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腥血と遠吠え
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これで、ヨトゥンヘルムにたどり着く前に訪れることが出来る〈協定〉の宿は全て訪ねたことになる。にも関わらず、仲間が待っていた形跡はもちろん、伝言も、匂いさえ残っていなかった。人の姿で行動できないときには、狼皮を纏って──つまり狼の姿で、標を残してゆく決まりになっているが、それさえなかった。仲間を探すことに時間をとられすぎてしまっている。満月までに砦に戻るつもりでいたのに、それも叶わなかった。仲間との合流も諦めるほかない。
クヴァルドとヴェルギルはマイデンの町を後にした。ここから先は、また野宿を続けながら、ダイラの北にそびえる峰、ヨトゥンヘルムを目指すことになる。
踏みつぶされた瓜のような形をしたダイラという島国の中で、北方高地とその周辺の地域に足を踏み入れることは冒険、あるいは暴挙と呼ばれる。そこは文明に見放された土地で、年中雲に覆われ、毎日のように雨か雪が降りしきる。土地はといえば、石だらけの荒野か素っ気ない草原か鬱蒼とした森のいずれかで、およそ人間の住むような場所ではない。いつでも雪を頂いた北方山脈と、その裾野に広がる森には、ナドカさえうかつに近寄ろうとはしない。そこは狼の縄張りで、未熟な人狼が自らの中の獣を飼い慣らすための修行の場でもあるからだ。
仲間内ではただ〈狩り場〉と呼ばれるこの一帯の森は、昼日中に眺めればなんの変哲も無い森に過ぎないが、夜になるとその表情が一変する。分厚い雲と針葉樹の枝葉をすり抜けた月の光が何千本もの針となって青い霧を貫く様子は、言葉に尽くせぬほど美しい。
長くこの森で過ごしたクヴァルドは、任務を終えて北部の森に入るたびに安らぎを覚えたものだ。濡れた森の豊かで深い芳香は、我が家の匂いも同然だった。けれど今、悪い予感に苛まれたままの足取りには、安らぎのかけらもなかった。
「一つ聞いても?」
いいとも悪いとも言わないうちに、ヴェルギルは言った。
「狼は群れで行動するはずなのに、ひとりで奴を追っていたのはなぜだ?」
クヴァルドは答えなかった。それこそが答えだ。
「なるほど。秘密ということだな」
「わかっているなら、それでいい」
「なぜ今になって?」
再び沈黙を貫いていると、舌を休ませるのに飽きたらしいヴェルギルが続けた。
「彼が〈災禍〉なのは今に始まったことではない。それこそ何百年も前から、人間たちの悩みの種だったはずだ。だが、今までの王は奴を討たなかった。何故だかわかるか?」
クヴァルドは無視した。
「エダルトがエイル王の血を引いているからだ。エイルは人外の祖国でもある。エダルトを討つと言うことは、〈人外社会〉を敵に回すと言うことだ。今までの王は、それを恐れた」
エダルトがエイル王の子孫であることはよく知られている。あくまで伝説として、だが。
「では、伝説は真実なのか?」
ヴェルギルは頷いた。「ああ」
月明かりの下では、彼の菫色の瞳は一層人間離れした輝きを纏っていた。相変わらず表情の読みづらい顔だ。
「しかし今、君は王の玉璽が無ければ使えない〈蛇〉を持っている。と言うことは、ナドカとの戦争とを引き換えにしてでもやり遂げなければならぬ事情があると言うことなのだろう。たしか、いまダイラの王座についているのはハロルドだったか? 彼はわたしの知る限り、吸血鬼の犠牲になる市井の人間にも、〈人外社会〉にも興味が無い。もしも〈クラン〉にエダルト討伐の命を下すなら──それはそうとう大きな利益か、不利益が絡んでいる」吸血鬼は、クヴァルドの横顔を一瞥した。「ここまでは当たっているか?」
「俺が奴を追っているのは、誅されるべきだからだ」クヴァルドは言った。「それだけだ」
〈霧套のエダルト〉あるいは単に〈災禍〉と呼ばれる吸血鬼の悪行は数知れない。吸血鬼としての生をうけてから何百年もの間、国中を転々としながら殺戮を重ね、エダルトは災いそのものになった。巡礼者を襲い、聖堂を襲い、野営中の軍を、港に停泊する船を襲った。全ての者の血を吸い尽くすのが常だが、たった一人だけ生かしておくこともある。まるで、新たな伝説の紡ぎ手を選定するかのように。
「啜り屋、お前は奴のことを知っていると言ったな。どれほど深い『知り合い』なのだ?」
ヴェルギルはクヴァルドを見て、小さくため息をつく振りをした。
「大昔に共に行動した。仲違いをして道を分かち、今に至る」
「お前が奴をかばう理由は?」
ヴェルギルは鋭くクヴァルドを見た。「かばう? わたしが?」
「ああ。お前は奴をかばっている。これほど似通った匂いをしているんだ。単なる『知り合い』ではないことはわかる。吸血鬼も番を作ると聞いたことがあるが、お前がそうなのか?」
「なるほど」吸血鬼はニヤリと笑った。「質問には質問で仕返しをしようというわけか。賢い仔犬だ」
やはり、答えをはぐらかしている。「次に俺を『仔犬』と呼んだら、その首を噛み千切るからな」
「ひとかたならぬ縁がある」ヴェルギルは認めた。「しかし、彼はわたしのことなど忘れているだろう。思い出せぬほど昔の話だ。わたしも、出来ることなら忘れたい」
クヴァルドは言った。「そうはいかない。ヨトゥンヘルムで洗いざらい話して貰う」
この任務は秘密裏に行われる。落ち合う予定になっている二人の仲間は、ヨトゥンヘルムを出る前に、誓約を司る〈目隠しの神〉ユスタリに誓いを立てた。砦を出た後はそれぞれが単独で行動し、再び見えて砦に戻るまでは、この捜索のことを誰にも──仲間も含め、誰にも口外しないこと。伝書烏は使わず、誰かに文を預けることもしてはならない。
この捜索は〈クラン〉の存続に関わる重大なものなのだ。
にもかかわらず、得体が知れないことで有名な吸血鬼を引き入れてしまった。これがきっかけで、計画が綻ぶようなことが無ければいいが。
「なぜ今になって?」ヴェルギルはもう一度言った。「わたしが知りたいのはそこなのだ」
クヴァルドは言った。
「じきにわかる。お前が──」
潔白なら。と言おうとしたのだが、言葉は喉元で掻き消えた。
見知った匂いが鼻腔をくすぐり、クヴァルドは思わず足を止めた。慎重に息を吸い込み、大気の中に散らばった匂いのかけらを拾い集める。
この匂いはローナン、そしてグンナール。クヴァルドと共に、秘密の任務に当たっていたふたりだ。
ようやく合流できると、ほっとしたのもつかの間だった。頭で考えるよりも先に、背中の毛が逆立つ。
何かがおかしい。
注意深く匂いを辿る程に、期待は不安へと、そして不安は絶望へと姿を変えてゆく。
そんな。ああ、そんな。
「どうかしたか?」
ヴェルギルが訝しげにこちらの顔をのぞき込んでくる。その時風向きが変わった。冷たい風が運んできたものに、彼の顔にも理解が浮かんだ。
「これは──」
これは、凶報。
人狼の古びた血の匂いが、森を渡る風に乗ってやってきた。
ローナンとグンナールは兄弟で、クヴァルドよりも若かったものの、同じ時期に人狼としての訓練を受けた仲間だった。二人とも、毛色の違うクヴァルドのことをよそ者扱いしなかった。一緒に狩りにでたり、同じ任務に就いたりしては、共に大きな手柄を持ち帰ったものだ。お調子者のローナンと優しい心のグンナールは、ふたりよく似た表情豊かな目をしていた。
