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腥血と遠吠え
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国の長としての責務から逃れ、父親としての責任をも放棄して数百年。西の美女の血を堪能してから東の美酒で喉を潤し、北の驚異を見物した後で南の珍品を眺め、あまりある時間を消費してきた。自分の心に従うことにかけては、己の右に出るものはいないと思っていた。
だが今、窓辺から差し込んでくる、苛むように鋭い月明かりの中に身を置いて、ヴェルギルは迷っていた。
心に従う? 今となっては、従うべき心が自分に残っているのかどうかもわからない。
命を賭すに値するものも無く、何百年も、ただ生きているだけか?
クヴァルドの言葉が、小さな棘のように胸に刺さっている。命を賭して、敗れ、また命を賭して敗れたのが今の有様だ。すべてに倦み疲れ、死んでしまった魂を残りの部分が追いかけて朽ちるまで、無為に存える道しか残されてないと思っていた。
〈クラン〉への協力を続ける気はないのかと彼に尋ねられたとき、思わず「ある」と口に出しそうになった。この男と馬を並べて、人間とナドカの仲を取り持つために国中を駆けずり回るのは、きっと──退屈しないだろう。
彼は佳いナドカだ。善い男だ。
エダルトでも、わたしでも、ハロルドでもマルヴィナでもない。世界を、いまよりも良い場所に変えてゆくのは、〈協定〉の守護者としての誇りを胸に戦える男だ。見も知らぬ人間を守ろうと爆発寸前の魔道具を抱きかかえる男だ。死にかけた少女を助けるためなら、刃を突きつけられても動じない男だ。
フィランのような男だ。
「は……」
ひとりでに、笑いが溢れた。それは探し倦ねた問いの答えを、ようやく見つけたときに生まれる笑いだった。
あの暁から千年を経て、やっとわかった。
わたしは、この日のために生き存えたのだと。
霧の身体を扉の下から滑り込ませてから、再び、音もなく実体を結ぶ。肉体が感覚を取り戻してゆくほどに、ガーフェイン城の地下牢の淀んだ空気を感じた。不本意ながら少しばかり多めに血を拝借しておいたので、地下牢の扉の外に立つ見張りがすぐに目をさますことは無いだろう。
マルヴィナは地上の庭を美しく飾るのにかまけて、牢獄の環境整備には手を抜いているようだ。床に撒かれたい草は腐って悪臭を放っていたし、夥しい数の鼠が暗がりで骨を貪っていた。
向かい合わせに並んだ八つの房のうち、奥にたったひとつ、松明が掲げられた房があった。わざと足音をたてて近づく。
何重にも封印が施された鉄格子の向こうに、彼がいた。床の上に蹲り、うなだれている。
「クロン」
頼むから、まだ記憶を消されていないと言ってくれ。
すると、彼はゆっくりと顔を上げた。まるでさび付いた火鋏のようにぎこちなく。
彼は何も言わなかった。だがその緑の目に宿った不信と憎悪に、ヴェルギルは深い安堵を感じた。まだ記憶を消されていないのだとわかったから。
「クヴァルド、わたしは──」
「全部嘘か」彼の声はしわがれていた。「息子ともども生き存えるために、〈クラン〉を騙して、俺を騙して、籠絡しようとしたんだな」
ヴェルギルは、言葉を失った。責められるのは当然だ。だが、これほど剥き出しの苦悩を目の当たりにするとは思っていなかった。彼をどれだけ深く傷つけたのか、この瞬間まで本当には理解していなかった。
「お前を、信じかけてた」クヴァルドの声が揺らぐ。「黒き血め。それがそもそもの間違いだったんだ。吸血鬼など信用できないと、わかってたはずなのに」
「許して欲しいとは……言わない」ヴェルギルは囁いた。「はじめは、そのつもりだった」
そう。彼に出会ったばかりの頃には、簡単に裏切り、そのことさえすぐに忘れてしまえると思っていた。
「ひとつ、昔話を聞いてくれないか」
クヴァルドは低く轟くような唸り声をあげた。「いやだ。もう何も聞きたくない」
ヴェルギルはそっと微笑んだ。
「そう言っておきながら、聞いてくれるのが君なのだ。最初からずっとな」
そして、地下牢の床に腰を下ろした。
「このクソッタレの蛭め」クヴァルドは呻き、俯いて頭を抱え込んだ。「消えてくれ、頼むから」
「すまない──」フィラン。と、もはや呼ぶことを許されない彼の名を、胸の内で呼ぶ。「だが、なんとしてでも聞いて貰わなければならない」
さもなくば、君たちには打ち克つことができないだろうから。
千年前、エイルの都で。
月の巫女を迎え入れてから、四つの夏が巡っていった。
