海の向こうの永遠の夏

文月みつか

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第2章 永遠の夏

 ◆渦潮

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 黄金色のビーフシチューソースがたっぷりとかかった、ぷっくりとしたドーム型のオムライス。そこにスプーンを突き刺すのは少し罪悪感があったが、一口食べると衝撃的なおいしさが口の中に広がり、次から次へと手が止まらなくなった。今朝から頭痛の波が押したり引いたりして悩まされていることを差し引いても、こんなに幸せでいいのだろうか、と彼は怖くなる。

 週末、彼は母親とショッピングモールへ来ていた。そんなことはめったにないことで、さらにフードコートで好きなものを選んで食べるなど、数えるほどしか経験がなかった。単に機嫌がいいだけなのか、それとも何か裏があるのか、彼の不安はぐるぐると渦巻いた。しかしこういった人前で母親が癇癪を起こすことはないので、今は目の前のごちそうを楽しもうと、無理やり集中することにした。オムライスは着々と小さくなっていった。

「そんなに急いでかきこまなくても、オムライスは逃げたりしないわよ」

 彼の母親は微笑して、冷製トマトパスタをくるくるとフォークに巻きつける。彼は、それもそうだと思って、残り少ないケチャップライスを名残り惜しそうにちびちびと食べた。

「ねえ、海。あなたあの人に会ったでしょう」

 突然そう尋ねられて、彼の手はぴたりと止まった。あの人とは誰を指すのか。彼はさあと首をひねった。

「とぼけても無駄。あんたがあの写真を大事そうに戸棚のすみに隠してるの、知ってるんだから。あいつにもらったんでしょ?」

 ケチャップライスが妙に酸っぱく感じられ、飲みこめなくなった。
 彼の母親は動じる様子はなく、やっぱりねと小さく笑った。

「そんなにおびえた顔しなくてもいいのに。いつかはこんな日が来ると思ってたのよ。だってあんた、あの人によく似てるもの」

 違う、そうじゃないと彼は弁解したかったが、どうしても言葉が出てこなかった。
 しばらく、彼の母親が立てるフォークのカチャカチャという音だけが響いた。

「私のこと大事に思っているふりをして、結局いつかは離れていってしまうのよ。口では愛してるとか守るとか言っておきながら、急にいなくなってしまうの」

 彼の母親は、形の崩れたトマトをぐちゃぐちゃとフォークで刺した。トマトの汁が飛び散って、テーブルに点々と痕をつけた。これは危険だ、と彼が反射的に腰を浮かせかけたとき、「でもね」とまた落ち着きを取り戻した声で言った。

「これでよかったのかもしれないとも思っているの。だって私、このままだとあんたを殺しかねないもの」

 彼はゆっくりと母親を見上げる。うつむいた顔には、表情がなかった。目線を合わせているはずなのに、彼女はどこも見ていなかった。機械人形のように、つぶれてべちゃべちゃになったトマトをすくっては口に運んでいく。

 彼は裏切ってなどいなかった。これからも彼の母親が壊れてしまわないようにそばにいるつもりだった。たとえヒステリックにひっぱたかれても、ものを投げつけられても、感情の波が穏やかになればまた彼のことを抱きしめて泣いて謝る、頼りない小さな女の子のようになってしまう彼女のことを支えていくつもりだった。

 だが、それはもう望めない。彼女は心を閉ざしてしまった。彼が世界を閉じるよりもずっと強固に。

 ただ似ているという理由で裏切ったと思われたこともショックで、彼の脳みそはガンガンと絞めつけられるように痛んだ。
 何ひとつ言葉を発せないまま、彼のケチャップライスは冷めていった。

「さっき連絡したから、ここで待っていれば迎えが来るわ」

 ゲームコーナーの近くの休憩所まで来ると、彼の母親はつないでいた手をほどき、彼の正面にしゃがみこんだ。人形のようだった彼女の表情に、つかの間母親らしい眼差しがよみがえる。彼女は彼の少し癖のある前髪をそっとかきわけた。

「さようなら、私の子。海のように心の広い子に……」

 彼女はそう言いかけたが、彼の瞳を見て、別の言葉を選んだ。

「いいえ、これからはもっと楽に生きなさい」

 彼の母親は彼の額にそっとキスをし、ゆっくり立ち上がった。そしてゆらゆらと彼から離れていく。

 行かないでほしかった。やっぱりこんなことできないと戻ってきてほしかった。しかし、彼の思いは通じなかった。

 彼女は一度も振り返ることなく、人混みの中に消えていった。

 待って、と彼は叫ぼうとした。胸がぎゅうっと絞めつけられるような感覚が襲ってくる。

 息ができない。呼吸をしようともがくほど苦しくなり、水の中に引きずりこまれていくようだ。足が異様に重い。沈みこむように膝をつき、胸のあたりを手でつかむ。頭痛があまりにもひどく、痛いのかどうかさえわからなくなっていた。頭の奥のほうで鈍く脈打つ音がする。

 待って……ひとりにしないで……

 意識が遠のいていく。
 突然膝をついて苦しみだした少年に通行人が気づいて「きみ、大丈夫か?」と声をかける。

 しかし、彼の耳には届かない。

 彼は渦潮に飲みこまれていた。
 夢なのか現実なのかもわからない。
 激しい水流に抗うこともできず、上も下もわからず、息もできず、必死にもがいても何もつかめず……

 やがてごぼりと大きな泡を吐き、暗く深い海の底に静かに沈んでいった。
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