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第二章「江戸城の象」
第七話「無口な青年」
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町入能の前日の夜、文蔵は江戸城の中庭で一人不寝番をしていた。町入能で披露する動物達を世話し、見張るためだ。
能舞台の横には臨時の柵が設けられ、その中に動物たちが入れられている。蛇や大イタチは鉄製の檻に入っているためまず逃げ出せないであろうが、象が入る様な檻は流石に用意できなかった様だ。もしも象がその気になれば、ちゃちな柵など一息に蹴散らして逃げ出す事が可能だろう。
その様な事になれば天下の主たる徳川の居城で巨獣が暴れ回る事になり、天下が揺るがす一大事になり兼ねない。急に押し付けられた役目だが、文蔵の役目は非常に重要である。
とは言ってもそれほど文蔵は心配していない。確かに時として気性が荒くなる象の扱いは非常に難しい。だが、象を手懐ける方法はこれまでの動物使いの応用で十分可能だ。余計な事さえしなければ象が暴れる心配はあるまい。
そんな安心感から、文蔵は少しばかりうつらうつらしていた。不寝番のために文蔵がいる場所は、中庭の能舞台の上だ。ここくらいしか屋根のある場所が無かったのである。一応能舞台の迎いに本丸の大広間があるのだが、ここは大名が待機する場所である。ここに不浄役人たる町方同心が待機するのはよろしくないと断られてしまった。勝手なものである。
もっともその程度文蔵にとっては問題にはならない。かつて葛葉屋の一員として旅芸人として諸国を回っていた時も、今日と同じ様に外で動物の見張りをしたものだ。宿泊する旅籠屋で、厩に動物を入れる事を断られたら、町外れで動物達と野宿するより他にないのである。
ただ今と違うのは、旅の時は善三や朱音達他の一座の者達と交代で見張りをする事が出来た。だが、今夜は文蔵ただ一人である。
最下級とはいえ侍である文蔵は兎も角、香具師の一員である善三や朱音を天下人の城に泊めるのは如何なものかという事なのだ。
特にこれといった心配も無く、不寝番の交代も無い。それに誰かが少しでも騒げは、感覚の鋭敏な文蔵はすぐに目を覚ます。その様な環境であるから、文蔵が眠気に襲われても仕方のない事であろう。
丑三つ時を過ぎた頃であろうか。文蔵は象の前に誰かが立っている事に気が付き、驚愕の余り一気に覚醒した。
この位置関係なら、誰かが歩いて来た時点で目が覚めるはずであるし、動物達が少しでも騒げはこちらも当然目が覚める。
それなのに何者かが象の前に立っているというのは異様な事態なのだ。
象の前に立っているのは、身なりからすると相当高位の旗本に見える。ぼんやりと見える横顔からすると、まだ若い侍の様だ。一体何者なのであろう。宿直が見廻る事はあるだろうが、この若侍の様な高位の者がその様な雑務をするとは思えない。素性について全く予想がつかない。
ただ言えるのは、あの若侍が気配を完全に殺して文蔵の側を通り抜けた凄腕であると言う事と、動物達を全く刺激しない不思議な能力があると言う事だ。
ここまでは問題は起きていない。だが、これから何かあっては一大事だ。文蔵は気配を消して若侍の背後から近寄った。
気配を殺しているとはいっても、文蔵は忍者ではなく、特に優れた隠密能力がある訳ではない。そのため、あの若侍が恐るべき能力を秘めているなら容易く察知されてしまうだろう。それは覚悟の上だ。もしも感づかれて攻撃されたなら、動物達を刺激する事を覚悟して応戦するより他にあるまい。
だが、その様な文蔵の心配は杞憂に終わった。その若侍は文蔵の接近に全く気付く事なく、象を見つめ続けている。
「もし、何をしてらっしゃいます? 象は暴れると危険ですので、離れて下さい」
「……」
「もし?」
