海の向こうの永遠の夏

文月みつか

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第2章 永遠の夏

35.さよなら

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「うわー、すごいな」

 道路は冠水、紫陽花屋敷も下のほうは水に浸かっていた。水の上をサンダルやらペットボトルがぷかぷかと漂っている。
 意を決して、水の中へと足を踏み入れる。歩きづらさはぬかるんだ地面の比じゃなかった。ばしゃばしゃと水をかき分けながら、滅びゆく街へと進んでいく。

 勇み足で来ちゃったけど、海を探すといっても何をどうしたらいいのかわからない。こんな状況だと、前みたいに目についたところから一軒一軒探すわけにもいかないし。とりあえず、高いところのほうがまだ水に浸かってなくて探しやすいかも。となると、公園のあたりか。

「あー、拡声器でも持ってくればよかったなあ。あたしが探すんじゃなくて、海があたしを見つけてくれたら楽なのに」

 元気を出すために大きめのひとりごとをつぶやく。あたしは、何のためにこんなことしてるんだろう。海はもういないって言われたのに。

 結局、ただの自己満足かもしれない。二度と会えないのかもしれないと思ったら、海との思い出があるこの世界を最後にもう一度だけ見ておきたいと思ってしまった。未練たらたらの情けない動機だ。もしも紫陽花屋敷で海と別れたときに戻れるのなら、殴ったりしないで、思いっきり抱きついておくんだった。あたし、海が好きなんだ。どうしようもないくらい、あの猫背が、ちょっとふてくされたような顔が、子どもみたいないたずらを仕掛けて笑っているところが、また見たいと思ってしまう。何食わぬ表情の下に隠してる、いろいろな感情や想いを引き出したいと思ってしまう。この気持ちはもう、どうにもならない。どうしたって消せない。この先、どんなことが待ってるとしても、あたしはこの気持ちを一生抱えて生きていくんだと思う。海がどう思うかはわからないけど、あたしはそうしたいと思ってる。飽きっぽくて、これといった特技のないあたしだけど、これだけは自信を持って言える。海は、あたしの中では永遠だ。

 公園に着いた。歩いてるうちにも水かさはどんどん増していたけれど、ここはまだ大丈夫。ベンチに座ると、海と初めて会ったときのことを思い出す。あたしは家出をしている途中で、海は会ったばかりのあたしの話をじっと聞いてくれていた。ちょっと変わっているけれどいい子だなと思った。それから、公園でよく遊んだ。

 ベンチに足をかけ、木に登る。成長したぶん手が届きやすくなったけど、昔よりも枝がたわむ。ここから下を見下ろすのが好きだった。おやつを食べながら、どうでもいいことを話したり、ただぼーっとしていることもあった。母さんに見つかりそうになって、慌てて海の向こうに移動したこともあったっけ。すごく懐かしい。

 海が座っていたのはこの辺だったなあと、位置を変えてみる。海は風呂敷でハンモックをつくったりもしてたなあ。

 ……ん? 木の幹に何か彫ってある。なになに?
 オレとちなつのばしょ だって。
 笑っちゃった。相合傘でも書いてあればかわいいなと思ったのに。小さい頃に彫ったのかな。

「懐かしいね、海」

 見渡せば、海が広がっている。もう島のほとんどは水没してしまった。可能性は低いけど、もしここに海が生きて存在しているのだとしたら、この海のどこかに浮いて漂っているかもしれない。もしかしたら、どこかに……

「おーい」

 えっ、今、声がしなかった?

「おーい!!」

 聞き間違いじゃない。男の人の声だ。
 海がいるのかもしれない。あたしは必死に目をこらす。

 いた! 三時の方向。今にも沈みそうになりながら海面に顔を出し、手を振っている。
「おーい!!」とあたしも大声で叫んで手を振る。
 残念ながら海ではなさそう。何か叫んでるみたいだけど、遠くてうまく聞き取れない。

 そうこうしているうちに、公園にも水が押し寄せてきた。どうしよう。紫陽花のとこまで泳いでたどり着けるかな。
 えーい、考えてる暇はない。あの人、溺れそうじゃん。助けなきゃ!

 木から飛び降り、公園を走り抜けて海水に飛びこむ。

 あの人もあたしに気づいて、泳いで近づいてきた。
 ええっ、泳げるの!? しかも、あたしより速いじゃん。

「千夏ちゃん!!」と男の人が叫んだ。あっ、この人、海岸に時々現れる人だ。
「セージさん?」
「海は生きてる! 今は僕のところにいる!」
「海が……生きてる?」
「こんなところで溺れてはだめだ。君は生きて海と会わなくちゃ。ただ、申し訳ないけど、僕には君をここから連れ出す力はないんだ」

 セージさんが、薄くなっていく。

「海からの伝言だ。公園で待ってる!」

 そうして、ふっと消えてしまった。

「待ってください、あたし、泳ぎはそこまで得意なわけじゃ……」

 もう、けっこう足が重い。でも、海が生きてるなら、死んでも生きて帰らなくちゃ。
 公園のほうに向きを変え、何とか水をかき分けていく。木につかまっていれば、多少休めるかも。
 バカだな。こんなことしないで忠告通りに引き返していればよかった。うっ、海水飲んじゃった。しょっぱ。服が重たい。

 やっとの思いで木にたどり着いた。もうだいぶ上のほうしか見えてないけど。この世の終わりって、こんな感じなのかな……あ、いやいや、あたしは生きて帰るんだった。ちょっと休んだら、泳いで紫陽花屋敷のほうへ向かおう。海水は紫陽花畑のほうへ流れているはずだから、流れに乗ればたぶん、きっと、千代子さんのところへ行けるはず。
 ああ、だめだ。もうこの木も沈んじゃう。海とあたしの場所がなくなっちゃう。

 手が離れる。流れに乗るつもりが、飲みこまれてしまった。上下がわからない。口と鼻から水が入ってくる。苦しい。息ができない……

 それなのに、あたしの心には海がいた。お願い、助けてって言ったら、しょうがねえなあって顔しながら、手を差し伸べてくれる海。やばい、これ、幻か。

 ざばーんと、腰のあたりを持ち上げられる。
 そのまま、どさりと固い床に投げ出された。

 げほげほと海水を吐き出す。うっ、この床、見たことある。海の果てを見に行こうとしたときに使ったクルーザーだ。

「まったく、すぐに帰ると言ったのに。とんだ無茶をするじゃないか」

 千代子さんの旦那さんが、やれやれとシャツの袖の水気をしぼった。

「せっかくの晴れ着が水浸しだ」
「あら、なかなかかっこいいわよ」と運転席から千代子さんの声がする。
「すみません、ちょっと人助けしようと思って」
「人助け? 助けられているのは君のほうだが……」

 その通りだった。謝ろうと思ったら、また海水が喉からせりあがってきた。

「あなた、無理させないで。千夏ちゃん、間に合ってよかったわ。もう安心して。あたくしたちが無事に送り届けるわ」
「千代子さん……」

 クルーザーは全速力で紫陽花畑の方角へと走った。
 ばあい、海の向こう。あたしは心の中でさよならをした。
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