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腥血と遠吠え
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「仔犬」
そう囁くあの声が、耳の内側にへばりついて離れない。
ひどい侮辱で、腹立たしい。それなのに、土の中に埋めた骨を掘り返してはまた埋める遊びみたいに、何度も頭の中によみがえらせてしまう。それに、血を吸われる瞬間のあの感覚。大事なものを失っているはずなのに、身体が軽くなると同時に得も言われぬ戦慄が血管を満たす。自分の身体が他者の飢えを満たしていることを実感するのは……妙な気分だった。
そこまで考えて、首を振った。これでは、自ら望んで啜り屋の餌になりたがる人間の取り巻きと変わらない。
吸血鬼とことに及ぶなんて、正気の沙汰ではない。満月の夜になると正気を失うのが人狼だが、それにしてもこれは度を超している。〈クラン〉の者に知られれば、追放されてもおかしくはない。
このどうしようもない衝動は、まさしく呪いだ。
あれから一昼夜、樅の葉で肌を擦って匂いを消しながら、ろくに口も聞かずひたすらに歩き続けた。吸血鬼もようやく何かをわきまえる方法を知ったのか、いつものような無駄口を叩かなかった。
ヨトゥンヘルムにたどり着いてから、ヴェルギルと離れることが出来たのにはホッとした。いま彼は、格子という格子に封印の魔方陣が象嵌された地下牢に閉じ込められている。ドワーフの一族が最初に建造してから、罪びとの脱走をただの一度も許さなかった牢だ。霧に変化しようが蝙蝠に変化しようが、あれを抜け出せる者はいない。それに、ここには三百人ちかい人狼が暮らしている。いずれも精鋭揃いだ。
クヴァルドはようやく、肩の荷を下ろして息ができるようになった。
〈クラン〉の本拠地ヨトゥンヘルムは、その名の通り、山の頂に被さった巨人の兜の形をしている。石造りの砦は堅牢で、雪に閉ざされた山を穿つ構造になっている。六百年ほど昔、遙か北方のウサルノからやって来た、〈狼皮を纏った〉海賊が、山に棲む妖精の一族であるドワーフの先住民を攻め滅ぼして奪った砦だ。以来海賊たちは、ドワーフの遺物と魔女の技術を融合させながら、この場所を作り替えていった。おかげで、真冬でも絶えることのないかがり火や暖炉の炎が、内部を温かく過ごしやすい巣穴に保っている。山を穿った砦にある無数の部屋は、ここで暮らす資格を持った人狼たちに割り当てられた。そうして人狼は長い年月をかけ、この場所で〈クラン〉として栄えていったのだ。
無人の大広間の壁に飾られた巨大なタペストリーが、その歴史を物語っている。
皆が訪れるのを待つ間、特にすることもないクヴァルドは、巨大な暖炉の炎と、魔力仕掛けの永夜蝋燭に照らされた一族の物語を、実際よりも遠くから眺めるような気持ちで見つめた。
これは『彼ら』の歴史であって、俺には関係の無い話だ。
幼い頃、エギルが自分を引き取ったことに何か意味があるのだろうかと、ずっと考えていた。例えば、何百年かに一度、放浪民出身の人狼が〈クラン〉を救うという予言があるとか、クヴァルドが良い人狼になるための素質を全て兼ね備えていることをエギルが見抜いてくれたのだとか、そういったことを。けれど、そうした『運命』などというものは存在しなかった。幼いフィランは、ただの哀れな生き残りで、情けをかけて引き取って貰ったに過ぎない。だから彼は、自分で〈クラン〉の中に居場所を作らねばならなかった。力尽くで。
そう考えれば、自分も『彼ら』の父祖たちと、それ程かけ離れた存在というわけでもないのかも知れない。
「フィラン、よく戻ったな」
大広間の後ろの扉が勢いよく開くと同時に、嬉しげな声が響いた。クヴァルドは最も深い辞儀をして、彼らが上座につくのを待った。
「顔を上げてくれ、フィラン」
命じられたとおりに、姿勢を正す。やはり、頭領の席は空席のままだ。その隣、頭領の連れ合いが座る二番目の上座にヒルダ・フィンガルが座り、クヴァルドを見下ろしていた。彼女に寄り添うように立つのはナグリ──ヒルダの側近と、副官のハルヴァルズ。これで、秘密の任務のことを知る者のうち、国王陛下とその側近を除く全員が集合したことになる。
「ナグリから聞いたよ。ご苦労だった」
クヴァルドは深く頭を垂れた。
「ローナンとグンナールを喪いました」
ヒルダは頬杖をつき、低く唸った。「仇はとる。かならず」
ヒルダはフィンガル氏族の正式な跡取りだ。そして、エギルの妻でもある。凝った編み込みで括った黄金の髪に、冬空のように青い瞳。祖先の血統と勇猛、そして才知を受け継いだ有能な雌だが、頭領ではない。
そしてこの場にいる者はすべて、頭領の不在の理由を知っていた。
「お前がとらえた黒き血だが」ハルヴァルズが口を開いた。「あれがヴェルギルだというのは本当か?」
疑いたくなる気持ちはわからないでもない。なにせ、ヴェルギルについて語られていることといえば、何百年も前から『神出鬼没で、美女の血を啜ることにしか興味が無い』だとか、『享楽的で奔放、同族やナドカとの関わりをほとんど持たず、人間に寄生している』というようなものばかりだ。人狼が好んで使う〈黒き血〉という蔑称が、これほど似合う吸血鬼もなかなかいない。
だが、裏付けたのはクヴァルドではなかった。ヒルダの横に立っていたナグリが頷いた。
「間違いない」
ヒルダは椅子の上で振り向いた。「以前に会ったことが?」
「はい。わしが子供の頃に、一度だけ」
ナグリは三六二歳で、〈クラン〉の最長老だ。
「記憶はたしかなのか?」
そう言ったハルヴァルズに向かって、ナグリは低く唸った。
「確かだとも。〈剣神〉スヴァールクの蒼剣の輝きにかけてな」
ハルヴァルズは降参するように手を掲げた。「わたしはただ、奴がそう簡単に捕まるなんて妙だと思っただけだ」
「囮かも知れぬ」ヒルダは言った。「エダルトに、こちらの動きが読まれているのやも」
「だとすれば、奴をここに置いておくのは危険なのでは?」ハルヴァルズは手をこまねいた。「仲間を助けに来るかも知れません。フィラン、奴は『エダルトとは古い知り合い』だと言ったのだな?」
「はい」クヴァルドは頷いた。「ですが、吸血鬼はそのような情を持ち合わせていないかと」
ハルヴァルズは小さく鼻を鳴らした。「最古の吸血鬼が何を考えるか、お前にわかるとでも?」
「いえ」クヴァルドは頭を下げた。「そんなつもりでは」
足下に散らばる、匂いとりのためのい草のかけらをじっと見つめる。いままでに幾度となく、こうした嘲りをやり過ごしてきた。百歳にも満たぬお前に、我々の血統を継いでもいないお前に、厭らしい赤毛のお前に、なにがわかる?