結局、ウサルノとの同盟が功を奏し、大陸から侵略の手が伸びてくることも無かった。同盟国に挟まれる形となったイムラヴの侵略行為も以前の勢いを失い、この四年は、ほとんど平和と言ってもいい穏やかな日々が続いていた。
エダルトは九つになった。相変わらず、剣を振ったり、海に出たりするのについてゆける身体では無かった。顔色が優れないことが多く、食欲も薄い。それでも、以前よりは身体も丈夫になっていた。彼はエイルの誰にも敵わぬほど巧みにカルタ語やフェルジ語を操った。風の強さを測定する装置や、狂いのない羅針盤を作り、民からも慕われていた。
幸せだった。それゆえにシルリクは、あの新月の夜のことなど、すっかり忘れてしまっていたのだ。
それは夏至祭りの夜のこと。
ようやく訪れた恵みの季節を誰もが寿ぎ、喜びが城中にあふれかえっていた。吟遊詩人が竪琴をかき鳴らし、民が奏でる笛や太鼓がそれに加わる。皆で五組の夫婦が結婚を誓うのを見届け、十七人の嬰児を祝福した。
その夜、エイルは世界中で最も幸福で、豊かな国であったに違いない。
宴の杯に毒を盛ったのはビョルンだった。ちょうど、十八人目の新生児のために、全員で乾杯を捧げたときだ。居合わせた諸侯や民人が次々に倒れてゆくのに声をあげることさえ出来ず、シルリクは、しびれる舌でただ呻くことしかできなかった。
トレナルがすぐ傍に膝を突き、震える手で剣を抜こうとしている。が、ついには顔から床に突っ伏した。
「ぐ、う……!」
親友の今際の声に警戒の響きを聞き取って、前を見る。すると、彼が目の前に現れたのだった。戦化粧をし、重い鎧を纏った彼が。
「ご機嫌うるわしゅう存じます、陛下!」ビョルンの目は、興奮にギラギラと輝いていた。
久方ぶりの平和を享受するエイルにあって、彼の心が戦いに飢えていたのは知っていた。だがその野心が嵐を引き起こすとは思っていなかった。
わたしの落ち度だ。
身動きが取れなくなったシルリクにかがみ込むと、彼は言った。
「羊を飼って腐っていくなんてのはまっぴら御免でね。だから、俺は〈海神〉につくことにした」
城の戸が勢いよく開き、戦士たちがなだれ込んできた。兜から溢れる赤い髪。海竜の旗。イムラヴの兵士たちだ。
「貴様……!」
「恨まないでくれよ、シルリク」彼は言い、シルリクの額から冠帯を奪った。
指が動かない。舌も。
「あ……!」
エダルト。エダルトだけは助けてくれ。わたしの息子だけは。
ビョルンの脚が肩に掛かり、仰向けに押し倒される。冷たい刃が腹を貫くのを感じるあいだも、血に飢えた彼の瞳から目を離すことが出来なかった。
氷に体内を掻き混ぜられたかのような一瞬ののち、傷口が燃え上がり、痛みに汗が噴き出す。そしてビョルンは、シルリクが幼い頃から肌身離さず身につけてきた腕輪を、ついでのように奪い取った。彼が戦利品を宙に放り、また掴むと、鈍い金色が明滅した。その間も、考えていたのはただ一つだった。
わたしはどうなってもいい。息子を助けてくれ。エダルトを。頼む──。
そして、シルリクはあの声を聞いたのだ。
「いまこそ、望みを叶えてあげましょう」
次の瞬きで、視界は黒く塗りつぶされた。
もう一度目覚めるとは思っていなかったから、自分が何かを見ていることに気づいたときには、何を信じたらいいのかわからなかった。
「父上」
声がして、驚いて身を起こす。腹を貫かれて死んだはずなのに、痛みは無かった。傷も……どこにもない。
「エダルト?」
息子はそこにいた。血まみれで、怯えた目をしている。だが生きていた。
「ああ、神よ!」
シルリクは息子を抱き寄せ、血まみれの手や頬に触れた。
「父上、僕──」
「怪我をしたのか? どこが痛むのだ?」
かわいそうに、身体が冷え切っている。だが、手首にあった小さな傷の他に怪我はないようだ。
「ああ……!」
安堵して抱きしめ、幼子にするように身体を揺らした。
そうして、改めて辺りを見回して、シルリクは眉をひそめた。生者の影は無かった。臣民もイムラヴの兵士たちも、みな折り重なるように倒れて死んでいた。奇妙なのは、彼らの上に漂う黒い靄だ。なにかが燃えているのかと思ったが、そうではなかった。漂うきな臭さはあれど、遠い。ここでは血と、死そのものの匂いしか感じられない。
静まりかえった世界に、ただただ強烈な死だけがあった。
「ここは……黄泉か?」息子の身体を抱き直す。「わたしは死んだのか」
そこで、はたと気づいた。エダルトの身体が異様に冷たく、抱きしめても少しも温まらないことに。小さな胸を己の胸にあてているはずなのに、鼓動さえ響かない。
「エダルト……?」
すると、息子が腕の中から見上げてきた。その目の色を見て、思わず声を失う。
