完結【日月の歌語りⅠ】腥血(せいけつ)と遠吠え

あかつき雨垂

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腥血と遠吠え

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 話がしたい。今すぐに、ヴェルギルと話をしなければならない。
 応接室を追われたクヴァルドは、すぐ傍の広間ホールをうろうろと徘徊しながら、ヴェルギルがひとりになるのを待ち構えていた。
 ヴェルギルが、あのシルリク? エイルの王──エダルトの父親だと? 馬鹿げている。だが、それで全てに説明がつく。エダルトの匂いを追ってヴェルギルに行き着いたとき、確かに妙だと思った。匂いが似ていて当然だ──親子なのだから。
 今までそれを疑いもしなかったのは、彼があまりに……エダルトとは違っていたからだ。
「なにが『ひとかたならぬ縁』だ」クヴァルドは呟いた。
 今までに彼と旅して知り得た情報を整理しなければならないと思うのに、頭の中がとり散らかっていて、とてもではないが考えをまとめることなど出来そうも無い。
 何故、俺の味方であるような振りをした? 何故俺を助け、導き、そして、畜生──なんで俺に優しくしたんだ?
 最後まで騙し通すつもりだったのなら、あの部屋にクヴァルドを残らせたりはしなかったはずだ。ずっと嘘を突き通してきたくせに、どうして今になって全てを打ち明ける気になった?
 息子を殺そうと息巻く俺と、ヴェルギルはどんな思いで旅をしていたのだろう。
 ああ、今すぐに話がしたい。
 扉の軋む音が聞こえたので、大股で応接室に向かう。だが、部屋から出てきたのはマルヴィナひとりだった。彼女は、目の前に立ちはだかるクヴァルドを見上げて、小さく微笑んだ。最初に出会ったときと同じようににこやかではあったが、秘密を共有した者同士にしか通じない、ある種のほろ苦さを感じさせる笑みだった。
「しばらく考える時間が欲しいそうですわ」マルヴィナは言った。「少しお話ししませんこと? 先ほどの失礼な物言いを謝罪させていただきたいの」
 なるほど、にこにこと笑って、全てを水に流そうというわけか。そういうことなら、調子を合わせよう。
「謝罪など無用です」
 クヴァルドは答えながら、部屋の戸を見つめた。ひとりの時間が欲しいのはいいが、こちらには聞きたいことが山ほどある。
「わたしでよければ、貴方の疑問にお答えします」マルヴィナは、クヴァルドの腕に手を置いた。「お願い。彼に時間をあげて」
 その言い草に、何故か苛立ちがこみ上げる。
 彼に時間をあげて? あなたは彼の何なのだ?
 しかし、そんなことを言う資格が無いのは自分の方だとわかっていたから、クヴァルドは怒りを飲み込み、彼女の手をとった。
「是非とも、頼みます」
 
「さぞ驚いたでしょうね」
 庭園にある池のほとりまで歩いてきたとき、マルヴィナが言った。
「長く生きているのだろうと思ってはいました。だが彼が……」
 彼が、原初のナドカの父親だったなんて。
 そう口に出そうとしたところで、何かに喉を塞がれる感覚に襲われた。これが結界の威力なのだろう。マルヴィナもそれに気づいたらしく、気遣うような笑みを浮かべた。
「あの方は、自分を愚かにみせるのがお上手なのです。力ある者の中でも、そんなことが出来るのは本当に強大な者だけ」
 そうだ。ただ一度だけ、彼の力を目の当たりにした。マチェットフォードの郊外、バイロンの娼館で、彼は怒りを露わにし、その場の空気を一変させた。
「彼こそが、ナドカの王だわ」マルヴィナは言った。
「だが、それを望んだわけではない」
 クヴァルドが言うと、マルヴィナは目尻をほんのわずかにひくつかせた。
「エイルを開くことが、ナドカのためになるとは思わないの?」
「いつかは……そんな日が来ればいいと思います」クヴァルドは慎重に言った。「しかし、それは新たな戦いを産むでしょう。予想外のことで、わたしも驚いています。だが、ヴェルギルの考えは正しいと思う」
「夢見ているだけでは、いつまで経っても『そんな日』は来ません」
「貴方のやり方は、過激だ」クヴァルドはきっぱりと言った。「危ない橋を渡っているのは確かです。他のナドカをも危険にさらしている」
 どういうわけだか、マルヴィナはあきれたように笑って首を振った。