その目があったはずのところは、いま、血まみれの穴に変わってしまっていた。屍肉漁りの烏に盗まれたのだろう。
クヴァルドは、かつては兄弟と呼び合った二人の死体にかがみ込んだ。ふたりは、古いオークの木の根元に晒されていた。首は胴体と切り離され、両脚の間におかれていた。大量の血がそこいらじゅうに溢れ、夥しい数の蟲が血に酔ったまま凍り付いて死んでいた。
「一体どういうことだ?」
ヴェルギルが尋ねてきたが、教えて欲しいのはこちらの方だ。ただ、狼の縄張りで狼が殺されるのが尋常ではない事態であることを、彼もわかっているらしい。それ以上踏み込もうとはしなかった。
「日が経っている」クヴァルドは小さな声で言った。
砦を発ってすぐだったに違いない。このあたりは狼の縄張りではあるが、獲物に乏しいため仲間もめったに訪れない。数ヶ月気づかれなかったとしても不思議はない。死体は野ねずみに囓られて損傷していたものの、首の切断面は滑らかだ。ということは、よく訓練されたふたりの人狼の首を一閃で落とせるほどの手練れの仕業ということになる。
「誰だろうと、仇はとる」
死者の瞼を閉じて安らぎを与えてやろうにも、瞼を鼠に食い尽くされてしまっていた。クヴァルドは目を閉じた。
月神よ、ご慈悲をたれたまえ──彼らは、こんな死に方をしていい者たちではなかった。
深いため息をつくクヴァルドの傍らから手を伸ばして、ヴェルギルがふたりの眼窩に銅貨をおいた。
「弔いをしてやらなくては」
ヴェルギルの提案に、クヴァルドは躊躇った。不測の事態が起こっているのは間違いない。一刻も早く砦に戻るべきなのはわかっていた。ここから砦まで、急げば明後日の朝にはたどり着ける。だが間の悪いことに、明日は満月だ。
クヴァルドはため息をついた。
「感謝する。吸──」そして、亡き兄弟の目を閉じてくれた銅貨を改めて見つめた。「ヴェルギル」
獣に変化する力を持つ者たちを、〈クラン〉の言葉で〈同じ皮膚を持たぬ者〉と呼ぶ。卓越した者は〈ハムラマ〉と言われ、尊敬される。中でも狼の皮を持つ〈ウルフハマ〉は、〈ハムラマ〉の中で最も数が多い。
人狼に変異すると言うことは、狼の皮を着て、狼の魂を迎え入れると言うことだ。血統によってそれを継ぐ子もあれば、儀式によって受け入れる者もいる。どちらにしても、ひとたび己の中の狼が目覚めれば、死ぬまでそれを眠らせることは出来ない。
だから、人狼の弔いには炎が欠かせない。内なる獣の檻である肉体を焼き滅ぼすことで、偉大なる狼と一体となった魂を野に放ち、人狼の間で〈聖なる雌犬〉の異名をもつヘカの元へ送るのだ。
組んだ薪の上にふたりの身体を横たえる。イチイの枝を編んだ冠をかぶせるのは、西方浄土で待つヘカに魂が受け入れられるようにとの願いからだ。イチイはヘカの守護樹で、死したナドカの守護樹でもある。
魔女が作る消えない種火、〈魔女の灯明〉を小さな瓶から取り出して、薪の下に置く。針葉樹の枝はすぐさま燃え上がり、朋友の亡骸を炎で包み込んだ。
『いざ たちて還らん 我が都へ──』
クヴァルドは火葬の炎が立てるごうごうという音に紛れ込んでしまえるほど小さな声で歌った。少し離れたところに立っているヴェルギルの耳にも入っていたのだろうが、何故かいまは、彼に聞かれることを嫌だとは思わなかった。
炎が伸び上がり、夜明けの空を舐める。
『おお 母なる月の奥方
瞼の裏に 今も美しき
エイルの浜を 留めたまえ』
瘴気で閉ざされたナドカの故郷には、死ぬことでしか還ることが出来ない。故郷が歌われたとおりの美しい場所であることを──そして、安らぎに満ちた地であることを、クヴァルドは祈った。
†
クヴァルドが歌い終わった次の瞬間、炎の色が目の覚めるような青に変わった。ふた柱の蒼い炎は、ほんの一瞬、天に届こうかと言うほど伸びて──元の色に戻った。そして、火花と煙をあふれ出させながら、燃え尽きた薪が崩れた。その時ヴェルギルにも、あのふたりの人狼がエイルへの旅路に出たのだということがわかった。
「やすらかに往け、兄弟」 クヴァルドが、そっと呟いた。
西の空を見る。
地平線のかなたへ帰途につこうとしている月は丸く、あと一滴で、完全に満ちる。
満月は今夜。待ちに待った好機が訪れた。
ナドカの中でも、人狼ほど強大な種族はいない。熟達した人狼は人間、半獣、獣の姿を自由に行き来することができ、五感は鋭敏にして力は尋常を越える。人狼こそ、〈三つの顔を持つ女神〉ヘカに最も愛された種族だ。そんな人狼に弱点があるとしたら、それは、どんなに老練な狼でも、満月にはあらがえないということだ。
長く地上を旅してきたから、人狼の習性については知っている。彼らは満月になると、国中の至る所に築いた〈狼小屋〉に籠もり、自らを監禁する。理性を失うほどの衝動から、己と他者を守るためだ。
満月が人狼に及ぼす影響はひとそれぞれで、破壊衝動に囚われるもの、食欲が増大するもの、希死念慮に取り憑かれるものと、実に個性豊かだ。
もし、クヴァルドから逃げ出す好機があるとしたら、それは満月の夜しかないだろうと、ヴェルギルは踏んでいた。不測の事態で足止めを食ったおかげで、砦に着く前に満月の夜を迎えることが出来た。
クヴァルドが自分で自分を閉じ込め、なんであれ彼の内なる獣と戦っている間に姿をくらます。丸一日あれば、彼の鼻がたどれないところまで逃げおおせることが出来るだろう。探るつもりだった〈クラン〉の内情には今ひとつ踏み込めていないが、どうやら、ただ恨みを買っただけというわけでもなさそうだ。それさえわかれば、エダルトを殺させないために打つ手もあるだろう。
クヴァルドは、燃え尽きた亡骸に土をかけて、その上に剣を横たえた。大きな背中は堂々としいていたが、同時に意気消沈しているのもわかる。それも当然だろう。彼が帯びた使命はことごとく失敗したのだから。やっとつかまえたと思った敵が人違いで、さんざん無駄足を踏んでまで探していた仲間はすでに死んでいた。この上、ヴェルギルが逃げてしまえば、彼は無能の烙印を押されてしまうかも知れない。
まあ、わたしには関係の無いことだが。
最後の祈祷が終わったらしく、クヴァルドがヴェルギルの元へやって来た。
「話がある」
ヴェルギルは身振りで先を促した。
「今夜は満月だから、俺は身動きが取れなくなる」
初耳だという振りをするのはやめた。「それで?」
「近くの〈狼小屋〉までたどり着く時間も無い。幸い、近くの洞窟に祭壇があるから、今夜はそこで過ごす。お前は──」
「わたしに構うな。一人気楽に野宿でもしているさ」
そんな戯言を信じると思うか、という目で、人狼はヴェルギルを睨んだ。
「お前のことは、あのイチイの樹にくくりつける」
むごいことを、淡々と言ってくれる。
「逃げようなどと無駄なことを考えるな。〈クラン〉にはお前のような捕虜を拘束する方法が千通りもある」
ヴェルギルは弱々しく微笑んで見せた。「待ちきれないね」
結局、人狼の宣言通り、ヴェルギルはイチイの木にくくりつけられた。四肢をバラバラに戒めて身動きが取れないようにした上で、肌に触れるか触れないかという所に、銀が編み込まれた首輪をかけられた。銀を扱えるナドカは多くないが、クヴァルドが持っている銀器はどれも見事な細工だった。いつかその者を始末するチャンスに恵まれたときのために、細工師の名前を調べてみる価値はあるかも知れない。もっとも、同じことを考えて失敗した不届き者が千はいたのだろうが。
