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第四章 試練
23. 礼拝堂にて
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俺とアレス様の日々は、穏やかに過ぎていった。
体のつながりはないけれども、心のつながりは確かにある。そのことを俺は誇らしく思った。
ラベンダーのアイピローの効果だろうか。最近のアレス様は寝つきがよくて、うなされることがない。
小鳥のさえずりが聞こえる夫夫の寝室で、俺はアレス様と抱き合った。
「フィーラン殿。おかげさまで、昨夜はぐっすり眠れました」
「よかった」
「悪夢を見ることもなかったです。アイピローのおかげですね」
アレス様は俺に軽く口づけると、体を離した。
「朝の稽古に行って参ります」
「いってらっしゃい。俺は礼拝堂に行ってきます。アレス様の安眠が続くように、万象の神々に祈りを捧げないと」
「……私のために祈ってくださるのですか? あなたはやはり天使だ」
再びキスをする雰囲気になりかけたところで、従者のリネルが迎えに来た。アレス様は爽やかな微笑みを残して去っていった。
俺は寝室を出て、階段を下りた。
正面玄関に近づくと、警備を担当している若い従者が俺に敬礼をした。
「そんなに畏まらないで」
「若奥様。どちらへ行かれるのですか?」
「ちょっと礼拝堂まで」
「最近、ゼガルド領で幻獣が頻繁に出没していると聞きます。人間界と幻獣界の境界が曖昧になっているようです」
「そうか。気をつけるよ」
「若奥様に何かあったら、アレス様は立ち直れなくなります。どうか身の安全を最優先に考えてください」
「分かった」
俺は気を引き締めて、中庭を歩き出した。
庭の小道を抜けたところに礼拝堂が建っている。
俺は礼拝堂の扉を開けて、中に足を踏み入れた。誰もいない会衆席の最前列に座る。静寂に包まれた俺は、己の精神が研ぎ澄まされていくのを感じた。
目を閉じて聖句を唱える。
「わが身は嵐にたゆたう小舟なり。万象の神々よ、憐れみたまえ」
どうかアレス様がこの先、戦に駆り出されることがありませんように。仲間を失う悲しみを味わうという悲劇が、もう二度と起きませんように。
アレス様にはいつも優しく微笑んでいてもらいたい。
あの美しい藍色の瞳に映るのが平和な景色でありますように。
いつしか俺の両目は潤み始めた。
アレス様は魔族との戦いで、仲間を亡くした。心の傷がたやすく癒えることはないだろう。
俺がすべきこと、それは──。
アレス様の望みどおり、天使になることだ。
万象の神々よ。どうか俺の胸の中から、欲望を取り去ってください。アレス様の願いどおり、俺は純潔を保ちます。
「呆れた嘘つきがいたものだ」
耳にねっとりと絡みつくような声が聞こえたので、俺は顔を上げた。祭壇に人影が立っている。光沢がある黒いローブを纏った男だった。狡猾そうな顔立ちには見覚えがある。
「もしかして……イルギノ様?」
アレス様と出会った宮廷舞踏会で、俺にヒート誘発剤を盛ろうとした人物だ。
「なぜここに?」
「転移石に命じたのさ。強い欲望に支配された人間の元に連れて行けと。そうしたら、きみがいたというわけだ」
「あなたは一体……!?」
「放蕩が過ぎると言われて、侯爵家から追放されたんだ。今は商人をやっている。表には出てこないような珍しい品をたくさん扱っているよ。さあ、お客様。きみが欲しいものを当ててみせようか?」
イルギノ様が近づいてきた。