菫色の瞳。息子の目は、こんな色ではなかった。
「何が起こった? お前は何をされたのだ!」
どうすればよいのかわからず、ただ頬に触れる。氷のように冷たい頬に。
「父上に、僕の血をあげました」彼は言った。「そうすれば、仲間を増やせる──父上も僕と同じになれると、彼女が教えてくれたのです」
「同じになる? 彼女?」手が、声が震える。「何のことだ?」
「マニバが僕を、少しずつ変えてくれていたのです。つよい男に──誰にも負けない〈月の子〉になれるようにと」
そう語る息子の血まみれの口元に、今までに無かったはずのものを見る。
一対の、鋭い牙。
「これは彼女の血です。父上。異変があったとき、彼女が僕を連れ出して……スーランの血と、それから自分の血を飲ませて、僕を完成させてくれました」
「血を……飲ませた? 完成だと……?」
やめてくれ。こんなことは望んでいない。こんなことは──。
「僕は月の體を得て、〈月神の子〉になったのです。もう死なないし、老いもしない。血を飲みさえすれば、ものを食べる必要もありません。これで、僕もようやく戦士になれる!」
エダルトは笑った。嬉しそうに。
その笑顔は、新月の夜「こどもは、これから生まれるのです」と告げたあの瞬間の、マニバの笑顔にそっくりだった。
「そんな……」
「ふたりの血に溶けた記憶が──声が教えてくれました。この霧は月神の祝福なんです、父上。これがあれば、もう誰も僕たちの国を侵略出来ない」
気を失ってしまいたかった。さもなくば正気を。だが、何故だろう。これほど揺さぶられているのに、身体はどこか虚ろだった。欠けてはならないはずのものが欠けてしまったような──。
ハッとして、首筋に手を当てる。脈がない。心臓が、鼓動していない。シルリクは辺りを見回し、床の上に転がっていた金の盆を手に取った。血を拭ってから覗き込むと、そこにはエダルトと同じ菫色の瞳をした見知らぬ自分がうつっていた。
シルリクは息子を見た。
「わたしも、お前と同じ……ものになったのか?」
「はい」エダルトは頷いた。そして微笑んだ。「はじめて、あなたをお守りすることが出来ました」
シルリクはよろよろと立ち上がり、城の外へ出た。
城からのびる道の上に点々と続く亡骸。敵味方の別なく、誰も彼も身体中の穴という穴から血を流し、苦悶の表情を浮かべたまま凍り付いている。芽吹いたばかりの緑は血の池の中で枯れ果てていた。近景と遠景に並ぶ家々は燃え、たなびく黒煙が黒い瘴気と混ざり合っている。星も月も、その瘴気に飲み込まれてしまった。
「ああ……そんな……」
遠く東の水平線の上に、イムラヴの軍船が浮かんでいた。漕ぎ手を失い、潮に流されるまま漂っている。その向こう側に、見たことも無いほど赤い太陽が顔を出した。
「これが、こんなものが、祝福であるはずがない……」
そしてシルリクは、緑海を臨むエイルの断崖で、すべてが炎に包まれるのを見た。
月神の祝福、あるいは呪縛が刺青のようにこの身に刻まれてゆくのを感じながら、永遠に償うことのできない罪を知った。
守ろうとしたものはこの手の中で息絶え、指の間から崩れ去っていった。
慟哭すら赦さない灼熱に捲かれ、これほど強く死を願ったときは無かった。
だが、まだ死ねない。あの子を一人残しては。
エダルトが隣に立って、手を握った。
「父上」と彼が言う。「僕は〈災禍〉なのですね」
小さな我が子を見下ろす。愕然とした表情を隠すことさえ出来なかった。
「そうではない、エダルト」膝を突き、我が子を胸に抱いた。「お前はわたしの息子だ」
胸の中で、息子が言った。不思議そうに。
「なぜ、泣いているのですか?」
「濃くなってゆく瘴気をかいくぐってエイルを逃げ延び、ダイラの各地を転々としながら…… 三百年ほどは一緒に暮らした」ヴェルギルは言った。「息子が、飲んだ血から記憶を得ていることには、早いうちに気づいた。だがその時にはすでに、あの子は自分が殺した人間たちの記憶や声に悩まされるようになっていた」
自分の耳を引きちぎろうとしていたエダルトの姿を思い出す。満月の夜には、彼はひときわ強烈な狂気に駆られ、屋敷中のものを壊しながらのたうち回っていた。
「エダルトとわたしは、世界中で仲間を増やしていった。ウサルノの民に狼の力を授け、また別の地で人間に魔法の使い方を教えた。落神と人との間に生まれた者に生活の術を与え、また新しい種族を生み出してゆくのを見守った。わたしは何年か掛けて彼らを集め、人の世で生きていけるようにと〈協定〉を作った。ほんの骨組みだけだったが」
クヴァルドの方は見なかった。彼の顔に驚きが表れていたとしても、いなかったとしても、きちんと向き合えるとは思わなかった。
