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第2章 永遠の夏
34.緊急事態
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「じゃあ、行くわよ」
「はい!」
千代子さんに絵の向こう側へ連れて行ってもらうのはもう何回目だっけ? この瞬間は毎回緊張するけれど、千代子さんと手をつないでいると不思議な安心感があって、実はちょっと癒されてもいる。今度来るときは何かお土産を持って来よう。
真っ白な境界を越えて紫陽花畑に降り立った瞬間、足元がいつもと違うぐにゅっとした感覚で、なんだか気持ち悪かった。千代子さんも「何かしら?」と怪訝そうに地面を見る。
土がぬかるんで、だいぶ軟らかくなっているようだった。
「雨でも降ったんですかね?」
「変ねえ。海ちゃんが天気の実験をしたとき以外、ここはずっと晴れていたけれど」
「そうなんですか?」
……それって、海がいるかもしれないってこと?
そんな期待も抱きながら、あたしは千代子さんに従っていつものテーブルがある場所を目指す。ぐちゃぐちゃしていてとても歩きづらいので、自転車を引いていくのは早々にあきらめることにした。晴夏が知ったらがっかりするだろうな。赤いクロスバイクはスーパーバックパッカー千夏の相棒だから。
「こっちだったかしら……いや、違うわね」
めずらしく千代子さんが道に迷っている。そういえば、いつも千代子さんの周りを飛んで道案内をしているチョウがまだ姿を見せていない。どうしたんだろう……
その辺を飛んでいないかなと思って顔を上げたら、左前方に白い旗のようなものがはためいているのが見えた。
「千代子さん、あれ見てください」
「あら、何かしら……もしかして広場の目印?」
胸騒ぎを覚えつつ、旗のほうを目指して歩く。
近づくにつれ、旗の正体はテーブルクロスらしいとわかってきた。棒きれに結び付けられて、時々手を振るように揺れ動いている。間違いなく誰かが、いる。
紫陽花が途切れ、視界が開けた。
テーブルの上に座って、ステッキに結び付けた白い布を掲げている人がいる。
それは白い紳士服姿のおじいさんだった。あたしたちを見るとテーブルから降り、ステッキに布をくるくるっと巻きつた。そして、かぶっていた山高帽をひょいと持ち上げる。
「やあ、待たせたね」
千代子さんがハッと息をのみ、「あなた」とつぶやく。
えっ、あなた?
白い紳士はしっかりとした足取りでびしゃっと泥をはねながら近づいてくる。
千代子さんの振り上げられた両手がわなわなと震え、次にぎゅーっと固く握りしめられた。
「待たせたね、じゃないわよ! いきなり現れて、びっくりするじゃない」
「申し訳ない。本当はもっとロマンチックに登場するつもりだったんだが、緊急事態なもので。千夏さん、いつも家内がお世話になっています」
わあ、話しかけられた! なんかあたしの名前知ってるし。
「えっと、千代子さんの旦那さんですか?」
「いかにも」とうなずく白い紳士。
たしか千代子さんの旦那さんって、ずっと前に亡くなっていたはずだよね……
「その格好、どうしたの?」
「久しぶりの再会だから、このほうがいいと思ったんだよ。でも、せっかくの革靴が泥まみれになってしまった……いや、そんなことを言ってる場合じゃない。海くんの世界からこちらへ海水が流れこんできているんだ。いずれここも水没するだろう」
「海水? 地面がぬかるんでいるのは雨のせいじゃなくて、海の向こうの海水のせいなんですか?」
「そうだよお嬢さん。だから早く引き返したほうがいい」
「そんな、あたくしここがとても気に入っているのに」
千代子さんが悲痛な声を上げる。
「そうだね。君がこれほど私の絵を気に入ってくれるとは思わなかった。本当に描いてよかったよ。しかしどんなことにも終わりは来る。我々も次の段階に備えて変化していかなければ。わかってくれたかい?」
「あのう、海の向こうは今、どうなっているんですか?」
「おそらく、どこも水浸しだろうな。原因はあちら側の空間が徐々に縮んでいるせいじゃないかと考えている。それによって水位が上昇しているのだろう。実際のところは行ってみないとわからないが……」
「でもあたし、海を助けに行かないと。きっとまだどこかにいるんです」
「海くんはもうあそこにはいないよ」