「少しでも触れれば、肌が焼けただれる」クヴァルドは慣れた様子で、拘束の堅さを検めた。「無理に逃げようとして、首を焼き切った吸血鬼を知っている。お前には同じ末路を選んで欲しくない。俺が言いたいことはわかるな?」
ヴェルギルは批難を込めた眼差しで見つめ返した。
「君とは多少なりとも信頼関係を築くことが出来たと思っていた」
「思い違いだ」人狼は素気なく言った。「お前は感情を装うのが上手い。俺を気に入り、打ち解けた風を装ってはいても、この鼻はごまかせない」
ヴェルギルはため息をついた。
「お褒めにあずかり、光栄だ」
「だが、吸血鬼」クヴァルドは言った。「あの〈蛇〉はつけずにおいてやる。さっきお前が、俺の兄弟に見せた情けに免じて」
ヴェルギルは視線をあげた。
刻一刻と近づく満月の気配に、彼の緑色の目には鈍い金色の結晶が散らばっていた。初めて彼を見たときに頭に浮かんだ驚き──いったいどの神がこの男の造形を編んだのだろうという想いがよみがえる。
「感謝する、と言うべきかな」ヴェルギルは小さく微笑んだ。
「その通りだ」
人狼は言い、自らを戒めるために、祭壇のある洞窟へ向かった。
行動に移すのは、夜まで待つことにした。
霧に変化して縄抜けをするのは危険な賭けだ。変化の途中で銀の糸に触れれば、己の肉体を構成するのに必要不可欠な部分が消し飛び、二度と元に戻れなくなる危険がある。だからヴェルギルは、消耗するのを覚悟の上で、蝙蝠に姿を変えることにした。
変化といっても、人狼のように、『偉大なる蝙蝠の魂を身のうちに宿す』などというものでは無い。己の肉体を細かな粒子に分割した『霧』に変えるのと同じ要領で、何匹もの蝙蝠に変化させるのだ。これならば霧よりも制御が利くし、素早く動くことが出来る。
月が森の上に昇ったことを確認して、ヴェルギルは目を閉じた。次の瞬間、銀の首輪や手枷をすり抜けて、いくつもの黒い翼が闇に羽ばたいた。蝙蝠のうちの一匹が銀に触れて翼を焦がしたが、大事には至らなかった。やがて、大群は蠢きながら一つにあつまり、伸び上がる大きな影となり──中からヴェルギルが姿を現す。
ほんの一瞬で、脱獄は完了した。虚しく垂れ下がる拘束具を見やり、ヴェルギルは呟いた。
「鎖を使うことを思いとどまったのは失敗だったな、仔犬」
血が冷たい吸血鬼なら、躊躇せずに〈蛇〉を使っただろう。情に流されやすい〈温血〉らしい失態だ。我知らず、ヴェルギルは苦笑した。
理性は、このまま一刻も早くここを離れるべきだと告げていた。
だが同時に、あの人狼が満月の下でどんな本性を見せるのか見てみたいと思った。愚かなことだと知りつつ。
深入りすべきではない。わかっている。たかが取るに足らない人狼一匹、他の多くのことと同じように、忘れ去るべきだ。それが理に適った結論だと納得しているにもかかわらず、沈黙した心臓のあたりが、妙に疼いて仕方なかった。
そもそも、〈月の體〉になってこのかた、理性と意見を違えるなどということがあっただろうか。
「遠目で見るだけだ」
誰にともなく、ヴェルギルは呟いた。それは自分への方便だったのかもしれない。
〈聖なる雌犬〉の祭壇のある洞窟は、イチイの木から離れた場所にあった。捕虜を遠ざけておく理由について思いを巡らせながら、ヴェルギルは洞窟までの道をゆっくりと辿った。
人狼の中には、満月が訪れる度に堅牢な檻を必要とするものも多い。四肢を拘束しなければ、とり返しのつかぬほど自傷してしまう者だとか、轡を噛ませておかなければ土まで食らおうとするものもいると聞いた。あの堅物の人狼は、どんな満月の夜を迎えているのだろう。
心臓は相変わらず凍り付いていたし、身体の中で滞る血も冷たいままだ。それなのに、気は逸り、歩みが早まるのを抑えきれない。
「遠目から見るだけだ」
もう一度、自分に言い聞かせる。そうしなければ、何をしでかすかわからないとでも言うように。
洞窟の入り口が見えた。濡れたような岩肌にぽっかり開いた口を彩るようにイチイの低木が茂り、根元にはトリカブトの花が咲いていた。夏に花を咲かせるはずのこの花が冬の時期に見られるのは、その場所が月神の祝福を受けていることを意味する。〈聖なる雌犬〉の祭壇は、人狼が森で狩りをした時に、その月で最初の獲物を捧げるためのものだ。
足音で気取られないよう、霧に姿を変えて入り口まで漂っていった。岩肌に手を触れることが出来る所まで移動して、爪先から実体に戻る。
なにか、声が聞こえる。
霧の身体でいる時には、感覚が鈍くなるのが常だ。呻いているようだが、はっきりとは聞き取れない。程なくして実体を取り戻すと、聴覚がよみがえった。その瞬間に耳に飛び込んできた声に、ヴェルギルは凍り付いた。
「う……んん……」
そして、自制するのも忘れて洞窟の中をのぞき込み、再び凍り付いた。
吸血鬼の多くは認めないだろうが、人狼がひとの姿をとるとき、それは見事な肉体美を誇るひとつの作品と言っていい。だが、彼らが半狼に変化したときの姿は──言語に絶する。身体は一回り大きくなり、体表は獣の毛に覆われる。首から上は狼そのものの姿になるが、完全な狼の姿をとるときと違い、言語を操ることも出来る。二本の足で立ち、指も人間並みに使うことが出来、力も感覚も増す。これこそ、人狼という種族の真の姿だ。
これほど野蛮で、荒削りな種族はないと思っていた。いままでは。
クヴァルドが狼の毛皮を纏っているところを見るのは初めてだった。いま、彼の姿を見てようやく、今までに数え切れないほど、彼の毛皮はどんな色をしているのかと思いを馳せていたことに気づいた。
クヴァルドの毛皮は、それは見事な黄昏の色だった。頭頂部や背中を彩る赤銅の毛は、身体の内側に至るにつれ柔らかな象牙色へと変化している。その移ろい、その毛並みの見事なことと言ったら!
だが、ヴェルギルの視線を釘付けにしたのは、彼の外見ではなかった。
人狼はいま、ヘカの祭壇に寄りかかって座り込み、毛皮以外の一切を纏わぬ姿で自らを慰めていた。
彼は目を閉じ、獣の顔に似つかわしくない苦悶の表情を浮かべたまま、鉤爪の生えた手で、濡れた陰茎を扱いていた。月明かりの中で、その大きなものが幾度となく透明な液体を溢れさせているのがはっきりと見えた。
「う……」
長い鼻面に皺を寄せて低く唸りながら、彼は地面に擦り付けるように腰を揺らしていた。深い呼吸の度に腹が波打ち、長く豊かな尾が震えている。
分厚い毛皮の下で、彼の狼の血が熱く沸き立ち、奔流しているのが、ヴェルギルには感じられた。視界が暗くなり、月明かりの下に蹲る人狼の姿だけがくっきりと浮かび上がる。
牙が鋭く伸びて疼き、唇が物欲しげに開いてしまうが、止められなかった。
紛れもない渇望。これほどまでに強烈な渇きを感じたのは、変異してからの永劫にも思える時の中で、初めてのことだった。
彼の血を味わいたい。いまこの瞬間、それ以外の望みはない。
そのとき、気配に気づいた人狼が顔を上げ、まっすぐにこちらを見た。
ヴェルギルは、羞恥心に駆られたクヴァルドがこちらに飛びかかり、自分を八つ裂きにしようとするだろうと思った。だが、予想に反して、彼はふっと顔を背けただけだった。
耐えがたいほどの飢えにそそのかされるままに、一歩踏み出す。また一歩。そしてさらに。けれど、彼は逃げなかった。それどころか、手の届くところまでやって来たヴェルギルを見上げて、ほんのわずかに鼻を鳴らした。
まるで何かを……ねだるように?
