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腥血と遠吠え
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「わたしたちがどうやって愛を語らうのか見たい、と言ったな」
いくつかの留め金を外し、ヒルダ・フィンガルは魔道具の封印を解いた。
「今から見せてやろう。特別に」
生暖かい霊水の中で、生首が喘いでいる。
「な、なにをするつもり──」
狼狽するマルヴィナの声を無視して、ヒルダはそれをそっと持ち上げ、胸に抱いた。冷たい頬に指先で触れ、それから眼窩を、そっと包む。
「愛しいひと、わたしの血の匂いを覚えている?」
掌に、瞬きを感じる。
『是』
「愛しいひと、わたしを傷つけた者を狩ることが出来る?」
『是』
「ならば愛しいひと」ヒルダは微笑んだ。「ふたりで、あの忌まわしい反逆者の息の根を止めよう」
マルヴィナは怯えている。鼻を突く恐怖の匂いが、大気を侵している。
ああ、これこそ狩りの醍醐味。血に飢えた獣にとっての、最上の悦びだ。
「まさか、その魔道具は……その呪術は──」
永劫の闇を見据えたまま、ヒルダはゆっくりと立ち上がった。
「アシュモールの死霊術は、死者を魔神に変える。その首級は真実を語り、一度封印を解かれれば、契約と引換えに望みを叶える魔性となる」
ヒルダは、両手の中に抱いた首が重みを増してゆくのを感じた。今、彼はゆっくりと姿を変え、禍々しい闇の獣に成ろうとしている。
「そんなものをダイラに持ち込むなんて──穢らわしい! 〈協定〉の守護者が聞いてあきれる!」
「〈協定〉は人とナドカの平和を維持するためのもの」ヒルダは言った。「人ならざるもの同士の戦いに、穢れだなんだと初なことを」
マルヴィナは金切り声で叫んだ。「何故、幻術にかからないの!?」
ヒルダはにっこりと微笑んでみせてから、片眼を眼窩からえぐり出し、地面にたたきつけた。硝子が粉々に砕ける音が響き渡る。
暗闇の中から、魔術師が息を呑むのが聞こえた。
「義眼、ですって……!」
ヒルダは牙を剥きだして、笑った。
「覚悟が足りなかったようだな、手品師」
ヨトゥンヘルムでハルヴァルズの裏切りに追い詰められたとき、皆を逃がすために、はじめてエギルの封印を解いた。その力はすさまじかった。ハルヴァルズの画策で檻から脱走した罪びとや魔獣どもを倒すと、魔神となった彼はヒルダの両目をねだった。ヒルダは、彼の望みを喜んで叶えた。眼窩に収めた硝子の目は、もはや何をも映してはいない。
仲間の助け、それから嗅覚と音だけを頼りに、なんとかここまでやって来た。だが、これ以上先には進めないだろう。それでいい。
ここを、わたしたちの最後の戦いの地と決めてきたのだから。
「わたしは誇り高きフィンガルの娘、最古の狼の末裔だ。生まれたときから、この瞬間を待ち望んできた」
「正気じゃない」魔術師が呟いた。「正気じゃないわ……!」
遠ざかる足音が、確かに聞こえる。だが、逃がさない。逃がすものか!
