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第五章 すれ違い

5 まみの涙

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「…で、まみちゃんが泣いていた、と。」

 月曜日の夜、日本人の店主がいる居酒屋…なのかラーメン屋なのか…はたまた定食屋なのか…よくわからないが、味は絶品というお店の一角で、ビールを飲みながら、高橋くんが言った。

 今朝、あまりに気落ちした様子の将生を見て、ピンと来た高橋くんは、将生の肩を抱くと速攻で今夜飲みに行く約束を取り付けた。
 そしてすぐに三枝さんに目で合図すると、三枝さんも親指を立てて頷いてくれた。

 ということで、3人でこのお店で夕飯兼飲み会をしているのである。

「それって、日曜の午後でしょう?」

 三枝さんが訊ねる。

「はい。昨日の午後です。マンションのメインビル1階にあるラウンジで、家庭教師候補と面会している時に。」

 将生は、食欲がないようで、おつまみの冷奴をつついているだけだった。
 ビールもほとんど進んでいない。


 昨日の午後、まみの家庭教師が男だったらどうしよう、という将生の余計な心配から、『晴斗のお散歩』という名目で、そっと相手を覗きに行ったのだった。
 すると、心配的中、教師は男性だったうえ、なんと、驚いたことに、まみが両手で顔を覆って泣いていたのだ。


 将生は本当にビックリして、ラウンジのガラス窓に張り付くところだったが、晴斗が歩かない将生に怒り出したので、我に帰った。

 晴斗を黙らせるために、そこを離れるふりをして、歩き回り、何回かそこを通った。何回目かには、まみは顔を上げて笑顔を見せてくれていたが、泣いていた事実は変わらない。

 その先生に酷いことを言われたのではないかと、後で合流したまみにそれとなく教師のことを聞いてみると『すごく優しくて良い先生だったのですが、時間帯が合わなくて…。残念ですが他の先生に当たろうと思います。』と話してくれた。

 ということは、酷いことを言われたわけではないのだろう。

 そうなると、まみはなぜ泣いていたのだろう。

 何かに悩んでいたとして、僕はそれを打ち明けてもらえないのだろうか。

 それこそ、初対面の知らない男には見せることができたのに。

 まみが何に悩んでいるのか(しかも泣くほど)、そしてそれは僕には言ってもらえないのか。というその2つを考えていたら、将生は眠れなかったし、元気も出なかった。



「昨日の午前中、何かあったんですか?」 

 高橋くんは、夕飯にしっかり中華丼を食べた後、ビールと枝豆に舌鼓をうちながら、話を聞いている。

「いや、昨日の午前中は、子どもを公園で遊ばせたり、水遊びをさせたりして、楽しく過ごしてました…。別におかしなところはなかったと思うんだけど…。」

 将生が答える。

「じゃあ、おとといの土曜日は?」

 高橋くんが追及する。

「それこそ、とても楽しく過ごしましたよ。朝から地下のプールへ行って、一緒に遊んで笑い合ってました。お昼はデパートで外食して、買い物もして。午後は昨日とはまた違った家庭教師候補と面会してましたが、やっぱり特別変わったところはなかったです…。」

 そう、まみはこの土日、全く変わったところは無かったのだ。

(…ん!でも何か引っかかる…。)

 将生が深く考え込みそうになった時、三枝さんが訊いてきた。

「じゃあ、もっと前からかな。その前の週はどうだったの?」

 その言葉に、将生はハッとする。

 そうだった。その前の週からまみの様子がおかしいと思っていたではないか。

 一度しっかり話し合いたい、と。

「そうだ!その前の週から、違和感を感じていたんだった!」

 将生が大きな声を出す。

 『違和感』が『まみのよそよそしさ』だったので、土曜日の午前中のプールにて、いつも通りのまみと楽しい時間を過ごせたことで、違和感を自分の勘違いだと思い込んでしまった。
 
 将生が『前の週』というワードを口にしたことで、高橋くんが、

「あー…じゃあ、アレかな…。」

 と、何やら意味深な言い方をする。

「えっ!?高橋くん、何か知ってるの?」

 将生は手元のビールをぶち撒けそうな勢いで高橋くんの方を向くと、身を乗り出して聞いてくる。

(またしても、僕じゃない他の男が知ってるのか…)

