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第2話
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眠りの深泉から浮上しても、リュシアンはぼんやりとしたまま、しばらくベッドから起き上がれなかった。
意識が明瞭になるにつれ、昨晩のことも徐々にはっきりと輪郭を見せた。
キス――された、と、そこまではなんとなく覚えている。
そのあとは……不覚としか言いようがない。
まさかヴァンパイアの血が歓喜に沸いた所為で気を失うだなんて、とんだ失態だった。
これだから吸血衝動は厄介だ。
あまりにもあまりにもご無沙汰すぎる感覚だったため、どうにも制御ができなかった。
人間でたとえるなら、風呂でのぼせ上がってしまったという状態なのだろう。
そもそも狙いを定めた獲物のほうから急接近してきのだ。ほぼ吸血行為初心者の自分に、とっさに対応できるすべなどあろうはずもない。
――だとしても、情けない。
腕を上げてみると、夜着に着替えていず、着衣は昨日のままだとわかる。
あの神父がここまで運んでくれたのだろうか。
疑問の余地はないが、それにしてもほとんど同じ体格の男を、一階から二階に運ぶのは大変だったと思う。手を煩わせてしまったことは赤面ものである
本心としては、気を失っても自分の足で歩いて部屋に戻ったと、かなり切実に思いたいところなのだが、現実は願望どおりにいかなことを理性の隅で理解していた。
首を動かし、窓のほうを見る。
それほど厚みのないカーテンは陽光を透かし、今日がいい天気だと教えてくれる。明るさから、すでに日が高いこともわかった。
リュシアンはいまだ目覚めきれない頭を抱え、それでもとにかく起きることにした。
パジャマの代わりにされたシャツは皺がひどい。
このあたりは湿度が高いので、いくら天気がよくても、今日洗濯して明朝乾くとは限らない。
仕方なく部屋に備え付けの洋箪笥を開く。先日、お仕事会で教会にやって来た婦人たちに、アイロンをかけてもらったシャツが吊るされてあった。
思えば、この町の人には男女問わず、ずいぶんとよくしてもらった。
脱いだシャツを丁寧に畳んでいると、ああ、と顔を上げる。
そういえば旅支度をしなければ。
リュシアンと長い年月を共にしたトランクが、箪笥の脇で静かに出番を待っていた。
出発は翌日の朝と決めた。
本当は夜がよかったのだが、予定外に長くこの町に滞在したため、いつもより町の人と深く交わりを持ってしまったのだ。そうすると、ただでさえ不自然な夜の旅立ちが、いっそう目を引くので、断念せざるを得なかった。
まだ頭はすっきりしないけれど、着替えを済ませたリュシアンはカーテンを開ける。
陽射しの明るさに反射的に目を閉じて、顔を背けた。
それもすぐに慣れ、窓の止め金をカチリと外す。
窓は裏庭に面していた。
なんとはなしに視線を下げると――
ドキリとした。
花壇の前で、中年の女性と話をしている神父が、こちらを見ていたのだ。
リュシアンの視力は、本当は決して悪くない。というよりも個人的体質によるのか、はたまた種族的構造なのか、悪くなりようがないのだ。それでも眼鏡をかけているのは、ひとえに顔の印象を変えるためでしかない。
だから、はっきりと、見えた。
神父はにこやかに談笑するふりをして、あのひとつだけのスカイブルーでリュシアンの双眸を捉えていた。
…何もかもを見透かされている気がしてならない。
落ち着かない気分にさせられる。
たとえるなら、痛くもない腹を探られるような…
ひょっとして――と、リュシアンは神父の目に釘づけになったまま、思うように稼動してくれない思考を急き立てる。
昨夜、何かしでかしてしまったのだろうか。
自分が覚えていないだけで、もしかするとすでに噛んでしまった、なんてことはないだろうか。
いや、それはないと即座に否定する。
血を吸われた人間が、一夜しか経っていないのに、あれほど元気であるはずはない。
ということは、噛まないまでも、己の本性、もしくはその片鱗を見せてしまったのだろうか。
……覚えていない。
リュシアンは自分を呪いたい気分になった。
覚えていない。
何も思い出せない。
神父が触れていった唇の感触も、あまり覚えていないことに、ここにきて気づいた。
一旦気がつくと、何故だか急に、せつないまでもの喪失感で胸を締めつけられた。
それは失望にも似て、けれども決して歓迎せざる感情ではないことを、リュシアンに甘くささやきかけてきた。
リュシアンはシャツの上から心臓のあたりをキュッと握る。
神父は時折女性に視線を戻しつつも、リュシアンの視線が離れることを許さなかった。
