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13.ハッピーエンドの後
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「リサ、朝早くからごめんね」
「これが私の役目ですから。お気になさらないでください」
いつもの起床時間より、さらに早い時刻。窓辺で小鳥が鳴き始めたくらいの時間に、私は起き、リサに髪を結ってもらっていた。リサの髪の扱いは優しく、櫛で梳いてもらっていると、心が安らぐ。
早起きしたのは、ロディの朝の仕込みに参加するためだ。リアンが「クリームがいっぱいのケーキ」をご所望とのことで、今回のケーキはショートケーキに決まった。そうしたケーキは作ってから時間を置いた方が美味しいそうで、早朝に作り、夜までじっくり寝かせるのだという。
「料理人は朝が早いというけど、他にも、朝早くから働いている人がいるのね」
欠伸を抑えながら、厨房へ向かう。早朝の屋敷は使用人も少なく、静かである。普段なら私達は寝ている時間だ。だから知らなかったけれど、朝早い時間にも関わらず、屋敷のあちこちから微かな物音が聞こえる。既に、それぞれの仕事が始まっているらしい。
「おはよう、ロディ」
「おはようございます、お嬢様、リサ。先に始めていましたよ」
厨房には、まだロディしかいない。アンナとハンナの出勤は、もう少し遅いようだ。
キッチンには、既に焼きあがったスポンジがあり、ロディは今まさにそれにクリームを塗っているところだった。私も、ケーキ作りの全ての工程に関われるとは思っていないから、構わない。それよりも、この時間にクリームを塗るところまで行き着いているなんて、ロディはいったい何時から働いているのだろう。
「おふたりには、イチゴを載せるところをお願いしたいのです」
「そんな大役、いいの?」
「はい。クリームの塗り方にはちょっとコツが要りますので、そちらをお願いします」
キッチンの上にろくろがあり、その上にケーキの土台が載っている。ロディはろくろをくるくると回し、薄く綺麗にクリームを塗りつけている。これは私には無理だ。すぐにわかったから、「クリームを塗るのをやってみたい」とわがままを言うのはやめた。自分のケーキならいいけれど、リアンのためのケーキに余計な手出しをして、味が落ちたら悲しい。
ロディがクリームを塗る横で、リサと手分けし、イチゴを縦に半分に切る。それを、クリームの層の上へ詰めて並べた。
「まずは周りにぐるっと置いて、そのあと中心に丸く並べていくのね」
ロディに教わった通りに、イチゴを置く。赤くてつやつやしたイチゴはなんとも美味しそうで、甘酸っぱい匂いも漂ってくる。朝食前だから、お腹が空いてきた。
スポンジ一面にイチゴが載ると、ロディがクリームを重ねる。そこへスポンジを載せ、クリームを塗り、イチゴを載せる。またスポンジを載せ、今度は上部だけでなく側面にもクリームを塗る。
ヘラを使ってクリームを薄くむらなく塗っていく、ロディの手の神業的な動きを見ていたら、あっという間にケーキの形が完成した。
上にクリームを絞り出し、イチゴを見目よく載せたら、ケーキのできあがりである。生クリームが真っ白でふわふわで、見ていると口の中に唾液が出てくる。
「味見します? 残ったクリームですよ」
「……おいしい!」
ロディがスプーンに乗せて差し出した生クリームを受け取り、口に入れる。ふわっとした生クリームが溶け、ミルクの甘さが淡く残った。くどくなくて、美味しい。空いていたお腹に染み渡るような甘さを、私は暫し堪能した。
昼食を過ぎると、屋敷にそわそわした雰囲気が漂い始めた。使用人は、走らないまでも普段はあまり見ない早足で移動し、父と母は何度も玄関と自室を行ったり来たりしている。
玄関の呼び鈴が鳴るのが聞こえると、誰よりも早く、母がすっ飛んで行った。
「おかえりなさい、アルノー、マリア!」
「ただいま」
「お久しぶりです、お義母様!」
リアンの誕生日を祝うため、アルノーと妻のマリアが、領地から帰ってきた。領主夫妻としての仕事は忙しく、領地もそれほど近くはないので、ふたりはあまりこちらの家には顔を出さない。今回のような、家族のイベントの時に、久しぶりに会うことができるのだ。
母が駆け寄ると、アルノーはゆったりと挨拶のハグをした。
見てください、私の自慢の兄を。我が家の特徴である金髪を長く伸ばし、背中でゆるくひとつにまとめている。それもあってか、中性的な印象。顔つきは柔和で、慈愛に満ちた微笑みの持ち主。私はこの、全てを受け入れてくれそうな笑顔が大好きなのだ。
