10 / 28
交渉
しおりを挟む
私室をもらった。私だけの、私のための部屋。4階の東で、ティアの部屋からひとつ間を空けた部屋。隣の隣。家具は要望があればリストからどれでも追加してくれて構わないと(サクラに)言われた。最初に設置した白のベッドは、シンプルだけど大きい。ぐっすり眠れる。
てっきり私室をもらえないまま暮らしていくものだと思っていたから……素直に嬉しかった。サクラとの約束の見返りだとしても。
——しかし、
『……今、なんて……?』
借りていた本を図書室に戻しに行って、偶然にも(……偶然にも?)サクラに出くわし、ベッドについて感謝したところ。
サクラの口から出た言葉が、理解できる言語であるはずなのに、魔法の呪文みたいに聞こえて聞き返していた。
『今夜、私と共に寝てくれないか』
……こんや、わたしとともに、ねてくれないか?
2度目も同じ。理解が及ぶまでかなりの時間をさいて、ようやく戸惑いとかすかな恐怖が浮かんだ。私のこわばった頬に気づいたのか、サクラは、
『——ああ、性交渉を求めているわけではないよ。試してみたいことがあってね……私の隣で寝てもらえないか?』
『……それは……』
——なんのために?
目で訴えたが、伝わらなかったようで、
『もちろん、断ってくれても構わない』
意外な言葉が。断ってもいいのか。逃げ道が見えた途端、肩の力が抜けていく。すこし拍子抜けしたような気持ちで、それならやんわり断ってしまおうと口を開き、——しかし、なぜかサクラが微笑んだ。
『——伝え損ねていたね? 当然の話だが、受けるなら、お前に報酬を用意しよう』
『……ほうしゅう?』
『これは交渉と思ってくれればいい。私の所持リストから、お前が希望する物をあげよう』
『……欲しい物なんて……』
ない。最大の希望である私室をすでに得た私が、サクラと寝るという心臓に悪いことをしてまで欲しいものなんて、絶対にない。
心のなかで断言していると、サクラの指先がするりと空間を撫でた。私の目の前に、何か小箱みたいな映像が……
『これは、とても稀少なバターらしくてね。一般の市場には流通しておらず、メルウィンは存在を知っているだろうが……口にしたことはないだろうな』
くるんっと。立体の箱が回ってみせる。
更にもうひとつ、銀の袋に包まれたような物も出現し、
『こちらは、似たような価値の小麦粉だね。かつて高価な物であった——ということだけ、伝えておこう』
非常に高価そうな雰囲気の、小麦粉。
並んだふたつの食材が、“パン! ぼくたち美味しいパンになるよ! ぜったいだよ!”メルウィンの声で何か囁いている。きらきらと幻の輝きまで見える。
『今、返事をもらえるなら——ひとつと言わず、両方とも渡そうか』
美しい、ほほえみ。
絵画のような完璧な微笑なのに、悪魔の誘惑。
…………いや、そんな、こんな物で。
いくらなんでも……いや、でも。
『……隣で、寝るだけですか?』
『ああ、寝るだけだ』
『……怖いことは、何も……?』
『何もしないと、約束しよう』
『………………』
§
翌日。
「えっ! アリスさん、このバターと小麦粉どうしたんですかっ?」
「……さくらさんに、もらいました」
「ぇえっ? すごいですね! これってとってもとっても貴重な物なんですよ! 幻のバターって言われていて……僕も初めて見ました!」
「……これで、ぱんを、つくる?」
「それは最高ですねっ! あっ、でも焼くなんてもったいないかな? ……焼いたあとに塗るほうが……?」
興奮ぎみにレシピを吟味するメルウィンの横で、ふたつの食材を見つめつつ彼女は吐息をもらした。
何もなかった。昨夜は本当に、ただ隣で眠っただけ。——それでも。
(なにか、大切なものを失った気がする……)
人としてのプライドというのだろうか。言いえない喪失感。けれども、今から待ち受ける幸福の食事を前に、口と胃はわくわくとしていた。
てっきり私室をもらえないまま暮らしていくものだと思っていたから……素直に嬉しかった。サクラとの約束の見返りだとしても。
——しかし、
『……今、なんて……?』
借りていた本を図書室に戻しに行って、偶然にも(……偶然にも?)サクラに出くわし、ベッドについて感謝したところ。
サクラの口から出た言葉が、理解できる言語であるはずなのに、魔法の呪文みたいに聞こえて聞き返していた。
『今夜、私と共に寝てくれないか』
……こんや、わたしとともに、ねてくれないか?
2度目も同じ。理解が及ぶまでかなりの時間をさいて、ようやく戸惑いとかすかな恐怖が浮かんだ。私のこわばった頬に気づいたのか、サクラは、
『——ああ、性交渉を求めているわけではないよ。試してみたいことがあってね……私の隣で寝てもらえないか?』
『……それは……』
——なんのために?
目で訴えたが、伝わらなかったようで、
『もちろん、断ってくれても構わない』
意外な言葉が。断ってもいいのか。逃げ道が見えた途端、肩の力が抜けていく。すこし拍子抜けしたような気持ちで、それならやんわり断ってしまおうと口を開き、——しかし、なぜかサクラが微笑んだ。
『——伝え損ねていたね? 当然の話だが、受けるなら、お前に報酬を用意しよう』
『……ほうしゅう?』
『これは交渉と思ってくれればいい。私の所持リストから、お前が希望する物をあげよう』
『……欲しい物なんて……』
ない。最大の希望である私室をすでに得た私が、サクラと寝るという心臓に悪いことをしてまで欲しいものなんて、絶対にない。
心のなかで断言していると、サクラの指先がするりと空間を撫でた。私の目の前に、何か小箱みたいな映像が……
『これは、とても稀少なバターらしくてね。一般の市場には流通しておらず、メルウィンは存在を知っているだろうが……口にしたことはないだろうな』
くるんっと。立体の箱が回ってみせる。
更にもうひとつ、銀の袋に包まれたような物も出現し、
『こちらは、似たような価値の小麦粉だね。かつて高価な物であった——ということだけ、伝えておこう』
非常に高価そうな雰囲気の、小麦粉。
並んだふたつの食材が、“パン! ぼくたち美味しいパンになるよ! ぜったいだよ!”メルウィンの声で何か囁いている。きらきらと幻の輝きまで見える。
『今、返事をもらえるなら——ひとつと言わず、両方とも渡そうか』
美しい、ほほえみ。
絵画のような完璧な微笑なのに、悪魔の誘惑。
…………いや、そんな、こんな物で。
いくらなんでも……いや、でも。
『……隣で、寝るだけですか?』
『ああ、寝るだけだ』
『……怖いことは、何も……?』
『何もしないと、約束しよう』
『………………』
§
翌日。
「えっ! アリスさん、このバターと小麦粉どうしたんですかっ?」
「……さくらさんに、もらいました」
「ぇえっ? すごいですね! これってとってもとっても貴重な物なんですよ! 幻のバターって言われていて……僕も初めて見ました!」
「……これで、ぱんを、つくる?」
「それは最高ですねっ! あっ、でも焼くなんてもったいないかな? ……焼いたあとに塗るほうが……?」
興奮ぎみにレシピを吟味するメルウィンの横で、ふたつの食材を見つめつつ彼女は吐息をもらした。
何もなかった。昨夜は本当に、ただ隣で眠っただけ。——それでも。
(なにか、大切なものを失った気がする……)
人としてのプライドというのだろうか。言いえない喪失感。けれども、今から待ち受ける幸福の食事を前に、口と胃はわくわくとしていた。
応援ありがとうございます!
30
お気に入りに追加
72
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる