上 下
40 / 85
一章

ストーカーの暴走

しおりを挟む
 奥野の動きは早かった。月曜日、奥野は会社に報告をするとともに、警察にも相談に行って、伊東の残した留守電のメッセージを基に事情を説明した。残されたメッセージが過激な内容だったこともあり、警察もこれなら警告を出すのに十分と、直ぐに動くと約束してくれた。
 奥野の報告を受けて会社も、この件について伊東に問いただした。最初はしらを切っていたが、花耶の留守電に残っていた音声を会社が本人に聞かせると、さすがにそれ以上は何も言えなかったらしく、渋々ながらも認めた。二度と同じ事をしない様にと厳しく諭したのもあって、それからは電話がかかってくることはなかった。



 奥野との誤解や行き違いが解けてから一週間後の月曜日、花耶は久しぶりの出勤を前に緊張していた。対外的には入院して休養中となっていたが、体調は土曜日に受診した際、ほぼ大丈夫と出勤の許可も出て、酷かったふらつきも木曜日くらいには収まっていた。落ちた体力はまだ戻らなかったが、これは仕事に行っている間に追々戻ってくるだろう。

 心配性の奥野は、自分も一緒に出社する、経理課まで送り届けたいと主張したが、それは花耶が固辞した。二人の関係はまだ社内には内緒だし、今は別の敵を作りたくなかったからだ。奥野のファンが伊東と結託したら余計に面倒だと言うと、さすがに奥野もそれ以上は何も言わなかった。
 最低限の譲歩案として、家を出たら他人のふりをする事と同じ電車に乗る事は了承した。奥野は気になるから後ろからついていって見守っていると言ったが、花耶はそこは諦めて好きにさせた。有能なわが社の出世頭は、想像以上に過保護で心配性だった。

 久しぶりに一人で外出という事もあって、花耶はマンションのエントランスを出ると急に緊張が増した。どこで伊東に会うかもわからないし、それがなくても会社の人に会う可能性もあるのだ。花耶の家を知る者は少ないが、ここで会ってこの辺に住んでいると思われるのも面倒で、花耶は周りを警戒しながら歩を進めた。後ろには多分奥野が、花耶を見守りながらついてきているのだろう。

 会社の最寄り駅を降りると、そこには麻友が花耶の到着を今か今かと待ち構えていた。花耶は麻友の無事な姿を実際に自分の目で見て、ほっと息を吐いた。伊東が麻友に何かする可能性がゼロとは言い切れなかっただけに、心配で仕方なかったのだ。申し訳ないと思うとともに、これまで電話で励ましてくれたことが嬉しかった。
 花耶の姿を認めた麻友は嬉しそうに顔を綻ばせて、元気になってよかったとしみじみと花耶の手を取った。心配をかけた事を謝ると共に、これまでの励ましにお礼を伝えた。二人でこれまでの事を話しながら会社に向かったが、麻友はにやにやしながら、あの人って見かけによらず心配性ねぇ…と笑った。誰の事を言っているかが丸わかりで、花耶は恥ずかしさで落ち着かなかった。

 経理課の事務所に戻ったのは久しぶりで、懐かしく感じる自分が不思議だった。松永は無事出勤できたことを喜び、課の者でも気を付けるから心配するなと言ってくれた。色々あったが、無事に出勤できたことに花耶は安堵し、自分の席が残っている事に感謝した。
 幸いにも花耶がいる経理課と伊東のいる営業部はフロアも違い、滅多に行き来もないため、伊東に遭遇する確率は限りなく低かった。松永は課員に、当面は花耶が営業など他のフロアに行くのを禁じ、何か用がある場合は代わって行って欲しいと頼んでくれたのもあり、営業のあるフロアに行く事はなかった。
 出来れば三課のプロジェクトメンバーに、これまでのお礼と急に業務に穴をあけたお詫びを伝えたかったが、せっかく落ち着いている伊東が花耶の姿を見てまた暴走するかもしれないと言われたため、諦めざるを得なかった。

