24 / 29
腥血と遠吠え
番外編 レ・ケイラ
しおりを挟む
クヴァルドがエイルに初めて足を踏み入れた日にヴェルギルと向かったのは、かつて王城が建っていた島の北岸だった。そこには、北の果てまで広がる海と、陸地を千切りとられたかのように切り立った崖、わずかな土壌にしがみつく草の他には何もなかった。千年前にこの場所に確かにあったはずのものを偲ぶ縁さえ残されていない。
晴れている日には翠玉のように輝く緑海も、鈍色の空の下では錆びついて見える。海原を見つめて立ち尽くすヴェルギルの長い髪や外套を強い西風がたなびかせる。フィランはその背中を、遠くから見つめることしか出来なかった。胸中で吹き荒れているはずの嵐を──分かち合うことなど出来ないほど深い、彼の哀しみを思いながら。
†
「あなたはダイラで、『野ざらしの王』と呼ばれているのですよ」ロドリック・リオーダンはヴェルギルの二歩後ろを歩きながら言った。「城の完成が最優先事項です。治水がその次、港の整備はさらに後です」
吸血鬼と人間とが、積み上がった石と足場と、作業にいそしむ石工たちの合間を縫って歩いている。雨がちなエイルにつかの間訪れる輝かしい夏の盛り、城の建設予定地に生い茂る緑は日の光に照り映え、久々の晴天を味わい尽くそうとしているかのようだった。
ヴェルギルは歩調を緩めずに答えた。
「ひとつ、わたしは王ではないから、見当違いな評判に耳を傾ける必要はない」言い返そうとしたロドリックを遮って続ける。「ふたつ、城など天幕があれば事足りる。すでに大勢の移住者が毎日船に乗ってやって来ているのだ。物資も足りない。船着き場の増設は喫緊の課題だろう。水の確保は言うに及ばず」
「ハロルド王のお越しまでには、大広間の他に塔一つでも完成していないことには示しがつきません! もちろん、王座を空席のままにしておくなど言語道断です」
エイルの再興のために志願した者たちのうち、ヴェルギルが選んだ少数のナドカと、ダイラ王ハロルドの家臣団とを引き連れてこの島に上陸して半年。家臣団の連中は新天地で立身しようという野心を抱いていたようだが、文明というものが文字通りの遺跡と化したこの島に恐れを成して早々に本国に帰っていった。いま残っているのは、家臣団の中では最年長で、なおかつ最も気骨のありそうなロドリックという騎士とその付きの者たちだけだ。ハロルドの正式な叙任が下れば、彼がダイラの代弁者、および監視者として摂政の座につくだろうと噂されている。だが、当初の約束どおり、エイルを統治するのはナドカの王だ。
とは言え、肝心の王に誰がなるのかは、日々議論が続いている。
ロドリックは出会った頃のフィランと同じかそれ以上に生真面目で、諦めの悪さは他に類を見ないほどだ。彼は──おそらくハロルドに厳命されているのだろう──何が何でもヴェルギルをエイルの王に据えるつもりでいた。物わかりのいい彼と話をしていてうっかり油断していると、さりげなく裁定や陳情の決を委ねてくる。そうして王としての仕事を次々と隙間にねじ込み、身動きが取れなくなったところで冠をかぶせる魂胆らしかった。
王になるのは無理だ、とは思わない……今は。しかし、どうにも動かしようのない迷いがあって、潔く引き受けることが出来ずにいた。
高く低く積まれた石の壁越しに差し込む陽光が、埃だらけの床にくっきりとした陰影を描いている。石工が石を削る小気味よい音や、木槌と木とがぶつかり合う音、素朴な作業歌があたりに響き渡り、ほんの少し眠たげな昼下がりの時間を彩っていた。
「ハロルドは待たせておけばいい」ヴェルギルは立ち止まり、ロドリックを振り向いた。「そもそも、あの痛風持ちが本当にこんなところまで来ると思うか? 羽毛を敷き詰めた船でもなければ無理だろう」