「これから、どうすべきか」ヒルダが言った。
「あの吸血鬼は手元に置くべきです」ナグリは言った。「きっと、何かの役に立ちましょう」
クヴァルドは顔を上げた。「だが、ヴェ──奴は〈協定〉を犯していません。拘束する理由がなくては」
「人間を殺した」とハルヴァルズ。
「やむにやまれぬ事情からです。ナドカが己の身を守ることを、〈協定〉は禁じておりません」言いながら、なぜ奴をかばっているのだろうかと考える。「わたしも、彼に助けられました」
「それを恥と思う心がお前にもあればな」ハルヴァルズは吐き捨てた。
「もうよい、ハルヴァルズ」ヒルダが諫めた。「エダルトを討つまでは止まれぬ。あの吸血鬼には協力して貰うほかない。不本意でもな」
彼女はクヴァルドを見て、鋭い眼差しを緩めた。
「フィラン、いましばらく力を尽くしておくれ。お前には苦労をかけるが」
エギルがヒルダと結ばれたとき、哀しみも怒りも感じなかった。なぜなら……それがとても自然なことに思えたから。どのみち、想いの深さを打ち明ける覚悟もない思慕だった。美しさと厳しさを兼ね備え、なおかつ慈悲深いクランの跡継ぎを娶るのは、有能で人望篤いエギルの他にはいないと、納得せずにいることの方が難しかった。
ただ、心が空っぽになってしまっただけだ。
「御意に、ヒルダ様」
つづく静寂は、赤々と燃える暖炉の温もりをも打ち消すようだった。ここにいる誰もが、次に行うべきことを知っていた。知っているからこそ、この沈黙が全員の肩にのし掛かっていた。
やがて重々しく、ヒルダが言った。
「裁定を求めよう」彼女の表情に、夫を想うときの喜びはなかった。「我らが頭領に」
朔月の間と呼ばれる広間が、砦の深いところにある。先ほどまで会合を開いていた大広間に比べて、この部屋は半分の広さもない。かつてはドワーフたちが埋葬の準備に使っていたこの部屋を、〈クラン〉は秘密を保持するための場所に変えていた。
クヴァルドは、この部屋が、他のいかなる場所よりも嫌いだった。
まるで死の床のように静まりかえる部屋には、ヒルダとハルヴァルズがいた。誰も言葉を交わそうとはしなかった。壁に差し掛けられた松明だけが、空気を食む微かな音をさせているばかりだ。
楕円の形をした部屋はかつて、埋葬を待つ死者を屍衣に包んで保存するための場所だった。処置に使われていた石の台が中央に据え付けられている。周囲の壁には死者を安置するための横穴が掘られていたが、いまは質素な本棚の後ろに隠されている。そして部屋の奥──そこには、何本もの蝋燭に囲まれた、あるものがあった。分厚い毛織物に覆われて、壁龕の上に鎮座している。クヴァルドはそれを視界に入れないよう、頑なに自分の足下を見つめていた。きっと、他の者も同じことをしているだろう──ただひとり、ヒルダを除いて。彼女は、それが安置された祭壇を守るように立ち、訪れるべき客を待っていた。
そのとき、石の階段を降りてくる足音がしたので、クヴァルドは部屋の扉に視線を移した。
重い石造りの扉が開く。ヴェルギルはナグリに拘束されたまま──だが、それを感じさせない、ゆったりとした足取りで──広間に入ってきた。視界の隅で、ハルヴァルズが鼻にシワを寄せた。吸血鬼の匂いは、人狼にとってはこの上ない悪臭なのだ。
クヴァルドは、いつのまにかそれを忘れていた自分に気づいて、ほんの少しの後ろめたさを感じた。
「ごきげんよう、諸君」
そう言って、ヴェルギルは宮廷風の優雅な辞儀をした。ナグリによって腰に縄をかけられ、銀のナイフを突きつけられたまま。
挨拶を返す者はいなかったが、ヴェルギルは気にした風もなく部屋の中に進み出ると、石の処置台の上に両手をついた。
「さあ、訊くべきことを訊いてくれ。そして、この苦行を済ませてしまおう」
ヒルダがゆっくりと、ヴェルギルの向かいに立った。「望むところだ」
ナグリが縄を引いて膝の裏を蹴ったので、吸血鬼は強制的に跪かされた。
ヒルダは剣の柄に手をかけ、冷たい眼差しで吸血鬼を見下ろした。
「わたしはヒルダ。〈クラン〉の頭領エギルに変わって、これよりお前に尋問を行う」
なんなりと、と言うように、ヴェルギルが手をひらめかす。
「お前は、人間たちにヴェルギルと呼ばれる吸血鬼で間違いないな?」
「いかにも」
「真名は?」
ヴェルギルは事もなげに肩をすくめた。「忘れてしまった。その名を覚えている者はみな死んだからな」
「エダルトなら、知っているのではないか?」ハルヴァルズが言った。
すると、ヴェルギルは彼を見た。「どういう問いだ、それは?」
「お前はエダルトの知り合いだと言ったそうだな」
「言ったとも。だから何だ?」ヴェルギルは言った。嘲るような笑みを浮かべて。
ハルヴァルズが、低く唸る。その様子に臆することなく、ヴェルギルは周囲に並ぶ人狼を見回した。
「君たちは尋問がしたくてわざわざこのわたしを、こんな……」適切な言葉を探すように、言いよどむ。「穴蔵まで連れてきたのだろう。無意味な当てこすりをするためではないはずだ。違うか?」
クヴァルドは、この狭い部屋の空気がさらに重く、張り詰めてゆくのをひしひしと感じた。
この吸血鬼は、一体なにが楽しくて、この国で三番目に力を持つ人狼を挑発しているのだ?
