忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛

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第三章「田沼の計らい」

第八話「大奥入り」

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 この日文蔵は、江戸城は西の丸に来ていた。西の丸の主たる家重に仕える田沼意次に呼び出されたからである。大奥の失踪事件に関して田沼も調査に協力してくれていたので、それに関する事である。ちょうど文蔵も調査に進展があったので、都合が良い。

「さて、調べた事について伝えたいが、お主聞いておるか? 見つかったそうだが」

「ああ、聞いている。昨晩見つかったらしいな」

 そう、事件の発端は中臈に選ばれた美鈴の姿が大奥から消えた事にあるのだが、その美鈴が昨晩発見されたのだという。

 見つかったのは大奥内の井戸の中からで、見つかった時には瘦せ細っていたらしい。

 本人の言によると、朝早く身支度をするために水を汲んでいたら、うっかり井戸に落ちてしまったのだそうだ。そして昨晩やっと大奥勤めの女中に気付いてもらい、助け出されたのだ。

「と言う事で、めでたく復帰して、体力が戻り次第直ぐにでも上様の所に床入りするらしい。ま、めでたしめでたしってさ」

「ははは、それはめでたいですな……で、本音は?」

「馬鹿馬鹿しい。そんな偶然があるもんか。絶対怪しい。裏があるに決まっている」

 大奥側は将軍に指名された中臈候補が失踪したなどという不祥事を表にしたく無いため、美鈴が見つかった事を良い事に解決した事にしようとしている。だが、文蔵や田沼には納得いかなかった。

 井戸に落ちたとは言うが、これまで気付かれなかったものが数日して発見されるなどあるのだろうか。それに、井戸の中であるから水には困らないだろうが、食うものは何も無かったはずだ。多少の衰弱で済むものだろうか。死んでもおかしくはない。

「それを、大奥は自分達の失態を誤魔化したいから見て見ぬふりをしようとしている。それに大奥が事件は解決したと言っている以上、御広敷や我々としては手出しが出来ぬ。これは拙い」

「そして、それは今朝までの話。今は状況が変わっている。今頃、上様から大奥の滝川様あたりに話が行って、事件を有耶無耶にせず解決にあたるよう指示されているだろう」

「ぬ? それは本当か? それは凄いが何故上様が?」

 この一件は、事が表立たぬように隠密裏に調査していた。それが既に将軍の耳に達しているなど予想外だ。

「ああ、服部殿が先日事件について聞きに来た後、上様に言上したのだ」

「どうやって? 失礼だが田沼殿が上様に会うのは難しいように思えるぞ。いくら御目見え以上であっても、そうそう上様に会って意見を述べるなど出来ないだろう。いや、俺は単なる御家人だから実際のところは知らぬが」

「普通はな。上様に会うためには、旗本であっても申請しても相当の大身旗本か御目通りの理由が無ければ通らぬだろう」

「ならば何故?」

「簡単な事だ。家重様に同行して面会したのだ」

「ああ、なるほど。しかしよく上様に意見を述べる事が出来たな」

 将軍は様々な日課をこなし、自分の時間などほとんどないと言っても良い。だが、自分の妻子と会う事はその日課に含まれており、家重に小姓としてついていけば将軍と顔を合わせる事が出来る。

 だが、それは本来将軍とその世子の面会の場だ。一介の小姓が口を挟む様な差し出がましい事は本来許されないはずなのだが。

「家重様の事は知っているだろう。だからいつも家重様の代わりに話す役目の者がいるのだ。上様もその事は了承済みだ」

 家重は生まれつきの病気のためか、言葉を上手く発する事が出来ない。そのため、家重が自分の意思を発する時は文にして伝えるか、家重の意思を察する者が代行して伝えるのである。

 いつもは一番家重の意思を理解出来る大岡という男が同行していたのだが、この時ばかりは田沼が同行を申し出たのだ。そして大奥で起きている事件について将軍に報告し、解決のために動く事に関して許可を貰ったのだ。

「と言う事は、この件は家重様の発案で動いている事になっているのか?」

「その通りだ。流石に拙者独自の考えを上様に述べるのはならんからな」

「それはそうだろう」

 たかが小姓にすぎない田沼が、主が処遇んと面会するのを良い事にその席で自分の意見を述べるのは僭越である。ある意味公権力私的に横領しているといえ、役目を外されても文句は言えない。場合によっては謹慎やお叱り等の処分を受けるだろう。

 将軍とて田沼が述べた事が、家重の意思なのかどうかは判別出来ただろう。それでも田沼を処分しなかったのは、田沼の言が私心から出た事ではなくあくまで幕府を思っての事だと分かったからだ。それに、家重が田沼の発言を認めているため、実態としては兎も角、名目としては家重の発言と扱えるからであろう。

 それにしてもまだ十代の若さで、堂々と将軍に自分の意見を通したその胆力は恐るべきものである。これは出世するかもしれないと、文蔵は思った。

「もしかして、町奉行所の方にもその件は話しているのか?」

「直接は話していないが、上様の方から指示をするとおっしゃっていた。その分では、稲生様から話があったようだな」

「ああ、今月は非番だが、大奥の件に協力するようにお達しがあった。だから、同心の先輩方も調査に乗り出したのだ」

 急に文蔵が勤める定町廻りだけでなく、隠密廻りや臨時廻りも稲生に呼び出されて、事件を調べる様に言われた時には文蔵は内心驚いていた。しかも、優先して調査にあたれとの事だ。裏で何かあったとは予想していたが、まさか将軍からの指示だとは思わなかった。

「おかげで新たな事が判明した。美鈴の実家の者達。こいつらは偽物かもしれない」

「ほほう?」

 美鈴の実家の太物問屋である相模屋に関しては、文蔵がすでに聞き込みを行って調べていた。だが、文蔵は聞き込みなどの地道な調査に関しては素人に毛が生えたようなものだ。長年実務を担当していた先輩同心達には敵わない。