「あなたは彼のことを、とても気に掛けている」
「ええ」
「隠し事をされていたとわかった今でも?」
 そうなのだ。これほどまでに大きな隠し事をされていたというのに、怒りは感じなかった。ただ、言いようのない悔しさだけは、確かにあった。ヴェルギルにとって重荷であるに違いないこの秘密を分かち合うには──俺では力不足なのだろう。それが……すこし口惜しい。
「理解は出来ます」
「そう……あなたは人狼にしては、ずいぶん吸血鬼に寛容なのね」マルヴィナは言った。「でも、彼の方はどうかしら」
 クヴァルドはマルヴィナを振り向いた。「どういうことです」
「何故、あれほどまでに強大な〈月の體〉が、あなたのような者と旅を続けたと思うの?」
「それは……」
 誓いがあったから。彼は永夜を渡る月に誓った。決して裏切らないと。そして何度も、それを証明してきた。
 だからこそ、俺は──。
「あなたを妨害するためよ」マルヴィナは言った。「エダルトを殺そうとしたのは、なにもあなた方が最初では無いのは理解していると思うけれど」
 彼女は畔に咲くスイカズラの茂みに手を伸ばし、羽を休めていた蝶を指にとまらせた。
「彼はそのたびに刺客に近づき、彼らの試みを挫いてきた。わたしはそれを知っているし、手を貸したこともある」
 聞きたくない。
 だが、心に従うなどという贅沢は許されない。〈クラン〉の狼には使命がある。真実を前に耳を塞ぐ者が〈クラン〉として生きることは許されない。
「当然だわ。エダルトは彼の息子であり、彼を吸血鬼に変えたでもある」マルヴィナの手から、蝶が飛び立つ。「なにが言いたいか、おわかり?」
「エダルトが……ヴェルギルを吸血鬼にした?」
 主が死ねば、その主の血によって生まれた吸血鬼も死ぬ。世代を経て、最初の主の血が薄まるにつれ、この傾向も失われた。だが、古い吸血鬼は……原初の吸血鬼たちは……。
「エダルトを殺せば──ヴェルギルも……死ぬ」
 自分の声が、ひどく遠くから聞こえる気がした。
 マルヴィナは満足げに微笑んだ。
「そう。だから、わかってくださるわね。いまあの方を失うわけにはいかないの」
 目の前を蝶が横切る。一匹、二匹、そして三匹。何かがおかしい。
「何を──」
 瞬きをした途端、目の前に千匹もの蝶が舞っていた。色とりどりの羽根が光りながら瞬き、視界を奪われる。地面が均衡を失い、足下が崩れ落ちる。
 幻惑だ。
「貴様!」
 クヴァルドは剣を抜き、目の前に立つ魔術師に振り下ろした。一閃の元に、魔術師の姿は揺らめいて消えた。手の中の剣がいつのまにか蛇に変わり、顔面に噛みつこうとする。
「うわ!」
 驚いて取り落としそうになるが、押し留まった。
 落ち着け。幻覚を見せられているだけだ!
 人間の感覚では、敏感すぎて太刀打ちできない。狼に変化へんげしなくては──だが、意識をかき混ぜられて、集中するのが難しい。無限の回廊に閉じ込められたように、風景が重なり、揺れて、回転する……。
 頭が、割れるように痛い。骨が溶け、皮膚が流れ落ちる。これはほんとうに幻覚なのか?
「くそ……!」
 膝を突くクヴァルドを、マルヴィナが見下ろす。哀れを催さずにはおれぬとでも言いたげな顔で。だが、クヴァルドにはその表情を見ることさえも叶わなかった。
「絶対に、わたしの邪魔はさせない」
 溶解した目の中で混ざり合う色彩──視界を奪われたクヴァルドには、ただ、彼女の言葉だけが聞こえた。
「謝罪は省くわ。どうせ忘れてしまうでしょうから」
 
            †
 
 黄昏まで待って、とマルヴィナは言った。
 窓から差し込む光が移ろい、太陽が月と出会うその時を、ヴェルギルはじっと待った。目の前にはハミシュがいる。椅子に腰掛け、半分夢を見るように虚空を見つめている。
 ただ待つことしかできない時間の中で、考えるのはクヴァルドのことだった。
 真実を伝えれば、彼は取り乱し、この場で自分を殺そうとするかも知れない──可能性はあると思った。だが、彼は冷静だった。正体を知ってもなお。
 わたしを信じてくれていたからなのか……わからないが、妙に誇らしい。そんなふうに感じる資格など、少しもありはしないのに。
 彼のことを気に掛けずに済んだなら、全ては、もっと簡単に終わった。彼への好意が苦しみを長引かせ、結ぶべきでは無い関係を結ばせてしまった。だが、それも今日までだ。
 マルヴィナが幻惑の魔法で彼の記憶を消せば、全てに片がつく。