若侍が何者かであるか定かではないが、少なくとも三十俵二人扶持の文蔵よりは高禄を食む身分だろう。怪しくは思ったのだが、丁寧な問いかけを心掛けた。
だが、文蔵の問いかけにその若侍は何も答えない。急にかけられた文蔵の声に反応して一瞬驚いた表情をしたのだが、その後ただ静かにほほ笑むだけである。
「答えて欲しいのだが……まあ良いか」
結局この若侍からは何の返答も得られない。だが、動物たちがいきり立つ様子は見られないし、何よりその笑顔で文蔵が参ってしまった。何者か不明で怪しい事この上ないが、まあいいやという気になってしまった。
「見てるのは構わないけど、象は暴れると本当に危険なんで、気をつけて下さいね」
「……」
やはり若侍は何も答えない。
「今は落ち着いていますが、昼には暴れて怪我人が出るところでした。それに、最近象使いが蹴られてけがをしたそうです。普通はそこまでしないと思うのですが、何かに苛立っているのかもしれません」
「……」
文蔵の話を黙って聞いていた若侍であったが、ふとしゃがむと地面に指で絵を描き始めた。心得があるらしく、中々に上手い。
それは象の絵であった。しかも二頭だ。
そして、片方の象の絵にばってんをつけた。
「もしかしてこいつ、仲間が……つがいが居たのか? そして死んでしまったと」
文蔵の推察に、若侍が肯定するように頷いた。心なしか悲しそうに見える。
その後もしばらく文蔵と若侍は交流を続けた。交流と言っても若侍は一言も喋らないので文蔵が一方的に話すだけだ。それでも若侍は頷いたり笑ったりするので、文蔵は気分よく過ごした。若侍は話はしないが踊りは好きならしく、文蔵の旅芸人としての話をした時には二人で踊ったのだった。若侍の踊りは芸人であった文蔵の目から見ても筋が良く、心なしかそれを見ていた動物たちの機嫌が良くなっていくのを感じた。
その時だった。何者かが文蔵達の方に駆けて来るのに文蔵は気付いた。
「貴様、一体何をしている。いや、貴様だ貴様」
「あ、わたくしめの方ですか」
「他に誰がいる」
新たに現れたのも若侍である。若侍といっても更に若く、少年と言っても過言ではない。
誰何された時は自分の事か若侍の事がすぐには分からなかったで他に誰かいるのかと周りを見回したのだが、どうやら文蔵こそが不審者らしい。
まあ、高位の旗本らしい若侍と、単なる町方同心の文蔵を見比べてはどちらを怪しいと判断するかは明白である。
「拙者は、北町奉行所同心、服部文蔵でござる。明日の町入能で披露する動物監視のため、こうして番をしているところである」
武家の作法を心得ぬ文蔵であったが、江戸城で一人待機すると言う事になったので、一応多少の作法は教え込まれた。今の口上が礼に適ったものかは兎も角、少年侍は気分を害した様子は見られない。
「そうであったか。拙者は田沼と申してそちらのお方に仕えている者だ。ところで、何者かは聞いておらぬな?」
「いいえ、何も」
素性を聞くも何も、若侍は一言も言葉を発していない。それを言うと田沼という若侍は露骨に安心した表情になった。
「何か?」
「いや、別に何でもない。さあ、夜風はお体に障りますぞ。それではこれにて御免」
田沼は若侍の手を引いて、その場を立ち去ってしまった。
その場には文蔵と象達だけ取り残された。結局田沼なる少年は人に尋ねておきながら、自分が何者であるか全く名乗らなかった。そればかりか若侍が何者かも不明である。
だが文蔵は特に嫌な気分にはならなかった。田沼には特に悪意は見られなかったし、単に必死なだけに見える。
旅芸人をしている時には、もっと露骨に文蔵達を下に見る者も大勢いた。芸人とはこの社会においてそういう身分であるし、だからこそ金を稼ぐ事が出来ていたのであるから特段文句を言い立てるつもりはないが、やはり気に障るものはある。
それに比べれば田沼には何処か爽やかさがある。
良い眠気覚ましになった。
