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春の夜のさくら餅
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散歩コースに桜の老木がある。
この街に来てから、花がつくのを見たことがないその木。今年こそ花が見られるだろうか、そう思って見上げていると、近所の人に話しかけられた。話によれば木はそろそろ寿命を迎えるかもしれないのだということだった。
何にだって必ず終わりはあるとわかってはいるものの、そこはかとなく寂しい気持ちになる。
春の夜の感傷だろうか……。
ある夜。
ちょうど桜のところを通りがかったタイミングで、わたしは目を疑う光景を目にした。
先日までつぼみさえついていなかったはずの桜が、満開の花を咲かせているのだ。
思わず、足を止めて目をこすった。
「……ほ、ほんとに? 夢じゃなくて?」
その時。
強い風が吹くのに合わせて、美しい花びらが舞い散った。
そこでわたしは桜の木の下にいつの間にか人影があるのに気づいたのだ。
「よう、ポチ公」
「……ジンさん」
「答えは、決まったかぁ?」
のんきな口調でにやにや笑いを浮かべながら、彼はわたしに尋ねてきた。
初めて会った時のような、普通とは言えない、不思議な気配を帯びている。それは幻想的な夜桜のせいだけではないはずだ。
「叶えてやるって言ったの、忘れちゃいねえよな」
「もちろん、覚えてますけど……!」
彼は木を見上げて大仰に手を広げながら続ける。
「『さいごにもう一度咲きたい』」
「……?」
「たとえばそういう願いでも、この通りさ。ましてや人間の願いなんて、そう難しくもない」
「あっ……」
「聞き届けてやるぞ?お前の願いも」
そう言うジンさんの目は、なんだか……底知れない谷や、深い深い水底を見ているようで……わたしははっきりとぞっとするのを感じたのだった。
親しみやすい口調だけれど、あまりにも確かな隔たりを感じるようで。
「ジンさん、わたし……」
桜の花びらがいっそう舞い散る。
彼は、答えがわかっていますとばかりに、笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「わたしは……」
わたしは……。
ザァザァと桜の木の枝が鳴く。
また風が通った後に、思わぬ人物がすぐ傍らにいたことに気付かされる。
手嶌さんだった。
「……」
珍しく何も言わずにわたしに目礼して、彼はジンさんを睨むように見た。すかさずジンさんが牽制する。
「叶芽。横槍はなしだぜ」
「言われずとも」
「選ぶのは人間自身です、か」
愉快そうに笑って、ジンさん。
「その割に過保護が板についてらぁな」
「ちょっかいを出す疫病神がいるからですよ」
「こんなにありがたい男に疫病神とは言うね」
また初めに会った頃のような、緊迫感を覚えるやり取り。
まるで自分たちは人間の枠から外れているような話だけれど、もうこの際どんな不思議があっても不思議じゃない気がしてきた。
しばらく睨み合っていた二人の瞳が、わたしを映す。
さあ答えは?と言わんがばかりに。手嶌さんが少しだけ微笑んだ気がした。
そうなんです、わたしは――。
「わたし、今度の願いごとは自分で叶えます。だから、大丈夫です、ジンさん」
ぴたりと、風が止んだ。
はらりと、花びらが散った。
ジンさんの笑みが意外そうな表情へと変わる。
「……良いのか?」
「良いんです」
「お前の慣れ親しんだ場所から、不慣れな所へ飛ばされて、知らない奴らのもとで酷い目に合うかもしれないぜ?」
「それでも良いんです。わたし、……」
わたしは。
「まれぼし菓子店や、お店と繋がってる人と出会って……大変な日々でも乗り越えていく勇気をもらいました」
「……」
「手嶌さんや星原さん、木森さん。お客さんたちに……ジンさんにだって」
「俺にもか」
「あなたにもです。それで、成長できたから。ううん、これからも成長し続けていきますから!だから大丈夫です」
ジンさんは面食らったような、苦虫を噛み潰したような顔をして……。
その後でわたしの頭をわしゃわしゃとなでまわした。
「こんの……ポチ公め。言いよるわ」
「わぷっ」
「……つまらん!」
「『だが、それが面白い』でしょう」
先回りして手嶌さんに言われて、ジンさんの仏頂面が深くなる。
「ちッ。つまらん、帰るぞ……そのさくら餅をよこせ、叶芽」
「どうぞ」
「後悔するなよ、ポチ公」
「大丈夫です!」
笑顔で応えると、ジンさんは特大の苦虫を噛み潰したような顔をする。
