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第2章 永遠の夏
36.海へ
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あたしを絵の外側に送り届けてから、千代子さんは絵の中に戻った。旦那さんと一緒に、別の出口へ向かうのだそうだ。とっても寂しいけれど、千代子さんが決めたことなら、あたしは反対できない。
「本当にありがとうございました。千代子さん、大好きです」
「あたくしもよ。海ちゃんと仲良くね」
涙でぐちゃぐちゃのあたしを、千代子さんは最後にぎゅうっと抱きしめてくれた。
紫陽花の絵の中は大洪水だったけれど、外から見るぶんには何も変わっていなかった。何事もなかったかのように、ただきれいな紫陽花が咲いている。なんか、千代子さんみたいだなあ。
涙を拭いて、千代子さんが運び出してくれたリュックを背負う。
海は生きてるとセージさんは言った。公園で待ってるって。
「よーし、行ってみよう!」
自転車を担いで外に出る。もう夜になりかけていた。今から行っても海はいないかもしれない。それでもいいや。なんか今、ものすごく自転車を飛ばしたい気分。
リリーンとベルを鳴らし、さっそうと現実世界へ繰り出す。風を切って、誰にも追いつけない速さで走る、走る。海のいる世界へ。海と、あたしの場所へ。時間も、空間も飛び越えていく。
……ちょっと飛ばしすぎちゃった。水にもまれた疲労もまだ残っていたもので、最後のほうは息切れして、自転車を押して歩いた。これだけ必死こいて、誰もいなかったら笑っちゃうね。
笑っちゃうね……。いないだろうと思ったのに。
公園の木の下のベンチに腰掛け、じっとこっちを見ている男の子がいる。やせっぽちで、くせ毛で、お化けでも見ちゃったみたいなぽかんとした顔をしている。
自転車を停め、隣に座る。
「こんな時間に公園にいるなんて、家出でもしたの?」
「待ち合わせしてるんだよ。でも、いつ来るかわからないから。青司が時間を指定しなかったせいで、こんなことになってるんだ」
「お父さんのこと、名前で呼んでるの?」
「今さらお父さんなんて呼べるかよ」
「喜ぶんじゃない?」
「ほっとけ。っていうか、もっとほかに言うことあるだろ」
「えー、なんだろう。いっぱいありすぎて、わかんない!」
「だったら、俺から言う」
海が真っすぐにあたしの目を見る。
「ま、待って。まだ、心の準備が……」
「生きててよかった」
なんだ、そっちか!
でもたしかに、その通りだ。
「うん、生きててよかった」
汐里がやっていたのを思い出して、あたしは海の肩にこつんと頭を乗せた。
「……言ってなかったんだけど、すぐそこの車で青司が待機してる」
「ええーっ、早く言ってよ」
あたしはびしっと姿勢を正した。
公園の外に、黒いワゴン車が停まっていた。こっちがよく見える角度で。
「まだ本調子じゃなくてさ。遠出はできないんだ。正直、千夏の頭が鉄球みたいに感じた」
「ひどっ。もう二度とやらない。海のばか」
ばしっと肩を小突いたら、海が思ったより大きく傾いた。本調子じゃないのは本当みたい。
「……大丈夫?」
「うん」と必死に耐えている顔の海。
「ごめん、そんなに強くしたつもりじゃないんだけど。え、泣いてる?」
「うん。いてぇ」
海は泣きながら笑っていた。あたしもつられて笑う。
静かな夜の公園に、泣き声と笑い声が響き渡った。
暦の上では季節は秋。でもまだまだ残暑で、秋だと言われてもピンと来ない。
今日は土曜日。青司さんの車で、みんなと海に向かっている。みんなっていうのは、あたしと、海と、青司さんと、海のおばあちゃんの洋子さん。この人、なんとなく千代子さんに似ているだよなあ。それから晴夏と、なぜか万里まで一緒だ。仕事が忙しいって言ってたくせに。
「こんなに大勢で出かけるなんて、わくわくするね」
「晴夏ちゃん、かわいいこと言うね。千夏と海のデートについてくなんて野暮かなあと思ったけど、来てよかった。こんな晴れた日に海水浴なんて最高!」
「本当に、いいお天気ねえ。いけない、日焼け止めを持ってくるの忘れちゃったわ」
「私、持ってますよ。使ってください」
「ありがとう晴夏ちゃん。なんだか急に孫が増えたみたいで楽しいわね」
「海の声が聞こえないけど、寝てるのかな?」
「違いますよ青司さん。むっつりしています。千夏の隣の席を譲ったら、照れてむっつりしているんです」
「ああ、そうだったのか」
「違う! 寝不足なんだよ。勝手なこと言わないでくれ」
「へえ、楽しみすぎて眠れなかったの? 遠足前の小学生みたいだね」
海がうんざりした顔であたしを見る。
「ああ、やっぱり助手席にすればよかった」
「のろけてるな」
「どこがだよ」
「そうだよ、どこが?」
トンネルに入り、急に外が暗くなる。もう何度も通ったことがあるから、この先の景色はよく知っている。本物を見るのは、初めてだけど。
「あ、海だ」
晴夏が歓声を上げる。みんなも、窓の外を見る。
その瞬間を、海は逃さなかった。
「……えっ?」
「きれいだな、海」
「どうしたの千夏? ぼーっとしちゃって」
「お姉ちゃん?」
「うーん、ちょっと酔ったかもしれない」
「あら、大丈夫? 少し止まって休みましょうか」
「いえ、大丈夫です、あはは……」
「なぁんか怪しい……」
