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第七章:皇太子は王女を欺けない
34:光と影
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最悪の一夜。幸い子を成すような事態には至らなかったが、あの夜の女たちがどうなったのか、ルカは知らない。ガウスが後始末に奔走したのだと風の噂を耳にしたが、直接問い正すようなことはしなかった。
自分が立ちなおれたのは、母や姉のように慕っていたヘレナ、そして父のようなガウス、兄のようなルキア。彼らが傍にあったからである。
やがてルカは、母とヘレナの内にある共通の想いを知った。
彼女たちは、父ではなく皇帝を愛していたのだ。
光と影。
父には賢帝と名高い現皇帝の威光が強すぎた。光が強いほど、影は濃くなる。
ルカにとっては、皇帝の光は道を照らす道標となったが、父の見ていた世界は暗く険しかったのかもしれない。
父もまた帝国の犠牲となった一人なのだろう。憐れんだが、すでに信頼は砕け散っていた。
思えば「クラウディアの粛清」から、父との道は別たれていたのだ。
母やヘレナが父を愛せなかったのも道理だろう。
どんな理由があろうとも、父の狂気を理解することはできない。
父の妃でありながら、皇帝を愛していたヘレナ。今も彼女の想いは変わっていないのだ。その想いがある限り、彼女がルカを裏切ることはない。
真っ直ぐに皇帝を支える皇太子を裏切ることは、彼女にはありえない。
「殿下。あなたにも等しく幸せになる権利があります」
「……ヘレナ」
「スー王女に悪役を演じることは愚かだと申し上げておきましょう。王女が不安に思うなら、きちんと説明を尽くしてください」
ヘレナの説教を聞くのは久しぶりだった。
「こう申し上げても、殿下のお心は一筋縄ではいかないでしょうが……。とりあえず隠れ家に黒髪の美しい女性を置くようにいたしましょうか?」
ルカが睨むと、ヘレナは再び軽やかに笑う。
「では殿下。失礼いたします」
歯に衣着せぬ物言いはいつものことだったが、ルカの胸にじわりと滲む痛みがあった。
(……全てお見通しか)
颯爽と立ち去るヘレナを見送ってから、再びスーを振り返る。さっきと同じように笑っているのに、何かが違う。
(――私の悪評が耳に入ったのだろうな)
自分に向けられるスーの笑顔を失ったとしても、ルカには弁解するつもりはなかった。帝国の悪魔と言われる由縁は正しいのだ。
着飾った令嬢に囲まれていても、スーの美貌は色褪せない。けたたましく感じるほど会話に夢中になっている華やかな人の輪。彼女の赤いドレスは目を焼くほどに鮮やかで、凛と気高い姿勢が、切なく感じるほど美しかった。
ずっと遠くから眺めていたい気がしたが、ルカはゆっくりとスーの元に歩み寄る。
(ルキアも戻らない。……少し休憩を挟んだ方が良いかもしれないな)
王宮の人の出入りについては、厳しく管理している。
招待した家は皇帝を支持する者、大公を支持する者、千差万別だが、祝いの席でいがみ合うような露骨なことはなく、熾烈に言い争うのは議会上である。
婚約披露の招待客の把握も行き届いている。紛れ込む余地はないが、ヘレナの助言により気を抜くことはできない。
ルキアが護衛に、再び招待客に齟齬がないかの把握を急がせている。
「スー、もうすぐ舞踏会となります。一度、休みましょう」
ルカが声をかけると、ぴたりと令嬢たちが固まる。公妾を連れていた行動に、忌々しげな眼差しを向けられるかと思っていたが、まるで何かを期待するかのような熱のこもった視線を感じた。
くるりとした巻髪の派手な令嬢が、はりきった様子で声をあげる。
「殿下、スー様をしっかりと休ませてさしあげてください。舞踏会でのお二人のダンスに期待しておりますわ」
令嬢たちが快くスーに道を開ける。
「スー様! 殿下がお呼びですのでどうぞ」
「ありがとうございます」
殊勝に礼を述べてこちらに歩み寄るスーの手を取る。二人で歩き出すと、背後から令嬢たちのどよめきが追いかけてきた。
ルカには意味がわからない。スーの顔を見ると、恥ずかしそうに頬を染めている。
「楽しめましたか?」
「はい。……あの、ヘレナ様は?」
「もう帰りました。本来であれば、彼女が顔を出すべき場所ではありませんので」
「ーーそうですか。申し訳ないことをしました」
申し訳ないこと。
ルカは彼女が公妾であるヘレナの立場を知ったのだと悟る。
咄嗟に彼女との関係を説明しそうになって、すぐに思い直す。
令嬢たちと出会う前とは、明らかに様子が異なっている。ヘレナのことも、帝国の悪魔についても、自分の悪評の全てが、彼女の耳に入ったことは疑いようがない。
溌溂とした、弾けるような笑顔を失ったスーの横顔。