「クヴァルド」
人狼の傍らにかがみ込み、頬に触れる。彼は一瞬だけ低く唸ったものの、抗おうとはしなかった。豊かな毛皮は濡れたように滑らかだった。
「邪魔を……するな」クヴァルドは言った。「ひとりにしてくれ。頼む」
かすれた声で懇願されても、渇望は増すばかりだった。
「そのままでは辛いだろう」ヴェルギルは言った。「満月の夜に我を忘れるのは、血の中にある魔力が増えすぎてしまうからだ。血を減らしてやれば、症状は多少治まる」
ゆっくりと言い聞かせる間、クヴァルドは食い入るようにヴェルギルを見つめていた。その大きな口で、こちらの首を丸かじりすることが出来るかどうか、計算しているのだろうか。
「お前に助けを請うた覚えはない」荒い息を喘がせながら、クヴァルドは言った。
「助けようというのではない。交換条件だ」
人狼は低く唸った。性欲に身をまかせている最中に、理性的な会話をさせられて苛立っているのだろう。だが、彼は言った。
「交換条件?」
「わたしが君の血を飲む。君はこの──症状が楽になる」
クヴァルドはまた、ヴェルギルの顔を見つめた。熟した月のような双眸で。
「人狼の血を試してみるのも、悪くはないと思ってな」後押しするように言った。「早く解放されるためには、協力した方が賢明だ。違うか?」
すると、人狼はフンと鼻を鳴らして、目をそらした。降伏するように。
「わかった」
ヴェルギルは立ち上がり、そっと人狼の背後に回った。これほどまでに毛深い生き物から直接血を吸うのは初めてだが、問題だとは思わなかった。硬い毛と、その下に隠れていた柔らかい毛の層をかき分けると、薄紅色の肌が姿を見せる。かがみ込んで牙を突き立てようとしたとき、揺れる尾の下にあるものに気づいた。
張型だ。艶やかに濡れた、金属製の。
頭を殴られたように、混沌が胸の中に沸き起こる。いや、おかしなことは無い。人狼になってこのかた、彼は満月が昇るたびにこの性欲と向き合わねばならなかったのだろう。避けられないものならば、より効率を求めるべきだ……じつに彼らしい。
だが──ああ、〈父神〉よ──いままでずっと、これが彼の馬の鞍袋に収まっていたと言うことか?
その時、クヴァルドがわずかに振り向いた。赤金色の睫毛の下から、潤んだ月色の目でこちらを見上げる。
「どうかしたのか……?」
ヴェルギルは目を閉じた。
深入りすべきではない。だが、もう手遅れだ。
「どうもしないさ、仔犬」
ヴェルギルは言い、渇望の源に牙を沈めた。
温かい血が溢れ、舌を濡らす。その瞬間に、喉が灼け、首の後ろがじりじりと焦げ付き、とろけたような感覚に陥った。彼の血は飲み下すのにも苦労するほど熱く濃厚だった。そして、いままでに口にしたいかなる血、いかなる酒よりも芳醇で、甘い。悦びそのものの味がした。
そして、次の瞬間、信じられないことが起こった。胸の虚ろで眠りについたはずのものを再び感じたのだ。
心臓が──心臓が鼓動している。〈蛇〉を使ったわけでもないのに。だが、そのことについて深く考える余裕はなかった。
「あ……!」
抱きしめた腕の中で、クヴァルドの毛が逆立つ。彼は切なげな声を漏らして、力なく身を震わせた。何かが滴る音と共に、血とは似ても似つかない匂いが立ち上る。
咬まれて、達したのか?
彼はもどかしげに呻いて身をよじると、張型に手を添えて、それを強く押し込んだ。
「ん、ん……」
目の前で起こる何もかもが強烈すぎて、理性が追いつかないでいるヴェルギルに、切羽詰まった囁きが追い打ちをかけた。
「ヴェルギル」喘ぎ声とも、泣き声ともつかない囁き。「もっと強く、吸ってくれ」
いまや心臓は痛いほどに早鐘を打っている。これ以上煽られたら、胸が破れてしまうのではないかとさえ思えた。
感じやすい人狼の身体は、小さな咬傷に舌を這わせるだけでたやすく震える。だが、後ろ姿だけでは、もう満足できそうになかった。ヴェルギルが人狼の前に回ると、彼はいぶかるような表情を浮かべた。
「血を……吸うだけだろう」
「気が変わった」ヴェルギルは言った。
「何を──ああ……っ」
正面から抱擁するように覆い被さり、今後は前から、彼の首筋に噛みついた。またしても人狼は震え、毛皮を膨らませた。あたたかく官能的な匂いが、身体中から立ち上っている。
その香りに包まれながら飲む血は、また格別だった。ヴェルギルは、クヴァルドの血の中に溶けた、夜の森を思うさま疾駆する時の強烈な歓喜や、困難な狩りの果てに獲物を屈服させたときの燃え上がるような興奮を、夢中で味わった。
「あ……ギル」
彼は呟き、ヴェルギルの長衣の背中を、ぎゅっと掴んだ。張型を飲み込んだままの尻を揺らし、屹立したものをヴェルギルの腹にこすりつける。
「ん……んっ」
貪欲なまでに乱れた姿に、ヴェルギルは思わず呻いた。
鼓動する心臓と、他者の血を得たことで温まった肉体の相乗効果はすさまじかった。ヴェルギルはベルトを外し、長衣をたくし上げ、下穿きの中で硬くなっていたものを掴んだ。いままで、対価を得るためだけに必要に応じて使ってきたものを、いまは衝動のままに解き放とうとしていた。
先走りとさっきの射精で濡れそぼつものに寄り添わせて、握る。
「あ……!」
いきなり触れられたことで一瞬からだを引きつらせたものの、クヴァルドはすぐに力を抜き、身をまかせた。それどころか、ヴェルギルの身体に両腕を回して、さらに強く引き寄せた。
「仔犬」
「仔犬と呼ぶなと、言っただろ……」
「ならば、名前を教えてくれ。君の真の名を」
人狼は苦しげに喘ぎ、鼻を鳴らし、やがて言った。「フィラン」
「フィラン」
ただの単語に過ぎない。それなのに何故、こんなにも強い喜びを感じるのだろう。舌で味わうように、ヴェルギルは再び口にした。
「フィラン……」
「もっと強く」絶え絶えの息で、クヴァルドが言う。「強くしてくれ」
握りこんだ手の中で、二つのものが濡れそぼった音を立てる。止めどなく溢れる快感に酔い、血の芳香に酔い、降り注ぐ月光に酔い、人狼の喘ぎ声に酔って、前後不覚に陥ってしまいそうだった。
「あ、また……またくる」譫言のように、クヴァルドが繰り返す。「ギル……」
ヴェルギルは、その哀願に応えて、陰茎を扱く手を早めた。
抱きしめた身体は震え、呼吸の深まりと共に張り詰めてゆく。
「あ、あ──ギル、ごめん……」悲痛に鼻を鳴らす。「ごめん……ああ……!」
そしてクヴァルドは、ヴェルギルの手の中に精を放った。温かいものが溢れ、溢れに溢れ、重ね合った腹や、絡み合う脚、胸まで濡らしてゆく。その中で、ヴェルギルも達した。吸血鬼になって初めての絶頂は強烈で、その瞬間、ヴェルギルは衝動のままクヴァルドの血を貪った。
「ん……っ!」
鼓動そのものが快感を引き起こし、無様に喘がずにはいられない。皮膚という皮膚、骨という骨がうち震え、喜びのうちに溶けてしまいそうだった。歓喜という感覚を数百年ぶりに思い出した己自身は、濡れた毛皮に埋もれたまま、脈打つ度に吐精した。
ヴェルギルも、クヴァルドも、荒い息をつきながら身動きも取れずに抱き合うことしか出来なかった。
やがて、腕の中の身体がぶるりと震えた。見下ろすと、クヴァルドは目を閉じたまま、人間の姿へ戻ろうとしているところだった。まるで、夜から朝へ移ろう空のように、ゆっくりと、だが着実に、獣の面影が消えて人間の姿の彼が戻ってくる。毛皮は溶けるように薄らいで、その下から、人間の滑らかな肌が現れた。
彼はそのまま、一糸まとわぬ身体を丸めて……動かなくなった。
そしてヴェルギルもまた、自分の中によみがえった鼓動が、また息絶えようとしているのを感じていた。撥条が切れた絡繰り人形のように。
理性を脅かすほどの熱情が冷え固まってゆくほどに、一つの事実がありありと浮かび上がってくる。
クヴァルドが呼んだ名──ギル。
はじめは自分のことかと思った。だが、そうではない。
相手がわたしなら、彼は「ごめん」などとは言わなかったはずだ。夢うつつの中で、彼は『エギル』を呼んだのだ。
「吸血鬼」小さな声で、クヴァルドが言った。「なんで、俺を?」
同じことを、ヴェルギルもまた自問していた。
何故、この男なのだ?
イムラヴの血を引く人狼は珍しい。だが、それだけが理由ではない。見事な毛皮に惹かれたからか? あるいは、哀れを催すほど真面目で高潔だから? 故郷の歌を見事に歌い上げたあの声のせいか? それとも、満たされない憧憬を抱えた彼に同情した?
