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一章

ストーカーVS…

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 花耶の腕を掴んでお仕置きだとのたまった男は、既に自分の目的が達成したと思っているようだった。腕を掴んだ手に力を籠め、指が食い入る痛みに花耶が顔を歪めると、うっとりと笑顔を浮かべた。その様から痛みで相手を支配する気なのが想像できて、花耶の全身に鳥肌が立った。ぐっと引き寄せられそうになった花耶は足を踏ん張って抵抗したが、体力が落ちたせいかその抵抗はあまり効果がなかった。
 花耶の抵抗を軽く流した伊東は、花耶を近くの壁に力任せに押しつけた。壁がドン!と大きな音を立た。背中を強打して花耶がうめき声をあげると、伊東は益々愉悦に顔を歪めた。こうして相手を痛めつけるのが好きなタイプらしい。既に伊東は興奮状態で、はぁはぁと荒い息をして花耶の胸に手を伸ばし、その感触を楽しもうとしていた。

「は…なしてっ…気持ち悪い!」

 震えで動きを止めた喉を必死に叱咤して花耶がそう叫ぶが、その声はもう伊東には聞こえていないようだった。何とか身を捩って逃れようとするが、伊東はそんな花耶の抵抗を自身の身体を押し付ける事で封じ、次の瞬間、制服のブラウスを上から力任せに引っぱった。

「ビリリリリリリリリ……!!!」

 服が引き裂かれる音をかき消すように、けたたましい警告音が資料室に響き渡った。花耶が奥野から渡されていた防犯ブザーを押したためだった。いきなり現れた暴力的な音に、興奮状態だった伊東も我に返ったのか、何だ?何の音だ?と慌てだした。暫くして、その音が花耶から発せられていると気付いたのだろう、目つきが剣呑になり、てめえかよ…と小さくつぶやいたかと思ったら、乾いた音と共に左頬に急に熱を感じ、数秒ほどして花耶は自分が殴られたのだと理解した。

「その音止めろ!手間かけさせやがって!そんなに人に見られたいのかよ!」

 また手が振り上げられたのを視界の端に捉えた花耶は、身を固くして衝撃に備えた。次の刹那、再び頬を殴られ、その衝撃で床に倒れ込んでしまった。

「ははっ!生意気言ったってなぁ、女は男には適わないんだよ」

 伊東は、そのまま花耶に覆いかぶさってきた。腰が抜けたわけじゃないが、恐怖と嫌悪から身体が竦み、とっさに身体が動かなかった。伊東は体重をかけて花耶にのしかかると、おもむろにブラウスの前身ごろに手をかけて思いっきり外側に引っ張った。花耶の肌が伊東の目に晒された。

「なっ…何だよ、これ!」

 悦に入った歪な笑みが一瞬で崩れ、血走った目が驚きにより赤く染まった。先に声を上げたのは、花耶ではなく伊東だった。わなわなと震えながら花耶の肌にあるモノを凝視している。

「っ!ぼ、僕のモノに…何でこんなのが付いて…」

 伊東は花耶の肌に散った赤い花を目にして、ぶるぶると震えながら花耶を見下ろしていた。その赤い花は、奥野が虫よけにと数日前に付けたものだった。花耶の気持ちを知った奥野は、あれから花耶を求める事はしなかったが、虫よけと称して時折胸元に赤い痕をつけていたのだ。花耶はその度に話が違うときつく抗議していたのだが、奥野は上手く隙をついてくるので、中々避けるのが難しかったのだ。

「…っ!なんだよ…処女じゃねーのかよ…」

 伊東は憎々し気にそう告げると、この売女が、処女だと思ってたのに、舐めやがって、と激昂し始めた。どうやら伊東は花耶が処女だと思っていたらしい。

「くそっ!僕をバカにしやがって…!このクソが!ふざけ…」

 怒りで顔を赤黒くした伊東が叫びながら花耶に掴みかかろうとしたが、伊東は最後まで言い終える事なく、いきなり花耶の上から消えた。少し離れた場所で先ほどよりも大きな音がして、棚からファイルがバラバラと落ちる音がした。

「花耶、大丈夫か?」

 殴られるかも…と目を瞑って衝撃に耐えようとしていた花耶に、聞き慣れた声が下りてきた。背に回された手とかぎ慣れた匂いを感じて恐る恐る目を開けると、そこには心配そうに自分の顔を覗き込む奥野の顔が見えた。突然の奥野の登場に、花耶は自分が助かったのだと思ったが、ここにいる事を不思議に思った。確かに伊東は鍵をかけていた筈なのに…それでも、そんな事は些末な事で、花耶は差し伸べられた手を取り、ゆっくり立ち上がると、両手で破かれたブラウスの前を掻き合わせた。
 奥野は立ち上がった花耶の頬に手を添えると、眉間のシワを深め、痛みは?口の中はと矢継ぎ早に尋ねてきた。幸いにも頬は熱く感じるが痛みもないし、口の中も切れてはいなかったのでそう告げると、奥野はやっと少しだけ表情筋を緩めた。
 ホッとして目だけで周りを見渡すと、伊東が棚の下でファイルの洗礼を受けていた。一方で、ドアの向こうには松永をはじめとする役員や秘書課の面々の姿があり、花耶はこの状況を人に見られた事を知って青ざめた。絶対今のやり取りを見られたに違いない…奥野の登場で伊東の危機から逃れた花耶だが、今度は伊東よりも他の社員に見られた事に混乱していた。