「ナドカを見守るために、多くのことをした。すくなくとも、そのつもりでいた。時間ばかり持て余して、他にすべきことも無かったからな」小さく肩をすくめる。「そうこうしている間に、エダルトは身のうちの狂気を抑えきれなくなっていった。彼は力をつけるために血を求め、彼らの命まで吸い尽くすのをやめなかった。そして、さらに沢山の声に悩まされるようになり……」
息子の目に、初めてあの兆しを視たのはいつのことだったか。それはどんよりと濁った、禍々しい色として現れていた。父親の顔を認識していたのかもわからない。ただただ強烈な飢餓ばかりが、瞳の中で踊っていた。
「止めようとしたが、太刀打ちできなかった。ここから先は、すでに話したとおりだ。彼の元から逃げて、以来、会って話をしていない」
そして、すべてを諦めていたところに、君が現れた。
地下牢に沈黙が降りた。遠くで鼠が這い回り、炎が松明を食み、漏れ出た地下水が滴っている。ヴェルギルはしばらくの間、そうしたささやかな音の向こう側にある、クヴァルドの深い呼吸の音を聞いていた。
「息子を愛していた」静かに言った。「今でも、それは変わっていないのだろうと思う」
薄闇の中で、青白い己の手を見る。この手で抱き上げた小さな身体や、触れた柔らかな頬の感触を、今でも覚えている。
「わたしには殺せない。叶うのなら救ってやりたいとも思う」そっと目を閉じた。「だが、無理なのだ。それがわかるくらいには、長く生きた」
返事は無かった。
返事を期待していたのかも、よくわからない。
ヴェルギルは立ち上がり、門番から奪った鍵を、鍵穴に差し込んだ。それを回すと、絡み合っていた封印の魔方陣が解け、鉄格子はただの鉄の格子に戻った。クヴァルドが顔を上げ、訝しむようにこちらを見上げている。
「君に死んで欲しくはない」ヴェルギルは言った。「だが──笑ってくれ、クロン。君に嘘をつくのにも、もう疲れてしまった」
鉄の戸を開き、開け放ってから後ろに下がる。
「エダルトは、ダイラの北西にあるミョルモルという島にいる。そこに、忘れられた月神の神殿がある。岩礁に囲まれて、普段は船ではたどり着けない。だが新月の夜、満潮の間だけは海路が開ける」
クヴァルドは立ち上がり、ゆっくりと、戸をくぐった。
消耗し、打ちひしがれ、頑ななその顔を見上げて、ヴェルギルが言った。
「君に伝えた言葉が……」自分の舌がぎこちない。「そのすべてが、真実であれば良かった。今でも、そう望んでいる」
緑色の目が伏せられる。赦されるとは思わなかったけれど、ヴェルギルは、そっと頬に触れ、唇を重ねた。ひび割れ、乾燥したクヴァルドを感じたのは一瞬だった。彼がその鋭い牙で自分の唇もろとも噛みついたからだ。痛みによって終わった口づけの余韻──唇にわずかについた彼の血に反応して、心臓が弱々しく咳き込んだ。
彼が、ゆっくりと口を開いた。
「嘘が──」硬く冷たい声。「下手になったな、啜り屋」
そして、彼は言った。
「声が震えてるぞ」
大きく身震いし、城の礎を揺るがすような唸り声を上げながら、彼は服を引きちぎり、巨大な狼に変化した。彼は鋭い爪で石の床を蹴ったかと思うと、地下牢の戸を体当たりで破り、そのまま走り去った。
ヴェルギルには、立ち尽くすことしか出来なかった。
ややあって、血相を変えたマルヴィナが駆け込んできた。彼女は空になった牢獄と、ヴェルギルを交互に見て言った。
「逃がしたのですか!?」
ヴェルギルは頷いた。「そうだ」
マルヴィナは殴られたように後じさった。「なんてことを! もし彼が──〈クラン〉がエダルトを殺せば、あなたは──」
「わかっている」
魔術師は愕然とした眼差しでヴェルギルを見た。「ならば、何故……!」
何故。何故だろう。思えば、彼に殺されかけたあの最初の出会いからずっと、自分にそう問いかけ続けてきたような気がする。この最後の時に、ようやくその答えを得ることになるとは。
彼を愛している。そのために、命を賭けてもいい。
ヴェルギルはそっと、首を振った。
「君に理解できるとは思えぬ」
彼方から、遠吠えが聞こえた。長く尾を引く哀惜の響き。
その声の余韻が消えぬ間に、心臓は最後の鼓動を打って、とまった。
これで、わたしの心臓は本当の死を迎えた。
もう二度と、目覚めることはない。
だが今、窓辺から差し込んでくる、苛むように鋭い月明かりの中に身を置いて、ヴェルギルは迷っていた。
心に従う? 今となっては、従うべき心が自分に残っているのかどうかもわからない。
命を賭すに値するものも無く、何百年も、ただ生きているだけか?
