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6章 フィリスの使命

6-2 母なる樹

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「ごめんなさいシルヴァン様、私のせいでこんなことに……」

 中庭の階段を下りた先には、以前グレアム達と訪れた賢王の石碑がある。その隣を通り過ぎるシルヴァンに、フィリスはもう何度目かの謝罪を紡いだ。
 自分のせいで。そう思うと、フィリスの胸はきりきり痛む。

「そんな顔をするな。大丈夫だとお前が頑なに言うから口にはしなかったが、この程度は俺もグレアムも想定済みだ。俺は瘴気の中にいれば、怪我や毒にも強いんだよ。お前もそうだろう?」
「はい。聖なる力のおかげで、私は矢が刺さってもすぐ治ります。だから、シルヴァン様に怪我をさせる必要なんてなかったのに……私が前に出て矢を受けるべきでした」
「俺も同じだと言っているだろうが。誰がお前に傷をつけることを許すものか」

 言いながらシルヴァンは、石碑の奥へ進む。そこには、また階段があった。狭い階段を下りるうちに、瘴気がどんどん濃くなってゆく。

「……ふう。ここまで来るとだいぶ楽になる」

 その声にも、先程までの苦しさを押し殺したような感じはない。フィリスはやっと、肩の強張りを解いた。

「良かったです、大丈夫そうで……」
「大丈夫だと言ったろう。お前は心配性だな」
「自分のせいで怪我をさせて、心配しないわけないじゃありませんか」
「はは、それもそうだ」

 シルヴァンの笑顔が、光る苔のわずかな明かりで照らされる。彼の笑みにほっとしたフィリスの口元も、ほんの少し緩んだ。

「自然治癒を待っても良かったが、あの男も用が済んだらさっさと返してやった方が良いだろう? ここへ来たのはそのためだ。大したことはないのだよ」
「そうなんですね。どんどん瘴気が濃くなりますね……」
「ああ。……大丈夫か? 無理はするなよ」
「大丈夫です。息苦しさはないので」

 階段を下りるにつれ、瘴気が濃くなってゆく。体感としては、瘴気の壁よりも更に濃い。普通の人間なら間違いなく命を落とす濃さだが、フィリスは特に苦しさを覚えなかった。
 この先に何があるんだろう。そんな好奇心が、フィリスの足を進ませる。
 突然、視界が開けた。
 いや、開けてはいないのだ。瘴気は濃く、辺りはほとんど真っ暗であるのに、フィリスの目の前には確かに立派な樹がそびえていた。暗い瘴気の中にあって、その輪郭がはっきりと、何か白い光に縁取られている。

「聖樹……?」

 フィリスはその神聖な雰囲気に覚えがあった。母なる聖樹。フィリスが何度も見てきた、白く発光する、神々しい大樹によく似た樹であった。

「聖樹? ……俺達はこれを魔樹と呼んでいるが。城を包む瘴気はこの根から生まれると言われている。すべての命は、やがてここへ帰るとも。……単なる言い伝えだがな」
「魔獣の命も……」

 フィリスは、樹を見上げる。風もないのに、その葉はさらさらと揺れているようだった。

「聖樹も似ています。あらゆるものの命は聖樹から生まれると言われているんです。聖なる力を体現した聖女は聖樹から生まれるので、そこも似ていますね。瘴気を生む魔樹と……」
「……聖女を生む聖樹、か。まるで対のようだな。偶然にしてはできすぎている」

 聖樹と魔樹には、何か関係があるのだろうか。そんな疑問を抱けば、フィリスの視線は自然と手元に落ちる。指輪に据えられた白い宝石は、フィリスが聖樹から生まれ落ちた時手に握っていたという、不思議な代物だ。