沸き立つ興奮に身を任せ、ヒルダは笑った。
「吟遊詩人らの記憶の中で、最も禍々しく忌まわしい歌にお前の名を刻み込んでやろう、マルヴィナ・ムーンヴェイル」
ヒルダは、掌の下で脈打ち蠢くものにかがみ込んで、口づけた。
「さあ、楽しませて。愛しいひと!」
†
心に従えなどという忠告を、わざわざ思い出すまでも無かった。気づけばヴェルギルは、千切れかけた身体に能う限りの素早さで、エダルトに飛びかかっていた。
〈デイナの蛇〉を破壊するなどという無体をしたせいで、エダルトの身体は、もはや人の片鱗さえ残していなかった。霧と、かつて彼であったもの、それから、彼が今まさに変容しようとしているものの中間で揺らぐ異形だった。
わたしも、ひとの姿を捨てる頃合いだ。
黒い霧を翼のように拡げて、エダルトの身体を包み込む。
「父上……!」
「おしまいだ、エダルト」ヴェルギルは言った。
「放せ! 嫌だ! 放せえ!!」
いたるところから鉤爪が飛び出し、身体を切り裂く。繋がっているべき何本かの筋が断たれ、数えきれぬほどの骨が砕けている。
もう、長くはもたない。
「よいのだ、エダルト」抱きしめる手に力を込める。「この世界を、〈災禍〉から自由にしてやろう。わたしも共にゆくから」
ふり返ると、そこにクヴァルドがいた。折れた銀の剣の、抜き身の刃を握る手が焼けただれ、震えている。
言葉は必要なかった。
緑海の色の目が、愛していると告げていた。
この呪われた菫色の目も、同じくらい強い思いを伝えることが出来ていたらいいと思う。
ヴェルギルは頷いた。たった一度だけ。
クヴァルドは目を閉じ、それから、大地を蹴って飛び出した。
そして銀の閃光が、白い身体の奥深くに沈んだ。
エダルトの断末魔が空気を揺るがし、祭壇の石積みを崩す。木々が葉を落とし、水盤から刃のような水柱が立った。耳がちぎれ、眼球が痺れる。だが、ヴェルギルはエダルトを放さなかった。
そして霧が──白い霧が、じわりと解けて昇っていった。夜明けを間近に控え、ほのかに白む蒼い空へと。
「は……」
こわばる首を、軋ませながら見下ろす。そこに、エダルトがいた。傷つき、夥しい血を流した息子が、腕の中から、ヴェルギルを見つめていた。
「父上」弱々しい声と共に、どす黒い血が口からあふれ出す。「父上……」
「エダルト」
「小さな頃から、僕は知りたくてたまらなかった」彼は言った。「皆が、僕をどう思ってるか」
血に染まった頬や髪をそっと撫でる。「ああ」
「出来損ないの王子だと、思われるのが怖かった。でも血を飲めば……彼らのことは何でもわかる。血は嘘をつけない」
「ああ……エダルト」
ヴェルギルは、息子を抱きしめ、あやすようにやさしく揺らした。
「あなたは……僕に失望しているだろうと……それを知るのが──怖かった」
ヴェルギルはわずかに抱擁を緩め、自分の身体から滴る血をエダルトの口に垂らしてやった。
そして尋ねた。
「『失望』が……聞こえたか?」
エダルトは目を閉じ、小さく、首を振った。
刺し貫かれた腹の傷が、蒼い燐光を放ちながら、ゆっくりと広がってゆく。
「ああ」その声には、千年ぶりに耳にする安堵の響きがあった。「ああ……やっと、静かになった」
抱きしめる腕の中で、蒼い炎が燃え上がる。
「やっと……」
燃える睫毛に縁取られた瞼に口づけると、唇の下で、それは灰になった。
そして炎が、この身体にも燃え移る。
痛みは無い。苦しみも。熱さも感じない。
ヴェルギルは目を閉じた。
千年もの長きにわたって待ち望んだ滅びは、もっと苦悶に満ちたものであるべきなのにと思いながら。
†
エダルトの今際の声の衝撃に、ほんのわずかの間、気を失っていた。
目を覚ますと、ヴェルギルがいままさに、目の前で蒼い炎に包まれようとしていた。
「ヴェルギル!!」
ほとんど咆哮のような声を上げて、ヴェルギルを後ろから抱きかかえる。傷だらけの顔──その痛々しい傷口を食むように炎が広がる。手で押さえても、水を掛けても、勢いは衰えず、むしろ増してゆく。
「駄目だ、駄目だ駄目だ!」
彼を救うにはどうすればいい? どうすれば引き留めることが出来る?
リコヴが言っていた。月の祝福を断つのだと。
月の祝福とは──〈月の力〉のこと。だが、〈デイナの蛇〉は破壊された。他には? 他にはなんと言っていた?