 旅のいずれかの時点で、彼女を訪ねるつもりでいた。彼女の方から手紙が届いたのには驚いたが、運命は時を選ばずに訪れるものだ。
 これが終わったら、また大陸にでも旅に出ようか。
 たったひとりで? きっと、味気なく面白みの無い旅になるだろう。
 だが、ダイラに留まれば彼を欲してしまう。それだけは許されない。
「久しいな、ガーリンネ」
 いつのまにか、深くこうべを垂れていた。顔を上げると、目の前に座る少年の顔つきががらりと変わっているのに気づいた。彼は椅子の上であぐらを掻き、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「ハミシュ?」
 すると、少年は小馬鹿にしたように笑った。「おれの前で馬鹿の振りはよせ。シルリク」
 マルヴィナがこの少年について『神が降りる』と語ったのは本当だったのかも知れない。だが、信じ込むにはまだ早い。年経た妖精シーなら、ヴェルギルの真の名を知っていてもおかしくはない。
「そちらは……月神の振りをするつもりはないようだ」ヴェルギルは言った。「そこにおわすのはどちらの神か?」
「おいおい。俺を呼びつけておいて、ずいぶんな言い草だな」
 ヴェルギルは面食らった。神を呼びつけた記憶など無い。「申し訳ないが──」
「おい!」ハミシュの声で、神が吠えた。「堅苦しい言葉は使いっこなしだぜ」
 その時気づいた。灰色だったはずの少年の目が、変わっている──まるで夜空のような底知れぬ夜の色──かと思えば鮮やかな橙色に。瞳の中で星のような輝きを瞬かせながら、色彩が揺らめき、移ろう。たしかに、こんなことができる妖精はいない。
 それにしても、妙になれなれしい神だと思いつつ、ヴェルギルは頷いた。「わかった」
 神はにんまりと笑みを浮かべて、椅子の中でふんぞり返った。
「本当にわからないってんなら、それでいい。おれは気まぐれだからな。いいんだ。見返り無しでお前に力を貸してやろうってわけさ」
 正体不明の神は、よく回る舌で早口に言葉を継いだ。
「あの女の話は正しい。ヘカはエイル王の復活を望んでる。もっと早くこうなるべきだったんだが、海神の民マルドヴァが例によって、状況をややこしくしちまったからな。冠を盗み出すなんて、いったい何を考えてやがったんだろうな? ただ、一度施した祝福を覆すのは、神にとっても並大抵のことじゃない。だから、まずは正当な王ってやつを立たせなけりゃ話を進められないんだ」
「待ってくれ」ヴェルギルは左手で頭を抱えた。「わたしは王になるつもりはない」
「へえ? 何でだ?」
「間違っているからだ。わたしは一度国を滅ぼした王で──」ヴェルギルは苛立たしげに首を振った。「まったく。この話を、あと何度繰り返せばいいのだ」
 神はからからと笑った。
「相変わらず真面目だな。だが、嵐神おやじどのもヘカも、お前のそういうところを気に入ってる」神は芝居がかった仕草で人差し指を立てた。「でもな、一度滅ぼした国を再興する機会なんて、そうそう降っては来ないんだぜ」
 ヴェルギルは言った。「わかっている」
「ああ、俺もわかってるよ」訳知り顔で、神は笑った。「本当の理由ってやつは、また別にあるってな」
 何も言えなかった。それは、心の一番深くにしまっておいた『理由』だ。どうか言葉にはしないで欲しかった。だが、頼んだところで、神への願いが通じないことはわかっていた。
「冠を見つけたからって、すぐにはかぶれない理由があるんだものな? まったく、あの親父といい、あの娘といい、ややこしい祝福を施してくれたもんだ」
 ヴェルギルは、頷く代わりに俯いた。
 ひとたび冠を外せば、その王の継承権は最下位に落ちる。再び冠を戴くためには──。
「理由はどうあれ、お前が冠を外しちまったいま、王位継承権の第一位はエダルトだ。お前が王になるためには、奴が死ななきゃならない。そういうことだろ? でないと、嵐神の雷が地上を消し炭に変えちまう」神は人差し指で思案顔の顎を叩いた。「でもって、エダルトの血によって吸血鬼に変えられたお前は、エダルトが死ねば、道連れに死ぬ。どんづまりってわけだ」
 ヴェルギルは肺を膨らませ、深いため息をついた。「その通りだ」
「まだ、エダルトのことを自分の息子だと思ってるのか?」
 ヴェルギルは鋭く顔を上げた。「無論だ」
