、どうしたの?」
「え?やだ、聞こえてました?」
そう指摘されて、麻友がばつが悪そうに苦笑しながらも、親しげに返事をした。相手の男性は奥野と同じくらい背が高く、猫背気味で髪もぼさぼさで、いつもきちっとしている奥野とは対照的だが、年齢は同じくらいのように見えた。きっちりしていないところが逆に取っつきやすく、奥野のような威圧感がない。麻友と話す様も柔らかい口調と表情で、穏やかな性格が伺えた。何となく見覚えがあり奥野と一緒である事から、社内の人間だと思われた。こうして一緒にいるという事は、奥野と仲がいいのだろうか。だとしたら要注意だな、と奥野との関りを少しでも減らしたい花耶は、人物リストにその旨を追加した。
「ね、花耶。熊谷さんたちと一緒でもいいよね」
熊谷についての考察をしていた花耶に、麻友の少し興奮気味の声が響いた。はっと我に返って、え?何?と問い返すと、麻友が聞いてなかったの?もう、と可愛く拗ねながらも、熊谷さんが一緒にって言うけどいいよね?と再度聞いてきた。花耶は驚いて麻友を見上げたが、いいでしょ~美味しいお店に連れて行ってくれるんだって、と嬉しそうに言い、横にいた熊谷が、遠慮しなくていいよ~とのんびりした口調で麻友を援護した。先輩社員と思われる熊谷にそう言われては、花耶も否やとは言えなかった。
よりにもよって奥野も一緒という展開に、花耶はどう反応していいのかと戸惑ったが、麻友がほら行くよ~と言って歩き出してしまったため、慌てて後に続いた。二人の関係を麻友はまだ知らないし、多分熊谷と麻友が呼ぶ男性も知らないだろう。せっかくこの週は奥野と離れられると思っていた花耶は、何だか悪い夢を見ている気がした。突然の事で心の準備が出来ていない中、奥野の表情を知るのが怖くて、花耶は視線を向ける事が出来なかった。
連れて来られたのは、先ほどの店から二区画ほど離れた場所にある、和風の創作料理の店だった。美味しい魚を出してくれる店があるんだと、熊谷が道すがら麻友にそう話しているのを聞きながら、花耶は奥野と共に後ろをついて歩いた。花耶はこの状況で奥野と一緒だなんて、それ何て罰ゲーム…と頭を抱えたい気分だった。熊谷がどこまで知っているのかもわからないし、気を付けないと社内の人にばれてしまうのでは…と花耶は最悪の事を想像して肝を冷やした。
「花耶は初めてかな?こちら熊谷係長。先月から本社に異動になったの」
注文を入れた後に麻友が紹介してくれた男性は、営業二課の係長の熊谷淳一郎と名乗った。聞けば花耶が入社して半年後に支社に異動になり、それからはずっと支社勤務だった。半年ほど前、二課の係長の一人が親の介護のために地元に帰りたいと異動願を出し、熊谷が代わりに本社勤務になったという。花耶が知らなかったのも無理はなく、でも見覚えがあったのは、半年ほどの間にどこかで接点があったからのようだ。
奥野とは同期で仲がいいらしく、今日は本社への異動と昇進のお祝いも兼ねて二人で飲みに来たらしい。花耶が、経理の三原です。よろしくお願いします、と挨拶をすると、熊谷はへらっと笑って、ああ、あの三原花耶ちゃんね、と答えた。ほぼ初対面なのに花耶の事を知っている風の熊谷に花耶は面食らったが、それは麻友も同じだった。
「あれ?熊谷さん、花耶のこと知ってました?」
「え?うん、前から知ってたよ。奥野の想い人でしょ?」
「えええ?!」
「……!」
まるで何でもないと言うようにあっさりそう告げた熊谷に、花耶はこれ以上ないほど目を見開いて絶句した。何か返そうにも言葉が出てこない。もし飲み物を口にしていたら、盛大に噴出したかもしれない。
隣にいた麻友も、声を上げたはいいが、それっきり何も言えないようだった。麻友は初めて聞いた話だったのと、相手が花耶という事にも驚いて、珍しくその先が告げられなかったのだろう。
「ええ?お、お、想い人って、奥野さんが…花耶の事を…?」
「え、うん、そうだよ。知らなかった?」
「え、ええ…まったく…」
暫く花耶や奥野を交互に見ていた麻友だったが、未だに返事も出来ない花耶に変わって口を開いた。当事者ではなかった分花耶よりは衝撃は小さかったらしい。花耶は誰にも話す気がなかったため、熊谷の爆弾発言にどう反応していいのかわからず、またどこまで知られているのかもわからなかったため、下手に発言できなかった。