わからない。これほど不確かなことがこの世に存在することを、いま初めて知った。
ヴェルギルは口の中で、〈嘘の守護者〉リコヴへの祈りを口にした。それから肩をすくめて、こともなげに言った。
「わたしは悪食でね」
クヴァルドとヴェルギルはマイデンの町を後にした。ここから先は、また野宿を続けながら、ダイラの北にそびえる峰、ヨトゥンヘルムを目指すことになる。
踏みつぶされた瓜のような形をしたダイラという島国の中で、北方高地とその周辺の地域に足を踏み入れることは冒険、あるいは暴挙と呼ばれる。そこは文明に見放された土地で、年中雲に覆われ、毎日のように雨か雪が降りしきる。土地はといえば、石だらけの荒野か素っ気ない草原か鬱蒼とした森のいずれかで、およそ人間の住むような場所ではない。いつでも雪を頂いた北方山脈と、その裾野に広がる森には、ナドカさえうかつに近寄ろうとはしない。そこは狼の縄張りで、未熟な人狼が自らの中の獣を飼い慣らすための修行の場でもあるからだ。
仲間内ではただ〈狩り場〉と呼ばれるこの一帯の森は、昼日中に眺めればなんの変哲も無い森に過ぎないが、夜になるとその表情が一変する。分厚い雲と針葉樹の枝葉をすり抜けた月の光が何千本もの針となって青い霧を貫く様子は、言葉に尽くせぬほど美しい。
長くこの森で過ごしたクヴァルドは、任務を終えて北部の森に入るたびに安らぎを覚えたものだ。濡れた森の豊かで深い芳香は、我が家の匂いも同然だった。けれど今、悪い予感に苛まれたままの足取りには、安らぎのかけらもなかった。
「一つ聞いても?」
いいとも悪いとも言わないうちに、ヴェルギルは言った。
「狼は群れで行動するはずなのに、ひとりで奴を追っていたのはなぜだ?」
クヴァルドは答えなかった。それこそが答えだ。
「なるほど。秘密ということだな」
「わかっているなら、それでいい」
「なぜ今になって?」
再び沈黙を貫いていると、舌を休ませるのに飽きたらしいヴェルギルが続けた。
「彼が〈災禍〉なのは今に始まったことではない。それこそ何百年も前から、人間たちの悩みの種だったはずだ。だが、今までの王は奴を討たなかった。何故だかわかるか?」
クヴァルドは無視した。
「エダルトがエイル王の血を引いているからだ。エイルは人外の祖国でもある。エダルトを討つと言うことは、〈人外社会〉を敵に回すと言うことだ。今までの王は、それを恐れた」
エダルトがエイル王の子孫であることはよく知られている。あくまで伝説として、だが。
「では、伝説は真実なのか?」
ヴェルギルは頷いた。「ああ」
月明かりの下では、彼の菫色の瞳は一層人間離れした輝きを纏っていた。相変わらず表情の読みづらい顔だ。
「しかし今、君は王の玉璽が無ければ使えない〈蛇〉を持っている。と言うことは、ナドカとの戦争とを引き換えにしてでもやり遂げなければならぬ事情があると言うことなのだろう。たしか、いまダイラの王座についているのはハロルドだったか? 彼はわたしの知る限り、吸血鬼の犠牲になる市井の人間にも、〈人外社会〉にも興味が無い。もしも〈クラン〉にエダルト討伐の命を下すなら──それはそうとう大きな利益か、不利益が絡んでいる」吸血鬼は、クヴァルドの横顔を一瞥した。「ここまでは当たっているか?」
「俺が奴を追っているのは、誅されるべきだからだ」クヴァルドは言った。「それだけだ」
〈霧套のエダルト〉あるいは単に〈災禍〉と呼ばれる吸血鬼の悪行は数知れない。吸血鬼としての生をうけてから何百年もの間、国中を転々としながら殺戮を重ね、エダルトは災いそのものになった。巡礼者を襲い、聖堂を襲い、野営中の軍を、港に停泊する船を襲った。全ての者の血を吸い尽くすのが常だが、たった一人だけ生かしておくこともある。まるで、新たな伝説の紡ぎ手を選定するかのように。
「啜り屋、お前は奴のことを知っていると言ったな。どれほど深い『知り合い』なのだ?」
ヴェルギルはクヴァルドを見て、小さくため息をつく振りをした。
「大昔に共に行動した。仲違いをして道を分かち、今に至る」
「お前が奴をかばう理由は?」
ヴェルギルは鋭くクヴァルドを見た。「かばう? わたしが?」
「ああ。お前は奴をかばっている。これほど似通った匂いをしているんだ。単なる『知り合い』ではないことはわかる。吸血鬼も番を作ると聞いたことがあるが、お前がそうなのか?」
「なるほど」吸血鬼はニヤリと笑った。「質問には質問で仕返しをしようというわけか。賢い仔犬だ」
やはり、答えをはぐらかしている。「次に俺を『仔犬』と呼んだら、その首を噛み千切るからな」
「ひとかたならぬ縁がある」ヴェルギルは認めた。「しかし、彼はわたしのことなど忘れているだろう。思い出せぬほど昔の話だ。わたしも、出来ることなら忘れたい」
クヴァルドは言った。「そうはいかない。ヨトゥンヘルムで洗いざらい話して貰う」
この任務は秘密裏に行われる。落ち合う予定になっている二人の仲間は、ヨトゥンヘルムを出る前に、誓約を司る〈目隠しの神〉ユスタリに誓いを立てた。砦を出た後はそれぞれが単独で行動し、再び見えて砦に戻るまでは、この捜索のことを誰にも──仲間も含め、誰にも口外しないこと。伝書烏は使わず、誰かに文を預けることもしてはならない。
この捜索は〈クラン〉の存続に関わる重大なものなのだ。
にもかかわらず、得体が知れないことで有名な吸血鬼を引き入れてしまった。これがきっかけで、計画が綻ぶようなことが無ければいいが。
「なぜ今になって?」ヴェルギルはもう一度言った。「わたしが知りたいのはそこなのだ」
クヴァルドは言った。
「じきにわかる。お前が──」
潔白なら。と言おうとしたのだが、言葉は喉元で掻き消えた。
見知った匂いが鼻腔をくすぐり、クヴァルドは思わず足を止めた。慎重に息を吸い込み、大気の中に散らばった匂いのかけらを拾い集める。
この匂いはローナン、そしてグンナール。クヴァルドと共に、秘密の任務に当たっていたふたりだ。
ようやく合流できると、ほっとしたのもつかの間だった。頭で考えるよりも先に、背中の毛が逆立つ。
何かがおかしい。
注意深く匂いを辿る程に、期待は不安へと、そして不安は絶望へと姿を変えてゆく。
そんな。ああ、そんな。
「どうかしたか?」
ヴェルギルが訝しげにこちらの顔をのぞき込んでくる。その時風向きが変わった。冷たい風が運んできたものに、彼の顔にも理解が浮かんだ。
「これは──」
これは、凶報。
人狼の古びた血の匂いが、森を渡る風に乗ってやってきた。
ローナンとグンナールは兄弟で、クヴァルドよりも若かったものの、同じ時期に人狼としての訓練を受けた仲間だった。二人とも、毛色の違うクヴァルドのことをよそ者扱いしなかった。一緒に狩りにでたり、同じ任務に就いたりしては、共に大きな手柄を持ち帰ったものだ。お調子者のローナンと優しい心のグンナールは、ふたりよく似た表情豊かな目をしていた。
その目があったはずのところは、いま、血まみれの穴に変わってしまっていた。屍肉漁りの烏に盗まれたのだろう。
クヴァルドは、かつては兄弟と呼び合った二人の死体にかがみ込んだ。ふたりは、古いオークの木の根元に晒されていた。首は胴体と切り離され、両脚の間におかれていた。大量の血がそこいらじゅうに溢れ、夥しい数の蟲が血に酔ったまま凍り付いて死んでいた。
「一体どういうことだ?」
ヴェルギルが尋ねてきたが、教えて欲しいのはこちらの方だ。ただ、狼の縄張りで狼が殺されるのが尋常ではない事態であることを、彼もわかっているらしい。それ以上踏み込もうとはしなかった。
「日が経っている」クヴァルドは小さな声で言った。
砦を発ってすぐだったに違いない。このあたりは狼の縄張りではあるが、獲物に乏しいため仲間もめったに訪れない。数ヶ月気づかれなかったとしても不思議はない。死体は野ねずみに囓られて損傷していたものの、首の切断面は滑らかだ。ということは、よく訓練されたふたりの人狼の首を一閃で落とせるほどの手練れの仕業ということになる。