 松永は、伊東は今回の事があったため本社は居心地が悪い、支社に異動させて欲しいと自ら申し出たと花耶に告げた。会社としてもその方が互いのためでもあり、トラブル防止の観点からもいいだろうと、早めに異動させることになったそうだ。異動先は二つ隣りの県で、本人の希望もあり来週にも赴任する予定らしい。引っ越しもするので花耶との接点はほぼなくなると思われた。花耶が自宅に戻るのは、伊東が県外に引っ越してからという事で奥野とは話がついた。

 幸いにも、花耶が復帰してからは伊東とすれ違う事すらなかった。今後も続くようなら会社としても処分を考えなければいけないと告げられ、警察からもより強い措置を出す事になると言われれば、さすがにこれ以上は自分の身を滅ぼすと理解したのだろう。花耶に執着した事以外は特に問題行動はなく、仕事もそつなくこなしていたのだ。時間が経てば冷静になるだろうと言うのが大半の見方だった。



 伊東が支社に異動してから二週間後の金曜日、花耶は麻友と一緒に経理課のあるフロアの資料室の整理をしていた。花耶はこの手の作業が嫌いではなかったし、落ちた体力を戻すいい運動だと思って二つ返事で引き受けた。麻友と二人なら気心も知れていて気楽だし、より作業も捗る。急ぎの仕事もないため、久しぶりにのんびりと資料室の整理をしながらお喋りも楽しんでいた。
 作業が半分くらい済んだ頃に橋本が、今日提出期限の書類について麻友に聞きたい事があると松永が呼んでいる、と言ってきたため、花耶は一人で作業をしていた。もう伊東はいないし、仮にいてもここは経理と総務の者しか用がないため、花耶にとっては安心できるエリアだった。

 昨年一年分のファイルを一つの箱にまとめる作業をしていたが、一人になった事で確認作業が面倒になった事に悪態をつきながら、花耶は一人作業を進めていた。ファイルは重く、病み上がりの身体にはちょっとハードだった。僅かな間にこんなに体力が落ちていたのかと恨みがましく感じた。幸い資料室はエアコンが付いているからまだマシだが、だからと言ってファイルが軽くなるわけでもない。

「もう…効率悪すぎ…」
「じゃ、手伝ってあげようか?」

 ばたんとドアが閉まる音と共に背後からかけられた声に、花耶はぴきっと音がしそうなほどに固まった。急に声をかけられるのは苦手だが、それが男性ともなればなおさらだった。しかもその声の主には、聞き覚えがあった。恐る恐る振り返ると、そこには想像したくない人物がドアを背に立っていた。

「な…」
「久しぶりだね」
「そんな…今は…」
「そうだよ、君が支社送りにした男だよ。覚えててくれて嬉しいよ」

 薄い笑みを浮かべて、いっそ清々しいほどの爽やかさを纏って伊東はそこにいた。黙っていれば爽やかな好青年に見えるが、中身はそうでない事を花耶は嫌というほど思い知らされている。ぶわっと鳥肌が立ち、花耶の中で警鐘が鳴りだした。

「ふふっ、僕がここにいるのが不思議で仕方ないって感じだね」

どうして…なぜここに…と花耶が思っているのを察してか、伊東は虫も殺さないような優し気な笑みを浮かべた。その笑顔が曲者である事を、花耶は既に知っているが、だからといって慣れるものではない。心臓が嫌な音を立てているのを花耶は聞いた気がした。

「君が会社や警察にご丁寧にも報告してくれたせいで、僕はすっかり悪者扱いだよ。君が僕を好きだって言うから受け入れてあげてもいいって言っていたのにね」
「な…っ」
「全く、初めてだから少しずつ慣らしてあげようと思っていたのにね。下手な慈悲なんてかけるんじゃなかったよ」
「…まだ…そんな妄想を信じているんですか?」