そして、アルノーの隣で明るく挨拶を返すのが、兄嫁のマリア。桃色の髪の毛がふわふわと羊の毛のように柔らかで、目はぱっちりと大きく、お人形さんみたいに可愛らしい。
「久しぶりー、キャシー!」
次いでマリアは、私の方に飛び込んでくる。頭ひとつ小さい小柄な彼女の頭が、ちょうど私の目の前にくる。髪の毛から甘い香りがした。先日のセドリックの危険な甘さではなく、わたあめを思わせる香り。
マリアとアルノーは結婚してまだ1年ほどだが、その人懐こさのおかげで、すっかり我が家に溶け込んでいる。もちろんこんな家だから、ふたりの出会いは親同士が設定したお見合いである。しかしアルノーは一瞬で恋に落ち、あっという間に婚約した。その判断は正解だった。
なにしろマリアは可愛いだけでなく、領地の経営では鋭い判断を見せる。可愛いのに、賢い。そのギャップにアルノーはすっかりやられている。私もやられている。
私はマリアのファン第3号だ。ちなみに、第1号はアルノー、第2号は母である。嫁姑問題というのも全くなく、関係は非常に良好。羨ましい限りだ。
「リアン、お誕生日おめでとう!」
「わあっ、ありがとうございます!」
マリアに抱きつかれたリアンは驚きの声を上げ、誤魔化すようにえへっ、と笑った。久しぶりに会ったから、照れているらしい。まあ、照れるよね。マリアって可愛いし、良い匂いがするもの。
「少しお茶でもしましょう、マリア、キャシー」
母に誘われ、リアンを解放したマリアと揃って庭園へ向かう。リアンの誕生日祝いは、夜。それまで少し時間がある。男性陣も、連れ立って何か話をしに行ったようだ。領地経営の話など、いろいろあるのだろう。爽やかな風の吹く庭で、3人でテーブルを囲み、侍女の淹れた紅茶を飲む。
「キャシーが元気そうで、安心したわ! 心配してたのよ。……いろいろ大変なことがあったって、聞いたから」
「お義姉様にまで、ご心配をおかけしてすみません。おかげさまで、楽しくやっています。最近は使用人の皆と新しいことに挑戦していて、それが凄く楽しくて」
「キャシーはこの頃、前とは比べ物にならないくらい、生き生きとしているのよ」
「何よりです。王子様も最近いろいろ噂になっているし、変に拗れず、すっぱり離れられて良かったですね」
母とマリアは、顔を見合わせて頷く。私は首を傾げた。
「いろいろ噂に?」
「えっ、……キャシーは何も聞いていなかったの?」
「大丈夫よ、マリア。敢えて聞かせていないわけではなくて、この子は最近家にいるから、情報に疎いだけなの」
母の言う通り、この間セシリーとミアとお茶をしたっきり、私はどのお茶会にもパーティにも参加していない。誘いはあったものの、断っているからだ。噂話の真意を確かめるために開催されるような、下世話な会に出る気はない。それでもそろそろ復帰しなければとは思うけれど、気持ちが乗らないこともあり、そのままになっている。
「どんな噂があるのですか?」
「それはね……」
母とマリアによると、ベイルと私の婚約が破棄されたことで、実質ベイルはフリーになり、後釜に座ろうとする貴族が湧いて互いの出方を伺っているらしい。女性関係に問題ありでも腐っても王族、娘を嫁がせたい親は少なからずいるそうだ。
当のベイルは平民のアレクシアに懸想し続けているけれど、身分の差があり、当人達の気持ちがあっても婚約は認められない。アレクシアの存在を疎ましく思う貴族や、彼女に一途な想いを寄せるベイルの思惑が絡み合い、不穏な感じが漂っているという。最近ではアレクシアの姿が見受けられないようになり、何かあったのでは、という噂もあるとか。
「ミアが、ベイル様の先行きは不安だと言っていたけれど、今そうなっているなんて……」
「そんな暗い顔しなくても、キャシーは気にしなくていいのよ。マリアの言った通り、少し揉めているようだけど、我が家には関係のないことだから」
「そうよ。知っておく必要はあるけど、気に病むことはないわ。向こうが言い出したことなんだから」
私の表情が曇ったように見えたのか、母とマリアがふたりがかりで励ましてくれる。
確かに、私の表情は曇った。でもそれは、ベイルの先行きを案じたわけでも、自分のことが心配になったわけでもない。
ベイルとのハッピーエンドを迎えたはずのアレクシアは、婚約はできず、貴族に疎まれ、姿を消す。ゲームの外では、全然ハッピーじゃない。恋が実ったはずなのに、あるのは互いの気持ちだけで、誰にも認められず、祝福されない。なんて虚しい、ハッピーエンドなんだろう。そのことを考えて、僅かに気持ちが沈んだのだ。