 将生は空腹にビールをチビチビ入れたため、本人が思っているよりずっと酔っ払っているようだ。

 感情を制御できない。

「いやいやいや…何も知らないですが…。あ、ちょっ、そのビール置いて下さいよ。返答次第では俺に頭からかけるつもりでしょ。いやいや、冷奴に持ち替えられても…大惨事ですからっ。」

 高橋くんはまず、将生の手にしたものを放させたり、上から押さえつけたりすることに集中する。

 これが、なかなかに上手い。

「まぁまぁ、伊藤くん。ちょっと落ち着いて。」

 三枝さんも、慌てて将生の前からお皿類を遠ざける。

 こういう場合、なんだかんだ言って、高橋くんじゃなくて、三枝さん自身がビールまみれ、はたまた冷奴爆弾を受けることになるのが、目に見えるように想像できてしまう。

「…いや、だから、連絡先交換とかもしてないですし…。」

 将生と高橋くんは、未だに手元にある皿の奪い合い、押さえ合いを続けている。
 三枝さんは、ハラハラしながら、合間隙間を縫って、一枚ずつお皿を抜き取って、2人から離れた場所に移動させている。
 
「あの…、ちょっと、ゆっくり話したいんで…一旦休憩で…。」

 三枝さんの活躍により、机上の割れ物がほとんど撤去されたため、将生は右手に楊枝入れを、左手にお手拭きを掴み、高橋くんは両方とも上から手を重ねて押さえ込んでいる。

 三枝さんは、楊枝とお手拭きなら良いだろう、と少し落ち着いて座り直す。

「…俺たち、見ようによっちゃ、手を繋いでるんですけど…。」

「…だね。離してくれるかな。」

「投げないって約束してくれますか?」

「…わかった。『今は』投げない。」

「…………。」

 将生が少し落ち着いたようにも見えたので、高橋くんは手を離し、椅子に深く座る。

 ビールをぐっと飲みたいところだが、手元には自分のお手拭きくらいしか無かった。

「…もー。物騒なんだから。俺が思ったのは、遊園地での様子についてですよ。」

 高橋くんは、おもむろに携帯を取り出すと、何やら操作し始める。

 そもそも、高橋くんは、昨日よりも先にまみが泣いているところを『聞いて』いる。

 でも、そのことをまみが隠したがっていたことも知っているので、今それを将生に伝えるつもりはなかった。
 そうではなくて、違った方向から、悩んでいるだろう問題を炙り出したかった。

「…あった。はい、コレ見てください。」

 いつでも投げられるようにと、楊枝入れとお手拭きを掴んだままの将生の前に、自分の携帯を見せる。

「えっ?えっ?これって…」

 ちゃっかり三枝さんが画面を覗き込み、画面を見ると、驚きながら携帯と将生を交互に指差す。そんな三枝さんをほったらかしで、将生は携帯に釘付けだ。

「……撮ってたんですか…。」

 たっぷり10秒はまばたきもせずに見つめていたかと思うと、ポツリと言った。

 画面の中の2人は、お化け屋敷から出て来たばかりのようで、まだ手を繋いでいた。

 まみは下を向きながら、とても嬉しそうに笑っていて、将生もそれこそ馬鹿みたいに満足そうな笑顔だった。

「…………。」

 高橋くんはその問いには答えなかった。

 代わりに、自分のその携帯を将生に持たせる。将生はしばらく、その画面をぼーっとしながら、見続けていた。


 将生がもう暴れそうにないと判断した三枝さんは、そっとビールやおつまみを元の位置に戻し始める。

 手始めに、高橋くんにビールを渡すと、高橋くんは嬉しそうにペコリ、と頭を下げ、ぐいっと飲んだ。

「…これが、泣いていた理由かなぁ。」

 高橋くんと三枝さんが、将生に気を遣って、喋らずにおつまみとビールを楽しんでいると、ふと将生が呟いた。

「うーん。言い切れないですが、それも一因かもしれませんよね。」

 『ごめんなさい』と言って泣いていたまみを知っている高橋くんとしては、『日本にいる恋人』や『将生』が原因であるような気がするのだが、本人に聞いたわけでもないので、推測の域を出ない。