「誰だろうと、仇はとる」
死者の瞼を閉じて安らぎを与えてやろうにも、瞼を鼠に食い尽くされてしまっていた。クヴァルドは目を閉じた。
月神よ、ご慈悲をたれたまえ──彼らは、こんな死に方をしていい者たちではなかった。
深いため息をつくクヴァルドの傍らから手を伸ばして、ヴェルギルがふたりの眼窩に銅貨をおいた。
「弔いをしてやらなくては」
ヴェルギルの提案に、クヴァルドは躊躇った。不測の事態が起こっているのは間違いない。一刻も早く砦に戻るべきなのはわかっていた。ここから砦まで、急げば明後日の朝にはたどり着ける。だが間の悪いことに、明日は満月だ。
クヴァルドはため息をついた。
「感謝する。吸──」そして、亡き兄弟の目を閉じてくれた銅貨を改めて見つめた。「ヴェルギル」
獣に変化する力を持つ者たちを、〈クラン〉の言葉で〈同じ皮膚を持たぬ者〉と呼ぶ。卓越した者は〈ハムラマ〉と言われ、尊敬される。中でも狼の皮を持つ〈ウルフハマ〉は、〈ハムラマ〉の中で最も数が多い。
人狼に変異すると言うことは、狼の皮を着て、狼の魂を迎え入れると言うことだ。血統によってそれを継ぐ子もあれば、儀式によって受け入れる者もいる。どちらにしても、ひとたび己の中の狼が目覚めれば、死ぬまでそれを眠らせることは出来ない。
だから、人狼の弔いには炎が欠かせない。内なる獣の檻である肉体を焼き滅ぼすことで、偉大なる狼と一体となった魂を野に放ち、人狼の間で〈聖なる雌犬〉の異名をもつヘカの元へ送るのだ。
組んだ薪の上にふたりの身体を横たえる。イチイの枝を編んだ冠をかぶせるのは、西方浄土で待つヘカに魂が受け入れられるようにとの願いからだ。イチイはヘカの守護樹で、死したナドカの守護樹でもある。
魔女が作る消えない種火、〈魔女の灯明〉を小さな瓶から取り出して、薪の下に置く。針葉樹の枝はすぐさま燃え上がり、朋友の亡骸を炎で包み込んだ。
『いざ たちて還らん 我が都へ──』
クヴァルドは火葬の炎が立てるごうごうという音に紛れ込んでしまえるほど小さな声で歌った。少し離れたところに立っているヴェルギルの耳にも入っていたのだろうが、何故かいまは、彼に聞かれることを嫌だとは思わなかった。
炎が伸び上がり、夜明けの空を舐める。
『おお 母なる月の奥方
瞼の裏に 今も美しき
エイルの浜を 留めたまえ』
瘴気で閉ざされたナドカの故郷には、死ぬことでしか還ることが出来ない。故郷が歌われたとおりの美しい場所であることを──そして、安らぎに満ちた地であることを、クヴァルドは祈った。
†
クヴァルドが歌い終わった次の瞬間、炎の色が目の覚めるような青に変わった。ふた柱の蒼い炎は、ほんの一瞬、天に届こうかと言うほど伸びて──元の色に戻った。そして、火花と煙をあふれ出させながら、燃え尽きた薪が崩れた。その時ヴェルギルにも、あのふたりの人狼がエイルへの旅路に出たのだということがわかった。
「やすらかに往け、兄弟」 クヴァルドが、そっと呟いた。
西の空を見る。
地平線のかなたへ帰途につこうとしている月は丸く、あと一滴で、完全に満ちる。
満月は今夜。待ちに待った好機が訪れた。
ナドカの中でも、人狼ほど強大な種族はいない。熟達した人狼は人間、半獣、獣の姿を自由に行き来することができ、五感は鋭敏にして力は尋常を越える。人狼こそ、〈三つの顔を持つ女神〉ヘカに最も愛された種族だ。そんな人狼に弱点があるとしたら、それは、どんなに老練な狼でも、満月にはあらがえないということだ。
長く地上を旅してきたから、人狼の習性については知っている。彼らは満月になると、国中の至る所に築いた〈狼小屋〉に籠もり、自らを監禁する。理性を失うほどの衝動から、己と他者を守るためだ。
満月が人狼に及ぼす影響はひとそれぞれで、破壊衝動に囚われるもの、食欲が増大するもの、希死念慮に取り憑かれるものと、実に個性豊かだ。
もし、クヴァルドから逃げ出す好機があるとしたら、それは満月の夜しかないだろうと、ヴェルギルは踏んでいた。不測の事態で足止めを食ったおかげで、砦に着く前に満月の夜を迎えることが出来た。
クヴァルドが自分で自分を閉じ込め、なんであれ彼の内なる獣と戦っている間に姿をくらます。丸一日あれば、彼の鼻がたどれないところまで逃げおおせることが出来るだろう。探るつもりだった〈クラン〉の内情には今ひとつ踏み込めていないが、どうやら、ただ恨みを買っただけというわけでもなさそうだ。それさえわかれば、エダルトを殺させないために打つ手もあるだろう。
クヴァルドは、燃え尽きた亡骸に土をかけて、その上に剣を横たえた。大きな背中は堂々としいていたが、同時に意気消沈しているのもわかる。それも当然だろう。彼が帯びた使命はことごとく失敗したのだから。やっとつかまえたと思った敵が人違いで、さんざん無駄足を踏んでまで探していた仲間はすでに死んでいた。この上、ヴェルギルが逃げてしまえば、彼は無能の烙印を押されてしまうかも知れない。
まあ、わたしには関係の無いことだが。
最後の祈祷が終わったらしく、クヴァルドがヴェルギルの元へやって来た。
「話がある」
ヴェルギルは身振りで先を促した。
「今夜は満月だから、俺は身動きが取れなくなる」
初耳だという振りをするのはやめた。「それで?」
「近くの〈狼小屋〉までたどり着く時間も無い。幸い、近くの洞窟に祭壇があるから、今夜はそこで過ごす。お前は──」
「わたしに構うな。一人気楽に野宿でもしているさ」
そんな戯言を信じると思うか、という目で、人狼はヴェルギルを睨んだ。
「お前のことは、あのイチイの樹にくくりつける」
むごいことを、淡々と言ってくれる。
「逃げようなどと無駄なことを考えるな。〈クラン〉にはお前のような捕虜を拘束する方法が千通りもある」
ヴェルギルは弱々しく微笑んで見せた。「待ちきれないね」
結局、人狼の宣言通り、ヴェルギルはイチイの木にくくりつけられた。四肢をバラバラに戒めて身動きが取れないようにした上で、肌に触れるか触れないかという所に、銀が編み込まれた首輪をかけられた。銀を扱えるナドカは多くないが、クヴァルドが持っている銀器はどれも見事な細工だった。いつかその者を始末するチャンスに恵まれたときのために、細工師の名前を調べてみる価値はあるかも知れない。もっとも、同じことを考えて失敗した不届き者が千はいたのだろうが。
「少しでも触れれば、肌が焼けただれる」クヴァルドは慣れた様子で、拘束の堅さを検めた。「無理に逃げようとして、首を焼き切った吸血鬼を知っている。お前には同じ末路を選んで欲しくない。俺が言いたいことはわかるな?」
ヴェルギルは批難を込めた眼差しで見つめ返した。
「君とは多少なりとも信頼関係を築くことが出来たと思っていた」
「思い違いだ」人狼は素気なく言った。「お前は感情を装うのが上手い。俺を気に入り、打ち解けた風を装ってはいても、この鼻はごまかせない」
ヴェルギルはため息をついた。
「お褒めにあずかり、光栄だ」
「だが、吸血鬼」クヴァルドは言った。「あの〈蛇〉はつけずにおいてやる。さっきお前が、俺の兄弟に見せた情けに免じて」
ヴェルギルは視線をあげた。
刻一刻と近づく満月の気配に、彼の緑色の目には鈍い金色の結晶が散らばっていた。初めて彼を見たときに頭に浮かんだ驚き──いったいどの神がこの男の造形を編んだのだろうという想いがよみがえる。
「感謝する、と言うべきかな」ヴェルギルは小さく微笑んだ。
「その通りだ」
人狼は言い、自らを戒めるために、祭壇のある洞窟へ向かった。
行動に移すのは、夜まで待つことにした。
霧に変化して縄抜けをするのは危険な賭けだ。変化の途中で銀の糸に触れれば、己の肉体を構成するのに必要不可欠な部分が消し飛び、二度と元に戻れなくなる危険がある。だからヴェルギルは、消耗するのを覚悟の上で、蝙蝠に姿を変えることにした。
