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二章

息子の本性

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 床に座り込んでしまった母親は、一人ブツブツと何かを呟いていたが、その声は小さすぎて花耶達には届かなかった。久美ともう一人の女性も、ぼんやりと虚ろな目をして母親を見つめるばかりで、戦意は完全に失われているように見えた。

「花耶、すまなかったな、大丈夫か?」

 これで区切りがついたと判断したのか、奥野は母親から視線を花耶に戻して顔色を窺うように話しかけてきた。色んな事が起き過ぎてキャパを超えてしまったせいか、花耶はまだ夢心地の中にいるように感じていた。

「えっと…結婚…は…」
「ないから安心してくれ。誰が何度出そうと、俺が役所の窓口に行かない限り通る事はないから」
「そう…ですか…」

 優しく、でも力強く総言われた花耶は、ようやく大丈夫だったのだと確信を持つ事が出来た。会話の流れからそうなのだと頭ではわかっていたが、心がついてこなかったのだ。だが、奥野からはっきりと告げられた事で、やっと花耶の心も納得する事が出来た。よかった…としみじみと思っていると、奥野が心配かけて悪かったと言って抱き寄せ、額に唇を落とした。家族の前であっても羞恥心ゼロの奥野に、花耶は恥ずかしさから居たたまれなくなった。

「…あ、あんたが…」

 奥野の人目を憚らない愛情表現に狼狽えていた花耶の耳に、唸るような低い女性の声が届いた。その場にいた者もその声に気が付いたのか一斉に声の主に視線を向けた。声の主は母親だった。

「あんたが…透夜を誘惑したせいで…透夜は…」

 怒りからか顔を赤く歪めた母親が、ゆらりと立ち上がって奥野の腕の中にいた花耶を見下ろした。その目は赤く血走っていて、目には憎しみのせいか強い光が宿っていた。

「透夜は!私のものなのに!あんたが…あんたさえ現れなければ!この子は私のものになったのに!」

 そう言うと母親は意外なほどの速さで、花耶めがけてテーブルの上にあった湯飲みを投げつけてきた。咄嗟の事に動けずにいた花耶は、何も出来ずにただ湯飲みが飛んでくるのを見ているしか出来なかった。だが、ぶつかると思った瞬間に視界が黒くなり、すぐ近くで鈍い音がした。

「透夜!」

 母親の奥野を呼ぶ声が部屋に響いた。暗くなったのは奥野に抱き込まれたせいで、彼が代わりに湯飲みを受けたのだ。それを感じ取って花耶は慌てて奥野を見上げたが、奥野は花耶に大丈夫だと笑みを浮かべて答えた。

「に、兄さん、怪我は?」
「ああ、大丈夫だ。セーターを着ていたせいで、大した衝撃はなかった」
「そう…よかった…」

 文香が慌てて声をかけ、奥野はそれにこたえると、周囲の空気がホッと緩むのを感じた。それと同時に、周囲の冷たく刺さるような視線が母親に集まった。

「わ。私は…と、透夜!ごめんなさい!あなたにぶつけるつもりじゃなかったのよ。そ、そうよ、その小賢しくあざとい小娘を懲らしめてやろうと…!」
「花耶は小賢しくもあざとくもないが?」
「いいえ!あなたはその子に騙されているのよ!でなかったら、あなたがこんな子を相手にする筈ないじゃない!」

 母親はどうあっても花耶を認める気はない様だった。その事に花耶は認めてもらうのは無理なのだろうと悲しく感じたが、同時にここまでこじれてしまった以上、この人を納得させることは不可能なのだろうとも思った。

「別に騙されてなんかいないが?」
「そんな事ないわ!あなたにこんな地味な小娘なんかが釣り合わないじゃない!」
「それで?久美なら釣り合っているとでも?」
「久美は…私の姪だからいいのよ!久美と結婚すれば私達はずっと一緒にいられるのだから。それがあなたの幸せなの。お願いよ、目を覚ましてちょうだい!あなたはこの小娘の計略に嵌って騙されているだけなのよ」

 母親の中では、奥野は花耶に騙されているのが確定しているようだった。あまりの剣幕と思い込みの深さに、花耶は言葉では言い表せない恐怖を感じた。元より理性的ではないと思っていたが、ここまで思い込みが激しい相手では何を言っても伝わらないのだろう。花耶は思わず奥野の腕に縋りつく力を強めたが、それに気付いた母親は益々憎悪に満ちた視線で花耶を睨みつけた。

「…何か、勘違いをしているようが…」

 奥野が大きくため息をつきながら、母親に呆れた表情を向けた。その表情はどうして理解できないんだと言わんばかりだった。

「花耶は俺の気を引こうとした事はない。一度もだ」
「そんな筈ないわ!」
「いいや、事実だ。花耶は俺を怖がってずっと避けていたんだからな」
「そんな…透夜ほどの子が…こんな子を相手にするなんて…あり得ないわ!」