白い紳士は帽子を深くかぶりなおした。
「黒い絵に吸い込まれたあと、どこにも存在が感じられなくなったそうだ」
「そんなこと、誰が言ったんですか? それに、なんで絵のことを……」
「海くんの世界を創った人だよ。誰かと聞かれるとよくわからないが、私は彼と交流があったんだ。その彼も、少し前に流星のごとく空の彼方へ消えていってしまったが……」
海の向こうに何かがいたような気はしていた。あたしのためにバスを運転してくれたり、気持ちのいい風を吹かせてくれたり、見守ってくれていた何かが。ひょっとして、海が近くにいるのかもしれないと思ってもいた。
「あなた、千夏ちゃんが混乱しているわ。あたくしもだけど」
「ああ、すまない。しかし、わざわざお嬢さんが危険を冒してあちら側に行く必要はないと伝えたかったんだ。きっと彼らもそんなことは望んでいない」
「でも、海の世界はどうなっちゃうんです? それに、あっちにいないなら、海はどこに行ったのか」
「さあ、それは私にもわからない」
「全部消えちゃうんですか?」
「……」
紳士は何も答えてくれない。
海の向こう。海がつらい現実から逃れるためにつくった場所。それがなくなるってことは、別に悪いことじゃないのかもしれない。もしもこのおじいさんの言っていることが本当で、海がすでに向こうにいないのだとしたら。
夢の中で見た、水の中でもがき苦しんでいる男の子の記憶がよみがえる。手を伸ばしたけれど、男の子は潮の流れに飲みこまれていく……
「あたし、行きます。海がいないなら、それでいい。確認して戻ってきます」
「いや、しかし」
「千夏ちゃん……」
「大丈夫。危ないと思ったらすぐに帰ってきますから」
心配そうな二人に、笑顔をつくって見せる。
頑固に、辛抱強く。
やがて、夫婦はため息をついた。
「荷物は邪魔になると思うから、置いていって。自転車と一緒に、外に運んでおくわ」
「ありがとう千代子さん!」
「仕方ない。これが最後だ。最短ルートで案内しよう」
「ありがとうございます、おじさん!」
あたしのわがままに付き合ってくれる人たちが、あたしは大好きだ。
待ってて、海。もう一度だけそっちに行くから。
「はい!」
千代子さんに絵の向こう側へ連れて行ってもらうのはもう何回目だっけ? この瞬間は毎回緊張するけれど、千代子さんと手をつないでいると不思議な安心感があって、実はちょっと癒されてもいる。今度来るときは何かお土産を持って来よう。
真っ白な境界を越えて紫陽花畑に降り立った瞬間、足元がいつもと違うぐにゅっとした感覚で、なんだか気持ち悪かった。千代子さんも「何かしら?」と怪訝そうに地面を見る。
土がぬかるんで、だいぶ軟らかくなっているようだった。
「雨でも降ったんですかね?」
「変ねえ。海ちゃんが天気の実験をしたとき以外、ここはずっと晴れていたけれど」
「そうなんですか?」
……それって、海がいるかもしれないってこと?
そんな期待も抱きながら、あたしは千代子さんに従っていつものテーブルがある場所を目指す。ぐちゃぐちゃしていてとても歩きづらいので、自転車を引いていくのは早々にあきらめることにした。晴夏が知ったらがっかりするだろうな。赤いクロスバイクはスーパーバックパッカー千夏の相棒だから。
「こっちだったかしら……いや、違うわね」
めずらしく千代子さんが道に迷っている。そういえば、いつも千代子さんの周りを飛んで道案内をしているチョウがまだ姿を見せていない。どうしたんだろう……
その辺を飛んでいないかなと思って顔を上げたら、左前方に白い旗のようなものがはためいているのが見えた。
「千代子さん、あれ見てください」
「あら、何かしら……もしかして広場の目印?」
胸騒ぎを覚えつつ、旗のほうを目指して歩く。
近づくにつれ、旗の正体はテーブルクロスらしいとわかってきた。棒きれに結び付けられて、時々手を振るように揺れ動いている。間違いなく誰かが、いる。
紫陽花が途切れ、視界が開けた。
テーブルの上に座って、ステッキに結び付けた白い布を掲げている人がいる。
それは白い紳士服姿のおじいさんだった。あたしたちを見るとテーブルから降り、ステッキに布をくるくるっと巻きつた。そして、かぶっていた山高帽をひょいと持ち上げる。
「やあ、待たせたね」
千代子さんがハッと息をのみ、「あなた」とつぶやく。
えっ、あなた?