「あれ……? 光ってる」

 見間違いかと思って何度か瞬きしたが、やはり薬指に光る宝石は、ほのかに発光していた。

「どうした、フィリス」
「光ってるんです。シルヴァン様に作っていただいた指輪が……」
「……何だ、これは。光らせるようにした覚えはないぞ」

 ちか、ちか。光は脈打つように明滅する。その拍動が空間に広がっていったように、辺りもーー魔樹を縁取る光も、同じ感覚で強弱を繰り返す。

「一体、何が……?」

 何かが起きている。警戒と不安とで、フィリス達はどちらからともなく手を結んだ。シルヴァンの手のひらのひんやりした温度が、いつも以上に頼もしい。

《それは聖樹の涙》

「お前、何か言ったか?」
「私じゃありません。なんだか……頭に直接、響いているみたいな」

《聖樹は泣いている。己から生まれたふたつの命が分たれ、争っていることを嘆いて》

 若いようでもあり、年老いたようでもあり、ひとりでも、また複数で囁いているようでもある。人には出せないような不思議な声音だ。

「…………この樹が?」

 信じ難いが、そうとしか思えなかった。フィリスとシルヴァンは、揃って魔樹を見上げる。応えるように、その輪郭が明滅した。

《子供らよ、争うな。母なる樹は、そう言っている》

 ふわり、と。光の明滅は収まり、魔樹はフィリス達がここへ来た時と変わらぬ光を纏う。

「これは、聖樹の涙なの……?」

 フィリスは、また自分の手元に視線を落とす。先程までの不思議な光が嘘のように、今はただ静かに輝く白い宝石。そっと指先で触れてみたが、今までと何も変わらない質感でそこにある。

「子供らよ、争うな……か」

 魔樹の言葉を復唱したのはシルヴァンであった。

(子供らよ、争うな……魔人も人間も、全ての命が母なる聖樹から生まれた子供なのね)

 同じ母から生まれた命なのだから、戦いを止め、手を取り合うことだってやはりできるはずだ。そんな思いを深めるフィリスの隣で、シルヴァンはふっ、と鼻で笑った。

「くだらない。親が子供の喧嘩に口を出してどうする」

(そういう反応をするのね……)

 希望を抱いたフィリスに対して、一笑に付したシルヴァン。溝の深さを思い知らされたようで、フィリスは何も言えないのだった。

「もう十分に回復した。そろそろ戻ろう、付き合わせて悪かったな」
「いえ……ありがとうございました」

 それから暫く沈黙の闇に浸り、シルヴァンが終わりを告げる。階段を上っていく彼の足取りはしっかりしており、確かに回復したらしい。外に出て傷を見せてもらったが、出血はもう完全に止まっており、腕の動きに支障もないようだった。

「こんなもの、俺には大したことないのだ。お前ももう心配要らないぞ、フィリス」
「私にもそのくらいの回復力はあるんですよ、シルヴァン様。あの場で矢が私に当たっていても、死ぬことはなかったでしょうに……一体何を狙って打ったんでしょうか」
「痛みに怯んだ隙に、あの男にお前を攫わせる算段だったのかもしれんな。いずれにせよ、奴に聞けばわかる。戻ろう。奴のことは、グレアムが丁重にもてなしているはずだ」

 城の中を進むと、最上階の、入ったことのない部屋へ辿り着いた。シルヴァンを先導へ中に入る。最低限の家具しかない殺風景な部屋の中で、椅子に腰掛けたリナルドがグレアムに見張られていた。
 シルヴァンに続き、フィリスが部屋に入る。途端にリナルドは、勢い良く立ち上がった。

「フィリス! 良かった、無事だったんだな。この魔人にとにかく待ってろって言われたんだが、気が気じゃなくって……」
「ここが敵地だとお思いならば、迂闊な発言は控えるべきなのではないでしょうか」
「う……なあフィリス、この男、やたらと説教臭いんだよ。攻撃してくる訳でもねえし、美味い紅茶は出してくれるし、ここは何なんだ?」

 ああ、リナルドだ。このくだけた雰囲気、思ったことはすぐ口に出してしまう素直なところ。
 懐かしくて一歩踏み出したフィリスの前に、シルヴァンの背中が立ちはだかった。

「お前の『大切な話』とやらの前に、聞かねばならぬことがある」
「君は……あっ、魔王! その角、見覚えがあるぞ」
「記憶力が良いようで何より。ならば、フィリスに矢を射かけた者が何奴かも記憶しておるな?」
「フィリス……? フィリスを呼び捨てにするなんて、君、フィリスとどういう関係なんだ」
「それはこちらの台詞だ」
「僕は婚約者だ。フィリスと将来を約束した仲だぞ」
「えっ?」
「そうか、俺は夫だ。フィリスとは先日婚礼の儀を済ませた」
「はっ?」

