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2章 フィリスは何も知らない

2-1 フィリスは魔王城を知らない

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 広い廊下に窓から光が射す。それは天から降り注ぐ光。外を見れば瘴気の壁が高く聳え立っており、自然の風景など何も見えない。黒一色の眺めに、ここは確かに魔王城なのだとフィリスは改めて思う。

(……さて、どこへ行こうかしら)

 朝食をシルヴァンと共にしたフィリスは「お前側の婚礼の儀の支度についてはリサに任せた」と言われた。リサに尋ねたところ「美しくなることが今できる一番の準備ですう」と言われ、結果的に昼間っから自由時間を得てしまった。
 普段なら魔獣の討伐に繰り出している時間帯だ。今だって仲間達は魔獣と戦っていると思うと、有意義なことをしなければならない気持ちになる。
 そこでフィリスは、何かヒントを探そうと城内をうろついていた。シルヴァンが好きなものを探すのだ。仲間達のためにフィリスができることは、いつかシルヴァンに終戦を訴えかけるために、彼への愛を証明することなのだから。
 当てもなく歩いていると、気づけば昨日歩いた道を進んでいた。階段を降り、広々とした玄関ホールに出る。ここは天窓が大きく開いており、燦々と陽が降り注ぐのだ。

(出ようと思えば出られるんじゃ……)

 正面の扉を見たフィリスの頭にそんな考えがふと過ぎった。もちろん、過ぎっただけである。外に出たとして、そこからが困る。逃げ出したという時点で、フィリスが訴えた魔王への愛は嘘だと知れてしまう。瘴気の壁の中を闇雲に進んでいるうちに見つかるかもしれないし、例え上手く逃げおおせたとしても、フィリスは戦場から離れることはできない。いずれにせよ待つのは死。ペンダントを預けてしまった以上、死んだらそこで終わりなのだから危険は冒せない。

「おや、お嬢さんではありませんか」
「……あっ、こんにちは、ディルさん」

 不意に声を掛けられたフィリスは、肩をびくりと跳ねさせてから振り向く。そこに居たのは、料理人のディルであった。朝食を配膳してくれた時と同じ白衣を着て張った頬をぷくりと膨らませ、焼きたてのパンのような笑顔をしている。
 戦場で鍛えた注意力で人の気配には敏感なはずのフィリスだが、この人の気配には全く気付けない。人の良さそうな笑顔を浮かべているが、実はなかなかの実力者なのではないかと踏んでいる。

「迷子ですかな、お嬢さん」
「いえ……ちょっと散歩を」
「ははっ、わかっておりますよ。散歩ならば、外の空気を吸いたくはありませんか? ぼくはホールだけでなく、中庭にも畑を持っているのですよ。ご覧になりませんか」
「ええと……ぜひ」

 逡巡の後、フィリスは頷く。
 考えてみれば、断る理由はなかった。フィリスのことをお嬢さんと呼ぶディルは、シルヴァンのことを「坊ちゃん」と呼んでいた。威厳たっぷりのシルヴァンが坊ちゃん呼びされているのは些か不釣り合いに感じたが、つまりディルはシルヴァンに「坊ちゃん」が似合うほど幼い頃から、共に過ごしていたと推測できる。

「シルヴァン様のお好きなものって、ディルさんは何かご存知ですか?」
「お好きなもの? それはもう、たくさん知っておりますよ」
「教えて頂けますか。シルヴァン様に、何か好きなものを贈りたいんです。喜んだ顔を見たくって」
「ははっ、お嬢さんは見る目がありますね。この城の中で、その質問に最も良く答えられるのはぼくかもしれません。……おっと、こんなことを言ったらグレアムくんに怒られてしまいますね」

 中庭への移動中、早速聞いてみたフィリスに返ってきたのは、期待以上の答えであった。

「お教えしますよ。中庭にたくさんありますから。……ここです」

 玄関ホールから階段下の通路に抜けた先に扉があった。ディルが押し開けた途端、光が溢れ出てくる。一瞬目が眩んだあと、目の前に緑が広がった。

「わあ、すごい……!」

 心からの感嘆である。
 中庭とは名ばかりで、そこは立派な菜園であった。整備された畑の間を慣れた足取りで進むディルの後を、うっかりよろけて植物を踏んでしまわないよう、注意を払って進む。

「坊ちゃんの好物と言えば、まずこれですね」

 ディルは徐に屈み込み、もいだものをフィリスに見せる。赤くてころんとした、瑞々しい果実。

「……ノルベリー、ですか?」
「惜しい。ノルベリーは野生の果実ですが、これは食用に研究されたマルベリーです」
「へえ……」
「味が段違いに良いですよ。どうぞ、召し上がってみてください」