クヴァルドの言葉が、小さな棘のように胸に刺さっている。命を賭して、敗れ、また命を賭して敗れたのが今の有様だ。すべてに倦み疲れ、死んでしまった魂を残りの部分が追いかけて朽ちるまで、無為に存える道しか残されてないと思っていた。
〈クラン〉への協力を続ける気はないのかと彼に尋ねられたとき、思わず「ある」と口に出しそうになった。この男と馬を並べて、人間とナドカの仲を取り持つために国中を駆けずり回るのは、きっと──退屈しないだろう。
彼は佳いナドカだ。善い男だ。
エダルトでも、わたしでも、ハロルドでもマルヴィナでもない。世界を、いまよりも良い場所に変えてゆくのは、〈協定〉の守護者としての誇りを胸に戦える男だ。見も知らぬ人間を守ろうと爆発寸前の魔道具を抱きかかえる男だ。死にかけた少女を助けるためなら、刃を突きつけられても動じない男だ。
フィランのような男だ。
「は……」
ひとりでに、笑いが溢れた。それは探し倦ねた問いの答えを、ようやく見つけたときに生まれる笑いだった。
あの暁から千年を経て、やっとわかった。
わたしは、この日のために生き存えたのだと。
霧の身体を扉の下から滑り込ませてから、再び、音もなく実体を結ぶ。肉体が感覚を取り戻してゆくほどに、ガーフェイン城の地下牢の淀んだ空気を感じた。不本意ながら少しばかり多めに血を拝借しておいたので、地下牢の扉の外に立つ見張りがすぐに目をさますことは無いだろう。
マルヴィナは地上の庭を美しく飾るのにかまけて、牢獄の環境整備には手を抜いているようだ。床に撒かれたい草は腐って悪臭を放っていたし、夥しい数の鼠が暗がりで骨を貪っていた。
向かい合わせに並んだ八つの房のうち、奥にたったひとつ、松明が掲げられた房があった。わざと足音をたてて近づく。
何重にも封印が施された鉄格子の向こうに、彼がいた。床の上に蹲り、うなだれている。
「クロン」
頼むから、まだ記憶を消されていないと言ってくれ。
すると、彼はゆっくりと顔を上げた。まるでさび付いた火鋏のようにぎこちなく。
彼は何も言わなかった。だがその緑の目に宿った不信と憎悪に、ヴェルギルは深い安堵を感じた。まだ記憶を消されていないのだとわかったから。
「クヴァルド、わたしは──」
「全部嘘か」彼の声はしわがれていた。「息子ともども生き存えるために、〈クラン〉を騙して、俺を騙して、籠絡しようとしたんだな」
ヴェルギルは、言葉を失った。責められるのは当然だ。だが、これほど剥き出しの苦悩を目の当たりにするとは思っていなかった。彼をどれだけ深く傷つけたのか、この瞬間まで本当には理解していなかった。
「お前を、信じかけてた」クヴァルドの声が揺らぐ。「黒き血め。それがそもそもの間違いだったんだ。吸血鬼など信用できないと、わかってたはずなのに」
「許して欲しいとは……言わない」ヴェルギルは囁いた。「はじめは、そのつもりだった」
そう。彼に出会ったばかりの頃には、簡単に裏切り、そのことさえすぐに忘れてしまえると思っていた。
「ひとつ、昔話を聞いてくれないか」
クヴァルドは低く轟くような唸り声をあげた。「いやだ。もう何も聞きたくない」
ヴェルギルはそっと微笑んだ。
「そう言っておきながら、聞いてくれるのが君なのだ。最初からずっとな」
そして、地下牢の床に腰を下ろした。
「このクソッタレの蛭め」クヴァルドは呻き、俯いて頭を抱え込んだ。「消えてくれ、頼むから」
「すまない──」フィラン。と、もはや呼ぶことを許されない彼の名を、胸の内で呼ぶ。「だが、なんとしてでも聞いて貰わなければならない」
さもなくば、君たちには打ち克つことができないだろうから。
千年前、エイルの都で。
月の巫女を迎え入れてから、四つの夏が巡っていった。
結局、ウサルノとの同盟が功を奏し、大陸から侵略の手が伸びてくることも無かった。同盟国に挟まれる形となったイムラヴの侵略行為も以前の勢いを失い、この四年は、ほとんど平和と言ってもいい穏やかな日々が続いていた。
エダルトは九つになった。相変わらず、剣を振ったり、海に出たりするのについてゆける身体では無かった。顔色が優れないことが多く、食欲も薄い。それでも、以前よりは身体も丈夫になっていた。彼はエイルの誰にも敵わぬほど巧みにカルタ語やフェルジ語を操った。風の強さを測定する装置や、狂いのない羅針盤を作り、民からも慕われていた。