お前の中には、紛れもなく『運命』が流れてるってことだ。
「俺の中……俺の中に流れる……」
頭を殴られたような衝撃と共に、思い至る。クヴァルドは迷わずに、手首をかみ切り、クヴァルドの口に当てた。
「飲め、飲んでくれ……」
「んん……」
しかし、彼は拒むように口を引き結んでいる。
「馬鹿野郎……!」
そう簡単に──そんなふうに潔く──俺を置き去りにして死なせてたまるか。
「畜生、ヴェルギル! 一度でいいから、俺の言うことを聞け!!」
クヴァルドは吼え、傷口から思い切り血を吸った。それからヴェルギルの顔を抱き寄せ、口づけをした。牙で噛み、舌でこじ開け、なんとか血を流し込む。
すると、抱きしめた身体の中から、小さな心音が聞こえた。同時に、蒼い炎が揺らめいて、消えかかる。
助かる──助かるかも知れない。
手首の傷口を拡げて、さらに血を飲ませようとしたとき、クヴァルドはあることに気づいた。
水盤に、満月が浮かんでいる。今夜は新月のはずだと上空を見ると、やはりそこには何も無い。もう一度水盤に視線を戻すと──水鏡に映った見事な満月が、揺らいだ。
「一体……」
目を瞠るクヴァルドの前で、月が、ゆっくりと、水面から立ち上がる。
声を上げることなど、出来るはずが無かった。
ぼんやりとした光が、音もなくこちらに歩み寄り、祭壇に昇る。それは、今まさに燃え尽きようとしているエダルトの亡骸にかがみ込むと、ふわりと手を広げた。
すると、蒼い光が彼女の腕の中に寄り添った。まるで、母に抱かれる子供のように。
月神。あれは月神だ。
ヘカが、いる。いま、ここに。
見てはいけないと、本能が叫んだ。あれは強大なものだ。怖ろしいものだ。冷や汗がどっと溢れ、瘧のように全身が震える。だが、目を離さずにはいられなかった。なぜなら月神は、連れて行くべきもう一人の子を探していたからだ。
白い光が、滑るようにこちらに近づいてくる。
ヴェルギルをきつく抱きしめて、クヴァルドは彼女を見上げた。そして言った。
「か……彼は……あなたに与えられた役目を果たしました」涙が、勝手に溢れ出る。「誓いを破らせたのは俺だ。どんな罰でも受けます。かわりに俺を連れて行ってくれ」
小さな鼓動を抱きしめたまま、許しを請うて深く頭を垂れる。
「お願いだ……どうか、彼を自由にしてください」
なにかが、頭の後ろに触れた。クヴァルドはきつく目を閉じ、自分の身に何かが起きるのを待った。
そして、待った。
さらに待った。
「フィラン?」
顔を上げてふり返ると、そこにはヒルダが立っていた。傷だらけで、義眼の片方を失っていたが、生きている。革袋と、その中に入っているはずのエギルの首は無かった。
辺りを見回す。そこに残されていたのは破壊された神殿。森の向こうに広がる海原。
神の姿は、どこにもない。
「フィラン、生きているのか?」
「俺は……無事です」
自信の無い声で答える。見下ろすと、ヴェルギルはまだそこにいた。燃えてもいないし、灰になってもいない。ただ、眠っている。
「ヴェルギルも、たぶん」
「そうか」ヒルダが隣に来て、どさりと座り込んだ。「大義だった。フィラン。本当に」
あれは夢だったのだろうか?
いや、そんなはずはない。
クヴァルドは、ヴェルギルの身体を抱き直した。
「エギルは……?」
ヒルダに尋ねると、彼女は寂しげに笑い、火傷を負った両手を掲げた。
「手の中で燃え尽きた。わたしを連れていってはくれなかったよ」彼女は、深いため息をついた。「ああ……疲れたな」
改めて、辺りを見回す。神殿と森を蹂躙した闘いの爪痕と、それを癒やすかのように柔らかな、夜明けの空が見える。
そして、クヴァルドは生まれて初めて、歌のなかでしか知らなかった緑海の、真の色を見た。それから西の果て──水平線に横たわるエイルの島影を。
千年の時を経て、この海に、嘘のように平穏な夜明けが訪れていた。
迎えの船にはブリジットと、驚いたことに、審問官のサムウェルが同乗していた。
「間一髪という所で、この連中が助太刀してくれてね」と魔女は笑った。「あの鐘を心強いと感じたのは、後にも先にもこれきりだろうさ」