 受け取ったマルベリーを、フィリスは手のひらで転がしてみる。丸みを帯びた形は、ノルベリーによく似ている。生命力の強いノルベリーは夜営場の近くにも生えていたので、夜番の口慰みに摘んで食べていたのだ。
 光を浴びて赤々と輝く色合いは、確かにノルベリーよりもはっきりしているように感じた。それに重みも。小さいながらにずっしりとし、中身が詰まっている感じがする。
 粒をそのまま、口に放り込んでみる。ぷつ、と皮を噛み切る感触のあと、口内にじゅわっと果汁が溢れ出した。溢れそうな勢いに驚き、口元を押さえながら飲み込む。甘い。濃厚な甘さの後、鼻からほんのりと酸味が抜けた。

「え……おいしい……!」
「ノルベリーとは違いますでしょう」
「はい……びっくりしました」

 ノルベリーは酸味が強い上に、細かな種がたくさん入っていて噛むとほんのり渋い。マルベリーにも確かに種はあるようだが、歯の間をぷちぷち楽しく転がるだけで、何の味もしなかった。

「このマルベリーをジャムにして出すと、坊ちゃんは喜ぶんですよ。朝食にもお出ししましたが、嬉しそうに食べておられたでしょう」
「……あっ、パンケーキに付いていたジャムですね」
「はい、左様です」
「確かにシルヴァン様、パンケーキを食べながらちょっと笑ってましたよね。何かあったのかと思っていましたが……ふふっ、好きなものが出たから嬉しかったんだ」

 フィリスは、朝食時の光景を思い出す。大きなテーブルの対面に座るシルヴァンは、パンケーキを食べながら目尻を少し垂らし、口元を緩め微笑していた。威厳たっぷりな彼の珍しい表情を不思議に思いはしたものの、理由はわからなかったし、パンケーキが美味しすぎてすっかり忘れていた。
 好物が出ると喜ぶなんて、素直な一面に親近感を覚える。フィリスは微笑ましい気持ちになりながら、小さな木に実るマルベリーの実を眺めた。

「これ……私が少し頂いて、ジャムを作っても構わないでしょうか」
「ええ、ええ、勿論です。いいじゃありませんか、お嬢さんが坊ちゃんのために作ったジャムだなんて、それだけで食卓の目玉になりますよ」

 ディルが大きく何度も頷くと、顎下の肉がふるんと震える。揺れる肉を支えるように顎下に指先を添えたディルは、くるんとした瞳を楽しげにきらめかせ、フィリスの顔を覗き込んできた。

「ですが……どうでしょう? 折角ですから、出来上がったジャムを使ってスイーツを作るというのは」
「スイーツ?」
「甘味のことですよ。坊ちゃんは執務の際に甘いものを召し上がるんです。多めに作って差し入れしましょう、そうすれば……」
「そうすれば?」

 ぱちん、とウィンクが返ってくる。ディルはマルベリーの傍へ屈み、熟した赤い実を選んで摘み始めた。

「執務中もお嬢さんのことを思い出してもらえますよ。愛する人には、自分のことを片時も忘れてほしくないものでしょう」
「……! はいっ、そうですね」

 愛にはそういう感情も伴うのか、と内心思いつつフィリスはディルの隣へしゃがむ。ノルベリーと同じで、皮を少し押すと弾力があるのが熟したしるしらしい。摘んだマルベリーを、ディルが持ってきた籠へ入れていく。

「マルベリーはこれで良いでしょう。……ああ、お嬢さんは一旦戻って、リサちゃんにエプロンを探してもらってください。ライラちゃんが買ってきたものが、どこかにあるはずですから」
「エプロンを?」
「マルベリーの加工は赤い汁が飛びますからね。その可愛らしいドレスが万が一汚れてしまったらライラちゃんに怒られます。その趣味、あの子の服でしょう」
「あ……わかりました」

 フィリスが今日着ているのは、リサが選んでくれた水色のドレスである。肌触りの良い高そうな生地なので恐縮したが、「ライラ様はフィリス様に着てもらったら喜びますからあ」と笑顔で押し切られたのだ。

「ぼくは夕食の材料を収穫してから厨房に向かいます。そこで合流しましょう」
「はい、わかりました」
「では、また後ほど」

***

「ーーということで、エプロンをお借りしに来たんです」
「ありますよお、たっくさん。ライラ様ったら料理しないのに、形が好きだからってエプロンをたくさん買ってくるんですう。……これなんてどうですかあ。ふふっ、かわいーい」
「すごい、ふりふり……」
「エプロンはふりふりが好きなんですってえ。今日の服に似合いますよ、フィリス様。綺麗な色合いですう」

 着せられたのは淡い黄緑色のエプロンであった。胸から下を覆う綺麗な布の縁には、たっぷりとしたフリルが縫い止められている。ひらひらふりふり。幼い頃はこんな可愛らしい服を着たいと思ったこともあった、などと思い出す。
 可愛いものを着る喜び、綺麗になる喜びは、この2日ですっかりフィリスの中に刷り込まれてしまった。

「厨房に行くなら、ガブによろしく言っといてくださあい。あたし、最近構いにいけていないんですー」
「ガブ?」
「行ったらわかりますよお。ガブは見るからにガブなのでー。がぶがぶするからガブなんですう」
「……わかりました、行って聞いてみますね」
「はーい、いってらっしゃいませー」

 リサに見送られ、エプロンのフリルを揺らしながら厨房へ向かう。厨房の位置はもう知っている。食堂の壁に扉があるのだ。広い食堂の中には誰もおらず、朝食の残り香がふんわり漂っていた。

「ああ、ちょうど良いところへ。……お似合いですよ、お嬢さん」
「ありがとうございます、ディルさん……ああ、持ちますよっ」
「大丈夫ですよ、ご心配なく」

 例の如く音もなく現れたディルは、両肩に大きな籠を乗せている。そこには食材がこんもりと載っていた。振り向いた背中にも籠を背負っているので驚いて声をかけたが、全く苦ではなさそうな笑顔で断ると、器用に扉を開ける。

「どうぞお入りください。……皆さん、厨房の端をこの方にお貸しすることにしました。坊ちゃんの奥様になられる方ですよ……噂の」
「失礼します……こ、こんにちは」
「こんにちはー!」
「角ないじゃん! マジで人間なんだ! すっげえ!」
「聖女なんだってよ! あのピンクの髪、聖女のやつなんだって!」
「わあ……」

 フィリスが挨拶するなり、厨房のあちこちから元気の良い声が飛んでくる。圧倒されて少しのけぞるフィリスの前に、ぴょこんと子供が顔を出した。青い髪から覗く一本角。この子も魔人らしい。

「なあなあ、なんで人間が魔王サマと結婚すんの?」

 その隣に、またぴょこんと顔を出す。緑の髪の少年は、青髪の彼より顔立ちがはっきりしている。少し年上のようだ。

「人間はもう魔王サマとキスしたんすか? うわっ!」

 ぐい、と二人の体が後ろへ引かれる。尻餅をつく少年達の後ろで、腕組みをする少女が目尻を釣り上げていた。二つ結びの赤い髪から、長い角が伸びている。

「失礼な質問すんなってディルじいに言われてたでしょーが! ……ごめんなさい、聖女さま。この失礼なのがアリャ、こっちの失礼なのがサム、アタシがマレーナです」
「はあ……」

 マレーナがぴょこんと頭を下げ、お下げが揺れる。自己紹介されたが、フィリスは不意の勢いに呆気に取られて気の抜けた相槌しか打てなかった。

「賑やかですみませんねえ。まだ幼いですが、三人とも立派な働き手なのですよ。城の者達の食事は、ほとんど彼らに任せておるのです」
「アタシ達は、ディルじいが魔王さまのお食事に集中できるように、みんなのご飯を作ってるんです」
「オレは野菜を切ってるっす!」
「ボクは皿洗い!」
「は? 皿洗いはみんなでやってるだろ」
「でもボクの仕事だもん! サムにいとマレねえは、ボクを手伝ってるんだよっ」
「手伝ってるって量じゃねえだろが、半人前のくせに」
「サムにいだってこないだ半人前って言われてたもんねーっ」
「この……!」
「ああもう、やめなさいってば! 聖女さまの前で恥ずかしい、怒るわよっ!」
「……はーい」

 マレーナの一喝で、やんちゃな男子ふたりはしょんぼりと黙る。やれやれと肩をすくめ、「すみません」と言いながらマレーナが二人を厨房の奥へ引きずっていく。やがて、がちゃがちゃと作業音が響き始めた。なるほど、働き手であるというのは本当らしい。水の音、小気味良い包丁の音、火がぱちぱち爆ぜる音。料理の音は、聞く者をわくわくさせる。

「ぼくの可愛い弟子なんですよ。うるさいですが、優しくしてやってくださいね」
「もちろんです。……可愛いお弟子さんですね」
「ははっ、そう言っていただけるのなら何よりです」