幸せだった。それゆえにシルリクは、あの新月の夜のことなど、すっかり忘れてしまっていたのだ。
それは夏至祭りの夜のこと。
ようやく訪れた恵みの季節を誰もが寿ぎ、喜びが城中にあふれかえっていた。吟遊詩人が竪琴をかき鳴らし、民が奏でる笛や太鼓がそれに加わる。皆で五組の夫婦が結婚を誓うのを見届け、十七人の嬰児を祝福した。
その夜、エイルは世界中で最も幸福で、豊かな国であったに違いない。
宴の杯に毒を盛ったのはビョルンだった。ちょうど、十八人目の新生児のために、全員で乾杯を捧げたときだ。居合わせた諸侯や民人が次々に倒れてゆくのに声をあげることさえ出来ず、シルリクは、しびれる舌でただ呻くことしかできなかった。
トレナルがすぐ傍に膝を突き、震える手で剣を抜こうとしている。が、ついには顔から床に突っ伏した。
「ぐ、う……!」
親友の今際の声に警戒の響きを聞き取って、前を見る。すると、彼が目の前に現れたのだった。戦化粧をし、重い鎧を纏った彼が。
「ご機嫌うるわしゅう存じます、陛下!」ビョルンの目は、興奮にギラギラと輝いていた。
久方ぶりの平和を享受するエイルにあって、彼の心が戦いに飢えていたのは知っていた。だがその野心が嵐を引き起こすとは思っていなかった。
わたしの落ち度だ。
身動きが取れなくなったシルリクにかがみ込むと、彼は言った。
「羊を飼って腐っていくなんてのはまっぴら御免でね。だから、俺は〈海神〉につくことにした」
城の戸が勢いよく開き、戦士たちがなだれ込んできた。兜から溢れる赤い髪。海竜の旗。イムラヴの兵士たちだ。
「貴様……!」
「恨まないでくれよ、シルリク」彼は言い、シルリクの額から冠帯を奪った。
指が動かない。舌も。
「あ……!」
エダルト。エダルトだけは助けてくれ。わたしの息子だけは。
ビョルンの脚が肩に掛かり、仰向けに押し倒される。冷たい刃が腹を貫くのを感じるあいだも、血に飢えた彼の瞳から目を離すことが出来なかった。
氷に体内を掻き混ぜられたかのような一瞬ののち、傷口が燃え上がり、痛みに汗が噴き出す。そしてビョルンは、シルリクが幼い頃から肌身離さず身につけてきた腕輪を、ついでのように奪い取った。彼が戦利品を宙に放り、また掴むと、鈍い金色が明滅した。その間も、考えていたのはただ一つだった。
わたしはどうなってもいい。息子を助けてくれ。エダルトを。頼む──。
そして、シルリクはあの声を聞いたのだ。
「いまこそ、望みを叶えてあげましょう」
次の瞬きで、視界は黒く塗りつぶされた。
もう一度目覚めるとは思っていなかったから、自分が何かを見ていることに気づいたときには、何を信じたらいいのかわからなかった。
「父上」
声がして、驚いて身を起こす。腹を貫かれて死んだはずなのに、痛みは無かった。傷も……どこにもない。
「エダルト?」
息子はそこにいた。血まみれで、怯えた目をしている。だが生きていた。
「ああ、神よ!」
シルリクは息子を抱き寄せ、血まみれの手や頬に触れた。
「父上、僕──」
「怪我をしたのか? どこが痛むのだ?」
かわいそうに、身体が冷え切っている。だが、手首にあった小さな傷の他に怪我はないようだ。
「ああ……!」
安堵して抱きしめ、幼子にするように身体を揺らした。
そうして、改めて辺りを見回して、シルリクは眉をひそめた。生者の影は無かった。臣民もイムラヴの兵士たちも、みな折り重なるように倒れて死んでいた。奇妙なのは、彼らの上に漂う黒い靄だ。なにかが燃えているのかと思ったが、そうではなかった。漂うきな臭さはあれど、遠い。ここでは血と、死そのものの匂いしか感じられない。
静まりかえった世界に、ただただ強烈な死だけがあった。
「ここは……黄泉か?」息子の身体を抱き直す。「わたしは死んだのか」
そこで、はたと気づいた。エダルトの身体が異様に冷たく、抱きしめても少しも温まらないことに。小さな胸を己の胸にあてているはずなのに、鼓動さえ響かない。
「エダルト……?」
すると、息子が腕の中から見上げてきた。その目の色を見て、思わず声を失う。
菫色の瞳。息子の目は、こんな色ではなかった。
「何が起こった? お前は何をされたのだ!」
どうすればよいのかわからず、ただ頬に触れる。氷のように冷たい頬に。
「父上に、僕の血をあげました」彼は言った。「そうすれば、仲間を増やせる──父上も僕と同じになれると、彼女が教えてくれたのです」
