完結【日月の歌語りⅠ】腥血(せいけつ)と遠吠え

あかつき雨垂

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腥血と遠吠え

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 戦いから一ヶ月が過ぎた頃、ヴェルギルは、ヒルダの支配下に戻ったヨトゥンヘルムの部屋で目を覚ました。
 目覚めたとき、彼は自分が生きていることと、息子が死んだことを知って、ただひとこと「そうか」と呟いた。
 それまで、クヴァルドはひどく気を揉んでいた。傷が治ったとは言え、二度と目覚めない可能性もあった。虫の居所の悪いときなどは、起きたらどれだけ文句を並べてやろうかと考えたりもした。
 だが、何かが抜け落ちたような彼の表情を見て、言うべき言葉は失われてしまった。
 それから数日後、ヴェルギルは前触れ無く、ヨトゥンヘルムから消えた。
 行き先はわかっていたが、追いかけてよいのかわからなかった。苛立ちと不安を募らせながら砦の中をうろつく毎日を送っていると、失踪から三ヶ月ほど経ったある日、見かねたらしいハミシュがとうとう尋ねた。
「どうして会いに行かないの?」
 身寄りのない彼は、ヒルダの小姓として働くことになっていた。幻術の影響下から完全に脱するのに苦労していたけれど、新しい仔犬の養育に闘志を燃やすナグリや、見えない目の変わりをしてくれる彼に報いたいと願うヒルダのおかげで、徐々に立ち直りつつある。
「さあな」クヴァルドは歯切れの悪い返事をした。「たぶん……いや。おれは許されないことをしたんだ」
 自室の窓辺に腰掛けて、北方山脈に目を向ける。蒼い夜、白い雪峰にかかる月が美しい。だが、今までと同じ気持ちでは、この光景を眺めることは出来なくなってしまっていた。
 ハミシュはクヴァルドを〈クラン〉いちの戦士だと思っていて、毎晩の部屋に夕食を運んでは、冒険譚をせがむ。ただ、ここ最近はその夕飯にも、ほとんど手を着けずに終わることが多かった。
「許されないって、どうして? 悪者をやっつけて、彼を助けたのに」
「そう単純な話じゃない」クヴァルドは小さく笑った。「俺は、彼の望みを無視した」
 ハミシュは目を丸くした。あえて死にたがるという発想がないのだろう。いいことだ。
「でも……生きてる方がいいと思う」少年は、自分には理解できない物事の存在を認めた上で、遠慮がちに言った。「俺もマルヴィナにひろわれる前は、路地裏で鼠を捕まえて生のまま食ったりさ、そりゃあひどい暮らしをしてたけど、死にたいとは思わなかったな。だって生きてる方が、いろんなことが出来るでしょ?」
「そうだな」
 クヴァルドは笑って、ハミシュの頭を撫でた。小さくため息をついて、窓の外に目を戻す。
「俺も、そう思う」
 育ち盛りのハミシュに自分の夕飯を譲り、しばらくぼんやりと景色を眺めた。そのうちに、見慣れた遠景の中に潜む小さな違和感に気づいた。
「あれは……」
 立ち上がり、窓越しに目をこらす。それから、慌てて広縁バルコニーに飛び出した。
「どうしたの?」ハミシュが追いかけてきて、手すりから落ちないようにとクヴァルドのベルトを掴んだ。
「あの月」ほとんど上の空で呟く。「間違いない……」
 ハミシュも並んで、夜空を見上げた。「月が、どうかしたの?」
 クヴァルドは身を翻すと、鞍袋に手当たり次第に道具を詰め込んだ。
「ねえ、どうしたのさ!」
「出かけてくる」手を着けていなかったパンを掴んで、革袋スポーランに突っ込む。
「こんな夜中に? 狩りにでも行くの?」
「違う」そう言いながら、すでに部屋の戸に手を掛けていた。「だが、しばらく戻らない」
 
 ミョルモル島へ行くためには、海賊の本拠地だった港の勢力争いで後釜に納まった、また別の海賊に大枚を詰む必要があった。とは言え、ブリジットに助けを求めて、彼女にいろいろと詮索されるよりはいくらかマシだと思ったので、争わずに言い値を払った。
 島の東、岩礁の手前で、三日後に迎えに来てくれたら今回の倍払うといい、海に飛び込み、岸まで泳いだ。
 明るい光の下で見る島は、痛々しかった。至る所に残る戦いの痕を見て、クヴァルドはヒルダの話を思い出した。
 魔神ジンは必ず、主との契約に則って振る舞う。しかし、マルヴィナを八つ裂きにしたエギルが代償を求めることは無かったとヒルダは言っていた。
 定められた掟や法則を破る力というものがこの世にはあるのだと、クヴァルドは思う。きっと、それほど多く存在するわけではない。だが、『愛』は間違いなく、そのうちの一つだ。
 地面の亀裂や倒木を乗り越えて、再び神殿に入る。日のある間に訪れる神殿には、素朴ながらも荘厳で、どこか平和な雰囲気があった。
 結局、いくつかの回廊をウロウロとさまよっているうちに日が暮れ、よく熟れた夏の月が、空に昇った。
 クヴァルドは勇気を出して、祭壇のある中央部へ向かうことにした。
 
 思った通り、彼はそこにいた。
 祭壇の中央に座り込んで、ただ……座り込んでいた。彼が見つめる先、闇夜の底には、エイルの島影が横たわっている。
 クヴァルドは干上がった水盤の隅に立って、しばらく彼の背中を見つめていたが、やがてそっと歩み寄り、声を掛けた。
「いつまでそうしているつもりだ?」
 ヴェルギルが返事をしなかったので、ほんの少しだけ離れたところに腰を下ろした。
「俺に……怒っているなら、そう言えばいい」クヴァルドは言った。本当は、もっと優しく、気遣わしげな言葉をかけるはずだったのにと思いながら。
 すると、ヴェルギルが答えた。
「君に怒っているわけではない」
 しばらくぶりに声を出したのだろう。ひどく掠れていて、ぎこちない。
「俺の勝手な望みで、お前を死なせなかった」クヴァルドは、余計な言葉で飾らずに伝えた。「申し訳なく思っている。償えるなら……どんなことでもするつもりだ」
 ヴェルギルは俯いた。いったいどれほどの間、ここに座っていたと言うのだろう。艶やかだった髪は潮風に強ばり、手の施しようが無いほど乱れている。
「君は……正しいことをしただけだ」ヴェルギルは小さな声で言った。「償いなど。感謝こそすれ……」
 彼の言葉は海風に攫われて、最後まで聞き取れなかった。
 しばらく、沈黙が続いた。
 クヴァルドは、およそ想像もつかないほどの力によって生み出される波の音だけを聞いていた。それは世界の呼吸のようで、そのリズムに合わせて息をすると、不思議な安らぎを得ることが出来た。まるで、永遠の一部に溶け込むことが出来たような気がした。
「何故、ここにきた?」ヴェルギルが言った。
「伝えたいことがあって」クヴァルドは答えた。
「伝えたいこと……?」
 クヴァルドは頷き、わずかにヴェルギルとの距離を詰めると、ちょうど二人の目の前に浮かんでいる月を指さした。「あれを見ろ。羅針盤座の少し上だ」
 そして待った。ヴェルギルが、自分が見つけたのと同じものをそこに見出すのを。やがて、彼が呟いた。
「あんなところに、星があっただろうか」
「俺も、つい三日前に気づいた」クヴァルドは言った。「俺には、あの星が月に寄り添っているように見える」
 その言葉に何かを感じ取ったのか、ヴェルギルが俯いた。「そんなことを伝えるために、わざわざここに?」
「言っておくが、慰めようとしているわけじゃない」クヴァルドは言った。
「わかっている」そして、彼は呟いた。「あの星は……凶星と呼ばれるようになるのだろうな」
「でも、お前はそうは呼ばない」
 この島に来て初めて、ヴェルギルがクヴァルドを見た。
「俺はそれをわかってるし、それでいいと思う」そう告げて、また星を見上げる。
 ヴェルギルはしばらく黙ったまま、夜空を見つめていた。その頬に涙が光っているのに気づいたけれど、そっとしておくことにした。
 やがて小さな声で、ヴェルギルが言った。
「ありがとう。フィラン」
 クヴァルドは微笑んだ。そして何も言わず、ただ彼の隣に居続けた。



 
 それから何年かののち、ある晴れた日のこと。
 エイルの南に広がる白い砂浜に、数多くのナドカが詰めかけていた。
 設えられた祭壇の周囲に、見知った顔と見知らぬ顔が数えきれぬほど並んでいる。人狼、吸血鬼、魔術師に魔女。デーモンや妖精、人間も何人か。マチェットフォードで出会った判事の娘──ディアドラの姿もあった。傍らにはマルカスが立っている。燦然と降り注ぐ陽の光の下、みな興奮に顔を輝かせて、待っている。息を凝らして。
 ひとりの吸血鬼が、祭壇を覗く控えの天幕から、その様子を眺めていた。
「覚悟は?」
 赤毛の人狼が背後から尋ねると、彼は渋面を作って振り向いた。「そんなものはない」
 人狼は笑い、吸血鬼の肩に両手を置いた。
「お前はこれから、大勢のナドカが目指す海の光ガーリンネになる」
 すると、吸血鬼の表情はますます険悪になった。「気負わせようとしているのか、クロン?」
 人狼はニヤリと微笑み、吸血鬼にかがみ込むと、慎ましやかな──そして愛情の籠もった口づけをした。
「おれがついてる。決して、お前の側を離れない」
 吸血鬼が笑い、渋面がたちまちほどけた。「そのことを、先に誓ったのはわたしの方だったな」
「俺は月には誓わない」人狼は言い、そっと吸血鬼の手を取った。「お前に誓う。お前だけに」
 そして二人は、もう一度口づけをした。
 時間はたっぷりある。世界を変えるのをもう少しだけ先延ばしにしても許されるだろう。
 遠くで、誰かが歌っている──もはや哀歌ではなくなったあの歌を。
「聞かせてくれないか、フィラン。君の声で」
 人狼は笑って、皆の声に、そっと声を重ねた。
 そして、歌は晴れ晴れと響き渡る。
 ヴェルギルは目を閉じ、静かに耳を傾けた。
 
 『いざ たちて還らん 我が都へ……』




 ふたりは共に手を携え、生涯を捧げてエイルを再興し、世界で初めてナドカと人が平等に暮らす国を作り上げた。彼らは数えきれぬほどの歌に編まれ、やがて畏敬の念を込め、腥血せいけつの王、遠吠えの王と呼ばれることになる。
 だが、それはまた……別の物語だ。
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