 お世辞ではない。素直で元気いっぱいの子供達がいきなり現れたので驚いたが、去ってみれば、可愛らしく思えてくるものだった。

「そういえば……リサさんから、ガブによろしくと」
「ああ、そうですね。ガブにも会っていただしましょう。こちらですよ」

 ディルに続き厨房の奥へ進む。調理に取り掛かる三人衆の後ろを通ったが、先ほどまでの騒がしさはどこへやら、額に汗して真面目に作業をしていた。マレーナなどは、大鍋に入ったスープをかき回している。どのくらいの人がこの城で働いているのか知らないが、かなり多そうだ。
 調理場を抜け、何やらごみごみとしたスペースが奥にある。壊れた調理器具や何かの荷物が置かれているらしい。

「ガブ。お嬢さんにご挨拶しなさい」
「ギイイィッ」
「えっ」

 ディルの呼びかけに応えたのは、金属を爪で引っ掻いたような不快な鳴き声。あまりにも耳に馴染んだその音に、フィリスは反射的に手のひらをそちらへ向ける。

「魔獣ですよ! 気をつけて!」

 そのまま詠唱すれば、聖なる矢を放って魔獣を射抜くことができる。緊迫したフィリスを振り返ったディルの顔は、何も起きていないかのように平然としていた。

「大丈夫ですよ。ガブはこれ以上動けませんから」
「…………ああ、本当ですね」

 ガブと呼ばれたのは、魔獣であった。あのぎらついた、理性を欠いた瞳。大きく開いた口から覗く鋭い歯。禍々しいほどに赤い舌。フィリスの記憶に染みついた魔獣の姿そのものである。
 犬型の魔獣らしく体躯は小さい。ディルに噛みつこうと今も牙をガチガチ鳴らし暴れているが、彼の言う通り、ハーネスで繋がれているため襲い掛かっては来られないようだった。
 フィリスは一旦、詠唱を保留する。手のひらは向けたままだ。戦場では視界に入る全ての魔獣を対象に聖なる矢を放っていたフィリスにとって、これだけでも十二分すぎる譲歩である。

「……魔獣を飼ってるんですか?」
「ええ。残飯を全部綺麗に食べてくれますから、便利なんです」
「そうですか……」

 魔獣の食欲は無限で、群れの中で共食いしている姿も見たことがある。残飯も食べるだろうが、それにしてもこの様子である。犬や猫、馬や羊も世話する人間に懐き慣れるが、この魔獣にそんな様子は一切ない。ハーネスがなければディルに襲いかかっている勢いで、何度も何度も牙を空振りしている。

「食べ物をやるとその時だけは落ち着いて食べるんです。確かに見た目は怖いですが、可愛らしいところもあるんですよ」
「そうですか……」

 ある時戦場で行動を共にしていた研究者が転げた途端、群れていた魔獣がひと所に集まって静かになった光景を思い出してしまった。フィリスがそばに居たのですぐ魔獣を一掃して助け出せたが、あれは悍ましい捕食シーン以外の何物でもなかった。
 可愛らしい、とは到底思えない。今この魔獣が消えずにいるのは、ここが魔王城の中であり、聖なる力を振るうことは己の命を失うことに繋がりかねないからという理由だけであった。

「坊ちゃんだってそうですよ。随分と大きく成長しましたが、美味しいものを食べているときは相変わらず可愛らしいですからねえ……ほれガブ、食え食え」
「ギィルウウゥ……」

 ディルが投げた肉片に食らいつき、魔獣は暫く静かになる。もっちゃもちゃ……微かに響く肉の咀嚼音はあの研究者の末路であったかもしれない。可愛いわけがない。シルヴァンと同じにしないでほしい。
 魔獣を滅してしまいたいという衝動を視線を逸らすことでどうにか誤魔化していると、肉を食べ終えたらしい魔獣がまた騒ぎ始めた。やはり無限の食欲である。ディルが投げたパンの切れ端のようなものに食らいつく様子を尻目に、フィリス達は厨房の入り口付近へ戻る。

「ガブへの挨拶も終わりましたから、ジャムを作りましょうか。この辺りは好きに使っていただいて構いませんよ。ぼくは夕飯の支度をしますから、わからないことがあればお聞きください」
「……ディルさん」
「はい?」
「全部教えてもらえますか」

 扱ったこともない調理器具が並ぶ作業場を前に、フィリスは早々に諦めた。甘え切ったフィリスの発言にも「いいですよ」と笑顔で返すディルによる簡易料理教室が、ここから始まるのだった。
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