氷でできた桟橋を渡り、小さな帆船に乗り込むと、彼女が魔法で風を起こし、岸まで運んでくれた。
「マルヴィナ・ムーンヴェイルを追っていたのだ」サムウェルは言った。「〈アラニ〉の叛乱の首謀者とみられている。だが、共謀していたはずのハルヴァルズは戦死して、詳しい事情は聞けずじまいだ」
「あの女も死んだ。骨も残っていない」ヒルダがきっぱりと言った。「〈協定〉を犯した罪で、わたしが裁いた。叛乱のことは知らない」
彼女がそう言ったのは、人間の傍──特に王都で暮らすナドカたちに危険が及ばないようにするためだ。おそらく、サムウェルもそれを察したのだろう。
「よくわかった」と答えたが、苦いものを飲み込んだような顔をしていた。
神殿の中に監禁されていたハミシュは、マルヴィナの幻術から解放されたおかげで意識がはっきりしていたものの、状況を理解することが出来ずに怯えていた。クヴァルドやヴェルギルと会話した記憶も無いというので、なんとか落ち着かせて、同じ船に乗せた。
そしてヴェルギルは、クヴァルドの腕の中で、ただ眠り続けた。
いくつかの留め金を外し、ヒルダ・フィンガルは魔道具の封印を解いた。
「今から見せてやろう。特別に」
生暖かい霊水の中で、生首が喘いでいる。
「な、なにをするつもり──」
狼狽するマルヴィナの声を無視して、ヒルダはそれをそっと持ち上げ、胸に抱いた。冷たい頬に指先で触れ、それから眼窩を、そっと包む。
「愛しいひと、わたしの血の匂いを覚えている?」
掌に、瞬きを感じる。
『是』
「愛しいひと、わたしを傷つけた者を狩ることが出来る?」
『是』
「ならば愛しいひと」ヒルダは微笑んだ。「ふたりで、あの忌まわしい反逆者の息の根を止めよう」
マルヴィナは怯えている。鼻を突く恐怖の匂いが、大気を侵している。
ああ、これこそ狩りの醍醐味。血に飢えた獣にとっての、最上の悦びだ。
「まさか、その魔道具は……その呪術は──」
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ヒルダは、両手の中に抱いた首が重みを増してゆくのを感じた。今、彼はゆっくりと姿を変え、禍々しい闇の獣に成ろうとしている。
「そんなものをダイラに持ち込むなんて──穢らわしい! 〈協定〉の守護者が聞いてあきれる!」
「〈協定〉は人とナドカの平和を維持するためのもの」ヒルダは言った。「人ならざるもの同士の戦いに、穢れだなんだと初なことを」
マルヴィナは金切り声で叫んだ。「何故、幻術にかからないの!?」
ヒルダはにっこりと微笑んでみせてから、片眼を眼窩からえぐり出し、地面にたたきつけた。硝子が粉々に砕ける音が響き渡る。
暗闇の中から、魔術師が息を呑むのが聞こえた。
「義眼、ですって……!」
ヒルダは牙を剥きだして、笑った。
「覚悟が足りなかったようだな、手品師」
ヨトゥンヘルムでハルヴァルズの裏切りに追い詰められたとき、皆を逃がすために、はじめてエギルの封印を解いた。その力はすさまじかった。ハルヴァルズの画策で檻から脱走した罪びとや魔獣どもを倒すと、魔神となった彼はヒルダの両目をねだった。ヒルダは、彼の望みを喜んで叶えた。眼窩に収めた硝子の目は、もはや何をも映してはいない。
仲間の助け、それから嗅覚と音だけを頼りに、なんとかここまでやって来た。だが、これ以上先には進めないだろう。それでいい。
ここを、わたしたちの最後の戦いの地と決めてきたのだから。
「わたしは誇り高きフィンガルの娘、最古の狼の末裔だ。生まれたときから、この瞬間を待ち望んできた」
「正気じゃない」魔術師が呟いた。「正気じゃないわ……!」
遠ざかる足音が、確かに聞こえる。だが、逃がさない。逃がすものか!
沸き立つ興奮に身を任せ、ヒルダは笑った。
「吟遊詩人らの記憶の中で、最も禍々しく忌まわしい歌にお前の名を刻み込んでやろう、マルヴィナ・ムーンヴェイル」
ヒルダは、掌の下で脈打ち蠢くものにかがみ込んで、口づけた。