そう思った文蔵は気分を新たに不寝番を再開した。そしてふと思う。
あの若侍、何も喋らなかったのではなく、喋れなかったのではないかと。
能舞台の横には臨時の柵が設けられ、その中に動物たちが入れられている。蛇や大イタチは鉄製の檻に入っているためまず逃げ出せないであろうが、象が入る様な檻は流石に用意できなかった様だ。もしも象がその気になれば、ちゃちな柵など一息に蹴散らして逃げ出す事が可能だろう。
その様な事になれば天下の主たる徳川の居城で巨獣が暴れ回る事になり、天下が揺るがす一大事になり兼ねない。急に押し付けられた役目だが、文蔵の役目は非常に重要である。
とは言ってもそれほど文蔵は心配していない。確かに時として気性が荒くなる象の扱いは非常に難しい。だが、象を手懐ける方法はこれまでの動物使いの応用で十分可能だ。余計な事さえしなければ象が暴れる心配はあるまい。
そんな安心感から、文蔵は少しばかりうつらうつらしていた。不寝番のために文蔵がいる場所は、中庭の能舞台の上だ。ここくらいしか屋根のある場所が無かったのである。一応能舞台の迎いに本丸の大広間があるのだが、ここは大名が待機する場所である。ここに不浄役人たる町方同心が待機するのはよろしくないと断られてしまった。勝手なものである。
もっともその程度文蔵にとっては問題にはならない。かつて葛葉屋の一員として旅芸人として諸国を回っていた時も、今日と同じ様に外で動物の見張りをしたものだ。宿泊する旅籠屋で、厩に動物を入れる事を断られたら、町外れで動物達と野宿するより他にないのである。
ただ今と違うのは、旅の時は善三や朱音達他の一座の者達と交代で見張りをする事が出来た。だが、今夜は文蔵ただ一人である。
最下級とはいえ侍である文蔵は兎も角、香具師の一員である善三や朱音を天下人の城に泊めるのは如何なものかという事なのだ。
特にこれといった心配も無く、不寝番の交代も無い。それに誰かが少しでも騒げは、感覚の鋭敏な文蔵はすぐに目を覚ます。その様な環境であるから、文蔵が眠気に襲われても仕方のない事であろう。
丑三つ時を過ぎた頃であろうか。文蔵は象の前に誰かが立っている事に気が付き、驚愕の余り一気に覚醒した。
この位置関係なら、誰かが歩いて来た時点で目が覚めるはずであるし、動物達が少しでも騒げはこちらも当然目が覚める。
それなのに何者かが象の前に立っているというのは異様な事態なのだ。
象の前に立っているのは、身なりからすると相当高位の旗本に見える。ぼんやりと見える横顔からすると、まだ若い侍の様だ。一体何者なのであろう。宿直が見廻る事はあるだろうが、この若侍の様な高位の者がその様な雑務をするとは思えない。素性について全く予想がつかない。
ただ言えるのは、あの若侍が気配を完全に殺して文蔵の側を通り抜けた凄腕であると言う事と、動物達を全く刺激しない不思議な能力があると言う事だ。
ここまでは問題は起きていない。だが、これから何かあっては一大事だ。文蔵は気配を消して若侍の背後から近寄った。
気配を殺しているとはいっても、文蔵は忍者ではなく、特に優れた隠密能力がある訳ではない。そのため、あの若侍が恐るべき能力を秘めているなら容易く察知されてしまうだろう。それは覚悟の上だ。もしも感づかれて攻撃されたなら、動物達を刺激する事を覚悟して応戦するより他にあるまい。
だが、その様な文蔵の心配は杞憂に終わった。その若侍は文蔵の接近に全く気付く事なく、象を見つめ続けている。
「もし、何をしてらっしゃいます? 象は暴れると危険ですので、離れて下さい」
「……」
「もし?」
若侍が何者かであるか定かではないが、少なくとも三十俵二人扶持の文蔵よりは高禄を食む身分だろう。怪しくは思ったのだが、丁寧な問いかけを心掛けた。
だが、文蔵の問いかけにその若侍は何も答えない。急にかけられた文蔵の声に反応して一瞬驚いた表情をしたのだが、その後ただ静かにほほ笑むだけである。
