とわに

空居アオ

文字の大きさ
上 下
6 / 18
第2話

-2-

しおりを挟む
 眠りの深泉から浮上しても、リュシアンはぼんやりとしたまま、しばらくベッドから起き上がれなかった。
 意識が明瞭になるにつれ、昨晩のことも徐々にはっきりと輪郭を見せた。
 キス――された、と、そこまではなんとなく覚えている。
 そのあとは……不覚としか言いようがない。

 まさかヴァンパイアの血が歓喜に沸いた所為で気を失うだなんて、とんだ失態だった。
 これだから吸血衝動は厄介だ。
 あまりにもあまりにもご無沙汰すぎる感覚だったため、どうにも制御ができなかった。
 人間でたとえるなら、風呂でのぼせ上がってしまったという状態なのだろう。
 そもそも狙いを定めた獲物のほうから急接近してきのだ。ほぼ吸血行為初心者の自分に、とっさに対応できるすべなどあろうはずもない。

 ――だとしても、情けない。

 腕を上げてみると、夜着に着替えていず、着衣は昨日のままだとわかる。
 あの神父がここまで運んでくれたのだろうか。
 疑問の余地はないが、それにしてもほとんど同じ体格の男を、一階から二階に運ぶのは大変だったと思う。手を煩わせてしまったことは赤面ものである
 本心としては、気を失っても自分の足で歩いて部屋に戻ったと、かなり切実に思いたいところなのだが、現実は願望どおりにいかなことを理性の隅で理解していた。

 首を動かし、窓のほうを見る。
 それほど厚みのないカーテンは陽光を透かし、今日がいい天気だと教えてくれる。明るさから、すでに日が高いこともわかった。

 リュシアンはいまだ目覚めきれない頭を抱え、それでもとにかく起きることにした。
 パジャマの代わりにされたシャツは皺がひどい。
 このあたりは湿度が高いので、いくら天気がよくても、今日洗濯して明朝乾くとは限らない。
 仕方なく部屋に備え付けの洋箪笥を開く。先日、お仕事会で教会にやって来た婦人たちに、アイロンをかけてもらったシャツが吊るされてあった。
 思えば、この町の人には男女問わず、ずいぶんとよくしてもらった。
 脱いだシャツを丁寧に畳んでいると、ああ、と顔を上げる。
 そういえば旅支度をしなければ。
 リュシアンと長い年月を共にしたトランクが、箪笥の脇で静かに出番を待っていた。


 出発は翌日の朝と決めた。
 本当は夜がよかったのだが、予定外に長くこの町に滞在したため、いつもより町の人と深く交わりを持ってしまったのだ。そうすると、ただでさえ不自然な夜の旅立ちが、いっそう目を引くので、断念せざるを得なかった。


 まだ頭はすっきりしないけれど、着替えを済ませたリュシアンはカーテンを開ける。
 陽射しの明るさに反射的に目を閉じて、顔を背けた。
 それもすぐに慣れ、窓の止め金をカチリと外す。
 窓は裏庭に面していた。
 なんとはなしに視線を下げると――

 ドキリとした。

 花壇の前で、中年の女性と話をしている神父が、こちらを見ていたのだ。
 リュシアンの視力は、本当は決して悪くない。というよりも個人的体質によるのか、はたまた種族的構造なのか、悪くなりようがないのだ。それでも眼鏡をかけているのは、ひとえに顔の印象を変えるためでしかない。
 だから、はっきりと、見えた。
 神父はにこやかに談笑するふりをして、あのひとつだけのスカイブルーでリュシアンの双眸を捉えていた。
 …何もかもを見透かされている気がしてならない。
 落ち着かない気分にさせられる。
 たとえるなら、痛くもない腹を探られるような…

 ひょっとして――と、リュシアンは神父の目に釘づけになったまま、思うように稼動してくれない思考を急き立てる。
 昨夜ゆうべ、何かしでかしてしまったのだろうか。
 自分が覚えていないだけで、もしかするとすでに噛んでしまった、なんてことはないだろうか。
 いや、それはないと即座に否定する。
 血を吸われた人間が、一夜しか経っていないのに、あれほど元気であるはずはない。
 ということは、噛まないまでも、己の本性、もしくはその片鱗を見せてしまったのだろうか。
 ……覚えていない。
 リュシアンは自分を呪いたい気分になった。

 覚えていない。
 何も思い出せない。

 神父が触れていった唇の感触も、あまり覚えていないことに、ここにきて気づいた。

 一旦気がつくと、何故だか急に、せつないまでもの喪失感で胸を締めつけられた。
 それは失望にも似て、けれども決して歓迎せざる感情ではないことを、リュシアンに甘くささやきかけてきた。

 リュシアンはシャツの上から心臓のあたりをキュッと握る。
 神父は時折女性に視線を戻しつつも、リュシアンの視線が離れることを許さなかった。
 透明度の高いスカイブルーの瞳が何を語っているのか、何が語りたいのかを知りたくて、しかし知ってはいけない気もして、リュシアンは身体を切り落とすようにして、窓から離れた。


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ずっとしたかった異世界転生!その夢叶いました

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:677

異世界転移料理人は、錬金術師カピバラとスローライフを送りたい。

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:353

絶対防御とイメージ転送で異世界を乗り切ります

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:119

凶気の呼び声~狭間の世界にうごめく者~

ミステリー / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:4

イミテーション

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:2

妹ばかり見ている婚約者はもういりません

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:52,867pt お気に入り:6,798

人災派遣のフレイムアップ

経済・企業 / 連載中 24h.ポイント:142pt お気に入り:26

怪異の忘れ物

ホラー / 連載中 24h.ポイント:298pt お気に入り:31

田楽屋のぶの店先日記〜殿ちびちゃん参るの巻〜

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:203

処理中です...