海の向こうの永遠の夏

文月みつか

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第2章 永遠の夏

 ◆七夕送り

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 灰色の厚い雲が、止まっているのかと錯覚するほどゆったりと重たく流れている。うっすらと開けた目の焦点がだんだんと合っていく。

 さーっと寄せては引いていく波が、腰から下を濡らしている。急にこみ上げるものを感じ、彼は横たわったままくの字になって激しく咳きこんだ。生ぬるい海水が口から吐き出される。
 のどが熱い。
 しばらく咳きこんでは吐いてを繰り返し、ようやく上体を起こした。
 生きているようだ、と彼は思った。それとも、ここはあの世だろうか。

 それはよく見慣れた、彼の海だった。だから区別がつかない。死んだのか、ただ世界を閉じただけなのか。

 全身が重く、すぐには立ち上がれそうになかった。後ろに手をついたままぼんやりと水平線を見つめる。
 何があったのかはよく思い出せない。というより、思い出そうとするととてつもない恐怖と喪失感が襲ってきそうな予感がある。きっといつものように、身を守るために逃げてきたのだ。いっそ忘れていたほうが幸せだと思えるほどの恐怖から。

 べったりと湿った服が肌にはりついて、風が吹くたびに体を冷やしていった。
 徐々に日が傾いていくのを、ただ眺めている。

 何かとんでもないへまをしてしまった。どうやっても取り返しのつかないようなことを。

 ときどき顔を歪め、胸をぎゅっとつかむとき以外、彼はほとんど動かなかった。空っぽの人形のように、海の向こうを見ていた。

 やがてすっかりあたりが暗くなり、寒さに体が震えだしたとき、近くにパッと明るく火が灯った。後方に焚き火が出現していた。

 彼はようやく波打ち際を這うようにして脱け出し、ぱちぱちとはぜる火の近くに寄って濡れた体を乾かし、手をかざした。

 自分の深い絶望とはしょせんこんなものだったのかと、彼は自分を情けなく思った。いっそのこと海の底に沈んでしまえたらよかったのに。なぜ自分はこうして砂浜に打ち上げられ、生き延びようとしているのだろうか。いや、生きてるかどうかはまだわからないのだった。

「……千夏、どうしてるかな」

 彼がつぶやくと、ぱちんと薪がはぜた……と同時に、砂の上にどさっと何かが落ちてきた。

「んん……うう」

 パジャマ姿の少女が寝ぼけまなこで尻もちをつき、うめいている。

「……千夏?」

 彼が驚いて少女を見ると、「あれ? 海だ!!」とパッと顔を輝かせる。

「なんでここに……」と彼は言いかけたが、もしかすると自分が呼び出したのではないかと気づいて、別の質問をすることにした。

「寝てたの?」
「うーん、わかんない。たぶんそう」

 チェック模様のパジャマについた砂をパサッとはらいながら、少女は首をかしげる。

「なんか、夢を見てた気がする」
「夢?」
「うん。水の中を必死に泳いでて……あっ、そうだ。誰かがおぼれてて、助けなきゃと思ったんだ。ちゃんと手をつかんだはずだけど、うーん、よく思い出せない。助かったのかな、あの子」

 少女は、暗い海の彼方を見つめる。
 彼も同じあたりを見つめ、小さく笑った。

「夢の中のやつの心配をするなんて、変わってるな」
「だって、すごくリアルな夢だったんだもん。今濡れてないのが不思議なくらい」

 少女は自分の両手を見つめる。
 彼は笑ってしまったことを申し訳なく思った。

「大丈夫だ。命拾いしたって、今ごろものすごく感謝してるよ、その人」
「ならいいけど……って、なんで海がわかるの? あたしの夢なんだから、テキトーなこと言わないでよね!」
「面倒くさいな。どうせ夢の話なんだから、そう思っておけばいいだろ」

 彼はそっぽを向いた。

「勝手に決めつけないでよ。まだ困ってるかもしれないじゃん」
「だとしたらどうやって助けるんだよ。また寝たところで、同じ夢を見られるとは限らないぞ」
「そうだけど……」と少女は釈然としない様子で口ごもった。

 黙りこくる幼いふたり。
 夜の静かな波音。
 ぱちんっと薪がはぜる。

 先に沈黙を破ったのは少女のほうだった。

「あのさ」と気まずさを拭うように地面の砂をいじりながら、「ここって海の向こうの世界?」と彼に尋ねる。
 彼はほっとしてから、はてと考える。もしかしたらあの世じゃないかとも思ったが、少女が来られるのだからきっとそうなのだろう。

 まだ自分が生きている可能性があるとわかり、彼は少し冷静になった。

「ねえ、どうなの? もしかしてこれも夢なの?」

 詰め寄る少女を押しとどめて彼は言う。

「難しいこと聞くなよ。ほっぺでもつねってみれば?」

 じーっと間近で見つめられ、にらめっこする形になる。自分だって自信がないんだ、と彼が目をそらそうとしたとき、少女の両手がにゅっと伸びてきて、彼のほっぺたをぐいっとつねった。

「いてーよ」
「じゃあ、夢じゃないね」

 少女はにやっと笑う。

「自分のでやれよ」
「やだよー」

 彼がやり返そうとすると少女はぴょんと立ち上がった。

「キャンプファイヤーしてたの?」

 少女が焚き火を指さして尋ねる。

「まあ、そんなとこ」
「きれいだねー」

 オレンジ色の炎が、少女の顔にゆらゆらと火影を落とす。彼女は天に昇っていく煙を見上げ、おもむろに手を合わせた。

 何をしているのかわからないが、彼はそれがとても美しいと思った。見慣れた少女の、それも少し寝ぐせのあるパジャマ姿だというのに。

「それ、なんの儀式?」

 美しいなんて思ったことが恥ずかしくて、彼は少し意地悪な聞き方をした。

「えっとね、七夕送りみたいだなと思って」
「なんだそれ」
「去年幼稚園でやったの。七夕が終わったら、笹とか短冊を燃やすの。そうすると、お星さまが願いをかなえてくれんだって」
「へえ」
「昔は海とか川に流してたんだよって、園長先生が言ってた」

 少女は誇らしげに話す。

「笹も短冊もないけどな」
「別にいいの。そう感じただけだから」
「なんか願い事したわけ?」
「うん! おぼれてたあの子が、無事でいますようにって」

 彼は一瞬言葉に詰まってから、空を見上げて「へえ」とつぶやいた。


 それから少女は、先ほどの神聖さなどまったくの嘘だったかのように、火の回りで快活に歌ったり踊ったりした。
 一度、「火遊びするとおねしょするってママが言ってたけど、ホントかな?」と不安そうな顔をしたが、どこからともなく現れた手持ち花火を見つけるやいなや、歓声を上げて火を点けた。浜辺に色とりどりの光が噴射され、大変な騒ぎになった。おかげで彼は変なことを考えずに済んだ。

 しばらくして遊び疲れた少女は砂の上で眠ってしまい、彼は少女をそっと元の世界に送り返した。

 少女が翌朝おねしょをしたかどうか、彼は知らない。

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