もう一度大きく風が吹いた。
桜吹雪が舞い上がり、辺りを包んだかと思うと、もうそこにジンさんの姿はなかった。
あとにはわたしと手嶌さんが残された。
「……怒らせちゃったかな」
「何、形だけです。逆に面白がっているくらいのものですよ」
「だと、いいんですけど……」
「それより、」
と、言いさして手嶌さん。
桜を見上げて、その後でわたしを見る。
「この桜の晴れ姿を見届けてあげてくれませんか」
「ジンさんの言ってたこと、やっぱり本当なんですか?」
「ええ。願い事を叶えるには、代償がつきものですから。この桜の木の生命は、今年こそ本当に尽きるのでしょう。でもそれもまた……」
この木が選んだことですから、と言外に聞こえた気がした。
「お花見ですね。良かったら手嶌さんも一緒に」
「そう仰ってくださると思って、私たちの分も用意してあるんです」
手嶌さんがジンさんに渡さなかった方の包みを開けると、そこにはさくら餅……道明寺の姿があった。
「わあ……! 嬉しい。なんだか、前にうぐいす餅を一緒に頂いた時のことを思い出します」
「奇遇ですね、私もその時のことを思い出していました」
いつもの笑顔といつもの雰囲気に戻った手嶌さんの物腰は、どこまでも柔らかい。
このどこかつかみどころのない不思議な人にも、すっかり慣れ親しんだなあ、と思う。
用意してもらった煎茶も受け取って、桜の木の下に陣取り、さくら餅を頂きます、する。
ぱくりとひと口、口に含めば、もっちりつぶつぶとした食感がまずやってきて、そこからこしあんの甘みが広がる。
葉っぱごと食べるのは邪道という話もあるけれど、今回はなんだかそうしたくて、塩漬けの葉っぱも食べることにした。ぷつりと葉脈を噛み切ると、塩っぱくて、桜の木の涙を頂いているみたいな気持ちになる。
塩っぱさとの間により引き立つ、上品な甘さ。
春、噛み締めている感じがする。
「“霞む春の夢”さくら餅です」
「美味しいです。さくら餅も、この時間も」
「何よりです、ありがとうございます」
桜の木は、自分の選択を悔いてはいないだろう。
わたしが、自分の選択を悔いていないように。
はらり、はらり。
絶え間なく。桜の花びらは滔々と散っている。
夢のような夜桜の幻想的な時間、でも夢じゃない。
今年の春がすぎても、わたしはきっとこの桜の木とその下で過ごした時間のことを覚えているだろう。次の年も、またずっと先になっても。
この街に来てから、花がつくのを見たことがないその木。今年こそ花が見られるだろうか、そう思って見上げていると、近所の人に話しかけられた。話によれば木はそろそろ寿命を迎えるかもしれないのだということだった。
何にだって必ず終わりはあるとわかってはいるものの、そこはかとなく寂しい気持ちになる。
春の夜の感傷だろうか……。
ある夜。
ちょうど桜のところを通りがかったタイミングで、わたしは目を疑う光景を目にした。
先日までつぼみさえついていなかったはずの桜が、満開の花を咲かせているのだ。
思わず、足を止めて目をこすった。
「……ほ、ほんとに? 夢じゃなくて?」
その時。
強い風が吹くのに合わせて、美しい花びらが舞い散った。
そこでわたしは桜の木の下にいつの間にか人影があるのに気づいたのだ。
「よう、ポチ公」
「……ジンさん」
「答えは、決まったかぁ?」
のんきな口調でにやにや笑いを浮かべながら、彼はわたしに尋ねてきた。
初めて会った時のような、普通とは言えない、不思議な気配を帯びている。それは幻想的な夜桜のせいだけではないはずだ。
「叶えてやるって言ったの、忘れちゃいねえよな」
「もちろん、覚えてますけど……!」
彼は木を見上げて大仰に手を広げながら続ける。
「『さいごにもう一度咲きたい』」
「……?」
「たとえばそういう願いでも、この通りさ。ましてや人間の願いなんて、そう難しくもない」
「あっ……」
「聞き届けてやるぞ?お前の願いも」
そう言うジンさんの目は、なんだか……底知れない谷や、深い深い水底を見ているようで……わたしははっきりとぞっとするのを感じたのだった。
親しみやすい口調だけれど、あまりにも確かな隔たりを感じるようで。
「ジンさん、わたし……」
桜の花びらがいっそう舞い散る。
彼は、答えがわかっていますとばかりに、笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「わたしは……」
わたしは……。
ザァザァと桜の木の枝が鳴く。
また風が通った後に、思わぬ人物がすぐ傍らにいたことに気付かされる。