ロドリックが真面目な顔を取り繕う前に口元がピクリと動いたのを、ヴェルギルは見逃さなかった。彼はこほんと咳払いをして、言った。
「せめて、南の塔の建設に充てる人員だけは確保させていただきます。あなたはこれまでどおり天幕でお休みになればよい」
ヴェルギルは満足げに頷いた。「贅沢だろう? 夜空こそが我が天蓋、というわけだ」
ロドリックは「同意いたしかねます」と呟き、前からやってくるひと影に目を向けた。
こちらに向かってくるのは、ダイラでは禁じられていたイムラヴの伝統装束を身に纏った人狼の偉丈夫。人目を引くのは、その長身や鍛え上げられた体躯のせいばかりではない。日差しを受けて燃え立つような赤毛の美しさは、他に類をみないほどだ。
「黄昏の狼殿」低く呟き、辞儀をする。
ハロルド王からエイルの総轄責任者に任命されたヴェルギルと、〈クラン〉の人狼として、またヴェルギルの補佐としてダイラとエイルを往復しているフィランが顔を合わせるのは、月に三日もあれば多い方だった。
フィランはエイルの建国を先触れするため三月ほど前に大陸に発ち、フェリジアやカルタナ、ヴァスタリアにアシュモール、そしてマルディラを巡り、ダイラのヨトゥンヘルムを経由して再びエイルに戻ったばかりだ。だが休む間もなく、今度は〈クラン〉の所用でエイルの島という島を巡っている。海の防衛のため、ダイラの北岸を根城にしていたナドカばかりの海賊〈吼浪団〉を味方につけた。その折衝をフィランが担っているのだ。
「ご苦労だった」
肩を叩く。分厚い外套と長衣越しでは体温を感じるのも難しいが、それでもこうして触れあうことが出来るだけで、気力が持ち直す。
「フーヴァルは何と?」
〈吼浪団〉を率いるのは、フーヴァル・ゴーラムという名の船長だ。防衛力を増すため、こちらが選んだ人材の受け入れと養成の打診をしていたのだ。
フィランは肩をすくめた。「ひきうけてやるから島をひとつ寄越せ、だそうだ」
この案にははじめから反対していたロドリックは眉間の皺をさらに深めた。
「また、無理難題を……」
「思ったんだが、島の代わりに船二隻の建造を約束するのはどうだろうか」フィランが言った。
ヴェルギルは眉を上げた。そして、ロドリックも。
「どうぞ続けてください」
フィランは頷いた。
「彼らの船を見るかぎり、いつ沈んでもおかしくなかった。〈吼浪団〉には自前の船大工がいる。腕のいいデーモンの一族だ。彼らにこの島に移住してもらえたら、双方にとっていい結果になるかも知れない」
「悪くない案です」未来の摂政は慎重に言った。「しかし、返事をする前に検討させてください」
「わかった」
「では、また後で」
さりげなく視線を合わせ、うなずき合って別れる。
「それで、明日の段取りですが──」
ヴェルギルはロドリックを先に歩かせ、曲がり角の手前で静かに足を止めた。話し続けるロドリックはそのまま角を曲がってゆき、ヴェルギルはほんのつかの間、責務から逃れることに成功した。
誰も見ていないことを確認してから、静かに霧に変化して、日陰の中をそっと漂う。自分と反対に向かっていったフィランの先回りをして物陰で実体を取り戻す。
近づいてくる足音に耳を澄ませて、ヴェルギルは待った。物陰から手を伸ばし、襟元を掴んで引き寄せ、躊躇う余裕さえ与えずに唇を重ねるつもりで。忙殺される日々の合間に、ほんの少しばかり許された逢瀬は情熱的な、だが束の間の触れ合いだけで終わってしまう。だがそれさえあれば、続く日々を耐え抜くこともできる。