 粟口をはじめとする同心達は、相模屋やその周辺、取引先にも調査の手を伸ばした。そして怪しい点に気付いたのである。

「最近の事だが、相模屋が少し変わったそうだ」

「変わった? 使用人が見覚えの無い者になったとか、店を閉めて人気が無いとかそういう事か?」

「いや、そうではない。ああ、それに近いがな」

 粟口達の調べによれば、相模屋の主人や使用人達は、これまでと同じ様に商売を続けている。別の者になってもいないと周囲の者達も証言している。

 だが、取引先によると商売の癖に違和感があるというのだ。取引の内容は、中堅問屋の商売として常識の範囲内だ。だが、これまでの相模屋はもっとむらっけがあったのに、最近は堅実そのものだという事だ。まるで、こうした取引のやり方を平均通りなぞっているかのようだという。

「と言う事は、相模屋の中身が入れ替わったかのようであると言う事か?」

「その通りだ。外見は変化が無いのに、中身だけが注意しなければ分からない程度に変わっているというのが恐ろしいところだ」

 外見に何の変わりも無いのに中身だけが微妙に違う。なまじ外見が違っていたりするよりも、その背後にある闇の大きさを感じさせる。

「つまり、外見を完全に偽装し、商売上の取引も一見不審な点が無い程度に装う事の出来る者が事件に関わっているというのか。しかし、よくこんな事を調べ上げたな」

「ああ、同心の先輩がたが聞き込みして分かったんだ。よく調べ上げたというのには俺も同意するよ」

 取引相手が感じた違和感は、本当に微妙なものである。普通に聞き込みをしたのでは、聞き取り相手も話す気にならないだろう。そもそも聞かれた時にその様な事を思い出しすらしないだろう。

 これを聞き出せたのは、同心やその配下の岡っ引き達の聞き込みの技術が卓越していたからだ。本人が考えていなかった記憶の片隅にある事でさえ、巧みに聞き出す話術は並大抵の事ではない。単にお上の威光を笠に着るだけではこうはいかない。これまで江戸の町を守り続けて来た町奉行所の真価がここにある。

「そういう事になると、相模屋の連中をひっ捕らえて締め上げるのか?」

「そうもいかんらしい。まだ奴らが怪しいというのは心象にすぎないからな。もっと証拠を固めなければ強行捜査は出来ないだろう」

 となると、相模屋の更なる証拠を得るのが先か、大奥の方を調べ終わるのが先か、と言う事ですな」

「そういう事だ。相模屋の周囲には今張り込みをつけているので、何かあったらすぐに踏み込む手立てになっている。大奥の方はどうだろう。美鈴が戻って来たと言う事は進展があるはずなのだが」

 将軍がこの事件を知ったからには、美鈴の床入り自体を中止するという手もある。そうすれば、将軍と怪しげな女が接触するという最悪の事態を避けるのは容易い事だ。だが、彼女らの背後に何が控えているか分かったものではない。なるべく迅速に事件を解決するのが望まれる。

「どうにか大奥内部を直接調べてみたいな」

 大奥は男子禁制として有名だ。文蔵も自分の言っている事が不可能であるのは分かっている。御広敷は大奥で勤務する男の役人であるが、入り込めるのはほんの一部である。それを超えて侵入した場合、厳しい罰が待っているだろう。

「朱音を大奥に勤めさせる事は可能だろうか?」

 文蔵は思いつきを口に出した。男子禁制の間であれば、女を調査に入り込ませればよい。単純な理屈である。だが、誰もかれもが大奥に奉公できる訳ではない。基本的に武家の娘に限られるし、町家や百姓の娘が奉公に上がる場合は信用の出来る者が紹介し、旗本などの養女という体裁をとる事が必要だ。

 朱音は良家の娘どころか、香具師の娘である。大奥に入るなど夢のまた夢であろう。

「朱音とは、確か町入能の時に蛇を操っていた娘だな? おそらく可能だ」

「そうか可能か、そりゃあ……え? 出来るのか?」

「ああ、この件を調べ始めた時に幕閣の方々に伝手が出来てな。調査のために一時的にという条件なら大奥に入り込ませると言う事も可能だろう」

「それは凄いな。よくもこの短期間でそれだけの伝手を作ったものだ」

 先ほどの将軍に面会した時の話でも思ったのだが、若さゆえの行動力とは恐ろしいものだ。文蔵も物怖じしない性格ではあるが、田沼ほど積極的に動く事は出来ない。

「なに、方々へと付け届けをしたら、すんなり話が進んだのだ。服部殿の教えのおかげだ。感謝する」

「そ、そうか。あまり金を使い過ぎるなよ?」

「分かっているさ。大金を包むのではなく、相手やその妻子の好みを調べて送ったのだ。そうしたら効果覿面よ。こうも上手くいくと笑いが止まらんな」

 田沼は文蔵の助言を糧にして、上手く事を運んだようである。自分よりも年少の者が手柄を立てたのは嬉しいが、内容が内容なだけに少し心中が複雑である。

 若いだけにこの成功体験を妙な方向に受け取らなければ良いのだがと文蔵は不安になった。また、田沼は上手く節度を持った進物を贈るかもしれないが、下手に真似をする者が出てくると金の力だけで世の中が動きかねない。

 まあ田沼は所詮足軽の出であるため、そこまで幕府全体に影響を与える恐れは無いのが幸いであるが。

 そんな事をふと考えた文蔵だったが、今は大奥の事件の解決に注力する時だ。この後文蔵と田沼は、朱音の大奥入りについて詳細を詰め、更にもう一つの秘策について話し合ったのであった。
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