「なぁ、正直に言うぞ」神もまた、いかにも人間くさいため息をついた。「お前の息子は、もはや虫食いだらけの朽ち木だ」
「やめてくれ」
 頭を振って俯くと、髪が溢れて顔を覆った。だが、神は構わずたたみかけてくる。
「やつはもう、後戻りできないところまで墜ちちまった」
 聞きたくない。真実であればあるほど、聞くことを拒みたかった。
「見知った姿形をしてはいても、魂は消えかかっている。あと少しで、人でもナドカでも無いものになるだろうよ──〈災禍〉よりもなお悪い……〈呪い〉そのものに」
「それは誰のせいだ!?」ヴェルギルは言った。「月神があの子を誘惑した! それがそもそものはじまりだ!」
 立ち上がり、小さな少年に詰め寄る。こんなことをしても意味は無いとわかっていた。けれど、神の見えざる手とやらに抗えぬまま苦しみ続けるのはもう限界だった。
「あの子は何にだってなることが出来た」声が震える、まるでか弱い人間のように。「それを奪われたのだ! 神とやらに!」
「世界は均衡を求める。なにか一つのものに力が偏ると、この世は歪み、澱んじまう」少年は言った。「陽神デナムは──人間ディナエは力を持ちすぎた。その均衡の乱れを正すために、ヘカにも力が必要だったんだ。彼女自身の民が」
 そして、神は静かにヴェルギルを見つめた。「それがお前の息子と、ナドカの運命だ」
「運命など……くそくらえだ」底知れぬ色の瞳に向かって吐き捨てる。
 神は言った。「ああ。お前はよく抗ったよ」
 労いの言葉など欲しくない。ヴェルギルは捻れた笑みを浮かべて吐き捨てた。「それも、失敗に終わったがな」
 ヴェルギルは顔を背けると、少年から離れて窓辺に寄りかかった。マルヴィナの庭園が残照に燃えている。もうすぐ日が沈む。
「わたしの導者ユールは希代の愚王と〈災禍の子〉を預言し、みごと実現した。それで、これからどうなる? 神々を楽しませるための見世物が終われば、我々は用済みか? あとは勝手に苦しみ抜いて腐ってゆけと?」
「神々もまた、運命の奴隷さ、シルリク。過ちを犯すし、その咎に苦しみもする」名も無い神は言った。「実はそうなんだ。お前にだけ話すけど」
「そんなことはわかっている。とっくの昔に」ヴェルギルは苦々しげに唇を歪めた。「神々など、悪質な冗談の最たるものだ。それでも、彼らの手の上で踊るしか無い」
 ふたりの間を静寂が満たした。これ以上の言葉を必要としないほど容赦ない真実のみがもたらす、それは重い沈黙だった。強烈な赤い斜光が部屋に差し込み、この一瞬に磔にされたものたちを焼き焦がしていた。
「やるべきことはわかってるはずだ」そう、神は言った。「エダルトの──正真正銘の、お前の息子の魂をヘカの手に委ねろ。また、新たな歪みを生まないうちに」
 ヴェルギルは答えなかった。
 神は、そんなヴェルギルの苦悩を、旨い酒か、はたまた面白い冗談であるかのように堪能して、小さく笑った。
「ああ……これだから、衆生しゅじょうの世界は最高なんだ」
 ヴェルギルは、少年に宿った神を睨んだ。その顔を、沈みかけた陽の最後の一筋が照らしている。その時、胸の奥に小さな閃きがよぎった。
 黄昏──黄昏の時間にだけ現れる神。月と太陽のはざまに立つ者。
 ああ、ようやくわかった。
「つまりあなたは……そうだったのか」
 神は微笑んだ。「やっと気づいたか」
 ヴェルギルは呻いた。「よりによって、最も信用のおけない神に助けの手を差し伸べられるとは」
「おれも胸が痛むよ、ヴェルギル」神は両手をひろげて、哀れむような表情をしてみせた。「まあ、分相応ってやつだと思え。それに、俺ほどこの世界を愛してる奴はいないんだ。ほんとさ」
「ならば、わたしをどう助けるというのか、教えてくれないか」ヴェルギルは肘掛け椅子に座り込んだ。「藁をも掴む思いだ」
「いいとも。俺の助言は、少なくとも藁よりはマシであると約束しよう」神は待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべた。「に従え。俺に言えるのはそれだけだ」
「何だと?」ヴェルギルは立ち上がった。「それはどういう──」
 最後まで言い終えぬうちに、日が沈んだ。
「──ことだ?」
 返事はなかった。
 そして、静寂に包まれた部屋の中に、小さな悪態が響いた。
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