「わたしとエダルトがどんな関係か知りたいのならば、そう尋ねるがいい。回りくどい質問には虫唾が走るのでね。ご理解頂けたか?」
ハルヴァルズの拳は、強く握るあまり関節が真っ白に変色していた。
「いいだろう」ヒルダが言った。「では率直に尋ねる。お前とエダルトとは、どういう関係だ?」
ヴェルギルはヒルダの顔をのぞき込んでから、そっと微笑んだ。
「それは」彼はゆっくりと言った。「教えるつもりはない」
「貴様!!」
ハルヴァルズが吼え、瞬く間に半狼に姿を変えた、次の瞬間にはヴェルギルに飛びかかっていた。驚くべきことに、吸血鬼はハルヴァルズの首を片手で掴み、もう片手で鉤爪鋭い前足を掴むと、それを押し返して初撃をいなした──それも、楽しげに。柳のようなあの身体のどこに、〈クラン〉いちの戦士と渡り合う力があるというのか。
クヴァルドはヒルダへと視線を走らせた。彼女がこの騒乱を静止するだろうと思ったのだ。だが、彼女は凍るような目で見据えるばかりだった。
この部屋は、こんな争いのために使われるべき部屋ではないはずだ。
クヴァルドは──非常に不本意ながら──狼に姿を変えて、ハルヴァルズとヴェルギルの間に割り込んだ。
「どけ! 小僧!!」
鉤爪を振り上げてハルヴァルズが吠える。だが、クヴァルドは動かなかった。半狼の前で、言葉も話せない狼の姿に変化するのは恭順の印だ。耳を伏せ、尾を巻いて、立場が下であることを示しながら、尻でヴェルギルを押しのけ、なんとかして後ろに下がらせた。
「仔犬……」
ヴェルギルが呟く。その声には、虚飾のない驚きがこもっているように思えた。
すると、ハルヴァルズは唸り声をあげてクヴァルドの喉元を掴み、狼の身体を中空に掲げた。
「貴様、この黒き血に誑かされたか!?」
ハルヴァルズの色の濃い金眼は、よく研がれた刃物のようにぎらりと輝いていた。狼の直感が極限まで高まった状態のクヴァルドには、彼は喜んで自分を殺すだろうとはっきりとわかった。
「やめよ!」
ヒルダの凜とした声が告げた。
瞬間、ハルヴァルズの目の中に、また新しい怒り燃え上がる。だが、彼はゆっくりと瞬きをして、それを抑え込んだ。彼はクヴァルドの首にかけた手を離し、苛立ちを振り払うように身震いをして、人間の姿に戻った。
クヴァルドは、脱ぎ去った衣服の中から下穿きだけ引っ張りだし、人の姿に戻りながら、器用にそれを穿いた。ナグリが側に来て、くしゃくしゃの布の山の中からローブを取り上げ、クヴァルドの肩にかけてくれた。
「恥ずかしいところをお目にかけた」ヒルダは淡々と言った。「だが、不用意に人狼を挑発すべきではない。お前ほどの〈月の體〉なら、それくらいはわきまえているだろうと思ったが?」
「わきまえていたとも、フィンガルのご息女」ヴェルギルは、たったいま人狼に殺されそうになったとは思えぬほど楽しげだった。「だがここのところ、あなたの種族をおちょくる楽しさに気づいてしまってな」
吸血鬼がこちらを見たので、クヴァルドは鼻に皺を寄せて唸った。
「訊きたいことがあるのは理解できる」再びヒルダに視線を戻して、ヴェルギルが言った。「だが、わたしは尋問される立場だろうか? いいや、そうは思わない。この拘束に正当性はないはずだ」
人狼たちはほんの一瞬の間に視線を交わした。
「ならば、なぜおとなしくついてきた?」
「面白そうだと思ったのでね」吸血鬼は言い、石の台の端に腰掛けた。「君たちが忌み嫌う黒き血に助けを請わねばならぬほどの理由がなんなのか、知りたくて来た」
「貴様なんぞに助けを請うた覚えなど──」
「ハルヴァルズ!」ヒルダが遮り、黙らせた。
ヴェルギルはその様子を見て、にんまりと微笑んだ。「そうかな? この仔犬は、藁にも縋る思い、という顔をしていたぞ」
ヒルダは深く息を吸い、そして吐いた。
「吸血鬼は退屈を嫌うと聞く」彼女は静かな声で言った。「それが本当なら、約束しよう──我々に協力すれば、退屈はしない」
「それを決めるのはこちらだが」ヴェルギルは再び、クヴァルドを横目で見た。「まあ、味見した限りは、そうだな。期待が持てそうだ」
首筋がかっと熱くなるのを慌てて抑え込みながら、クヴァルドはヴェルギルを睨んだ。
この吸血鬼、機会さえあればこの手で殺してやる……。
ヴェルギルは素知らぬ顔で、ヒルダに向かって指を一本立てて見せた。
「ひとつ、君たちの質問に答えよう。そのかわり、わたしの質問にもひとつ答えてくれ。対等な約束である証しに」
「ヤドヴァルの儀を知っているのか?」ヒルダは微かに眉根を寄せた。「それで、協力すると?」
これは、立場が対等な者同士が協力体制を組む際に行われる誓いの儀式だ。人狼の旧い風習で、いまでは仲間内でもめったに行われなくなった。
「馬鹿な! この黒き血は、我々を陥れようとしているだけです!」ハルヴァルズは言った。今度ばかりはナグリも彼に賛成のようで、深く頷いた。
「わたしはすでに、永夜を渡る月に誓っている。『クヴァルドを裏切らない』と」ヴェルギルは静かに言った。「言ってくれ、仔犬。わたしは君を裏切ったか? 逃げおおせる機会があったときに逃げ、君を殺す機会があったときに殺したか?」
クヴァルドは喉の奥で微かに唸った末に、ようやく言った。
「いいえ」悔しいが、真実だ。「彼はわたしを裏切りませんでした」
ハルヴァルズの視線が突き刺さるようだ。だが、ヒルダは冷静に頷いた。
「どのみち、お前を信じるほかはないのだ。質問を交換し、協力を請いたい」
吸血鬼も頷いた。「ただし、ご存じの通り、互いに質問に答えることを拒否する権利を持つものとする。何を尋ねればわたしが答えるか、よく考えることだ」