「同じになる? 彼女?」手が、声が震える。「何のことだ?」
「マニバが僕を、少しずつ変えてくれていたのです。つよい男に──誰にも負けない〈月の子〉になれるようにと」
そう語る息子の血まみれの口元に、今までに無かったはずのものを見る。
一対の、鋭い牙。
「これは彼女の血です。父上。異変があったとき、彼女が僕を連れ出して……スーランの血と、それから自分の血を飲ませて、僕を完成させてくれました」
「血を……飲ませた? 完成だと……?」
やめてくれ。こんなことは望んでいない。こんなことは──。
「僕は月の體を得て、〈月神の子〉になったのです。もう死なないし、老いもしない。血を飲みさえすれば、ものを食べる必要もありません。これで、僕もようやく戦士になれる!」
エダルトは笑った。嬉しそうに。
その笑顔は、新月の夜「こどもは、これから生まれるのです」と告げたあの瞬間の、マニバの笑顔にそっくりだった。
「そんな……」
「ふたりの血に溶けた記憶が──声が教えてくれました。この霧は月神の祝福なんです、父上。これがあれば、もう誰も僕たちの国を侵略出来ない」
気を失ってしまいたかった。さもなくば正気を。だが、何故だろう。これほど揺さぶられているのに、身体はどこか虚ろだった。欠けてはならないはずのものが欠けてしまったような──。
ハッとして、首筋に手を当てる。脈がない。心臓が、鼓動していない。シルリクは辺りを見回し、床の上に転がっていた金の盆を手に取った。血を拭ってから覗き込むと、そこにはエダルトと同じ菫色の瞳をした見知らぬ自分がうつっていた。
シルリクは息子を見た。
「わたしも、お前と同じ……ものになったのか?」
「はい」エダルトは頷いた。そして微笑んだ。「はじめて、あなたをお守りすることが出来ました」
シルリクはよろよろと立ち上がり、城の外へ出た。
城からのびる道の上に点々と続く亡骸。敵味方の別なく、誰も彼も身体中の穴という穴から血を流し、苦悶の表情を浮かべたまま凍り付いている。芽吹いたばかりの緑は血の池の中で枯れ果てていた。近景と遠景に並ぶ家々は燃え、たなびく黒煙が黒い瘴気と混ざり合っている。星も月も、その瘴気に飲み込まれてしまった。
「ああ……そんな……」
遠く東の水平線の上に、イムラヴの軍船が浮かんでいた。漕ぎ手を失い、潮に流されるまま漂っている。その向こう側に、見たことも無いほど赤い太陽が顔を出した。
「これが、こんなものが、祝福であるはずがない……」
そしてシルリクは、緑海を臨むエイルの断崖で、すべてが炎に包まれるのを見た。
月神の祝福、あるいは呪縛が刺青のようにこの身に刻まれてゆくのを感じながら、永遠に償うことのできない罪を知った。
守ろうとしたものはこの手の中で息絶え、指の間から崩れ去っていった。
慟哭すら赦さない灼熱に捲かれ、これほど強く死を願ったときは無かった。
だが、まだ死ねない。あの子を一人残しては。
エダルトが隣に立って、手を握った。
「父上」と彼が言う。「僕は〈災禍〉なのですね」
小さな我が子を見下ろす。愕然とした表情を隠すことさえ出来なかった。
「そうではない、エダルト」膝を突き、我が子を胸に抱いた。「お前はわたしの息子だ」
胸の中で、息子が言った。不思議そうに。
「なぜ、泣いているのですか?」
「濃くなってゆく瘴気をかいくぐってエイルを逃げ延び、ダイラの各地を転々としながら…… 三百年ほどは一緒に暮らした」ヴェルギルは言った。「息子が、飲んだ血から記憶を得ていることには、早いうちに気づいた。だがその時にはすでに、あの子は自分が殺した人間たちの記憶や声に悩まされるようになっていた」
自分の耳を引きちぎろうとしていたエダルトの姿を思い出す。満月の夜には、彼はひときわ強烈な狂気に駆られ、屋敷中のものを壊しながらのたうち回っていた。
「エダルトとわたしは、世界中で仲間を増やしていった。ウサルノの民に狼の力を授け、また別の地で人間に魔法の使い方を教えた。落神と人との間に生まれた者に生活の術を与え、また新しい種族を生み出してゆくのを見守った。わたしは何年か掛けて彼らを集め、人の世で生きていけるようにと〈協定〉を作った。ほんの骨組みだけだったが」
クヴァルドの方は見なかった。彼の顔に驚きが表れていたとしても、いなかったとしても、きちんと向き合えるとは思わなかった。