どうしてくれるの海! 万里がすごい目で睨んでるんですけど。
海はしれっとした顔で、ずっと窓の外を見ている。
長いあいだ止まったままだと思っていた季節が今、動き出した。
(おわり)
「本当にありがとうございました。千代子さん、大好きです」
「あたくしもよ。海ちゃんと仲良くね」
涙でぐちゃぐちゃのあたしを、千代子さんは最後にぎゅうっと抱きしめてくれた。
紫陽花の絵の中は大洪水だったけれど、外から見るぶんには何も変わっていなかった。何事もなかったかのように、ただきれいな紫陽花が咲いている。なんか、千代子さんみたいだなあ。
涙を拭いて、千代子さんが運び出してくれたリュックを背負う。
海は生きてるとセージさんは言った。公園で待ってるって。
「よーし、行ってみよう!」
自転車を担いで外に出る。もう夜になりかけていた。今から行っても海はいないかもしれない。それでもいいや。なんか今、ものすごく自転車を飛ばしたい気分。
リリーンとベルを鳴らし、さっそうと現実世界へ繰り出す。風を切って、誰にも追いつけない速さで走る、走る。海のいる世界へ。海と、あたしの場所へ。時間も、空間も飛び越えていく。
……ちょっと飛ばしすぎちゃった。水にもまれた疲労もまだ残っていたもので、最後のほうは息切れして、自転車を押して歩いた。これだけ必死こいて、誰もいなかったら笑っちゃうね。
笑っちゃうね……。いないだろうと思ったのに。
公園の木の下のベンチに腰掛け、じっとこっちを見ている男の子がいる。やせっぽちで、くせ毛で、お化けでも見ちゃったみたいなぽかんとした顔をしている。
自転車を停め、隣に座る。
「こんな時間に公園にいるなんて、家出でもしたの?」
「待ち合わせしてるんだよ。でも、いつ来るかわからないから。青司が時間を指定しなかったせいで、こんなことになってるんだ」
「お父さんのこと、名前で呼んでるの?」
「今さらお父さんなんて呼べるかよ」
「喜ぶんじゃない?」
「ほっとけ。っていうか、もっとほかに言うことあるだろ」
「えー、なんだろう。いっぱいありすぎて、わかんない!」
「だったら、俺から言う」
海が真っすぐにあたしの目を見る。
「ま、待って。まだ、心の準備が……」
「生きててよかった」
なんだ、そっちか!
でもたしかに、その通りだ。
「うん、生きててよかった」
汐里がやっていたのを思い出して、あたしは海の肩にこつんと頭を乗せた。
「……言ってなかったんだけど、すぐそこの車で青司が待機してる」
「ええーっ、早く言ってよ」
あたしはびしっと姿勢を正した。
公園の外に、黒いワゴン車が停まっていた。こっちがよく見える角度で。
「まだ本調子じゃなくてさ。遠出はできないんだ。正直、千夏の頭が鉄球みたいに感じた」
「ひどっ。もう二度とやらない。海のばか」
ばしっと肩を小突いたら、海が思ったより大きく傾いた。本調子じゃないのは本当みたい。
「……大丈夫?」
「うん」と必死に耐えている顔の海。
「ごめん、そんなに強くしたつもりじゃないんだけど。え、泣いてる?」
「うん。いてぇ」
海は泣きながら笑っていた。あたしもつられて笑う。
静かな夜の公園に、泣き声と笑い声が響き渡った。
暦の上では季節は秋。でもまだまだ残暑で、秋だと言われてもピンと来ない。
今日は土曜日。青司さんの車で、みんなと海に向かっている。みんなっていうのは、あたしと、海と、青司さんと、海のおばあちゃんの洋子さん。この人、なんとなく千代子さんに似ているだよなあ。それから晴夏と、なぜか万里まで一緒だ。仕事が忙しいって言ってたくせに。
「こんなに大勢で出かけるなんて、わくわくするね」
「晴夏ちゃん、かわいいこと言うね。千夏と海のデートについてくなんて野暮かなあと思ったけど、来てよかった。こんな晴れた日に海水浴なんて最高!」
「本当に、いいお天気ねえ。いけない、日焼け止めを持ってくるの忘れちゃったわ」
「私、持ってますよ。使ってください」
「ありがとう晴夏ちゃん。なんだか急に孫が増えたみたいで楽しいわね」
「海の声が聞こえないけど、寝てるのかな?」
「違いますよ青司さん。むっつりしています。千夏の隣の席を譲ったら、照れてむっつりしているんです」
「ああ、そうだったのか」
「違う! 寝不足なんだよ。勝手なこと言わないでくれ」
「へえ、楽しみすぎて眠れなかったの? 遠足前の小学生みたいだね」
海がうんざりした顔であたしを見る。
「ああ、やっぱり助手席にすればよかった」
「のろけてるな」
「どこがだよ」
「そうだよ、どこが?」
トンネルに入り、急に外が暗くなる。もう何度も通ったことがあるから、この先の景色はよく知っている。本物を見るのは、初めてだけど。
「あ、海だ」
晴夏が歓声を上げる。みんなも、窓の外を見る。
その瞬間を、海は逃さなかった。
「……えっ?」
「きれいだな、海」
「どうしたの千夏? ぼーっとしちゃって」
「お姉ちゃん?」
「うーん、ちょっと酔ったかもしれない」
「あら、大丈夫? 少し止まって休みましょうか」
「いえ、大丈夫です、あはは……」
「なぁんか怪しい……」
どうしてくれるの海! 万里がすごい目で睨んでるんですけど。
海はしれっとした顔で、ずっと窓の外を見ている。
長いあいだ止まったままだと思っていた季節が今、動き出した。
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