人狼は、こういった駆け引きには慣れていない。相手が〈温血の者〉ならば、どんなに嘘を並べたところで、汗や心臓の音から真実を見抜くことが出来る。だが、〈冷血〉の吸血鬼相手では、その能力を発揮するのが難しい。加えて、吸血鬼はどいつもこいつも、言葉で他者をからかうのが好きな性悪と来ている。
ヒルダはもう一度、大きく息をついた。
「ヴェルギル、お前はエダルトに与する者か?」
「人狼らしい、実に率直な質問だ」吸血鬼は満足げに微笑んだ。「答えは『否』。さらに、ちょっとした心付けも加えよう──むしろ、彼はわたしの敵だ」
ヒルダの眉が微かにあがり、目に小さな驚きが浮かんだ。「それは──」
「君たちを助けるのはやぶさかではないということがわかってもらえたかな」ヴェルギルは言った。「ではこちらの番だ。エギルはどこにいる?」
部屋の中に緊張が走った。当人を除く全員が、ヒルダを見つめる。彼女は超然とした表情を崩さずに、ヴェルギルの眼差しをひたと受け止めていた。
彼女は背筋を伸ばして身を起こすと、背後の壁龕に安置されていたものに歩み寄った。蝋燭に囲まれ、魔除けの紋様が織り込まれた布が覆い被さったそれは、この部屋の中で、絶えず重苦しい存在感を放っていた。
「エギルはここにいる」ヒルダの声は固かった。
分厚い織物に手をかけて、引く。
クヴァルドは本能的に目を逸らし、代わりにヴェルギルの表情を観察した。
「これは……」ヴェルギルが言う。
吸血鬼は、ほんの一瞬だけ目を見開いた。それだけで、彼が驚いたことを知るのには充分だった。
「こちらにおわすのが、我らが頭領であり、我が夫だ」ヒルダの落ち着いた声が、淡々と告げた。
「エダルトが、これを?」ヴェルギルの声は、不自然なほど平坦だった。
ヒルダが頷いた。
「何故貴奴を追っているか、これで理解できたことと思う」
真実がみなの心にしみこむ間、混じりけのない静寂があたりを包んだ。
目をそらしたままではいけない。クヴァルドは歯を食いしばって、顔を上げた。そして、幼い頃から全身全霊で憧憬してきたエギルの──首を見つめた。
彼の首級は、表面に小さな呪文や紋章がびっしりと書き込まれた大きな硝子瓶の内側の、よどんだ霊水に浮かんでいる。かつて日の光を浴びる度に輝いていた金の髪は色を失った海藻のように漂い、生気の無い肌にまとわりついていた。
エギルは、そのうつろな目で部屋の中を見回すと、ヴェルギルに視線を据え、ゆっくりと瞬きをした。
「〈災禍〉は、夫の首から下を残さなかった」ヒルダは感情の無い声で言った。「これはわたしの曾祖父が、アシュモールの〈魔女集会〉に作らせた魔道具だ。三〇〇年前までは、死んだ者を尋問するために使われていた。祖父はこれを封印したが、壊しはしなかった。おかげで、彼を引き留めることが出来た」
ヒルダは、瓶の表面にそっと手を触れた。
「生きているのか?」ヴェルギルが言う。
その質問に、ヒルダはゆっくりと目を閉じた。「死んではいない」
『生きている』と『死んではいない』の間には、計り知れない溝がある。それを理解していない者は、この部屋にはいなかった。
「では、エギル・トールグソン。裁定を」ヒルダは囁いた。「この吸血鬼、ヴェルギルに協力を仰ぎ、エダルトを誅するまで進み続けるべきか?」
部屋の中に、沈黙と共に重苦しい空気が流れた。まるで、魔道具の中に満ちる淀んだ霊水のように。
エギルが生きていれば、あの快活な声で『吸血鬼に助力を求めるよりも、有能な人狼を千人育て上げ、エダルトの捜索に当たらせた方がマシだ』と答えただろうと、クヴァルドは思った。そして、誇り高く忠実な部下たちであふれかえった大広間は、同意の咆哮で満たされたはずだ。
だがいま、ここにあるのは静寂だけ。それと、悪夢のように忌まわしい、歪な死臭。
瓶の中のエギルは、ヴェルギルを、それからヒルダを見た。瞬きが一度なら『是』、二度なら『否』の合図だ。
そして、彼は緩慢な瞬きをした。一度だけ。
「決まりだな」ヒルダは言った。
「しかし、この吸血鬼は──」
ヒルダは言いかけたハルヴァルズをにらみつけ、聞く者がゾッとするほどの唸り声を上げた。
「決まりだ。ハルヴァルズ」彼女は言った。「よいな」
ハルヴァルズは口を引き結んで辞儀をした。
そして、ヒルダはヴェルギルとクヴァルドに向き直った。「エダルトが最後に襲ったのは、ハトフォードの聖堂だ。まずはそこを目指せ。出立は明日。必要なものはナグリに用意させよう」
ヴェルギルがクヴァルドを見る。クヴァルドもまた、ヴェルギルを見た。
「エダルトを誅するまで、進み続ける」黄金の目を爛々と輝かせて、彼女は言った。「各々、肝に銘じるように」
そう囁くあの声が、耳の内側にへばりついて離れない。
ひどい侮辱で、腹立たしい。それなのに、土の中に埋めた骨を掘り返してはまた埋める遊びみたいに、何度も頭の中によみがえらせてしまう。それに、血を吸われる瞬間のあの感覚。大事なものを失っているはずなのに、身体が軽くなると同時に得も言われぬ戦慄が血管を満たす。自分の身体が他者の飢えを満たしていることを実感するのは……妙な気分だった。
そこまで考えて、首を振った。これでは、自ら望んで啜り屋の餌になりたがる人間の取り巻きと変わらない。
吸血鬼とことに及ぶなんて、正気の沙汰ではない。満月の夜になると正気を失うのが人狼だが、それにしてもこれは度を超している。〈クラン〉の者に知られれば、追放されてもおかしくはない。
このどうしようもない衝動は、まさしく呪いだ。