熟れた果実のような甘い匂いが漂ってくる。この香りは危険だ。早く逃げないと! 本能が警鐘を鳴らしたが、俺は指一本動かすことができなかった。その場にとどまり、怪しい芳香を吸い込んでしまう。
イルギノ様は満足そうに目を細めた。
「いいねぇ、きみの表情。欲望を恐れるあまり、かえって欲望に囚われている」
「礼拝堂は祈りの場所です。退出してください!」
「きみ、処女の匂いがするね。むせ返りそうなほどに濃く匂っている。確か、ゼガルド辺境伯の小倅と結婚したんだよね? なのにどうして未通なのかな? 旦那に愛されていないのかい?」
「……やめろ。それ以上、喋るな!」
俺は耳を塞いだ。
しかし、イルギノ様の声が頭の中に直接響いてくる。
「もうそんな風に悲しい顔をするのはよしなさい。僕がきみにいいものをあげる」
イルギノ様が紡錘形の小瓶を手渡してきた。ガラス製の小瓶に満ちているのは、ピンク色の液体だった。
「これはね、ラット誘発剤だ。こいつを吸わせれば、きみの愛しい旦那様はアソコがギンギンになるよ」
「……俺はそんなもの欲しくはない!」
「素直じゃないね。きみの頭の中は、旦那のおち×ちんでいっぱいのくせに」
「黙れ! あんたに俺とアレス様の何が分かるって言うんだ!」
俺はイルギノ様を怒鳴りつけた。残響に重なって、礼拝堂の扉が開く音が聞こえた。
「フィーラン殿? その者は一体……!?」
アレス様が現れた。駆け足で俺の元に近づいてくる。
イルギノ様がニヤリと笑った。そして、俺の手からラット誘発剤が入った小瓶を奪い取った。
「アレス様、来てはダメです!」
俺の叫び声をかき消すように、ガラスが割れる大きな音が礼拝堂に響き渡った。ピンク色の液体が床を濡らす。むんと香ってきた濃厚な匂いに、俺は顔をしかめた。
イルギノ様が高らかに笑った。
「さあ、ラット誘発剤を吸い込め。ゼガルドの小倅よ。そしてケダモノみたいにヘコヘコ腰を振るがいい! 僕の前でな!」
アレス様が片膝を突いて、苦しそうに胸を押さえた。
体のつながりはないけれども、心のつながりは確かにある。そのことを俺は誇らしく思った。
ラベンダーのアイピローの効果だろうか。最近のアレス様は寝つきがよくて、うなされることがない。
小鳥のさえずりが聞こえる夫夫の寝室で、俺はアレス様と抱き合った。
「フィーラン殿。おかげさまで、昨夜はぐっすり眠れました」
「よかった」
「悪夢を見ることもなかったです。アイピローのおかげですね」
アレス様は俺に軽く口づけると、体を離した。
「朝の稽古に行って参ります」
「いってらっしゃい。俺は礼拝堂に行ってきます。アレス様の安眠が続くように、万象の神々に祈りを捧げないと」
「……私のために祈ってくださるのですか? あなたはやはり天使だ」
再びキスをする雰囲気になりかけたところで、従者のリネルが迎えに来た。アレス様は爽やかな微笑みを残して去っていった。
俺は寝室を出て、階段を下りた。
正面玄関に近づくと、警備を担当している若い従者が俺に敬礼をした。
「そんなに畏まらないで」
「若奥様。どちらへ行かれるのですか?」
「ちょっと礼拝堂まで」
「最近、ゼガルド領で幻獣が頻繁に出没していると聞きます。人間界と幻獣界の境界が曖昧になっているようです」
「そうか。気をつけるよ」
「若奥様に何かあったら、アレス様は立ち直れなくなります。どうか身の安全を最優先に考えてください」
「分かった」
俺は気を引き締めて、中庭を歩き出した。
庭の小道を抜けたところに礼拝堂が建っている。
俺は礼拝堂の扉を開けて、中に足を踏み入れた。誰もいない会衆席の最前列に座る。静寂に包まれた俺は、己の精神が研ぎ澄まされていくのを感じた。
目を閉じて聖句を唱える。
