海の向こうの永遠の夏

文月みつか

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第1章 海の向こう

 ◆少女を閉じる

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「千夏っ!!」

 彼は落下する少女に向かって手を伸ばした。少女のほうも手を伸ばした。しかし、互いにつかむことはできなかった。

 彼の脳裏を嫌な想像が一瞬で駆けめぐる。

 絶対に傷つけてはならない。
 絶対に失ってはならない。

 彼はとっさに、少女を自分の内側の世界に閉じ込んだ。
 目の前から少女が消える。

 彼は肩で荒い息をつき、手すりをつかんだまま膝をついた。

 自分ではない誰かを閉じ込めたのは初めてだった。そんなことができるとは思ってもいなかったが、やってみたらできてしまった。

 動揺していたが、彼は自分の内側に少女の気配があることを確かに感じた。小さくて、もろくて、あたたかいもの。それは虚ろだった彼の心を埋めるように、ふわりと寄り添った。

 ふいに彼は、少女をこのまま隠して連れ去りたいという衝動にかられた。だがすぐに首を振り、状況を立て直すすべを考える。

 少女が足を滑らせ落下していった真下には、青々と葉を茂らせたアジサイがある。あれをクッションにすれば、無傷で呼び戻せるかもしれない。だが、絶対に安全とは言い切れない。

 彼は屋敷の中を探し回り、クッションになりそうなカーテンやかけ布団を集め、落下地点に積んだ。あまり清潔とは言えないが、そこは勘弁してもらおう。

 安全を確認するため、彼は再びバルコニーへ上がった。手すりを越え、先ほど少女が立っていた位置につく。隣の部屋の窓は少女が開けたままになっている。

 彼は作業を中断し、窓から部屋の中へもぐりこんだ。

 薄暗い室内。そこにぼんやりとさまざまな景色が浮かんでいるように見える。目が慣れれてくれば、それらは大小のキャンバスに描かれた無数の絵だとわかる。
 中央には絵の具の染みついた作業台と、アジサイの絵をのせた手作り感のある無骨なイーゼルが陣取っている。ここはもといた主人の趣味のアトリエだったらしい。

 絵のほとんどは風景画で、どこかの湖や森、鳥や、この屋敷を描いたものもある。きれいだけれどありきたりの風景で、これといって意匠は感じられない。

 しかしその中で、アジサイの絵だけは異彩を放っていた。青白く、ところどころ薄紫の入った、透けるような一枚一枚の花びら。葉脈まで確認できる、青々とした力強い葉と茎。まるで生きたアジサイを枠に押し込め、時間を止めてしまったかのようだった。

 初めてこの絵を見たとき、彼は息が止まりそうになった。この絵の作者は、世界の一部をキャンバスの中に閉じ込めている。ちょうど彼が、身を守るため自らの世界を閉じるように。だがあれはあくまで一時的なもので、永遠に閉じておくことなどできはしない。この絵の作者は、彼にできないことを実現していた。

 誰にそう説明されたわけでもないし、単に作者が魂を込めて描いた力作を目にして感化されてしまっただけかもしれないが、少なくとも彼はそのアジサイの絵を、自分と同じような所業に及ぶ者が残した遺物であると直観した。

 この絵は人目に触れないほうがいい。

 彼はそう判断し、部屋から出るときには必ず内側から鍵をかけるようにした。彼自身はその絵に魅入られて何度も屋敷を訪れていたにもかかわらず。自分に備わっている奇妙な力の秘密が解き明かせるのではないかと期待して。

 千夏という少女と出会ってから、彼は世界を閉じることが減っていた。現実の世界に踏ん張ることができる足場のようなものを得ていたのかもしれない。それに伴ってこの屋敷に来ることも少なくなった。いや、意図的に避けていた。あの絵を少女が目にしてしまったら、自分の弱さも見透かされてしまうような気がした。そうなれば、彼はまた一人になってしまうかもしれない。

 千夏。彼は胸のあたりを押さえた。先ほどから、胸の奥がちくりと痛む。少女が孤独に耐えかねているらしい。

 あれほど知られたくなくて隠してきた弱い部分に、当の彼女を迎え入れることになるとは。それもこれも軽々しく屋敷に来てしまった報いかもしれない。

 彼はアジサイの絵を裏返し、窓から部屋を出た。そしてバルコニーから飛び降り、アジサイの植え込みに十分なクッション性があることを確認した。

 彼は胸の内にいる、寂しげな少女の名前を呼んだ。

 中空に少女が出現し、緩衝材の上に落ちて軽やかに弾んだ。彼は少女を草の上に横たえ、積み上げていたカーテンやかけ布団を急いで屋敷の中に放り込んだ。

 間もなく少女は目を開け、彼の瞳を見つめた。頬に涙の筋ができていた。

 彼は一時でも少女をひとりぼっちにしてしまったことを後悔した。
 無事でよかったと、心から安堵した。
 夕日が彼らをあたたかく照らした。
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