 重ねて奥野に言われても、母親はまだ納得できないようだった。彼女の中では花耶が奥野をたぶらかしたのは決定事項なのだろう。

「ああ、ここまで言っても納得できないのか?なら、教えてやろうか?俺たちの始まりがどんなものだったか」
「な、何を…」

 奥野の態度が、一変した。これまでも険しい表情だった奥野だったが、今度は仄暗さをより一層深め、まとう空気に陰りが強く宿った。これまでに見た事もない陰惨さすらも感じられる奥野に、周囲が息を飲む音が聞こえ、花耶も動けずにいた。
 自分たちの始まりと奥野は言ったが、花耶は奥野の言おうとしている事をこの場にいる誰よりも理解していた。だが、それは奥野の罪を暴露するも同じで、出来れば誰にも知られたくない類のものだった。それを家族の前で言おうとしている奥野を止めたいと思いながらも、花耶は奥野から放たれる圧に押されて動く事が出来なかった。そしてそれは母親も同様で、これまでに見た事もない息子の残忍さすらも滲む表情に動けずにいた。

「…電車が運休して帰れなくなった花耶を、上司の立場を利用して家に連れ込んだんだよ。それで、酒で酔わせて襲ったんだ」
「…透夜…!」
「兄さん!」

 息をつめた花耶の耳に届いたのは、父親と文香の悲鳴にも近い声だったが、奥野はそれらを昏い笑みで流した。どうして…何故、今更こんな事を言うのか…花耶は奥野の気持ちがわからず、信じられない面持ちで奥野を見上げるしか出来なかった。

「泣いて嫌がる花耶を、無理やり自分のものにしたんだ。その後も上司の立場を利用して逃げられないようにした。花耶は頼れる家族も親戚もいないから、誰にも相談出来ず、会社も辞められなかった。俺はそこに付け込んだんだよ」

 そう言って奥野は、昏い笑みを一層深めた。その表情は残酷なほどにきれいで、そして奥野の本質の一端を表していたが、花耶の目には奥野が酷く傷ついているようにも見えた。そんな事をわざわざ言う必要などどこにもないのに、どうしてこんな事をするのか…仮に母親や久美が花耶に見当違いの非難を浴びせたところで、もう少し言違う言い方があったのではないか…花耶は言われた内容よりも奥野の心情が心配で気が気ではなかった。

「と、うやが…そんな、事…」

 本人からそう告げられても、母親はまだ信じられないような目で息子を凝視していたが、息子は冷笑を浮かべるだけだった。

「言った事は本当の事だ。花耶から俺に近づいてきた事など一度もなかった」
「でも…付き合って…」
「それは花耶が優しくて強かったからだ。俺もあれから必死に口説いたし、出来る事は何でもしたが、それを花耶が受け入れてくれたからこうしていられる。俺が犯罪者にならずこうしてここにいられるのは花耶のお陰だ。そんな花耶をどんな理由だろうと馬鹿にすることは許さない。」
「…そんな…」

 息子の想定外の告白に、母親はもう何かを言う気力すらも失われているように見えた。最愛の自慢の息子がした事は法的に許される事ではなく、花耶の気持ち一つで前科がつくような類のものだったのだから当然かもしれない。

「そうだな…欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れるところは…母さんに似たんだろうな」
「え…」

 戦意喪失して呆然としている中、自分に似たと言われた母親は、どう答えていいのかわからなかったらしく、呆然と奥野を見上げていた。自分に似ていると言われるのは嬉しいだろうが、その内容は決して喜べる内容ではなかったからだ。

「なぁ、母さん?母さんが父さんと結婚した時もそうだったんだろう?嫌がる父さんを無理やり結婚に持ち込んだのは母さんだったと聞いたが?」
「そ、れは…」
「自分は好き勝手やっておきながら、俺にはダメだなんて言わないよな?」

 笑顔を浮かべてそう告げる奥野に母親は何一つ返す事が出来ず、程なくして再び崩れるように床にへたり込んだ。

「二度と花耶を傷つけるような真似はするなよ。ああ、母さん達は二度と花耶には近づくな。もし近づいたら…その時は母親だろうがなんだろうが容赦しない。全力で潰してやる」

 奥野の声は決して大きくはなかったが、その声に込められた圧は魂をも縛る言霊のように聞こえた。それは言い過ぎではないかと花耶は思ったが、とても異を唱える事など出来そうになかった。花耶が花耶自身を傷つける事すらも厭う奥野なだけに、それが紛う事なき本音なのだという事が明らかだったからだ。
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