 ひとつめの疑問符はフィリス、ふたつめはリナルドのものである。呆気に取られた表情のふたりは、リナルド越しに視線を交わす。ぱちぱち、と瞬きを幾度か。視線を切るようにシルヴァンが手で払い、注目を集めるように咳払いする。

「ともかく。矢を射た者について吐かないのなら、妻と話す機会も与えてやらんぞ」

 妻、にやたらと力がこもって発音されたのは気のせいだろうか。

「それは……言ってはいけない約束に」
「そうか。約束があるということは、予定通りだったのだな。人間の中にフィリスを殺めようとする者がいる事実だけで十分だ。俺達だけではなく同族のフィリスにさえ矢を向けるとは……お前達に、少しでも期待したのが間違いだった」

 その瞬間、フィリスの背筋がぞくりと震えた。このとてつもない威圧感に、フィリスは覚えがある。背後から覗き込むと、シルヴァンの瞳が赤く染まり始めていた。
 その赤には、はっきりと見覚えがある。
 初めて出会った時、彼の瞳は赤く染まり、そして皆死んだのだ。

「待って! 駄目です、殺しては」
「なぜだ? お前が慈悲を与えたところで、裏切りで返す奴らだぞ」
「だとしても……脅かさずにちゃんと聞けば、きっと答えてくれますから」

 久しぶりの緊張感だ。下手を踏むと、シルヴァンの怒りを勝ってリナルドは……きっと、その先にいる人間達も皆殺されてしまう。そうなれば、戦いを終わらせるどころではなくなってしまう。
 他人の命を背負ったとき、フィリスの頭は冴える。リナルドから確実に情報を引き出すためにはどうしたらよいだろうか。きりきりと、思考が回転する。

「ねえリナルド、大切な話なの。あの矢には毒が塗られていたらしいけど……私には魔獣の強力な毒も効かないの、リナルドや騎士達なら知っているでしょう。だから、私を殺そうとしたのは、あなた達じゃない気がして……それなら、誰が準備したものなのかしら?」

 優しい口調で、じっと彼の瞳を見つめて語りかける。リナルドは戸惑ったように視線を揺らしてから、俯き小さく息を吐いた。

「僕は、君を傷つけるのだって嫌だったんだ。僕が言えば君は来てくれるはずだから、矢を射るのはぎりぎりまで待てと言ってあった。僕が『無理だ』と言ってから矢を射る約束だったのに……まだ何も言わないうちに、あいつらは攻撃したんだ」
「そんな約束があったなんて、相変わらず、リナルドは優しいのね」
「君は……変わったのかな、フィリス」
「早く続きを話せ」
「ああ、ごめんなさい。懐かしくてつい、話題が逸れてしまいました。そういう約束があったとして、あんな矢で攻撃してきたのは……私のことをあまり知らない人が用意したってことよね。それとも、何か意図があって、あなたと騎士達が用意したの?」
「いや! 僕もアラバも、他の騎士達も、フィリスを殺すことには反対したんだ。フィリスはずっと僕達のために戦ってくれたんだから、裏切るはずはないって。なのにあいつらは殺す気でいるから……僕達は教えなかっただけだ。聞かれもしなかったからね」
「あいつらとは誰だ?」
「……」

 シルヴァンの質問にリナルドは答えず、ちらりと視線だけ向けて戻す。

「あいつらって、誰?」
「それは教えちゃいけないんだ。君に話すならまだしも、魔王の居るところで話すことは絶対にできない。言ったってばれたら、僕が殺される」

 フィリスの質問になら答えるリナルドのあからさまな態度に、隣でシルヴァンが大きく舌打ちした。

「なあ、いつになったら僕とフィリスをふたりにしてくれるんだよ。質問には答えたぞ。フィリスと話す機会をくれるんじゃなかったのか?」
「質問には答えていない。矢を射たのは誰か言っていないではないか」
「それは言えないんだ。言ったら殺される」
「言わぬのなら、今ここで俺が殺すぞ」
「ここにはフィリスがいるのに、魔人の君に手が出せるのか?」

