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01 エレミア・パールの衝撃的な朝

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「うわあ……」

 その朝、私ーーエレミア・パールは絶句した。鍵をかけていたはずの、店の扉は開け放たれている。整然と干していた天井の薬草は乱れ、棚は乱雑に引き出されている。
 呆然としながらカウンターへ進むと、朝日に照らされた床には、泥が乾いたような足跡がついていた。汚い乱雑な足跡に、荒らされた、という実感が湧いてくる。
 カウンターの引き出しには、釣銭用の銅貨を入れてある。その引き出しも見事に開けられ、中身は空っぽになっていた。

「こんなところに、わざわざ盗みに入るなんて。大したものもないのに……」

 盗まれた銅貨は、せいぜい2日分の食費程度。大した蓄えもない私には手痛い損失だけれど、盗みを働く価値のある額とも思えない。
 どうしよう、と途方に暮れつつ、とりあえず私は、釣銭入れの引き出しを閉じた。薬草棚の中身をひとつひとつ改め、埃を払って中に戻す。天井の薬草も、なくなったものがないか確かめながら整える。幸いにして、薬草の類は荒らされただけで、無くなったものはなかった。この辺りの森で採れるものばかりで、珍しい薬草などほとんどないのだから、盗むほどのものでもない。
 危険を冒して盗みに入ったのに、ろくな獲物がなかったから、腹いせに荒らしたのだろうか。知りもしない強盗の気持ちをつい想像してしまいながら、片付けを進めた。
 最後に箒を出して、床の泥を掃く。水分を含んだ泥が乾いたせいで、床にこびりついてしまっている。
 店の隅にあるバケツを手に取り、なみなみと水を注ぐ。水魔法に適性があるというのは、つくづく、生活に都合が良い。いちいち井戸まで水を汲みに行くのは、なかなかの重労働だ。
 水鏡に映った自分の顔は、あからさまに疲れていた。蜂蜜色の髪はぼさぼさで、青い目の奥はぼんやりしている。こんな顔ではいけない。咳払いして、表情を引き締めた。
 ひんやりとした水に雑巾を漬け、濡らした布で床を拭う。何度か拭いて、漸く、泥の跡がなくなった。

「はあ……」

 開けっ放しの扉から、花開く季節に相応しい、爽やかな香りが入り込んでくる。店の中はいつも通りの姿になったものの、どことなく気味が悪い。悪意を持った他人が、私のいない間に、この部屋にいたかと思うと、普段の景色にも違和感を覚える。
 扉に人影が現れて、一瞬肩が強張った。逆光で影になったその人が室内に入って来る。背が低く、白髪で、同じ色の髭を蓄えた紳士。

「アーネストさん。おはようございます」
「おはよう、エレミアさん。朝から掃除ですか。さすが、アイシャの孫は勤勉ですねえ」

 アーネストは、目尻を柔和に垂らした笑顔で、カウンター前の椅子に腰掛ける。私は一旦作業を止め、水球を出して手を洗ってから、お茶の用意を始めた。

「祖母のようにはなれません。掃除をしていたのは、昨晩、泥棒に入られたからで」
「泥棒、ですか……」
「あ、いえ、私がいけないんです。油断していました」

 眉を曇らせるアーネストに、慌てて言葉を重ねる。彼は祖母の知り合いで、両親を亡くした後の私に、この家を破格で売ってくれた恩人である。

「うーん……若い女性の一人暮らしなのですから、僕から騎士団に、巡回を頼んでおくべきでしたね」

 こうして人の不始末さえ自分の責にしてしまう優しい人だから、私にもいろいろと目をかけてくれる。ありがたいと同時に、要らない心労を与えてしまったようで申し訳ない。

「そんなことはありません。できる対策はあったはずなので」
「しかし、エレミアさんが無事だから良かったですが……2階で寝起きしているのでしょう? もっと悪意のある人だったら、大変なことになっていましたよ」

 相変わらずの柔和な物言いだが、アーネストの言葉に、背筋がひやりとした。確かに私は、泥棒が入っている間も、2階の寝室で眠っていた。そこに押し込まれたら、無事では済まなかっただろう。考えもしなかった。私が思っていたよりも、危険な状況だった。

「僕の知り合いの騎士団員に、言っておきますよ。騎士が出入りする店となれば、エレミアさんも安心でしょう」
「本当に、すみません……何から何まで」
「いいんですよ。エレミアさんに何かあったら、アイシャに面目が立ちませんから」

 アーネストは町の名士で、この店をやっていくに当たっても、数々の口利きをしてくれている。受けた恩に値するものを何も返せないことが、いつも申し訳なくなる。
 私にできることと言えば、こうして来てくれたアーネストに、お茶を振る舞うことくらい。

「最近寒暖の差が激しいので、喉風邪を引かないように、喉を潤す薬草を入れておきました」
「助かりますよ。ちょうど、朝から喉がいがいがしていたんです。エレミアさんの淹れてくれるお茶は、いつもぴったりで素晴らしいですね」
「ありがとうございます」

 アーネストは大袈裟に褒めてくれるが、何のことはない。彼が入ってきた時から、喉がちりちり痛んでいたから、喉の潤いを保つ薬草を入れたのだ。
 私は特殊な体質で、人の苦痛を共有することができる。魔力過多症というらしい。だから、その人の痛みに合った薬草を用いることができる。
 困った体質だけれど、誰かの役に立てるのなら幸せなこと。同じ体質であった母や祖母には、幼い頃からそう言われてきた。

「エレミアさんのお陰で、今日も元気にやれそうです。ありがとう、また来ますね」
「こちらこそ。ありがとうございました」
「騎士団には僕の方から言っておくから、安心してくださいね」

 言いながら、アーネストは出て行く。店のベルがカランと軽く鳴って、扉が閉まった。
 細々とではあるが、アーネストや、その他の常連客の健康の助けになりながら生きていくことができるのなら、幸せなことだ。薬草の手入れをしながら、私はこの幸福を噛み締めていた。
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