「答えて欲しいのだが……まあ良いか」
結局この若侍からは何の返答も得られない。だが、動物たちがいきり立つ様子は見られないし、何よりその笑顔で文蔵が参ってしまった。何者か不明で怪しい事この上ないが、まあいいやという気になってしまった。
「見てるのは構わないけど、象は暴れると本当に危険なんで、気をつけて下さいね」
「……」
やはり若侍は何も答えない。
「今は落ち着いていますが、昼には暴れて怪我人が出るところでした。それに、最近象使いが蹴られてけがをしたそうです。普通はそこまでしないと思うのですが、何かに苛立っているのかもしれません」
「……」
文蔵の話を黙って聞いていた若侍であったが、ふとしゃがむと地面に指で絵を描き始めた。心得があるらしく、中々に上手い。
それは象の絵であった。しかも二頭だ。
そして、片方の象の絵にばってんをつけた。
「もしかしてこいつ、仲間が……つがいが居たのか? そして死んでしまったと」
文蔵の推察に、若侍が肯定するように頷いた。心なしか悲しそうに見える。
その後もしばらく文蔵と若侍は交流を続けた。交流と言っても若侍は一言も喋らないので文蔵が一方的に話すだけだ。それでも若侍は頷いたり笑ったりするので、文蔵は気分よく過ごした。若侍は話はしないが踊りは好きならしく、文蔵の旅芸人としての話をした時には二人で踊ったのだった。若侍の踊りは芸人であった文蔵の目から見ても筋が良く、心なしかそれを見ていた動物たちの機嫌が良くなっていくのを感じた。
その時だった。何者かが文蔵達の方に駆けて来るのに文蔵は気付いた。
「貴様、一体何をしている。いや、貴様だ貴様」
「あ、わたくしめの方ですか」
「他に誰がいる」
新たに現れたのも若侍である。若侍といっても更に若く、少年と言っても過言ではない。
誰何された時は自分の事か若侍の事がすぐには分からなかったで他に誰かいるのかと周りを見回したのだが、どうやら文蔵こそが不審者らしい。
まあ、高位の旗本らしい若侍と、単なる町方同心の文蔵を見比べてはどちらを怪しいと判断するかは明白である。
「拙者は、北町奉行所同心、服部文蔵でござる。明日の町入能で披露する動物監視のため、こうして番をしているところである」
武家の作法を心得ぬ文蔵であったが、江戸城で一人待機すると言う事になったので、一応多少の作法は教え込まれた。今の口上が礼に適ったものかは兎も角、少年侍は気分を害した様子は見られない。
「そうであったか。拙者は田沼と申してそちらのお方に仕えている者だ。ところで、何者かは聞いておらぬな?」
「いいえ、何も」
素性を聞くも何も、若侍は一言も言葉を発していない。それを言うと田沼という若侍は露骨に安心した表情になった。
「何か?」
「いや、別に何でもない。さあ、夜風はお体に障りますぞ。それではこれにて御免」
田沼は若侍の手を引いて、その場を立ち去ってしまった。
その場には文蔵と象達だけ取り残された。結局田沼なる少年は人に尋ねておきながら、自分が何者であるか全く名乗らなかった。そればかりか若侍が何者かも不明である。
だが文蔵は特に嫌な気分にはならなかった。田沼には特に悪意は見られなかったし、単に必死なだけに見える。
旅芸人をしている時には、もっと露骨に文蔵達を下に見る者も大勢いた。芸人とはこの社会においてそういう身分であるし、だからこそ金を稼ぐ事が出来ていたのであるから特段文句を言い立てるつもりはないが、やはり気に障るものはある。
それに比べれば田沼には何処か爽やかさがある。
良い眠気覚ましになった。
そう思った文蔵は気分を新たに不寝番を再開した。そしてふと思う。
あの若侍、何も喋らなかったのではなく、喋れなかったのではないかと。
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