「これが私の役目ですから。お気になさらないでください」
いつもの起床時間より、さらに早い時刻。窓辺で小鳥が鳴き始めたくらいの時間に、私は起き、リサに髪を結ってもらっていた。リサの髪の扱いは優しく、櫛で梳いてもらっていると、心が安らぐ。
早起きしたのは、ロディの朝の仕込みに参加するためだ。リアンが「クリームがいっぱいのケーキ」をご所望とのことで、今回のケーキはショートケーキに決まった。そうしたケーキは作ってから時間を置いた方が美味しいそうで、早朝に作り、夜までじっくり寝かせるのだという。
「料理人は朝が早いというけど、他にも、朝早くから働いている人がいるのね」
欠伸を抑えながら、厨房へ向かう。早朝の屋敷は使用人も少なく、静かである。普段なら私達は寝ている時間だ。だから知らなかったけれど、朝早い時間にも関わらず、屋敷のあちこちから微かな物音が聞こえる。既に、それぞれの仕事が始まっているらしい。
「おはよう、ロディ」
「おはようございます、お嬢様、リサ。先に始めていましたよ」
厨房には、まだロディしかいない。アンナとハンナの出勤は、もう少し遅いようだ。
キッチンには、既に焼きあがったスポンジがあり、ロディは今まさにそれにクリームを塗っているところだった。私も、ケーキ作りの全ての工程に関われるとは思っていないから、構わない。それよりも、この時間にクリームを塗るところまで行き着いているなんて、ロディはいったい何時から働いているのだろう。
「おふたりには、イチゴを載せるところをお願いしたいのです」
「そんな大役、いいの?」
「はい。クリームの塗り方にはちょっとコツが要りますので、そちらをお願いします」
キッチンの上にろくろがあり、その上にケーキの土台が載っている。ロディはろくろをくるくると回し、薄く綺麗にクリームを塗りつけている。これは私には無理だ。すぐにわかったから、「クリームを塗るのをやってみたい」とわがままを言うのはやめた。自分のケーキならいいけれど、リアンのためのケーキに余計な手出しをして、味が落ちたら悲しい。
ロディがクリームを塗る横で、リサと手分けし、イチゴを縦に半分に切る。それを、クリームの層の上へ詰めて並べた。
「まずは周りにぐるっと置いて、そのあと中心に丸く並べていくのね」
ロディに教わった通りに、イチゴを置く。赤くてつやつやしたイチゴはなんとも美味しそうで、甘酸っぱい匂いも漂ってくる。朝食前だから、お腹が空いてきた。
スポンジ一面にイチゴが載ると、ロディがクリームを重ねる。そこへスポンジを載せ、クリームを塗り、イチゴを載せる。またスポンジを載せ、今度は上部だけでなく側面にもクリームを塗る。
ヘラを使ってクリームを薄くむらなく塗っていく、ロディの手の神業的な動きを見ていたら、あっという間にケーキの形が完成した。
上にクリームを絞り出し、イチゴを見目よく載せたら、ケーキのできあがりである。生クリームが真っ白でふわふわで、見ていると口の中に唾液が出てくる。
「味見します? 残ったクリームですよ」
「……おいしい!」
ロディがスプーンに乗せて差し出した生クリームを受け取り、口に入れる。ふわっとした生クリームが溶け、ミルクの甘さが淡く残った。くどくなくて、美味しい。空いていたお腹に染み渡るような甘さを、私は暫し堪能した。
昼食を過ぎると、屋敷にそわそわした雰囲気が漂い始めた。使用人は、走らないまでも普段はあまり見ない早足で移動し、父と母は何度も玄関と自室を行ったり来たりしている。
玄関の呼び鈴が鳴るのが聞こえると、誰よりも早く、母がすっ飛んで行った。
「おかえりなさい、アルノー、マリア!」
「ただいま」
「お久しぶりです、お義母様!」
リアンの誕生日を祝うため、アルノーと妻のマリアが、領地から帰ってきた。領主夫妻としての仕事は忙しく、領地もそれほど近くはないので、ふたりはあまりこちらの家には顔を出さない。今回のような、家族のイベントの時に、久しぶりに会うことができるのだ。
母が駆け寄ると、アルノーはゆったりと挨拶のハグをした。
見てください、私の自慢の兄を。我が家の特徴である金髪を長く伸ばし、背中でゆるくひとつにまとめている。それもあってか、中性的な印象。顔つきは柔和で、慈愛に満ちた微笑みの持ち主。私はこの、全てを受け入れてくれそうな笑顔が大好きなのだ。
そして、アルノーの隣で明るく挨拶を返すのが、兄嫁のマリア。桃色の髪の毛がふわふわと羊の毛のように柔らかで、目はぱっちりと大きく、お人形さんみたいに可愛らしい。