変化といっても、人狼のように、『偉大なる蝙蝠の魂を身のうちに宿す』などというものでは無い。己の肉体を細かな粒子に分割した『霧』に変えるのと同じ要領で、何匹もの蝙蝠に変化させるのだ。これならば霧よりも制御が利くし、素早く動くことが出来る。
月が森の上に昇ったことを確認して、ヴェルギルは目を閉じた。次の瞬間、銀の首輪や手枷をすり抜けて、いくつもの黒い翼が闇に羽ばたいた。蝙蝠のうちの一匹が銀に触れて翼を焦がしたが、大事には至らなかった。やがて、大群は蠢きながら一つにあつまり、伸び上がる大きな影となり──中からヴェルギルが姿を現す。
ほんの一瞬で、脱獄は完了した。虚しく垂れ下がる拘束具を見やり、ヴェルギルは呟いた。
「鎖を使うことを思いとどまったのは失敗だったな、仔犬」
血が冷たい吸血鬼なら、躊躇せずに〈蛇〉を使っただろう。情に流されやすい〈温血〉らしい失態だ。我知らず、ヴェルギルは苦笑した。
理性は、このまま一刻も早くここを離れるべきだと告げていた。
だが同時に、あの人狼が満月の下でどんな本性を見せるのか見てみたいと思った。愚かなことだと知りつつ。
深入りすべきではない。わかっている。たかが取るに足らない人狼一匹、他の多くのことと同じように、忘れ去るべきだ。それが理に適った結論だと納得しているにもかかわらず、沈黙した心臓のあたりが、妙に疼いて仕方なかった。
そもそも、〈月の體〉になってこのかた、理性と意見を違えるなどということがあっただろうか。
「遠目で見るだけだ」
誰にともなく、ヴェルギルは呟いた。それは自分への方便だったのかもしれない。
〈聖なる雌犬〉の祭壇のある洞窟は、イチイの木から離れた場所にあった。捕虜を遠ざけておく理由について思いを巡らせながら、ヴェルギルは洞窟までの道をゆっくりと辿った。
人狼の中には、満月が訪れる度に堅牢な檻を必要とするものも多い。四肢を拘束しなければ、とり返しのつかぬほど自傷してしまう者だとか、轡を噛ませておかなければ土まで食らおうとするものもいると聞いた。あの堅物の人狼は、どんな満月の夜を迎えているのだろう。
心臓は相変わらず凍り付いていたし、身体の中で滞る血も冷たいままだ。それなのに、気は逸り、歩みが早まるのを抑えきれない。
「遠目から見るだけだ」
もう一度、自分に言い聞かせる。そうしなければ、何をしでかすかわからないとでも言うように。
洞窟の入り口が見えた。濡れたような岩肌にぽっかり開いた口を彩るようにイチイの低木が茂り、根元にはトリカブトの花が咲いていた。夏に花を咲かせるはずのこの花が冬の時期に見られるのは、その場所が月神の祝福を受けていることを意味する。〈聖なる雌犬〉の祭壇は、人狼が森で狩りをした時に、その月で最初の獲物を捧げるためのものだ。
足音で気取られないよう、霧に姿を変えて入り口まで漂っていった。岩肌に手を触れることが出来る所まで移動して、爪先から実体に戻る。
なにか、声が聞こえる。
霧の身体でいる時には、感覚が鈍くなるのが常だ。呻いているようだが、はっきりとは聞き取れない。程なくして実体を取り戻すと、聴覚がよみがえった。その瞬間に耳に飛び込んできた声に、ヴェルギルは凍り付いた。
「う……んん……」
そして、自制するのも忘れて洞窟の中をのぞき込み、再び凍り付いた。
吸血鬼の多くは認めないだろうが、人狼がひとの姿をとるとき、それは見事な肉体美を誇るひとつの作品と言っていい。だが、彼らが半狼に変化したときの姿は──言語に絶する。身体は一回り大きくなり、体表は獣の毛に覆われる。首から上は狼そのものの姿になるが、完全な狼の姿をとるときと違い、言語を操ることも出来る。二本の足で立ち、指も人間並みに使うことが出来、力も感覚も増す。これこそ、人狼という種族の真の姿だ。
これほど野蛮で、荒削りな種族はないと思っていた。いままでは。
クヴァルドが狼の毛皮を纏っているところを見るのは初めてだった。いま、彼の姿を見てようやく、今までに数え切れないほど、彼の毛皮はどんな色をしているのかと思いを馳せていたことに気づいた。
クヴァルドの毛皮は、それは見事な黄昏の色だった。頭頂部や背中を彩る赤銅の毛は、身体の内側に至るにつれ柔らかな象牙色へと変化している。その移ろい、その毛並みの見事なことと言ったら!
だが、ヴェルギルの視線を釘付けにしたのは、彼の外見ではなかった。
人狼はいま、ヘカの祭壇に寄りかかって座り込み、毛皮以外の一切を纏わぬ姿で自らを慰めていた。
彼は目を閉じ、獣の顔に似つかわしくない苦悶の表情を浮かべたまま、鉤爪の生えた手で、濡れた陰茎を扱いていた。月明かりの中で、その大きなものが幾度となく透明な液体を溢れさせているのがはっきりと見えた。
「う……」
長い鼻面に皺を寄せて低く唸りながら、彼は地面に擦り付けるように腰を揺らしていた。深い呼吸の度に腹が波打ち、長く豊かな尾が震えている。
分厚い毛皮の下で、彼の狼の血が熱く沸き立ち、奔流しているのが、ヴェルギルには感じられた。視界が暗くなり、月明かりの下に蹲る人狼の姿だけがくっきりと浮かび上がる。
牙が鋭く伸びて疼き、唇が物欲しげに開いてしまうが、止められなかった。
紛れもない渇望。これほどまでに強烈な渇きを感じたのは、変異してからの永劫にも思える時の中で、初めてのことだった。
彼の血を味わいたい。いまこの瞬間、それ以外の望みはない。
そのとき、気配に気づいた人狼が顔を上げ、まっすぐにこちらを見た。
ヴェルギルは、羞恥心に駆られたクヴァルドがこちらに飛びかかり、自分を八つ裂きにしようとするだろうと思った。だが、予想に反して、彼はふっと顔を背けただけだった。
耐えがたいほどの飢えにそそのかされるままに、一歩踏み出す。また一歩。そしてさらに。けれど、彼は逃げなかった。それどころか、手の届くところまでやって来たヴェルギルを見上げて、ほんのわずかに鼻を鳴らした。
まるで何かを……ねだるように?
「クヴァルド」
人狼の傍らにかがみ込み、頬に触れる。彼は一瞬だけ低く唸ったものの、抗おうとはしなかった。豊かな毛皮は濡れたように滑らかだった。
「邪魔を……するな」クヴァルドは言った。「ひとりにしてくれ。頼む」
かすれた声で懇願されても、渇望は増すばかりだった。
「そのままでは辛いだろう」ヴェルギルは言った。「満月の夜に我を忘れるのは、血の中にある魔力が増えすぎてしまうからだ。血を減らしてやれば、症状は多少治まる」
ゆっくりと言い聞かせる間、クヴァルドは食い入るようにヴェルギルを見つめていた。その大きな口で、こちらの首を丸かじりすることが出来るかどうか、計算しているのだろうか。
「お前に助けを請うた覚えはない」荒い息を喘がせながら、クヴァルドは言った。
「助けようというのではない。交換条件だ」
人狼は低く唸った。性欲に身をまかせている最中に、理性的な会話をさせられて苛立っているのだろう。だが、彼は言った。
「交換条件?」
「わたしが君の血を飲む。君はこの──症状が楽になる」
クヴァルドはまた、ヴェルギルの顔を見つめた。熟した月のような双眸で。
「人狼の血を試してみるのも、悪くはないと思ってな」後押しするように言った。「早く解放されるためには、協力した方が賢明だ。違うか?」
すると、人狼はフンと鼻を鳴らして、目をそらした。降伏するように。
「わかった」
ヴェルギルは立ち上がり、そっと人狼の背後に回った。これほどまでに毛深い生き物から直接血を吸うのは初めてだが、問題だとは思わなかった。硬い毛と、その下に隠れていた柔らかい毛の層をかき分けると、薄紅色の肌が姿を見せる。かがみ込んで牙を突き立てようとしたとき、揺れる尾の下にあるものに気づいた。
張型だ。艶やかに濡れた、金属製の。
頭を殴られたように、混沌が胸の中に沸き起こる。いや、おかしなことは無い。人狼になってこのかた、彼は満月が昇るたびにこの性欲と向き合わねばならなかったのだろう。避けられないものならば、より効率を求めるべきだ……じつに彼らしい。
だが──ああ、〈父神〉よ──いままでずっと、これが彼の馬の鞍袋に収まっていたと言うことか?