「さあ、楽しませて。愛しいひと!」
†
心に従えなどという忠告を、わざわざ思い出すまでも無かった。気づけばヴェルギルは、千切れかけた身体に能う限りの素早さで、エダルトに飛びかかっていた。
〈デイナの蛇〉を破壊するなどという無体をしたせいで、エダルトの身体は、もはや人の片鱗さえ残していなかった。霧と、かつて彼であったもの、それから、彼が今まさに変容しようとしているものの中間で揺らぐ異形だった。
わたしも、ひとの姿を捨てる頃合いだ。
黒い霧を翼のように拡げて、エダルトの身体を包み込む。
「父上……!」
「おしまいだ、エダルト」ヴェルギルは言った。
「放せ! 嫌だ! 放せえ!!」
いたるところから鉤爪が飛び出し、身体を切り裂く。繋がっているべき何本かの筋が断たれ、数えきれぬほどの骨が砕けている。
もう、長くはもたない。
「よいのだ、エダルト」抱きしめる手に力を込める。「この世界を、〈災禍〉から自由にしてやろう。わたしも共にゆくから」
ふり返ると、そこにクヴァルドがいた。折れた銀の剣の、抜き身の刃を握る手が焼けただれ、震えている。
言葉は必要なかった。
緑海の色の目が、愛していると告げていた。
この呪われた菫色の目も、同じくらい強い思いを伝えることが出来ていたらいいと思う。
ヴェルギルは頷いた。たった一度だけ。
クヴァルドは目を閉じ、それから、大地を蹴って飛び出した。
そして銀の閃光が、白い身体の奥深くに沈んだ。
エダルトの断末魔が空気を揺るがし、祭壇の石積みを崩す。木々が葉を落とし、水盤から刃のような水柱が立った。耳がちぎれ、眼球が痺れる。だが、ヴェルギルはエダルトを放さなかった。
そして霧が──白い霧が、じわりと解けて昇っていった。夜明けを間近に控え、ほのかに白む蒼い空へと。
「は……」
こわばる首を、軋ませながら見下ろす。そこに、エダルトがいた。傷つき、夥しい血を流した息子が、腕の中から、ヴェルギルを見つめていた。
「父上」弱々しい声と共に、どす黒い血が口からあふれ出す。「父上……」
「エダルト」
「小さな頃から、僕は知りたくてたまらなかった」彼は言った。「皆が、僕をどう思ってるか」
血に染まった頬や髪をそっと撫でる。「ああ」
「出来損ないの王子だと、思われるのが怖かった。でも血を飲めば……彼らのことは何でもわかる。血は嘘をつけない」
「ああ……エダルト」
ヴェルギルは、息子を抱きしめ、あやすようにやさしく揺らした。
「あなたは……僕に失望しているだろうと……それを知るのが──怖かった」
ヴェルギルはわずかに抱擁を緩め、自分の身体から滴る血をエダルトの口に垂らしてやった。
そして尋ねた。
「『失望』が……聞こえたか?」
エダルトは目を閉じ、小さく、首を振った。
刺し貫かれた腹の傷が、蒼い燐光を放ちながら、ゆっくりと広がってゆく。
「ああ」その声には、千年ぶりに耳にする安堵の響きがあった。「ああ……やっと、静かになった」
抱きしめる腕の中で、蒼い炎が燃え上がる。
「やっと……」
燃える睫毛に縁取られた瞼に口づけると、唇の下で、それは灰になった。
そして炎が、この身体にも燃え移る。
痛みは無い。苦しみも。熱さも感じない。
ヴェルギルは目を閉じた。
千年もの長きにわたって待ち望んだ滅びは、もっと苦悶に満ちたものであるべきなのにと思いながら。
†
エダルトの今際の声の衝撃に、ほんのわずかの間、気を失っていた。
目を覚ますと、ヴェルギルがいままさに、目の前で蒼い炎に包まれようとしていた。
「ヴェルギル!!」
ほとんど咆哮のような声を上げて、ヴェルギルを後ろから抱きかかえる。傷だらけの顔──その痛々しい傷口を食むように炎が広がる。手で押さえても、水を掛けても、勢いは衰えず、むしろ増してゆく。
「駄目だ、駄目だ駄目だ!」
彼を救うにはどうすればいい? どうすれば引き留めることが出来る?
リコヴが言っていた。月の祝福を断つのだと。
月の祝福とは──〈月の力〉のこと。だが、〈デイナの蛇〉は破壊された。他には? 他にはなんと言っていた?