透明度の高いスカイブルーの瞳が何を語っているのか、何が語りたいのかを知りたくて、しかし知ってはいけない気もして、リュシアンは身体を切り落とすようにして、窓から離れた。
意識が明瞭になるにつれ、昨晩のことも徐々にはっきりと輪郭を見せた。
キス――された、と、そこまではなんとなく覚えている。
そのあとは……不覚としか言いようがない。
まさかヴァンパイアの血が歓喜に沸いた所為で気を失うだなんて、とんだ失態だった。
これだから吸血衝動は厄介だ。
あまりにもあまりにもご無沙汰すぎる感覚だったため、どうにも制御ができなかった。
人間でたとえるなら、風呂でのぼせ上がってしまったという状態なのだろう。
そもそも狙いを定めた獲物のほうから急接近してきのだ。ほぼ吸血行為初心者の自分に、とっさに対応できるすべなどあろうはずもない。
――だとしても、情けない。
腕を上げてみると、夜着に着替えていず、着衣は昨日のままだとわかる。
あの神父がここまで運んでくれたのだろうか。
疑問の余地はないが、それにしてもほとんど同じ体格の男を、一階から二階に運ぶのは大変だったと思う。手を煩わせてしまったことは赤面ものである
本心としては、気を失っても自分の足で歩いて部屋に戻ったと、かなり切実に思いたいところなのだが、現実は願望どおりにいかなことを理性の隅で理解していた。
首を動かし、窓のほうを見る。
それほど厚みのないカーテンは陽光を透かし、今日がいい天気だと教えてくれる。明るさから、すでに日が高いこともわかった。
リュシアンはいまだ目覚めきれない頭を抱え、それでもとにかく起きることにした。
パジャマの代わりにされたシャツは皺がひどい。
このあたりは湿度が高いので、いくら天気がよくても、今日洗濯して明朝乾くとは限らない。
仕方なく部屋に備え付けの洋箪笥を開く。先日、お仕事会で教会にやって来た婦人たちに、アイロンをかけてもらったシャツが吊るされてあった。
思えば、この町の人には男女問わず、ずいぶんとよくしてもらった。
脱いだシャツを丁寧に畳んでいると、ああ、と顔を上げる。
そういえば旅支度をしなければ。
リュシアンと長い年月を共にしたトランクが、箪笥の脇で静かに出番を待っていた。
出発は翌日の朝と決めた。
本当は夜がよかったのだが、予定外に長くこの町に滞在したため、いつもより町の人と深く交わりを持ってしまったのだ。そうすると、ただでさえ不自然な夜の旅立ちが、いっそう目を引くので、断念せざるを得なかった。
まだ頭はすっきりしないけれど、着替えを済ませたリュシアンはカーテンを開ける。
陽射しの明るさに反射的に目を閉じて、顔を背けた。
それもすぐに慣れ、窓の止め金をカチリと外す。
窓は裏庭に面していた。
なんとはなしに視線を下げると――
ドキリとした。
花壇の前で、中年の女性と話をしている神父が、こちらを見ていたのだ。
リュシアンの視力は、本当は決して悪くない。というよりも個人的体質によるのか、はたまた種族的構造なのか、悪くなりようがないのだ。それでも眼鏡をかけているのは、ひとえに顔の印象を変えるためでしかない。
だから、はっきりと、見えた。
神父はにこやかに談笑するふりをして、あのひとつだけのスカイブルーでリュシアンの双眸を捉えていた。
…何もかもを見透かされている気がしてならない。
落ち着かない気分にさせられる。
たとえるなら、痛くもない腹を探られるような…
ひょっとして――と、リュシアンは神父の目に釘づけになったまま、思うように稼動してくれない思考を急き立てる。
昨夜、何かしでかしてしまったのだろうか。
自分が覚えていないだけで、もしかするとすでに噛んでしまった、なんてことはないだろうか。
いや、それはないと即座に否定する。
血を吸われた人間が、一夜しか経っていないのに、あれほど元気であるはずはない。
ということは、噛まないまでも、己の本性、もしくはその片鱗を見せてしまったのだろうか。
……覚えていない。
リュシアンは自分を呪いたい気分になった。
覚えていない。
何も思い出せない。
神父が触れていった唇の感触も、あまり覚えていないことに、ここにきて気づいた。
一旦気がつくと、何故だか急に、せつないまでもの喪失感で胸を締めつけられた。
それは失望にも似て、けれども決して歓迎せざる感情ではないことを、リュシアンに甘くささやきかけてきた。
リュシアンはシャツの上から心臓のあたりをキュッと握る。
神父は時折女性に視線を戻しつつも、リュシアンの視線が離れることを許さなかった。
透明度の高いスカイブルーの瞳が何を語っているのか、何が語りたいのかを知りたくて、しかし知ってはいけない気もして、リュシアンは身体を切り落とすようにして、窓から離れた。
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