氷血辺境伯の溺愛オメガ

ちんすこう

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 ――逃げろ。逃げろ。逃げろ!

「はぁっ、はぁっ、は……ッ」
「逃げんじゃねえ、待てっ!」

 警備員たちが僕と北斗を追ってくる。

 奴隷館は、オーナーの領主様私有の洋館を改築し、商売向けにリフォームしたものだ。
 二階建ての上階に領主様やAランクのオメガたちが住み、下の階に下等オメガと館の使用人たちが暮らしている。
 土地じたいはおよそ二万平方メートル近くあり、その広大な敷地をぐるりと石塀が囲んでいる。その外に出るには、警備員が二十四時間見張っている正門をパスしないといけない。業者が使う裏門もあるけど、もちろんそこにも常に見張りが立っている。
 許可がなければ塀の外に出ることはまず不可能だ。

『普通に屋敷を出るならな』
『普通に?』

 首を傾げる僕に、北斗は口の端を持ち上げて笑った。

『逆を言うと、非常識な方法を使えば門番を避けられるってこと』
『どうやってやるの?』

 北斗が立てた作戦はこうだった。
 僕たちが脱出するのは、館がほぼ完全に消灯する午前五時。それまでは部屋で商売をしているオメガが多くいるので、動けない。
 いまは真冬で日の出の時間が遅いから、外が明るくなるのは午前七時頃だ。
 つまり、五時から七時までが一番安全な時間帯ということになる。この二時間弱のあいだに敷地内を脱出する。
 その方法っていうのが、

『正門と裏門、どっちからも遠い位置にある塀に穴を開けておいた』
『穴!?』

 北斗はニヤリと笑って頷く。

『一年前から、庭掃除をさせられるたびにチマチマ削ってきたんだ。開けた穴は物置から拾った廃材で隠してある。俺と果南ならそこをくぐれるから、そこから脱出するんだ。穴から外の様子も確認した。壁の外はなにもない平野で、そこを突っ切れば――国境だ』
『国境……! そこを一歩でも越えたら、僕たちはユスラ国への亡命者になれるんだよね』

 期待に満ちた目を向けると、北斗はしっかりと頷いた。

『ユスラ国は難民の受け入れに積極的だからな。それに、うちは軍事力で向こうに負けてるから、国境監視団もユスラ兵には強く出られない。脱走者が一線を超えたら手出ししてこないそうだ』

 この国のオメガたちは、みんな人生を諦めている。
 でも、その中のいくらかは暗い生活から脱却することを夢見ていた。そんな人々の間で、隣国は憧れの土地だった。

 ユスラ王国では、どんな性別の人間も平等だという。
 人はそれぞれの能力や人格で評価され、誰でもお金を払えば好きなものが買え、食べられて、どこへでも行ける。

 オメガが差別されない国。
 僕たちが人として扱われる場所。

 話で聞くだけじゃ信じられないような理想の世界だ。

『ユスラに行けば幸せになれるんだ』

 北斗は刃が欠けた包丁を足枷で研ぎながら言った。包丁は厨房で雑用をしているときに、廃棄されたものを盗んできたらしい。

『なあ、果南。新しい人生を一緒に切り拓こう。誰にも支配されない、邪魔な鎖もない世界で』

 夢物語みたいな言葉も、北斗の口から聞けば現実味があった。

『――うん。一緒に、だよ』

 僕が頷くと、北斗は鋭く尖って鋼色の光沢を放ち始めた包丁を、潰れたマットレスの下に押し込んだ。


「待てっ! オメガどもが、手こずらせんじゃねえ!」

 計画が狂った。

「果南、穴を抜けろ!」
「うんっ、君も早く!」

 北斗が言っていた穴は確かにあった。
 石塀の前に立て掛けられた木の板を押しのけると、人一人がやっと通り抜けられるくらいの穴がぽっかりと開いていた。
 そこをまずは小柄な僕が通って、それから一回り大きい北斗がやっとのことで抜け出した。
 後ろから追ってきた門番たちは、体が大きすぎてつっかえている。

「今のうちだ。走れ!」

 館に囚われてからはじめて見た外を、ぼうっと眺めている暇はない。ただ、前に進む。草原を駆け抜けて、その先の国境へ。
 本当ならまだ誰にも見つからずに済んでいたはずなのに。


『果南、お客様につきなさい』
『えっ?』

 曇り空を見ながら北斗と逃走計画を練った直後のことだった。
 突然部屋の扉を開いてそう言ったのは、テラテラした紫色のガウンを羽織り、綺麗なオメガの少年二人と腕を組んだ男だった。
 男は奴隷館のオーナーで、この辺り一帯を管理する領主様だ。領主様が下等オメガに直接会うことは滅多にないので、僕も北斗も呆然としていた。

『お客様はもうすでにお部屋に入られているから、体を洗ったらすぐ二階に来るように』
『へ……?』
『……っちょ、おい! 待てよ、こいつはまだヒートも出てないのにっ』
『黙りなさい』

 僕の前に立った北斗を領主様はぴしゃりと跳ねのけた。そしてフンッと鼻を鳴らした瞬間、ボールみたいなお腹がぶるんっと揺れて、はげ頭にしがみついた不自然な前髪がふわりと舞う。

『そういう未熟な子がお好みの旦那様なのだよ。分かったら、すぐに支度するように。それまでは私が接待しておく』
『変態野郎どもが……!』

 北斗の口のきき方は主人に対するそれではなかったが、領主様は取りあわずに部屋を出て行った。

『くそ! あのハゲッ……』
『落ち着いてよ北斗! 僕は大丈夫だからっ』

 勢いあまって壁を殴りつけた北斗を、慌ててなだめる。
 自分自身突然の話に混乱していたけど、いまは自分の体より脱出計画のほうが大事だった。

『僕、行ってくるよ。何時になるか分からないけど、ご奉仕が終わったらすぐ戻ってくる。それからここを出よう? 間に合わなかったら……北斗だけでも逃げて』
『ばかやろう』

 壁を殴った拳を緩めて、その手で僕の胸ぐらを掴み上げた。

『おまえが犠牲になったら意味がないんだ。俺と果南、二人でユスラに行く。それは、おまえが傷付けられてからじゃ遅い』
『北斗……』

 いつも強気で、怒るか顰めるかされている顔が、泣きそうに歪んでいた。

『実行だ。消灯は待てない、前倒しで作戦を決行する』
『そんな』

 北斗は僕を放し、マットレスの下に手を滑り込ませた。研ぎ澄まされた包丁を握る。

『急ぐぞ! あの太鼓腹ハゲが異変に気づくまで、そう時間はねぇ』

 そう言うと、僕の手足を繋ぐ鎖に包丁を振り下ろした。

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