 ああ、リナルドが強気なのはそういうことか。フィリスは納得し、申し訳なくなる。戦場では、フィリスさえ居れば魔獣の猛攻ですらものともしなかった。あの感覚でシルヴァンと対峙しているのだ。
 シルヴァンがフィリスを殺せるほどの力を持っていることは、フィリスしか知らない。殺された事実は、「聖樹の涙」の不思議な力でなかったことにされているのだから。

「リナルド。私には、シルヴァン様を止めることはできないわ」
「フィリス……なぜだ? まさか君は、本当に」
「シルヴァン様は私よりずっと強いのよ。私が居たって、できることは何もないわ」
「何だ、そうか。良かった」

(今の、安心するところだった?)

 リナルドの意外な反応にフィリスが首を傾げていると、彼は姿勢を正し、視線を真っ直ぐこちらに向ける。

「同じ死ぬのなら素直に話してからの方が良い。フィリス、君を殺そうとしているのは僕の父様だよ」
「リナルドの父様……国王陛下が? どうして?」
「君が死ねば、新しい聖女が生まれるからだよ。一刻も早く戦場へ聖女を戻して、魔石の回収量を回復させたいんだってさ」
「やはり人間は、魔石のためなら何でもするのだな」

 グレアムから聞いた話が、シルヴァンの呟きと重なる。

(彼らの言うことは、本当だったんだわ)

 魔石のために王が自分を殺そうと画策した。その事実も衝撃的ではあったが、それ以上にフィリスは、魔石に向かう国王の欲望の深さに戦慄していた。
 自分達は魔石のために戦っているのではなく、平和のために戦っている。フィリスはそう信じていた。しかし攻撃を指示する国王の思惑は、やはり魔石にあったのだ。
 膝から力が抜けそうになり、ぐっと力を入れて堪える。
 ならば尚更、戦いを平和的に終わらせなければならない。フィリスとシルヴァンだけでなく、人と魔人が愛し合えることを示さなければならない。
 でないと、この先に待つのは皆の死だ。

「シルヴァン様……皆が魔石を望んでいた訳ではありません。私も、そこのリナルドも、平和のために戦っていたんです。いつか、命を奪い合わなくて良い日が来ることを願っていました」
「お前はそうかもしれないが、奴がそうだったとなぜ言える?」
「リナルドはそういう人だからです。シルヴァン様も、彼とちゃんと話せば、きっと分かります」
「分かる必要などない」
「分かってほしいんです!」

 ああ、こんな強引な理論で通用するはずがない。そう思いつつも、誰よりも動揺していたフィリスにこれ以上の言葉は思いつかなかった。
 どうか願いが伝わって欲しい。そんな思いを込めて、じっとシルヴァンの青い瞳の奥を見つめる。

「……わかった。お前に機会をやる、フィリス。どうすればよいのだ」
「えっ? いいんですか?」
「お前が言ったことだろう。俺は、奴と話すことなど望んでおらん。人間の実情がわかったのだから、もう殺してやっても良いのだぞ」
「ああっ、言いました! 言いました。えっと、あれです。一緒にお菓子でも作りましょう! 厨房で! ディルさんと一緒に!」

 咄嗟に口から出た「分かる方法」は、共同作業であった。実際、フィリスはディルやリサといった魔人達とは、共に活動することによって理解を深めてきた体感がある。

「厨房へ! 行きましょう! ええ、そうしたら分かり合えるはずなので! はい!」

 無茶苦茶な理屈でどうにか猶予を貰ったのだから、シルヴァンの気が変わらないうちに勢いで押し切るしかない。フィリスは立ち上がり、厨房へ向かう。

(どうすればリナルドの良さがシルヴァン様に伝わるんだろう? というかどうして、今ので許されたの……?)

 それが、可愛い妻の真摯な頼みにはどうしても絆されてしまう、シルヴァンの弱さだということをフィリスは知らないのだった。
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