あれから一昼夜、樅の葉で肌を擦って匂いを消しながら、ろくに口も聞かずひたすらに歩き続けた。吸血鬼もようやく何かをわきまえる方法を知ったのか、いつものような無駄口を叩かなかった。
ヨトゥンヘルムにたどり着いてから、ヴェルギルと離れることが出来たのにはホッとした。いま彼は、格子という格子に封印の魔方陣が象嵌された地下牢に閉じ込められている。ドワーフの一族が最初に建造してから、罪びとの脱走をただの一度も許さなかった牢だ。霧に変化しようが蝙蝠に変化しようが、あれを抜け出せる者はいない。それに、ここには三百人ちかい人狼が暮らしている。いずれも精鋭揃いだ。
クヴァルドはようやく、肩の荷を下ろして息ができるようになった。
〈クラン〉の本拠地ヨトゥンヘルムは、その名の通り、山の頂に被さった巨人の兜の形をしている。石造りの砦は堅牢で、雪に閉ざされた山を穿つ構造になっている。六百年ほど昔、遙か北方のウサルノからやって来た、〈狼皮を纏った〉海賊が、山に棲む妖精の一族であるドワーフの先住民を攻め滅ぼして奪った砦だ。以来海賊たちは、ドワーフの遺物と魔女の技術を融合させながら、この場所を作り替えていった。おかげで、真冬でも絶えることのないかがり火や暖炉の炎が、内部を温かく過ごしやすい巣穴に保っている。山を穿った砦にある無数の部屋は、ここで暮らす資格を持った人狼たちに割り当てられた。そうして人狼は長い年月をかけ、この場所で〈クラン〉として栄えていったのだ。
無人の大広間の壁に飾られた巨大なタペストリーが、その歴史を物語っている。
皆が訪れるのを待つ間、特にすることもないクヴァルドは、巨大な暖炉の炎と、魔力仕掛けの永夜蝋燭に照らされた一族の物語を、実際よりも遠くから眺めるような気持ちで見つめた。
これは『彼ら』の歴史であって、俺には関係の無い話だ。
幼い頃、エギルが自分を引き取ったことに何か意味があるのだろうかと、ずっと考えていた。例えば、何百年かに一度、放浪民出身の人狼が〈クラン〉を救うという予言があるとか、クヴァルドが良い人狼になるための素質を全て兼ね備えていることをエギルが見抜いてくれたのだとか、そういったことを。けれど、そうした『運命』などというものは存在しなかった。幼いフィランは、ただの哀れな生き残りで、情けをかけて引き取って貰ったに過ぎない。だから彼は、自分で〈クラン〉の中に居場所を作らねばならなかった。力尽くで。
そう考えれば、自分も『彼ら』の父祖たちと、それ程かけ離れた存在というわけでもないのかも知れない。
「フィラン、よく戻ったな」
大広間の後ろの扉が勢いよく開くと同時に、嬉しげな声が響いた。クヴァルドは最も深い辞儀をして、彼らが上座につくのを待った。
「顔を上げてくれ、フィラン」
命じられたとおりに、姿勢を正す。やはり、頭領の席は空席のままだ。その隣、頭領の連れ合いが座る二番目の上座にヒルダ・フィンガルが座り、クヴァルドを見下ろしていた。彼女に寄り添うように立つのはナグリ──ヒルダの側近と、副官のハルヴァルズ。これで、秘密の任務のことを知る者のうち、国王陛下とその側近を除く全員が集合したことになる。
「ナグリから聞いたよ。ご苦労だった」
クヴァルドは深く頭を垂れた。
「ローナンとグンナールを喪いました」
ヒルダは頬杖をつき、低く唸った。「仇はとる。かならず」
ヒルダはフィンガル氏族の正式な跡取りだ。そして、エギルの妻でもある。凝った編み込みで括った黄金の髪に、冬空のように青い瞳。祖先の血統と勇猛、そして才知を受け継いだ有能な雌だが、頭領ではない。
そしてこの場にいる者はすべて、頭領の不在の理由を知っていた。
「お前がとらえた黒き血だが」ハルヴァルズが口を開いた。「あれがヴェルギルだというのは本当か?」
疑いたくなる気持ちはわからないでもない。なにせ、ヴェルギルについて語られていることといえば、何百年も前から『神出鬼没で、美女の血を啜ることにしか興味が無い』だとか、『享楽的で奔放、同族やナドカとの関わりをほとんど持たず、人間に寄生している』というようなものばかりだ。人狼が好んで使う〈黒き血〉という蔑称が、これほど似合う吸血鬼もなかなかいない。
だが、裏付けたのはクヴァルドではなかった。ヒルダの横に立っていたナグリが頷いた。
「間違いない」
ヒルダは椅子の上で振り向いた。「以前に会ったことが?」
「はい。わしが子供の頃に、一度だけ」
ナグリは三六二歳で、〈クラン〉の最長老だ。
「記憶はたしかなのか?」
そう言ったハルヴァルズに向かって、ナグリは低く唸った。
「確かだとも。〈剣神〉スヴァールクの蒼剣の輝きにかけてな」
ハルヴァルズは降参するように手を掲げた。「わたしはただ、奴がそう簡単に捕まるなんて妙だと思っただけだ」
「囮かも知れぬ」ヒルダは言った。「エダルトに、こちらの動きが読まれているのやも」
「だとすれば、奴をここに置いておくのは危険なのでは?」ハルヴァルズは手をこまねいた。「仲間を助けに来るかも知れません。フィラン、奴は『エダルトとは古い知り合い』だと言ったのだな?」
「はい」クヴァルドは頷いた。「ですが、吸血鬼はそのような情を持ち合わせていないかと」
ハルヴァルズは小さく鼻を鳴らした。「最古の吸血鬼が何を考えるか、お前にわかるとでも?」
「いえ」クヴァルドは頭を下げた。「そんなつもりでは」
足下に散らばる、匂いとりのためのい草のかけらをじっと見つめる。いままでに幾度となく、こうした嘲りをやり過ごしてきた。百歳にも満たぬお前に、我々の血統を継いでもいないお前に、厭らしい赤毛のお前に、なにがわかる?