「ナドカを見守るために、多くのことをした。すくなくとも、そのつもりでいた。時間ばかり持て余して、他にすべきことも無かったからな」小さく肩をすくめる。「そうこうしている間に、エダルトは身のうちの狂気を抑えきれなくなっていった。彼は力をつけるために血を求め、彼らの命まで吸い尽くすのをやめなかった。そして、さらに沢山の声に悩まされるようになり……」
息子の目に、初めてあの兆しを視たのはいつのことだったか。それはどんよりと濁った、禍々しい色として現れていた。父親の顔を認識していたのかもわからない。ただただ強烈な飢餓ばかりが、瞳の中で踊っていた。
「止めようとしたが、太刀打ちできなかった。ここから先は、すでに話したとおりだ。彼の元から逃げて、以来、会って話をしていない」
そして、すべてを諦めていたところに、君が現れた。
地下牢に沈黙が降りた。遠くで鼠が這い回り、炎が松明を食み、漏れ出た地下水が滴っている。ヴェルギルはしばらくの間、そうしたささやかな音の向こう側にある、クヴァルドの深い呼吸の音を聞いていた。
「息子を愛していた」静かに言った。「今でも、それは変わっていないのだろうと思う」
薄闇の中で、青白い己の手を見る。この手で抱き上げた小さな身体や、触れた柔らかな頬の感触を、今でも覚えている。
「わたしには殺せない。叶うのなら救ってやりたいとも思う」そっと目を閉じた。「だが、無理なのだ。それがわかるくらいには、長く生きた」
返事は無かった。
返事を期待していたのかも、よくわからない。
ヴェルギルは立ち上がり、門番から奪った鍵を、鍵穴に差し込んだ。それを回すと、絡み合っていた封印の魔方陣が解け、鉄格子はただの鉄の格子に戻った。クヴァルドが顔を上げ、訝しむようにこちらを見上げている。
「君に死んで欲しくはない」ヴェルギルは言った。「だが──笑ってくれ、クロン。君に嘘をつくのにも、もう疲れてしまった」
鉄の戸を開き、開け放ってから後ろに下がる。
「エダルトは、ダイラの北西にあるミョルモルという島にいる。そこに、忘れられた月神の神殿がある。岩礁に囲まれて、普段は船ではたどり着けない。だが新月の夜、満潮の間だけは海路が開ける」
クヴァルドは立ち上がり、ゆっくりと、戸をくぐった。
消耗し、打ちひしがれ、頑ななその顔を見上げて、ヴェルギルが言った。
「君に伝えた言葉が……」自分の舌がぎこちない。「そのすべてが、真実であれば良かった。今でも、そう望んでいる」
緑色の目が伏せられる。赦されるとは思わなかったけれど、ヴェルギルは、そっと頬に触れ、唇を重ねた。ひび割れ、乾燥したクヴァルドを感じたのは一瞬だった。彼がその鋭い牙で自分の唇もろとも噛みついたからだ。痛みによって終わった口づけの余韻──唇にわずかについた彼の血に反応して、心臓が弱々しく咳き込んだ。
彼が、ゆっくりと口を開いた。
「嘘が──」硬く冷たい声。「下手になったな、啜り屋」
そして、彼は言った。
「声が震えてるぞ」
大きく身震いし、城の礎を揺るがすような唸り声を上げながら、彼は服を引きちぎり、巨大な狼に変化した。彼は鋭い爪で石の床を蹴ったかと思うと、地下牢の戸を体当たりで破り、そのまま走り去った。
ヴェルギルには、立ち尽くすことしか出来なかった。
ややあって、血相を変えたマルヴィナが駆け込んできた。彼女は空になった牢獄と、ヴェルギルを交互に見て言った。
「逃がしたのですか!?」
ヴェルギルは頷いた。「そうだ」
マルヴィナは殴られたように後じさった。「なんてことを! もし彼が──〈クラン〉がエダルトを殺せば、あなたは──」
「わかっている」
魔術師は愕然とした眼差しでヴェルギルを見た。「ならば、何故……!」
何故。何故だろう。思えば、彼に殺されかけたあの最初の出会いからずっと、自分にそう問いかけ続けてきたような気がする。この最後の時に、ようやくその答えを得ることになるとは。
彼を愛している。そのために、命を賭けてもいい。
ヴェルギルはそっと、首を振った。
「君に理解できるとは思えぬ」
彼方から、遠吠えが聞こえた。長く尾を引く哀惜の響き。
その声の余韻が消えぬ間に、心臓は最後の鼓動を打って、とまった。
これで、わたしの心臓は本当の死を迎えた。
もう二度と、目覚めることはない。
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