その時、クヴァルドがわずかに振り向いた。赤金色の睫毛の下から、潤んだ月色の目でこちらを見上げる。
「どうかしたのか……?」
ヴェルギルは目を閉じた。
深入りすべきではない。だが、もう手遅れだ。
「どうもしないさ、仔犬」
ヴェルギルは言い、渇望の源に牙を沈めた。
温かい血が溢れ、舌を濡らす。その瞬間に、喉が灼け、首の後ろがじりじりと焦げ付き、とろけたような感覚に陥った。彼の血は飲み下すのにも苦労するほど熱く濃厚だった。そして、いままでに口にしたいかなる血、いかなる酒よりも芳醇で、甘い。悦びそのものの味がした。
そして、次の瞬間、信じられないことが起こった。胸の虚ろで眠りについたはずのものを再び感じたのだ。
心臓が──心臓が鼓動している。〈蛇〉を使ったわけでもないのに。だが、そのことについて深く考える余裕はなかった。
「あ……!」
抱きしめた腕の中で、クヴァルドの毛が逆立つ。彼は切なげな声を漏らして、力なく身を震わせた。何かが滴る音と共に、血とは似ても似つかない匂いが立ち上る。
咬まれて、達したのか?
彼はもどかしげに呻いて身をよじると、張型に手を添えて、それを強く押し込んだ。
「ん、ん……」
目の前で起こる何もかもが強烈すぎて、理性が追いつかないでいるヴェルギルに、切羽詰まった囁きが追い打ちをかけた。
「ヴェルギル」喘ぎ声とも、泣き声ともつかない囁き。「もっと強く、吸ってくれ」
いまや心臓は痛いほどに早鐘を打っている。これ以上煽られたら、胸が破れてしまうのではないかとさえ思えた。
感じやすい人狼の身体は、小さな咬傷に舌を這わせるだけでたやすく震える。だが、後ろ姿だけでは、もう満足できそうになかった。ヴェルギルが人狼の前に回ると、彼はいぶかるような表情を浮かべた。
「血を……吸うだけだろう」
「気が変わった」ヴェルギルは言った。
「何を──ああ……っ」
正面から抱擁するように覆い被さり、今後は前から、彼の首筋に噛みついた。またしても人狼は震え、毛皮を膨らませた。あたたかく官能的な匂いが、身体中から立ち上っている。
その香りに包まれながら飲む血は、また格別だった。ヴェルギルは、クヴァルドの血の中に溶けた、夜の森を思うさま疾駆する時の強烈な歓喜や、困難な狩りの果てに獲物を屈服させたときの燃え上がるような興奮を、夢中で味わった。
「あ……ギル」
彼は呟き、ヴェルギルの長衣の背中を、ぎゅっと掴んだ。張型を飲み込んだままの尻を揺らし、屹立したものをヴェルギルの腹にこすりつける。
「ん……んっ」
貪欲なまでに乱れた姿に、ヴェルギルは思わず呻いた。
鼓動する心臓と、他者の血を得たことで温まった肉体の相乗効果はすさまじかった。ヴェルギルはベルトを外し、長衣をたくし上げ、下穿きの中で硬くなっていたものを掴んだ。いままで、対価を得るためだけに必要に応じて使ってきたものを、いまは衝動のままに解き放とうとしていた。
先走りとさっきの射精で濡れそぼつものに寄り添わせて、握る。
「あ……!」
いきなり触れられたことで一瞬からだを引きつらせたものの、クヴァルドはすぐに力を抜き、身をまかせた。それどころか、ヴェルギルの身体に両腕を回して、さらに強く引き寄せた。
「仔犬」
「仔犬と呼ぶなと、言っただろ……」
「ならば、名前を教えてくれ。君の真の名を」
人狼は苦しげに喘ぎ、鼻を鳴らし、やがて言った。「フィラン」
「フィラン」
ただの単語に過ぎない。それなのに何故、こんなにも強い喜びを感じるのだろう。舌で味わうように、ヴェルギルは再び口にした。
「フィラン……」
「もっと強く」絶え絶えの息で、クヴァルドが言う。「強くしてくれ」
握りこんだ手の中で、二つのものが濡れそぼった音を立てる。止めどなく溢れる快感に酔い、血の芳香に酔い、降り注ぐ月光に酔い、人狼の喘ぎ声に酔って、前後不覚に陥ってしまいそうだった。
「あ、また……またくる」譫言のように、クヴァルドが繰り返す。「ギル……」
ヴェルギルは、その哀願に応えて、陰茎を扱く手を早めた。
抱きしめた身体は震え、呼吸の深まりと共に張り詰めてゆく。
「あ、あ──ギル、ごめん……」悲痛に鼻を鳴らす。「ごめん……ああ……!」
そしてクヴァルドは、ヴェルギルの手の中に精を放った。温かいものが溢れ、溢れに溢れ、重ね合った腹や、絡み合う脚、胸まで濡らしてゆく。その中で、ヴェルギルも達した。吸血鬼になって初めての絶頂は強烈で、その瞬間、ヴェルギルは衝動のままクヴァルドの血を貪った。
「ん……っ!」
鼓動そのものが快感を引き起こし、無様に喘がずにはいられない。皮膚という皮膚、骨という骨がうち震え、喜びのうちに溶けてしまいそうだった。歓喜という感覚を数百年ぶりに思い出した己自身は、濡れた毛皮に埋もれたまま、脈打つ度に吐精した。
ヴェルギルも、クヴァルドも、荒い息をつきながら身動きも取れずに抱き合うことしか出来なかった。
やがて、腕の中の身体がぶるりと震えた。見下ろすと、クヴァルドは目を閉じたまま、人間の姿へ戻ろうとしているところだった。まるで、夜から朝へ移ろう空のように、ゆっくりと、だが着実に、獣の面影が消えて人間の姿の彼が戻ってくる。毛皮は溶けるように薄らいで、その下から、人間の滑らかな肌が現れた。
彼はそのまま、一糸まとわぬ身体を丸めて……動かなくなった。
そしてヴェルギルもまた、自分の中によみがえった鼓動が、また息絶えようとしているのを感じていた。撥条が切れた絡繰り人形のように。
理性を脅かすほどの熱情が冷え固まってゆくほどに、一つの事実がありありと浮かび上がってくる。
クヴァルドが呼んだ名──ギル。
はじめは自分のことかと思った。だが、そうではない。
相手がわたしなら、彼は「ごめん」などとは言わなかったはずだ。夢うつつの中で、彼は『エギル』を呼んだのだ。
「吸血鬼」小さな声で、クヴァルドが言った。「なんで、俺を?」
同じことを、ヴェルギルもまた自問していた。
何故、この男なのだ?
イムラヴの血を引く人狼は珍しい。だが、それだけが理由ではない。見事な毛皮に惹かれたからか? あるいは、哀れを催すほど真面目で高潔だから? 故郷の歌を見事に歌い上げたあの声のせいか? それとも、満たされない憧憬を抱えた彼に同情した?
わからない。これほど不確かなことがこの世に存在することを、いま初めて知った。
ヴェルギルは口の中で、〈嘘の守護者〉リコヴへの祈りを口にした。それから肩をすくめて、こともなげに言った。
「わたしは悪食でね」
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