白い紳士はしっかりとした足取りでびしゃっと泥をはねながら近づいてくる。
千代子さんの振り上げられた両手がわなわなと震え、次にぎゅーっと固く握りしめられた。
「待たせたね、じゃないわよ! いきなり現れて、びっくりするじゃない」
「申し訳ない。本当はもっとロマンチックに登場するつもりだったんだが、緊急事態なもので。千夏さん、いつも家内がお世話になっています」
わあ、話しかけられた! なんかあたしの名前知ってるし。
「えっと、千代子さんの旦那さんですか?」
「いかにも」とうなずく白い紳士。
たしか千代子さんの旦那さんって、ずっと前に亡くなっていたはずだよね……
「その格好、どうしたの?」
「久しぶりの再会だから、このほうがいいと思ったんだよ。でも、せっかくの革靴が泥まみれになってしまった……いや、そんなことを言ってる場合じゃない。海くんの世界からこちらへ海水が流れこんできているんだ。いずれここも水没するだろう」
「海水? 地面がぬかるんでいるのは雨のせいじゃなくて、海の向こうの海水のせいなんですか?」
「そうだよお嬢さん。だから早く引き返したほうがいい」
「そんな、あたくしここがとても気に入っているのに」
千代子さんが悲痛な声を上げる。
「そうだね。君がこれほど私の絵を気に入ってくれるとは思わなかった。本当に描いてよかったよ。しかしどんなことにも終わりは来る。我々も次の段階に備えて変化していかなければ。わかってくれたかい?」
「あのう、海の向こうは今、どうなっているんですか?」
「おそらく、どこも水浸しだろうな。原因はあちら側の空間が徐々に縮んでいるせいじゃないかと考えている。それによって水位が上昇しているのだろう。実際のところは行ってみないとわからないが……」
「でもあたし、海を助けに行かないと。きっとまだどこかにいるんです」
「海くんはもうあそこにはいないよ」
白い紳士は帽子を深くかぶりなおした。
「黒い絵に吸い込まれたあと、どこにも存在が感じられなくなったそうだ」
「そんなこと、誰が言ったんですか? それに、なんで絵のことを……」
「海くんの世界を創った人だよ。誰かと聞かれるとよくわからないが、私は彼と交流があったんだ。その彼も、少し前に流星のごとく空の彼方へ消えていってしまったが……」
海の向こうに何かがいたような気はしていた。あたしのためにバスを運転してくれたり、気持ちのいい風を吹かせてくれたり、見守ってくれていた何かが。ひょっとして、海が近くにいるのかもしれないと思ってもいた。
「あなた、千夏ちゃんが混乱しているわ。あたくしもだけど」
「ああ、すまない。しかし、わざわざお嬢さんが危険を冒してあちら側に行く必要はないと伝えたかったんだ。きっと彼らもそんなことは望んでいない」
「でも、海の世界はどうなっちゃうんです? それに、あっちにいないなら、海はどこに行ったのか」
「さあ、それは私にもわからない」
「全部消えちゃうんですか?」
「……」
紳士は何も答えてくれない。
海の向こう。海がつらい現実から逃れるためにつくった場所。それがなくなるってことは、別に悪いことじゃないのかもしれない。もしもこのおじいさんの言っていることが本当で、海がすでに向こうにいないのだとしたら。
夢の中で見た、水の中でもがき苦しんでいる男の子の記憶がよみがえる。手を伸ばしたけれど、男の子は潮の流れに飲みこまれていく……
「あたし、行きます。海がいないなら、それでいい。確認して戻ってきます」
「いや、しかし」
「千夏ちゃん……」
「大丈夫。危ないと思ったらすぐに帰ってきますから」
心配そうな二人に、笑顔をつくって見せる。
頑固に、辛抱強く。
やがて、夫婦はため息をついた。
「荷物は邪魔になると思うから、置いていって。自転車と一緒に、外に運んでおくわ」
「ありがとう千代子さん!」
「仕方ない。これが最後だ。最短ルートで案内しよう」
「ありがとうございます、おじさん!」
あたしのわがままに付き合ってくれる人たちが、あたしは大好きだ。
待ってて、海。もう一度だけそっちに行くから。
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