「わが身は嵐にたゆたう小舟なり。万象の神々よ、憐れみたまえ」
どうかアレス様がこの先、戦に駆り出されることがありませんように。仲間を失う悲しみを味わうという悲劇が、もう二度と起きませんように。
アレス様にはいつも優しく微笑んでいてもらいたい。
あの美しい藍色の瞳に映るのが平和な景色でありますように。
いつしか俺の両目は潤み始めた。
アレス様は魔族との戦いで、仲間を亡くした。心の傷がたやすく癒えることはないだろう。
俺がすべきこと、それは──。
アレス様の望みどおり、天使になることだ。
万象の神々よ。どうか俺の胸の中から、欲望を取り去ってください。アレス様の願いどおり、俺は純潔を保ちます。
「呆れた嘘つきがいたものだ」
耳にねっとりと絡みつくような声が聞こえたので、俺は顔を上げた。祭壇に人影が立っている。光沢がある黒いローブを纏った男だった。狡猾そうな顔立ちには見覚えがある。
「もしかして……イルギノ様?」
アレス様と出会った宮廷舞踏会で、俺にヒート誘発剤を盛ろうとした人物だ。
「なぜここに?」
「転移石に命じたのさ。強い欲望に支配された人間の元に連れて行けと。そうしたら、きみがいたというわけだ」
「あなたは一体……!?」
「放蕩が過ぎると言われて、侯爵家から追放されたんだ。今は商人をやっている。表には出てこないような珍しい品をたくさん扱っているよ。さあ、お客様。きみが欲しいものを当ててみせようか?」
イルギノ様が近づいてきた。
熟れた果実のような甘い匂いが漂ってくる。この香りは危険だ。早く逃げないと! 本能が警鐘を鳴らしたが、俺は指一本動かすことができなかった。その場にとどまり、怪しい芳香を吸い込んでしまう。
イルギノ様は満足そうに目を細めた。
「いいねぇ、きみの表情。欲望を恐れるあまり、かえって欲望に囚われている」
「礼拝堂は祈りの場所です。退出してください!」
「きみ、処女の匂いがするね。むせ返りそうなほどに濃く匂っている。確か、ゼガルド辺境伯の小倅と結婚したんだよね? なのにどうして未通なのかな? 旦那に愛されていないのかい?」
「……やめろ。それ以上、喋るな!」
俺は耳を塞いだ。
しかし、イルギノ様の声が頭の中に直接響いてくる。
「もうそんな風に悲しい顔をするのはよしなさい。僕がきみにいいものをあげる」
イルギノ様が紡錘形の小瓶を手渡してきた。ガラス製の小瓶に満ちているのは、ピンク色の液体だった。
「これはね、ラット誘発剤だ。こいつを吸わせれば、きみの愛しい旦那様はアソコがギンギンになるよ」
「……俺はそんなもの欲しくはない!」
「素直じゃないね。きみの頭の中は、旦那のおち×ちんでいっぱいのくせに」
「黙れ! あんたに俺とアレス様の何が分かるって言うんだ!」
俺はイルギノ様を怒鳴りつけた。残響に重なって、礼拝堂の扉が開く音が聞こえた。
「フィーラン殿? その者は一体……!?」
アレス様が現れた。駆け足で俺の元に近づいてくる。
イルギノ様がニヤリと笑った。そして、俺の手からラット誘発剤が入った小瓶を奪い取った。
「アレス様、来てはダメです!」
俺の叫び声をかき消すように、ガラスが割れる大きな音が礼拝堂に響き渡った。ピンク色の液体が床を濡らす。むんと香ってきた濃厚な匂いに、俺は顔をしかめた。
イルギノ様が高らかに笑った。
「さあ、ラット誘発剤を吸い込め。ゼガルドの小倅よ。そしてケダモノみたいにヘコヘコ腰を振るがいい! 僕の前でな!」
アレス様が片膝を突いて、苦しそうに胸を押さえた。
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