手嶌さんだった。
「……」
珍しく何も言わずにわたしに目礼して、彼はジンさんを睨むように見た。すかさずジンさんが牽制する。
「叶芽。横槍はなしだぜ」
「言われずとも」
「選ぶのは人間自身です、か」
愉快そうに笑って、ジンさん。
「その割に過保護が板についてらぁな」
「ちょっかいを出す疫病神がいるからですよ」
「こんなにありがたい男に疫病神とは言うね」
また初めに会った頃のような、緊迫感を覚えるやり取り。
まるで自分たちは人間の枠から外れているような話だけれど、もうこの際どんな不思議があっても不思議じゃない気がしてきた。
しばらく睨み合っていた二人の瞳が、わたしを映す。
さあ答えは?と言わんがばかりに。手嶌さんが少しだけ微笑んだ気がした。
そうなんです、わたしは――。
「わたし、今度の願いごとは自分で叶えます。だから、大丈夫です、ジンさん」
ぴたりと、風が止んだ。
はらりと、花びらが散った。
ジンさんの笑みが意外そうな表情へと変わる。
「……良いのか?」
「良いんです」
「お前の慣れ親しんだ場所から、不慣れな所へ飛ばされて、知らない奴らのもとで酷い目に合うかもしれないぜ?」
「それでも良いんです。わたし、……」
わたしは。
「まれぼし菓子店や、お店と繋がってる人と出会って……大変な日々でも乗り越えていく勇気をもらいました」
「……」
「手嶌さんや星原さん、木森さん。お客さんたちに……ジンさんにだって」
「俺にもか」
「あなたにもです。それで、成長できたから。ううん、これからも成長し続けていきますから!だから大丈夫です」
ジンさんは面食らったような、苦虫を噛み潰したような顔をして……。
その後でわたしの頭をわしゃわしゃとなでまわした。
「こんの……ポチ公め。言いよるわ」
「わぷっ」
「……つまらん!」
「『だが、それが面白い』でしょう」
先回りして手嶌さんに言われて、ジンさんの仏頂面が深くなる。
「ちッ。つまらん、帰るぞ……そのさくら餅をよこせ、叶芽」
「どうぞ」
「後悔するなよ、ポチ公」
「大丈夫です!」
笑顔で応えると、ジンさんは特大の苦虫を噛み潰したような顔をする。
もう一度大きく風が吹いた。
桜吹雪が舞い上がり、辺りを包んだかと思うと、もうそこにジンさんの姿はなかった。
あとにはわたしと手嶌さんが残された。
「……怒らせちゃったかな」
「何、形だけです。逆に面白がっているくらいのものですよ」
「だと、いいんですけど……」
「それより、」
と、言いさして手嶌さん。
桜を見上げて、その後でわたしを見る。
「この桜の晴れ姿を見届けてあげてくれませんか」
「ジンさんの言ってたこと、やっぱり本当なんですか?」
「ええ。願い事を叶えるには、代償がつきものですから。この桜の木の生命は、今年こそ本当に尽きるのでしょう。でもそれもまた……」
この木が選んだことですから、と言外に聞こえた気がした。
「お花見ですね。良かったら手嶌さんも一緒に」
「そう仰ってくださると思って、私たちの分も用意してあるんです」
手嶌さんがジンさんに渡さなかった方の包みを開けると、そこにはさくら餅……道明寺の姿があった。
「わあ……! 嬉しい。なんだか、前にうぐいす餅を一緒に頂いた時のことを思い出します」
「奇遇ですね、私もその時のことを思い出していました」
いつもの笑顔といつもの雰囲気に戻った手嶌さんの物腰は、どこまでも柔らかい。
このどこかつかみどころのない不思議な人にも、すっかり慣れ親しんだなあ、と思う。
用意してもらった煎茶も受け取って、桜の木の下に陣取り、さくら餅を頂きます、する。
ぱくりとひと口、口に含めば、もっちりつぶつぶとした食感がまずやってきて、そこからこしあんの甘みが広がる。
葉っぱごと食べるのは邪道という話もあるけれど、今回はなんだかそうしたくて、塩漬けの葉っぱも食べることにした。ぷつりと葉脈を噛み切ると、塩っぱくて、桜の木の涙を頂いているみたいな気持ちになる。
塩っぱさとの間により引き立つ、上品な甘さ。
春、噛み締めている感じがする。
「“霞む春の夢”さくら餅です」
「美味しいです。さくら餅も、この時間も」
「何よりです、ありがとうございます」
桜の木は、自分の選択を悔いてはいないだろう。
わたしが、自分の選択を悔いていないように。
はらり、はらり。
絶え間なく。桜の花びらは滔々と散っている。
夢のような夜桜の幻想的な時間、でも夢じゃない。
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