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二章

婚姻届の行方

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 図らずも二人だけの世界に入り込んでいた花耶の耳に、母親の忌々し気な声が届いた。そう言えば周りには母親や奥野の家族もいたのだ、と思い出して花耶は急に恥ずかしさを覚えて奥野の腕の中で身じろぎしたが、それに動じる奥野ではなく、益々深く抱き込まれてしまった。

「…いい加減にするのはそっちだ。俺の妻は花耶だけだ」
「いいえ、あなたの妻は久美よ!もう決まった事なの」
「まだ受理された訳じゃない。どうせ俺と久美を結婚させて寄生しようって腹だろうが」
「とんでもないわ。私達三人であなたを支えてあげるって言っているの。あなたは仕事にだけ専念してくれればいいのよ」
「それが寄生だと言うんだ。俺一人に働かせて、自分達は働かず楽しようって魂胆だろうが。まるでハイエナだな…見苦しい」
「な…!」

 吐き捨てるように奥野がそう言うと、母親も久美も、もう一人の女性も顔を赤くして押し黙った。どうやら図星だったらしい。その様を父親や文香達は冷めた目で見ていた。

 そんな一瞬の静けさの中を、不意にスマホの着信音が鳴り響いた。それぞれが自分のものかと確かめるためスマホを手にしたが、電子音をあげているのが久美のものだと分かると、母親は目を輝かせて顔一面に艶やかな笑みを浮かべた。

「ああ、きっと婚姻届が受理されたのよ。おめでとう透夜、これで私達は死ぬまでずっと一緒よ」

 母親の甘ったるく絡みつく様な言葉は、花耶には禍々しい程の呪いに聞こえた。花耶は迫りくる願いとは真逆の未来に息苦しさを感じ、奥野の腕に縋りついた。そんな花耶に奥野は、花耶だけに聞こえる様な小さな声で大丈夫だと囁いたが、それでも花耶が安心する事は出来なかった。

「さぁ、久美ちゃん。透夜に、いえ、この場にいるみんなに現実を教えてあげましょう。スピーカーにして会話の内容をみんなに聞かせてあげたらどうかしら?」
「それいいですね!」

 鳴り続く着信音を前に、母親は余裕たっぷりにそう提案し、久美も嬉々としてそれに乗った。電話に出ると音量を最大にしてスピーカーをオンにしてから電話に応えた。

「もしもし。こちらは――役所ですが、西川久美さんの携帯でよろしいでしょうか?」
「は、はい、私が西川久美です」

 携帯から聞こえる会話は、間違いなく役所からのものだった。久美は受理されたと確信したのだろう、目を輝かせ声は上ずっていた。花耶は奥野の腕の中で、絶望的な気持ちでその会話を聞いていた。

「昨夜提出された、婚姻届の件でお電話差し上げたのですが…」
「は、はい!届、受理されたんですね!」
「それが…こちらの方では問題なかったのですが…お相手の方のお住まいの役所に照会したところ受付出来ないという事で、不受理になりました」
「は?」
「…え?」

 相手の言葉に、この場にいる全員が一瞬耳を疑った。今、不受理と言わなかっただろうか?想定外の言葉は花耶が望んでいたものだったが、にわかには信じられなかった。どういう事だと回らない頭で奥野を見上げると、奥野はそんな花耶の動きに気付いて大丈夫だと言わんばかりに微笑んだため、花耶はこの状況が奥野の想定内であるのだと感じた。ただ、何がどうなっているのかは全くわからなかったが…

「え?ちょ…不受理って…」
「はい、この届はお受けできません」
「そんな…!どうして? 」
「それに関しましては、夫になる方のご要望、としか申し上げられません。詳しい事は私共ではお答えできませんので、どうしてもというのであれば、お相手の方にお尋ねください」
「ええっ?そ、そんな…」
「それでは、失礼いたします」

 戸惑い、尚も縋りつく久美を突き放すかのように事務的に通話は切れた。久美は呆然と切れたままのスマホを手にしていたが、花耶も何が起きているのかわからずに戸惑っていた。