「これから、どうすべきか」ヒルダが言った。
「あの吸血鬼は手元に置くべきです」ナグリは言った。「きっと、何かの役に立ちましょう」
クヴァルドは顔を上げた。「だが、ヴェ──奴は〈協定〉を犯していません。拘束する理由がなくては」
「人間を殺した」とハルヴァルズ。
「やむにやまれぬ事情からです。ナドカが己の身を守ることを、〈協定〉は禁じておりません」言いながら、なぜ奴をかばっているのだろうかと考える。「わたしも、彼に助けられました」
「それを恥と思う心がお前にもあればな」ハルヴァルズは吐き捨てた。
「もうよい、ハルヴァルズ」ヒルダが諫めた。「エダルトを討つまでは止まれぬ。あの吸血鬼には協力して貰うほかない。不本意でもな」
彼女はクヴァルドを見て、鋭い眼差しを緩めた。
「フィラン、いましばらく力を尽くしておくれ。お前には苦労をかけるが」
エギルがヒルダと結ばれたとき、哀しみも怒りも感じなかった。なぜなら……それがとても自然なことに思えたから。どのみち、想いの深さを打ち明ける覚悟もない思慕だった。美しさと厳しさを兼ね備え、なおかつ慈悲深いクランの跡継ぎを娶るのは、有能で人望篤いエギルの他にはいないと、納得せずにいることの方が難しかった。
ただ、心が空っぽになってしまっただけだ。
「御意に、ヒルダ様」
つづく静寂は、赤々と燃える暖炉の温もりをも打ち消すようだった。ここにいる誰もが、次に行うべきことを知っていた。知っているからこそ、この沈黙が全員の肩にのし掛かっていた。
やがて重々しく、ヒルダが言った。
「裁定を求めよう」彼女の表情に、夫を想うときの喜びはなかった。「我らが頭領に」
朔月の間と呼ばれる広間が、砦の深いところにある。先ほどまで会合を開いていた大広間に比べて、この部屋は半分の広さもない。かつてはドワーフたちが埋葬の準備に使っていたこの部屋を、〈クラン〉は秘密を保持するための場所に変えていた。
クヴァルドは、この部屋が、他のいかなる場所よりも嫌いだった。
まるで死の床のように静まりかえる部屋には、ヒルダとハルヴァルズがいた。誰も言葉を交わそうとはしなかった。壁に差し掛けられた松明だけが、空気を食む微かな音をさせているばかりだ。
楕円の形をした部屋はかつて、埋葬を待つ死者を屍衣に包んで保存するための場所だった。処置に使われていた石の台が中央に据え付けられている。周囲の壁には死者を安置するための横穴が掘られていたが、いまは質素な本棚の後ろに隠されている。そして部屋の奥──そこには、何本もの蝋燭に囲まれた、あるものがあった。分厚い毛織物に覆われて、壁龕の上に鎮座している。クヴァルドはそれを視界に入れないよう、頑なに自分の足下を見つめていた。きっと、他の者も同じことをしているだろう──ただひとり、ヒルダを除いて。彼女は、それが安置された祭壇を守るように立ち、訪れるべき客を待っていた。
そのとき、石の階段を降りてくる足音がしたので、クヴァルドは部屋の扉に視線を移した。
重い石造りの扉が開く。ヴェルギルはナグリに拘束されたまま──だが、それを感じさせない、ゆったりとした足取りで──広間に入ってきた。視界の隅で、ハルヴァルズが鼻にシワを寄せた。吸血鬼の匂いは、人狼にとってはこの上ない悪臭なのだ。
クヴァルドは、いつのまにかそれを忘れていた自分に気づいて、ほんの少しの後ろめたさを感じた。
「ごきげんよう、諸君」
そう言って、ヴェルギルは宮廷風の優雅な辞儀をした。ナグリによって腰に縄をかけられ、銀のナイフを突きつけられたまま。
挨拶を返す者はいなかったが、ヴェルギルは気にした風もなく部屋の中に進み出ると、石の処置台の上に両手をついた。
「さあ、訊くべきことを訊いてくれ。そして、この苦行を済ませてしまおう」
ヒルダがゆっくりと、ヴェルギルの向かいに立った。「望むところだ」
ナグリが縄を引いて膝の裏を蹴ったので、吸血鬼は強制的に跪かされた。
ヒルダは剣の柄に手をかけ、冷たい眼差しで吸血鬼を見下ろした。
「わたしはヒルダ。〈クラン〉の頭領エギルに変わって、これよりお前に尋問を行う」
なんなりと、と言うように、ヴェルギルが手をひらめかす。
「お前は、人間たちにヴェルギルと呼ばれる吸血鬼で間違いないな?」
「いかにも」
「真名は?」
ヴェルギルは事もなげに肩をすくめた。「忘れてしまった。その名を覚えている者はみな死んだからな」
「エダルトなら、知っているのではないか?」ハルヴァルズが言った。
すると、ヴェルギルは彼を見た。「どういう問いだ、それは?」
「お前はエダルトの知り合いだと言ったそうだな」
「言ったとも。だから何だ?」ヴェルギルは言った。嘲るような笑みを浮かべて。
ハルヴァルズが、低く唸る。その様子に臆することなく、ヴェルギルは周囲に並ぶ人狼を見回した。
「君たちは尋問がしたくてわざわざこのわたしを、こんな……」適切な言葉を探すように、言いよどむ。「穴蔵まで連れてきたのだろう。無意味な当てこすりをするためではないはずだ。違うか?」
クヴァルドは、この狭い部屋の空気がさらに重く、張り詰めてゆくのをひしひしと感じた。
この吸血鬼は、一体なにが楽しくて、この国で三番目に力を持つ人狼を挑発しているのだ?