お前の中には、紛れもなく『運命』が流れてるってことだ。
「俺の中……俺の中に流れる……」
頭を殴られたような衝撃と共に、思い至る。クヴァルドは迷わずに、手首をかみ切り、クヴァルドの口に当てた。
「飲め、飲んでくれ……」
「んん……」
しかし、彼は拒むように口を引き結んでいる。
「馬鹿野郎……!」
そう簡単に──そんなふうに潔く──俺を置き去りにして死なせてたまるか。
「畜生、ヴェルギル! 一度でいいから、俺の言うことを聞け!!」
クヴァルドは吼え、傷口から思い切り血を吸った。それからヴェルギルの顔を抱き寄せ、口づけをした。牙で噛み、舌でこじ開け、なんとか血を流し込む。
すると、抱きしめた身体の中から、小さな心音が聞こえた。同時に、蒼い炎が揺らめいて、消えかかる。
助かる──助かるかも知れない。
手首の傷口を拡げて、さらに血を飲ませようとしたとき、クヴァルドはあることに気づいた。
水盤に、満月が浮かんでいる。今夜は新月のはずだと上空を見ると、やはりそこには何も無い。もう一度水盤に視線を戻すと──水鏡に映った見事な満月が、揺らいだ。
「一体……」
目を瞠るクヴァルドの前で、月が、ゆっくりと、水面から立ち上がる。
声を上げることなど、出来るはずが無かった。
ぼんやりとした光が、音もなくこちらに歩み寄り、祭壇に昇る。それは、今まさに燃え尽きようとしているエダルトの亡骸にかがみ込むと、ふわりと手を広げた。
すると、蒼い光が彼女の腕の中に寄り添った。まるで、母に抱かれる子供のように。
月神。あれは月神だ。
ヘカが、いる。いま、ここに。
見てはいけないと、本能が叫んだ。あれは強大なものだ。怖ろしいものだ。冷や汗がどっと溢れ、瘧のように全身が震える。だが、目を離さずにはいられなかった。なぜなら月神は、連れて行くべきもう一人の子を探していたからだ。
白い光が、滑るようにこちらに近づいてくる。
ヴェルギルをきつく抱きしめて、クヴァルドは彼女を見上げた。そして言った。
「か……彼は……あなたに与えられた役目を果たしました」涙が、勝手に溢れ出る。「誓いを破らせたのは俺だ。どんな罰でも受けます。かわりに俺を連れて行ってくれ」
小さな鼓動を抱きしめたまま、許しを請うて深く頭を垂れる。
「お願いだ……どうか、彼を自由にしてください」
なにかが、頭の後ろに触れた。クヴァルドはきつく目を閉じ、自分の身に何かが起きるのを待った。
そして、待った。
さらに待った。
「フィラン?」
顔を上げてふり返ると、そこにはヒルダが立っていた。傷だらけで、義眼の片方を失っていたが、生きている。革袋と、その中に入っているはずのエギルの首は無かった。
辺りを見回す。そこに残されていたのは破壊された神殿。森の向こうに広がる海原。
神の姿は、どこにもない。
「フィラン、生きているのか?」
「俺は……無事です」
自信の無い声で答える。見下ろすと、ヴェルギルはまだそこにいた。燃えてもいないし、灰になってもいない。ただ、眠っている。
「ヴェルギルも、たぶん」
「そうか」ヒルダが隣に来て、どさりと座り込んだ。「大義だった。フィラン。本当に」
あれは夢だったのだろうか?
いや、そんなはずはない。
クヴァルドは、ヴェルギルの身体を抱き直した。
「エギルは……?」
ヒルダに尋ねると、彼女は寂しげに笑い、火傷を負った両手を掲げた。
「手の中で燃え尽きた。わたしを連れていってはくれなかったよ」彼女は、深いため息をついた。「ああ……疲れたな」
改めて、辺りを見回す。神殿と森を蹂躙した闘いの爪痕と、それを癒やすかのように柔らかな、夜明けの空が見える。
そして、クヴァルドは生まれて初めて、歌のなかでしか知らなかった緑海の、真の色を見た。それから西の果て──水平線に横たわるエイルの島影を。
千年の時を経て、この海に、嘘のように平穏な夜明けが訪れていた。
迎えの船にはブリジットと、驚いたことに、審問官のサムウェルが同乗していた。
「間一髪という所で、この連中が助太刀してくれてね」と魔女は笑った。「あの鐘を心強いと感じたのは、後にも先にもこれきりだろうさ」
氷でできた桟橋を渡り、小さな帆船に乗り込むと、彼女が魔法で風を起こし、岸まで運んでくれた。
「マルヴィナ・ムーンヴェイルを追っていたのだ」サムウェルは言った。「〈アラニ〉の叛乱の首謀者とみられている。だが、共謀していたはずのハルヴァルズは戦死して、詳しい事情は聞けずじまいだ」
「あの女も死んだ。骨も残っていない」ヒルダがきっぱりと言った。「〈協定〉を犯した罪で、わたしが裁いた。叛乱のことは知らない」
彼女がそう言ったのは、人間の傍──特に王都で暮らすナドカたちに危険が及ばないようにするためだ。おそらく、サムウェルもそれを察したのだろう。
「よくわかった」と答えたが、苦いものを飲み込んだような顔をしていた。
神殿の中に監禁されていたハミシュは、マルヴィナの幻術から解放されたおかげで意識がはっきりしていたものの、状況を理解することが出来ずに怯えていた。クヴァルドやヴェルギルと会話した記憶も無いというので、なんとか落ち着かせて、同じ船に乗せた。
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