「…こんなふうに思ったら、酷い人間なんだとは思うんだけど…。理由が僕なら嬉しいなぁ…。」

 それは、将生の紛れもない本音だった。

 そこには、そこはかとなく期待のようなものがあり、将生の顔は、困っていながら、先程よりもずっと柔らかい顔をしていた。

「まぁ、恋愛は綺麗事だけではないですからねぇ。」

 珍しく、三枝さんが発言する。

 三枝さんの意見は、いつも刺さるな、と将生は思う。

 そして、高橋くんの方に向き直ると、

「それはそうと、その画像、僕に下さい。」

 と真剣な顔でお願いする。両手をテーブルに着き、机におでこが当たるくらいの深い礼をしながらだ。

「えー。タダじゃあ、無理ですよねぇ。」

 高橋くんは、いつの間にか自分の携帯を取り戻し、手元でもて遊ぶ姿勢をとりながら返す。

「なんなら、今夜はおごります。」

 将生が真剣に返すと、

「それだけですかぁ?」

 高橋くんが図に乗ってくる。

「これ、けっこう今世紀最大のベストショットだと言っても過言ではないと思うんですよ。伊藤さんにとっては。それを今回の飲み代だけって…。あんまりじゃないですか?」

 元々は隠し撮りなので、そんなにいばれたものでは無いと思うのだが、将生はかなり嬉しいショットであったし、なんとしても手に入れたい、と思った。

 そのうえ、実はすでに高橋くんよりも酔っ払っていた。
 
「…わかりました。他に何を望みますか?」

 肘を曲げて両手を組み、その上に顎を乗せる。商談を取り交わすスタイルだ。

「今週1週間のお昼代はどうですかね?」

 高橋くんもノッてくる。

「のったぁぁっっ‼︎」

 将生が大声を出したうえ、右手で思い切りテーブルを叩いた。

「ふふふ。わかりました。それでは、今週のお昼と交換で、この写真をあげましょう。」

 高橋くんが、もったいぶりながら、ササっと携帯を操縦して、将生に画像を送った。

「おありがとうごさいます~~。」

 将生が高橋くんからの画像を確認する前に、頭を下げて、テーブルにおでこをくっつける。

  三枝さんは、2人のやりとりを面白がりながら見ていた。

(これ、絶対明日には2人とも忘れてるやつだ。)

 と三枝さんは確信する。

 将生はもちろん酔っているが、高橋くんもけっこう酔ってしまっていたらしい。
 2人は三枝さんに見守られながら、楽しいお酒を酌み交わし続けていた。




 案の定、翌朝、将生がLINEを確認すると、高橋くんから写真が送られてきていた。

 怪訝な顔をしながらその写真を開いてみると、なぜか三枝さん夫妻が遊園地で仲良く笑っているものだった。

 送信記録を見ると、ちょうど飲んでいたあたりの時間帯だ。

 何か大事なことを忘れている気がするのだが、思い出せない。

 思い出せないが、なんとなく心は軽く、胃は重い。どう考えても飲み過ぎたようだ。酒臭い自分を見せたくなくて、将生はいつもよりまみを避けて出社する。

 会社で高橋くんに聞いてみても、なんで写真を送ったのか、全く覚えていないそうだ。

 ただ、2人とも、とても楽しかったことだけはおぼろげに覚えている。

「今日のお昼はどっちが払うの?」

 三枝さんが試しに聞いてみると、2人ともピンと来ていない。

「まぁ、お昼の件はどっちでも良いけど、伊藤くんは、大事なことを思い出した方が良いよ。」

 と三枝さんがアドバイスする。

 もう一度昨日のくだりを話してあげた方が良いのだろうか。はたして将生はどこまで覚えているのだろう。三枝さんは、今日のお昼、3人で一緒に食べよう、と心に決めた。

 
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