「わたしとエダルトがどんな関係か知りたいのならば、そう尋ねるがいい。回りくどい質問には虫唾が走るのでね。ご理解頂けたか?」
ハルヴァルズの拳は、強く握るあまり関節が真っ白に変色していた。
「いいだろう」ヒルダが言った。「では率直に尋ねる。お前とエダルトとは、どういう関係だ?」
ヴェルギルはヒルダの顔をのぞき込んでから、そっと微笑んだ。
「それは」彼はゆっくりと言った。「教えるつもりはない」
「貴様!!」
ハルヴァルズが吼え、瞬く間に半狼に姿を変えた、次の瞬間にはヴェルギルに飛びかかっていた。驚くべきことに、吸血鬼はハルヴァルズの首を片手で掴み、もう片手で鉤爪鋭い前足を掴むと、それを押し返して初撃をいなした──それも、楽しげに。柳のようなあの身体のどこに、〈クラン〉いちの戦士と渡り合う力があるというのか。
クヴァルドはヒルダへと視線を走らせた。彼女がこの騒乱を静止するだろうと思ったのだ。だが、彼女は凍るような目で見据えるばかりだった。
この部屋は、こんな争いのために使われるべき部屋ではないはずだ。
クヴァルドは──非常に不本意ながら──狼に姿を変えて、ハルヴァルズとヴェルギルの間に割り込んだ。
「どけ! 小僧!!」
鉤爪を振り上げてハルヴァルズが吠える。だが、クヴァルドは動かなかった。半狼の前で、言葉も話せない狼の姿に変化するのは恭順の印だ。耳を伏せ、尾を巻いて、立場が下であることを示しながら、尻でヴェルギルを押しのけ、なんとかして後ろに下がらせた。
「仔犬……」
ヴェルギルが呟く。その声には、虚飾のない驚きがこもっているように思えた。
すると、ハルヴァルズは唸り声をあげてクヴァルドの喉元を掴み、狼の身体を中空に掲げた。
「貴様、この黒き血に誑かされたか!?」
ハルヴァルズの色の濃い金眼は、よく研がれた刃物のようにぎらりと輝いていた。狼の直感が極限まで高まった状態のクヴァルドには、彼は喜んで自分を殺すだろうとはっきりとわかった。
「やめよ!」
ヒルダの凜とした声が告げた。
瞬間、ハルヴァルズの目の中に、また新しい怒り燃え上がる。だが、彼はゆっくりと瞬きをして、それを抑え込んだ。彼はクヴァルドの首にかけた手を離し、苛立ちを振り払うように身震いをして、人間の姿に戻った。
クヴァルドは、脱ぎ去った衣服の中から下穿きだけ引っ張りだし、人の姿に戻りながら、器用にそれを穿いた。ナグリが側に来て、くしゃくしゃの布の山の中からローブを取り上げ、クヴァルドの肩にかけてくれた。
「恥ずかしいところをお目にかけた」ヒルダは淡々と言った。「だが、不用意に人狼を挑発すべきではない。お前ほどの〈月の體〉なら、それくらいはわきまえているだろうと思ったが?」
「わきまえていたとも、フィンガルのご息女」ヴェルギルは、たったいま人狼に殺されそうになったとは思えぬほど楽しげだった。「だがここのところ、あなたの種族をおちょくる楽しさに気づいてしまってな」
吸血鬼がこちらを見たので、クヴァルドは鼻に皺を寄せて唸った。
「訊きたいことがあるのは理解できる」再びヒルダに視線を戻して、ヴェルギルが言った。「だが、わたしは尋問される立場だろうか? いいや、そうは思わない。この拘束に正当性はないはずだ」
人狼たちはほんの一瞬の間に視線を交わした。
「ならば、なぜおとなしくついてきた?」
「面白そうだと思ったのでね」吸血鬼は言い、石の台の端に腰掛けた。「君たちが忌み嫌う黒き血に助けを請わねばならぬほどの理由がなんなのか、知りたくて来た」
「貴様なんぞに助けを請うた覚えなど──」
「ハルヴァルズ!」ヒルダが遮り、黙らせた。
ヴェルギルはその様子を見て、にんまりと微笑んだ。「そうかな? この仔犬は、藁にも縋る思い、という顔をしていたぞ」
ヒルダは深く息を吸い、そして吐いた。
「吸血鬼は退屈を嫌うと聞く」彼女は静かな声で言った。「それが本当なら、約束しよう──我々に協力すれば、退屈はしない」
「それを決めるのはこちらだが」ヴェルギルは再び、クヴァルドを横目で見た。「まあ、味見した限りは、そうだな。期待が持てそうだ」
首筋がかっと熱くなるのを慌てて抑え込みながら、クヴァルドはヴェルギルを睨んだ。
この吸血鬼、機会さえあればこの手で殺してやる……。
ヴェルギルは素知らぬ顔で、ヒルダに向かって指を一本立てて見せた。
「ひとつ、君たちの質問に答えよう。そのかわり、わたしの質問にもひとつ答えてくれ。対等な約束である証しに」
「ヤドヴァルの儀を知っているのか?」ヒルダは微かに眉根を寄せた。「それで、協力すると?」
これは、立場が対等な者同士が協力体制を組む際に行われる誓いの儀式だ。人狼の旧い風習で、いまでは仲間内でもめったに行われなくなった。
「馬鹿な! この黒き血は、我々を陥れようとしているだけです!」ハルヴァルズは言った。今度ばかりはナグリも彼に賛成のようで、深く頷いた。
「わたしはすでに、永夜を渡る月に誓っている。『クヴァルドを裏切らない』と」ヴェルギルは静かに言った。「言ってくれ、仔犬。わたしは君を裏切ったか? 逃げおおせる機会があったときに逃げ、君を殺す機会があったときに殺したか?」
クヴァルドは喉の奥で微かに唸った末に、ようやく言った。