弁解が必要でないなら、ルカには語るべきことがない。スーも何かを問いかけてくることはなかった。無言のまま会場を出て、ルカはスーの手を引いたまま細い通路を進み、待機用の部屋へ戻った。
自分が立ちなおれたのは、母や姉のように慕っていたヘレナ、そして父のようなガウス、兄のようなルキア。彼らが傍にあったからである。
やがてルカは、母とヘレナの内にある共通の想いを知った。
彼女たちは、父ではなく皇帝を愛していたのだ。
光と影。
父には賢帝と名高い現皇帝の威光が強すぎた。光が強いほど、影は濃くなる。
ルカにとっては、皇帝の光は道を照らす道標となったが、父の見ていた世界は暗く険しかったのかもしれない。
父もまた帝国の犠牲となった一人なのだろう。憐れんだが、すでに信頼は砕け散っていた。
思えば「クラウディアの粛清」から、父との道は別たれていたのだ。
母やヘレナが父を愛せなかったのも道理だろう。
どんな理由があろうとも、父の狂気を理解することはできない。
父の妃でありながら、皇帝を愛していたヘレナ。今も彼女の想いは変わっていないのだ。その想いがある限り、彼女がルカを裏切ることはない。
真っ直ぐに皇帝を支える皇太子を裏切ることは、彼女にはありえない。
「殿下。あなたにも等しく幸せになる権利があります」
「……ヘレナ」
「スー王女に悪役を演じることは愚かだと申し上げておきましょう。王女が不安に思うなら、きちんと説明を尽くしてください」
ヘレナの説教を聞くのは久しぶりだった。
「こう申し上げても、殿下のお心は一筋縄ではいかないでしょうが……。とりあえず隠れ家に黒髪の美しい女性を置くようにいたしましょうか?」
ルカが睨むと、ヘレナは再び軽やかに笑う。
「では殿下。失礼いたします」
歯に衣着せぬ物言いはいつものことだったが、ルカの胸にじわりと滲む痛みがあった。
(……全てお見通しか)
颯爽と立ち去るヘレナを見送ってから、再びスーを振り返る。さっきと同じように笑っているのに、何かが違う。
(――私の悪評が耳に入ったのだろうな)
自分に向けられるスーの笑顔を失ったとしても、ルカには弁解するつもりはなかった。帝国の悪魔と言われる由縁は正しいのだ。
着飾った令嬢に囲まれていても、スーの美貌は色褪せない。けたたましく感じるほど会話に夢中になっている華やかな人の輪。彼女の赤いドレスは目を焼くほどに鮮やかで、凛と気高い姿勢が、切なく感じるほど美しかった。
ずっと遠くから眺めていたい気がしたが、ルカはゆっくりとスーの元に歩み寄る。
(ルキアも戻らない。……少し休憩を挟んだ方が良いかもしれないな)
王宮の人の出入りについては、厳しく管理している。
招待した家は皇帝を支持する者、大公を支持する者、千差万別だが、祝いの席でいがみ合うような露骨なことはなく、熾烈に言い争うのは議会上である。
婚約披露の招待客の把握も行き届いている。紛れ込む余地はないが、ヘレナの助言により気を抜くことはできない。
ルキアが護衛に、再び招待客に齟齬がないかの把握を急がせている。
「スー、もうすぐ舞踏会となります。一度、休みましょう」
ルカが声をかけると、ぴたりと令嬢たちが固まる。公妾を連れていた行動に、忌々しげな眼差しを向けられるかと思っていたが、まるで何かを期待するかのような熱のこもった視線を感じた。
くるりとした巻髪の派手な令嬢が、はりきった様子で声をあげる。
「殿下、スー様をしっかりと休ませてさしあげてください。舞踏会でのお二人のダンスに期待しておりますわ」
令嬢たちが快くスーに道を開ける。
「スー様! 殿下がお呼びですのでどうぞ」
「ありがとうございます」
殊勝に礼を述べてこちらに歩み寄るスーの手を取る。二人で歩き出すと、背後から令嬢たちのどよめきが追いかけてきた。
ルカには意味がわからない。スーの顔を見ると、恥ずかしそうに頬を染めている。
「楽しめましたか?」
「はい。……あの、ヘレナ様は?」
「もう帰りました。本来であれば、彼女が顔を出すべき場所ではありませんので」
「ーーそうですか。申し訳ないことをしました」
申し訳ないこと。
ルカは彼女が公妾であるヘレナの立場を知ったのだと悟る。
咄嗟に彼女との関係を説明しそうになって、すぐに思い直す。
令嬢たちと出会う前とは、明らかに様子が異なっている。ヘレナのことも、帝国の悪魔についても、自分の悪評の全てが、彼女の耳に入ったことは疑いようがない。
溌溂とした、弾けるような笑顔を失ったスーの横顔。
弁解が必要でないなら、ルカには語るべきことがない。スーも何かを問いかけてくることはなかった。無言のまま会場を出て、ルカはスーの手を引いたまま細い通路を進み、待機用の部屋へ戻った。
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