「久しぶりー、キャシー!」
次いでマリアは、私の方に飛び込んでくる。頭ひとつ小さい小柄な彼女の頭が、ちょうど私の目の前にくる。髪の毛から甘い香りがした。先日のセドリックの危険な甘さではなく、わたあめを思わせる香り。
マリアとアルノーは結婚してまだ1年ほどだが、その人懐こさのおかげで、すっかり我が家に溶け込んでいる。もちろんこんな家だから、ふたりの出会いは親同士が設定したお見合いである。しかしアルノーは一瞬で恋に落ち、あっという間に婚約した。その判断は正解だった。
なにしろマリアは可愛いだけでなく、領地の経営では鋭い判断を見せる。可愛いのに、賢い。そのギャップにアルノーはすっかりやられている。私もやられている。
私はマリアのファン第3号だ。ちなみに、第1号はアルノー、第2号は母である。嫁姑問題というのも全くなく、関係は非常に良好。羨ましい限りだ。
「リアン、お誕生日おめでとう!」
「わあっ、ありがとうございます!」
マリアに抱きつかれたリアンは驚きの声を上げ、誤魔化すようにえへっ、と笑った。久しぶりに会ったから、照れているらしい。まあ、照れるよね。マリアって可愛いし、良い匂いがするもの。
「少しお茶でもしましょう、マリア、キャシー」
母に誘われ、リアンを解放したマリアと揃って庭園へ向かう。リアンの誕生日祝いは、夜。それまで少し時間がある。男性陣も、連れ立って何か話をしに行ったようだ。領地経営の話など、いろいろあるのだろう。爽やかな風の吹く庭で、3人でテーブルを囲み、侍女の淹れた紅茶を飲む。
「キャシーが元気そうで、安心したわ! 心配してたのよ。……いろいろ大変なことがあったって、聞いたから」
「お義姉様にまで、ご心配をおかけしてすみません。おかげさまで、楽しくやっています。最近は使用人の皆と新しいことに挑戦していて、それが凄く楽しくて」
「キャシーはこの頃、前とは比べ物にならないくらい、生き生きとしているのよ」
「何よりです。王子様も最近いろいろ噂になっているし、変に拗れず、すっぱり離れられて良かったですね」
母とマリアは、顔を見合わせて頷く。私は首を傾げた。
「いろいろ噂に?」
「えっ、……キャシーは何も聞いていなかったの?」
「大丈夫よ、マリア。敢えて聞かせていないわけではなくて、この子は最近家にいるから、情報に疎いだけなの」
母の言う通り、この間セシリーとミアとお茶をしたっきり、私はどのお茶会にもパーティにも参加していない。誘いはあったものの、断っているからだ。噂話の真意を確かめるために開催されるような、下世話な会に出る気はない。それでもそろそろ復帰しなければとは思うけれど、気持ちが乗らないこともあり、そのままになっている。
「どんな噂があるのですか?」
「それはね……」
母とマリアによると、ベイルと私の婚約が破棄されたことで、実質ベイルはフリーになり、後釜に座ろうとする貴族が湧いて互いの出方を伺っているらしい。女性関係に問題ありでも腐っても王族、娘を嫁がせたい親は少なからずいるそうだ。
当のベイルは平民のアレクシアに懸想し続けているけれど、身分の差があり、当人達の気持ちがあっても婚約は認められない。アレクシアの存在を疎ましく思う貴族や、彼女に一途な想いを寄せるベイルの思惑が絡み合い、不穏な感じが漂っているという。最近ではアレクシアの姿が見受けられないようになり、何かあったのでは、という噂もあるとか。
「ミアが、ベイル様の先行きは不安だと言っていたけれど、今そうなっているなんて……」
「そんな暗い顔しなくても、キャシーは気にしなくていいのよ。マリアの言った通り、少し揉めているようだけど、我が家には関係のないことだから」
「そうよ。知っておく必要はあるけど、気に病むことはないわ。向こうが言い出したことなんだから」
私の表情が曇ったように見えたのか、母とマリアがふたりがかりで励ましてくれる。
確かに、私の表情は曇った。でもそれは、ベイルの先行きを案じたわけでも、自分のことが心配になったわけでもない。
ベイルとのハッピーエンドを迎えたはずのアレクシアは、婚約はできず、貴族に疎まれ、姿を消す。ゲームの外では、全然ハッピーじゃない。恋が実ったはずなのに、あるのは互いの気持ちだけで、誰にも認められず、祝福されない。なんて虚しい、ハッピーエンドなんだろう。そのことを考えて、僅かに気持ちが沈んだのだ。
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