「いいえ」悔しいが、真実だ。「彼はわたしを裏切りませんでした」
ハルヴァルズの視線が突き刺さるようだ。だが、ヒルダは冷静に頷いた。
「どのみち、お前を信じるほかはないのだ。質問を交換し、協力を請いたい」
吸血鬼も頷いた。「ただし、ご存じの通り、互いに質問に答えることを拒否する権利を持つものとする。何を尋ねればわたしが答えるか、よく考えることだ」
人狼は、こういった駆け引きには慣れていない。相手が〈温血の者〉ならば、どんなに嘘を並べたところで、汗や心臓の音から真実を見抜くことが出来る。だが、〈冷血〉の吸血鬼相手では、その能力を発揮するのが難しい。加えて、吸血鬼はどいつもこいつも、言葉で他者をからかうのが好きな性悪と来ている。
ヒルダはもう一度、大きく息をついた。
「ヴェルギル、お前はエダルトに与する者か?」
「人狼らしい、実に率直な質問だ」吸血鬼は満足げに微笑んだ。「答えは『否』。さらに、ちょっとした心付けも加えよう──むしろ、彼はわたしの敵だ」
ヒルダの眉が微かにあがり、目に小さな驚きが浮かんだ。「それは──」
「君たちを助けるのはやぶさかではないということがわかってもらえたかな」ヴェルギルは言った。「ではこちらの番だ。エギルはどこにいる?」
部屋の中に緊張が走った。当人を除く全員が、ヒルダを見つめる。彼女は超然とした表情を崩さずに、ヴェルギルの眼差しをひたと受け止めていた。
彼女は背筋を伸ばして身を起こすと、背後の壁龕に安置されていたものに歩み寄った。蝋燭に囲まれ、魔除けの紋様が織り込まれた布が覆い被さったそれは、この部屋の中で、絶えず重苦しい存在感を放っていた。
「エギルはここにいる」ヒルダの声は固かった。
分厚い織物に手をかけて、引く。
クヴァルドは本能的に目を逸らし、代わりにヴェルギルの表情を観察した。
「これは……」ヴェルギルが言う。
吸血鬼は、ほんの一瞬だけ目を見開いた。それだけで、彼が驚いたことを知るのには充分だった。
「こちらにおわすのが、我らが頭領であり、我が夫だ」ヒルダの落ち着いた声が、淡々と告げた。
「エダルトが、これを?」ヴェルギルの声は、不自然なほど平坦だった。
ヒルダが頷いた。
「何故貴奴を追っているか、これで理解できたことと思う」
真実がみなの心にしみこむ間、混じりけのない静寂があたりを包んだ。
目をそらしたままではいけない。クヴァルドは歯を食いしばって、顔を上げた。そして、幼い頃から全身全霊で憧憬してきたエギルの──首を見つめた。
彼の首級は、表面に小さな呪文や紋章がびっしりと書き込まれた大きな硝子瓶の内側の、よどんだ霊水に浮かんでいる。かつて日の光を浴びる度に輝いていた金の髪は色を失った海藻のように漂い、生気の無い肌にまとわりついていた。
エギルは、そのうつろな目で部屋の中を見回すと、ヴェルギルに視線を据え、ゆっくりと瞬きをした。
「〈災禍〉は、夫の首から下を残さなかった」ヒルダは感情の無い声で言った。「これはわたしの曾祖父が、アシュモールの〈魔女集会〉に作らせた魔道具だ。三〇〇年前までは、死んだ者を尋問するために使われていた。祖父はこれを封印したが、壊しはしなかった。おかげで、彼を引き留めることが出来た」
ヒルダは、瓶の表面にそっと手を触れた。
「生きているのか?」ヴェルギルが言う。
その質問に、ヒルダはゆっくりと目を閉じた。「死んではいない」
『生きている』と『死んではいない』の間には、計り知れない溝がある。それを理解していない者は、この部屋にはいなかった。
「では、エギル・トールグソン。裁定を」ヒルダは囁いた。「この吸血鬼、ヴェルギルに協力を仰ぎ、エダルトを誅するまで進み続けるべきか?」
部屋の中に、沈黙と共に重苦しい空気が流れた。まるで、魔道具の中に満ちる淀んだ霊水のように。
エギルが生きていれば、あの快活な声で『吸血鬼に助力を求めるよりも、有能な人狼を千人育て上げ、エダルトの捜索に当たらせた方がマシだ』と答えただろうと、クヴァルドは思った。そして、誇り高く忠実な部下たちであふれかえった大広間は、同意の咆哮で満たされたはずだ。
だがいま、ここにあるのは静寂だけ。それと、悪夢のように忌まわしい、歪な死臭。
瓶の中のエギルは、ヴェルギルを、それからヒルダを見た。瞬きが一度なら『是』、二度なら『否』の合図だ。
そして、彼は緩慢な瞬きをした。一度だけ。
「決まりだな」ヒルダは言った。
「しかし、この吸血鬼は──」
ヒルダは言いかけたハルヴァルズをにらみつけ、聞く者がゾッとするほどの唸り声を上げた。
「決まりだ。ハルヴァルズ」彼女は言った。「よいな」
ハルヴァルズは口を引き結んで辞儀をした。
そして、ヒルダはヴェルギルとクヴァルドに向き直った。「エダルトが最後に襲ったのは、ハトフォードの聖堂だ。まずはそこを目指せ。出立は明日。必要なものはナグリに用意させよう」
ヴェルギルがクヴァルドを見る。クヴァルドもまた、ヴェルギルを見た。
「エダルトを誅するまで、進み続ける」黄金の目を爛々と輝かせて、彼女は言った。「各々、肝に銘じるように」
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