「いい度胸だな、伊東」

 花耶を背に庇うようにして伊東の前に立った奥野の声は、地の底の更にその下を思わせるような昏さと響きを伴い、その部屋の温度が一気に急降下した気がした。真夏なのにまた別の意味で鳥肌がたって、花耶は思わず片方の手で二の腕をさすった。背を向けているため表情は見えないが、奥野は全身から怒りを滾らせているのが感じられた。その場にいた者は奥野の圧に押され、呼吸音すらも憚られる雰囲気だった。

「な…何で…奥野さんが…」

 伊東の首根っこを掴んで近くの棚めがけて投げたのは、花耶の現在の同居人で、当社では鬼教官と恐れられている奥野だった。ただ佇んでいるだけでも怖いのに、今は怒りのオーラがとぐろを巻いているのが視覚的に見えそうなほどで、存在感と威圧感が凶悪的なほどに高まっていた。奥野にかなり慣れたと思っていた花耶だったが、こんなに怒りに満ちているのを見たのは初めてだった。もしプロジェクトに参加する前に見ていたら気絶したかもしれない…

「花耶はお前のじゃない。俺のだ」

 静かに、だが確信を持って、三課の課長はまるで当然だとばかりにそう断言した。その内容にその場にいた者がざわついたが、誰もそれに対して口を挟むことはしなかった。

(は…い?い、今、この人なんて言った?)

 奥野の発言は花耶にも混乱をもたらした。社内では内緒にとあれほどお願いしたのに…それに奥野のものになった覚えもない。誤解は解けたが、まだその話は保留中の筈だ。そう思うし、抗議もしたいのだが、奥野のキレた様子に声をかけるのも憚られた。今逆らったら自分も粛清されそうな気がした…
 低く呻くように告げられた言葉に、伊東も呆然と奥野を見上げるばかりだった。え…あ…と、言葉にもならない声を発するのが精いっぱいらしい。それもそうだろう、あの奥野の威圧感を向けられたら、一般人は平常心でいられるはずがないと思う。対処できるのは警察官か自衛官だろうか…などと花耶は考えている間にも、奥野の負のオーラは静かに強まっているように見えた。

「何度も何度も俺の大事な花耶にちょっかいかけやがって…伊東…何度も言ったよな?三原には手を出すなと…」
「…」
「あれだけ言ったのに、わからなかったのか?」
「…」
「聞き分けのない奴には、お仕置きと躾が必要なんだよな?」
「!!!」

 奥野の言葉に、伊東が目を見開て驚きを露にした。それもそうだろう、今のセリフは伊東が花耶に散々ぶつけてきた言葉だったのだ。会社に知られているとは思っていたが、この内容までは会社から聞かされた録音データにはなかったため、伊東は花耶以外の者は知らないと思っていたらしい。実際には上層部や警察はみんな知っていたのだが…

「二度と余計な事が出来ないように、徹底的に躾けてやろう。フフッ、か弱い花耶が感じていた恐怖がどんなものか、まずはじっくりと味わってみようか?」

 低く地の底の底を這うような声と、禍々しさを纏った妖艶な笑みに、さすがの伊東も身の危険を感じたらしい。顔を青くしてずるずると座り込んだまま後ろに下がろうとしたが、壁がそれを阻止していた。
 資料室の中は正しくカオスだった。奥野の迫力に、花耶だけでなく上司である部長連中も固まって動けなくなっている。怒らせてはいけない存在がこの世にある事を、花耶はこの時初めて知ったと思った。

「そ…んな…課長のもの…って…」
「ふ…正確には俺のものではない。俺が花耶のものだ」

 花耶を想ってか色気を撒き散らしながらそう告げる奥野に、その場にいた全員が凍り付いた。一番凍り付いたのは、名を出された当事者の花耶だろう。もう色んな意味で会社にいられなくなった気がして、病み上がりの身は気力体力を急速に失っていった。もしかしたら奥野に吸い取られたのかもしれない…と花耶は真面目にそう思ったほどだった。

「さぁ、お喋りの時間は終わりだ」

 そう告げた奥野は、完全に魔王と化していた。もう誰も止められそうもなく、周りにいた者の一部は、これから制裁を受ける伊東に心の中で手を合わせていたかもしれない。花耶ですら、怖くて動けなかったのだ。よくこんな人に色々やらかしていたな自分…と思うと共に、この人から逃げられない気がした。確実に、いや、絶対逃げられに気がする…

 ずっ…と奥野が一歩を踏み出すと、ひぃ!と悲鳴を上げて伊東が後退り、その様子をその場にいた者は固唾を飲んで見守っていた。

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