「え、いや、奥野から聞いてたけんだけど?あ、もしかして言っちゃまずかった?」
二人の驚きように驚いたのは熊谷で、慌てて奥野の方を見ると、奥野は別に、とだけ答えたので、ああよかった~とホッとした表情を浮かべた。熊谷の視線に釣られて花耶も奥野の方を見てしまったが、奥野はいつもの無表情で花耶の方を見もしないため、花耶の気まずさは増す一方だった。一方で花耶はなぜそこであっさり肯定するのかと頭を抱えたくなった。
「えっと…それって、どれくらい前から…」
さすがに奥野に関する事を本人の前で聞くのは勇気がいったのだろうが、好奇心が勝ったのか熊谷がいるせいなのか、麻友がおずおずと熊谷に尋ねた。
「え~っと、聞いたのは割と最近だよ。こっちに戻ってきてからだから」
「そ、そうなんですか」
「うん。隙が無いから中々誘うのも出来ないって。この奥野が声かけれないってどんなんだよ、って思ってたんだ」
「そうですか…」
「そう。でも以前から松永さんのお気に入りって噂は支社でも聞いてたよ。仕事出来るのに控えめでいい子だって。辞められたら困るから、松永さんが睨み利かしてるって」
「あ、ああ、それはわかります。松永さん、花耶の事気に入ってますもん」
「やっぱり?あの松永さんに気に入られるなんて凄いよね。でもまぁ、松永さんの目があるから誘うのも勇気いるけどね」
「え?松永さん?そんな怖そうに見えませんよ?」
温厚でいいお父さんというイメージしかない麻友は、熊谷の言い方を不思議に思ったのだろう。素直にそう言うと、松永さんみたいな大人しい人ほど怒ると怖いんだよ、と熊谷が言ったので、ああ、そういう事ですか、と麻友は受け止めた。今は松永の事よりも、花耶と奥野の方が気になって仕方なかったらしい。
「でも、三原ちゃんみたいな子からすると、奥野っておっかないよね。目つき悪いしガタイでかくて威圧感満載で。でも根はいい奴だからよろしくね」
花耶にそう告げた熊谷は、にこにこしながら隣で沈黙している奥野の肩を小突いた。しかし言われた方の花耶は、どう返していいのか判断が付かず、返答のしようもなかった。
「あんまり余計な事言うな。三原が困ってる」
「え、あ、ああ、ごめんごめん」
二人の時とは逆に素っ気ないほどの奥野の指摘に熊谷が慌てて謝ったが、それで花耶の動揺が収まるわけではなかった。ただ、奥野がああ言った事もあって、この話はこれで終わりになり、花耶はホッと安堵した。麻友は色々と聞きたそうにしているから、帰ったら質問攻めなのは確定している様なものだった。花耶はこのまま自分の家に帰って、麻友に話すべきかどうかも含めてこの件についてゆっくり考えたかった。
それから程なくして料理が運ばれてきて、麻友と熊谷が主に話し、そこに時折奥野が加わって、花耶は振られた時返事をする、と言う形で会は進んだ。
「三原ちゃんってほんと大人しいね」
「あ~花耶、いつもこんな感じなんです」
殆ど喋らない花耶に熊谷が気を使ってか話しかけてきた。花耶にしてみれば飲み会でもあまり喋らないのでこれでも平常運転なのだが、初対面の熊谷には気を使わせてしまったらしい。
「えっと…すみません」
「あ、いや、ごめんごめん。責めてるとかじゃないから謝らなくていいよ。営業じゃ我がきつい子が多いから、三原ちゃんみたいな子は珍しくて。楽しんでるならいいけど、無理しないでね」
「ありがとうございます。大丈夫です」
さすがに気を使わせてしまっていた事が申し訳なくて、花耶はぎこちないながらも笑みを浮かべれ熊谷の気遣いに礼を伝えた。花耶の表情が緩んだのを感じてか、熊谷もにへらっと笑みを浮かべた。
「花耶は高校の頃から痴漢とかにあってるから男の人が苦手なんです。初対面だと特にそうだけど、嫌がってるとかじゃないから大丈夫です」
ね、花耶?と麻友がフォローしてくれたお陰で、熊谷も表情を緩めたのを見て、花耶もホッとした。こういう時、麻友は花耶の心情を汲んでフォローに回ってくれるので、とてもありがたかった。麻友の機転もあって、この後の食事は先ほどよりも和やかになり会話も弾んだ。
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