「…ちょっと、久美ちゃん!どういう事よ!」
「…それが…私にも…でも、相手の要望がどうこうって…」
「相手の要望って…まさか…!」

 母親は信じられないものを見るかのような目で息子を見つめた。成功を確信していた二人は、予想外の結果にすっかり平常心を失っていた。

「ああ、残念だったなぁ、母さん、久美」

 その場にいる者が戸惑っている中、二人に楽し気な口調で声をかけたのは奥野だった。その凛々しい顔には笑みが浮かんでいて誰をも魅了しそうなものだったが、目は…笑っていなかった。そのせいだろうか、その笑顔から寒々とした冷気が溢れ出ている様な気がして、花耶はその腕の中にありながら身を固くした。

「…なっ…!どういう事なの、透夜!」

 さすがの母親も奥野の態度から何かを察したのだろう。先ほどまでは息子に向けるには似つかわしくない熱を帯びた視線を向けていたが、今は戸惑いと、思い通りにならない怒りの様なものが入り交じっているように見えた。

「不受理届だよ」
「ふ…じゅ、りとどけ…?」

 奥野の口から飛び出た聞き慣れない言葉の意味を、すぐに理解できた者はこの場にはいない様だった。花耶も言葉の意味はわかっても、それが何なのか思い至らなかった。

「勝手に婚姻届を出されても受理されないようにするための届だ」
「な…んで…そんなもの…」
「以前、訳の分からない女に付きまとわれた事があってな。その時に上司にこの届の話を聞いて念のために出しておいたんだ。まさかそれが今になって役に立つとは思わなかったがな」
「そ…んな…」

 奥野の言葉に母親は言葉を失くしたが、花耶も驚きを隠せなかった。だが、先ほどから奥野は何度も大丈夫だと言っていなかったか?だとしたら奥野は、最初から受理されないと知っていてそう言ったのだろうか…まだ状況が飲み込み切れていない花耶だったが、奥野が平然としていた理由が何となく理解できた。
 一方、そんな届の存在すら知らず、万事計画が上手くいくと思っていた母親側の三人は、目に見えて顔色を失っていた。それもそうだろう、上手くいったと確信していたのだろうから。

「そういう事だから、早く仕事を探すんだな。母さんは慰謝料も財産分与も要らないと言ったんだ。これからは三人で頑張って働いてくれ」
「そ…そんな…!あ、あれは…!」
「残念ながら、母さんが自分でそう言ったんだ。ちゃんと証拠もある」
「しょ…証拠ですって?!」

 母親は裏返った声でそう告げたが、それを冷めた目で見やった奥野は、懐から一台の小さな機械を取り出した。その形状に花耶は見覚えがあった。

「それ…は…」
「ボイスレコーダーだよ。何を言い出すかわからないから、念のため会話を録音しておいたんだ。母さんが慰謝料も財産分与も要らないと言ったのもしっかり記録されている」
「……!」

 奥野の容赦のない言葉に母親は何かを言いかけたが、何も言葉が出てこないようだった。自分の味方だと思っていた息子からの手厳しい反撃を、心が受け止められずにいるようにも見えた。それは母親の両隣にいる久美や中年の女性も同様で、久美は口をわずかに開けたまま虚ろな目で奥野を見上げていた。

「そういう事だから、父さん。あとは父さんたちで決めてくれ。具体的な話は一緒に住んでいた父さんや文香の方がいいだろう?」
「そ…うか…そうだな…」

 急に話を向けられた父親たちは未だにショックの中にいる様だったが、奥野にそう言われると僅かに自分を取り戻したように見えた。確かに勝手に離婚届を出した母親と、これからも何もなかったかのように暮らす事は難しいだろう。

「そ…そんな…!ま、待って…」

 離婚を受け入れた様子の父親たちに焦った声をかけたのは母親だった。先ほどの勝ち誇った時の勢いは欠片も残っておらず、今はほぼ身一つで放り出される事への不安が現れているように見えた。

「何だ、絹代?離婚すると言って勝手に届を出したのはお前だろう?」
「そうよ。しかも私達に一言も相談なしで…言っておくけど、最初に私達を捨てたの、お母さんだからね」
「兄さんがダメだったからって、こっちに来られても迷惑だし」
「な…」

 昨日まで一緒に暮らしていた三人の冷たく蔑むような視線に、母親は驚き狼狽えた。だが、花耶から見てもそれは仕方ないのではないかと思われた。離婚届は家族である事を解消する届なのだ。相談もなく出されては、切り捨てられたと思うだろうし、相手にとって自分はその程度の存在なのだと思わせるには十分すぎた。今までにない三人の拒絶に、母親はとうとう崩れるように両手を床についた。
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