 出てきた言葉は、自分でも思った以上に低くて敵意を含んでいた。この人のせいでどれだけ辛い目に遭った事か、麻友や松永、奥野たちに心配をかけた事か…自分の事も腹立たしいが、大切に思う人達にも多大な心配と負担をかけた事が許せなかった。

「妄想じゃないでしょ?いくら恥ずかしいからって、照れるにも程があるよ」
「照れてもいないし、恥ずかしくもありません。はっきり言いますが、あなたの事は何とも思っていません」
「また意地を張って…少しくらい拗ねるのは可愛いけど、それも度を過ぎると可愛くないよ」
「可愛くなくて結構です。訳の分からない妄想でこんなことして、はっきり言って迷惑です」

 思いっきりの侮蔑を込めて睨み付けると、それまで浮かべていた笑顔が僅かに歪んだ。それは本当の事を指摘されてのものか、妄想通りに動かない花耶への苛立ちかはわからないが、伊東が未だに篠田達の嘘を信じているのは確かだった。

「篠田さん達が何て言ったかは知りませんが、私はあなたに興味がありません。好きになるなんて死んでもあり得ません」

 既に足が震えているのは自覚したが、それを知られれば相手を助長させるだけだと、花耶は声の震えを必死に隠して極めて事務的に返した。ストーカー相手に感情的になったら負けだ。

「なっ…このクソが!人が下手に出てやってるのに生意気な!」

 花耶から淡々と、心底嫌そうな表情で拒否された伊東の方が先に爆発した。

「どこが下手ですか、思いっきり上から目線ですし、生意気と言いますが、社歴は私の方が上ですが」
「うるさいんだよ、高卒のくせに」
「高卒だからなんですか?入社を許可したのは、会社です。文句があるなら人事に言ってください」
「な…」
「ついでに言うなら、あなたがやっているのはストーカー行為です。本気で警察のお世話になりたいんですか?」
「うるさい!うるさい!うるさい!」

 とうとう激高した伊東は、頭を搔きむしって叫ぶと、調子に乗るな、と言って花耶に掴みかかろうと向かってきたが、ちょうど足元にあったファイルに躓いて態勢を崩した。その隙に花耶は、ドアに向かって震える足を叱咤して走り出した。狭い資料室なだけに真っ当な方法では逃げられない事を見越しての策だった。

「…っ!

 だが、あと一歩でドアノブに手がかかるところで伊東に腕を掴まれてしまい、花耶は呻いた。腕を掴む力に手加減がなく、指が食い込んだ痛みに花耶は顔を歪ませた。

「はっ…簡単に逃がすかよ」
「は、放して!人を呼びます!」

 花耶の抗議に、伊東はにたりと毒を含んだ笑みを浮かべた。視線は花耶に向けられていたが、彼が見ているものは全くの別物のようにも見えた。

「ふん、鍵をかけたから誰も入ってこれないよ。それに、ここで犯してしまえばいい話さ。さぁ、お仕置きの時間だよ?」


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

異世界に落ちて、溺愛されました。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:328

ほろ甘さに恋する気持ちをのせて――

恋愛 / 完結 24h.ポイント:497pt お気に入り:17

人権終了少年性奴隷 媚薬処女姦通

BL / 連載中 24h.ポイント:35pt お気に入り:58

愛及屋烏

BL / 連載中 24h.ポイント:163pt お気に入り:5

メロカリで買ってみた

キャラ文芸 / 連載中 24h.ポイント:234pt お気に入り:10

風ゆく夏の愛と神友

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:489pt お気に入り:1

宇宙は巨大な幽霊屋敷、修理屋ヒーロー家業も楽じゃない

SF / 完結 24h.ポイント:191pt お気に入り:65

窓側の指定席

現代文学 / 連載中 24h.ポイント:1,640pt お気に入り:13

二番煎じな俺を殴りたいんだが、手を貸してくれ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:404pt お気に入り:0

処理中です...