重い足音が近づいてくる。あと三歩近づいたら目が合うだろう──と思っていたところで温かい身体が覆い被さってきて、不意打ちをするつもりでいたヴェルギルは虚を突かれた。だが驚きが思考を麻痺させたのはほんの一瞬だった。広い背中に腕を回して、愛しい男の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「人狼を待ち伏せできると思うなんて、思い上がりもいいところだ」笑みを含んだ声でフィランが言う。
「君の鼻が鈍っていないかどうか確かめたくてね」
「言うに事欠いて──」
夏の日差しの強さとは対照的な濃い日陰の下で、互いの目があう。見つめただけで、それ以上の言葉は要らないと理解し合った。緑の瞳の中に散らばる黄金は抑えきれない欲望に煌めいている。
そしておそらくは、この目の中にも、それとよく似た赤い輝きが宿っているのだろう。
切羽詰まった動きでどちらともなく力任せに身体を抱き寄せ、唇を重ねる。しっとりとした唇の感触が、頭の中で何度も蘇らせていた記憶をあっさりと追い払った。
「ん……」
少し汗ばんだ首筋の、薄い皮膚の下を勢いよく流れる血の匂いに、渇望が頭の中で渦を巻く。大きな身体でもって壁に押しつけられたまま、しっかりと着込んだ装束の隙間からあふれる彼の匂いと温度に溺れていると、脚の間で昂ぶるものの存在を感じた。
「このまま、ここで」ヴェルギルは、繋がったままの唇の隙間に囁いた。「君を奪えたらどんなにいいか」
「ああ……」フィランは呻き、再び唇を塞いだ。
牙の隙間から滑り込む温かく柔らかな舌の感触に目を閉じた瞬間、口の中に広がる血の味を感じて思わず身を退きそうになった。だがフィランはますます強く身体を押しつけてきて、さらに首の後ろをそっと掴んで顔を逸らせぬようにしてきた。
「ん……!」
これは危険な戯れだ。いますぐやめさせなくてはと思うのに、理性はたやすく溶かされてしまう。血まみれの彼の舌先がなおも牙を弄び、塗りつけるように舌を愛撫する。肋骨の中で、鼓動を思い出した心臓が転がる。不意に夏の暑さが身に迫ってきて、着込んだ長衣の内側に、うっすらと汗が滲んだ。
膝を萎えさせるほどの口づけをしたのは君が最初で最後だと彼に告げようと、ぼんやりと思った。だが彼が優しく唇を噛んで口づけを終わりにした後も、強烈な血の恍惚に囚われたまま、そんな言葉も忘れてしまった。
「フィラン」絶え絶えの息の合間に、ようやく言った。「今のは──」
すると、彼は手の甲でそっとヴェルギルの頬を撫でた。
「顔色が悪い」
ヴェルギルは本気で余裕を失っていた。「吸血鬼にむかって『顔色が悪い』? 海賊の間ではそういう冗談が流行っているのか」
フィランはむっとした振りをして、脇腹を小突いた。「無理をしすぎるなと言いたかっただけだ」
「無理などしていないさ」ヴェルギルは額をフィランの肩に預けて、言い直した。「いや、本当になんと言うことはないのだ。ただ……君と離れているのが辛い」
こんな弱音は、鼻で笑われてしまうだろうかと思う。だが、フィランはもたせかけた頭にそっと頬を寄せて、こう呟いた。
「俺もだ」そして、ため息がそっと耳朶を撫でた。
「満月の夜には、君を閉じ込めておける」
そう言っておいて、あと半月はその日が訪れないことを思い出す。とは言え、満月の夜だからといって、共に過ごせるとは限らないのだ。前回とその前の満月に、同じ島内にいることさえ叶わなかったことを思えば。
「満月の夜、君がどこぞのうらぶれた小屋でひとり過ごしているのかと思うと……」
「アシュモールの狼小屋は快適だったぞ」
ヴェルギルはフィランを睨んだ。その顔を見て、フィランはクククと笑った。そして、わずかに首をかしげて、長い黒髪を指先でそっと梳いた。
「自分を慰めながら、何度もお前の名を呼んだ。ここまで届くかと思ったが」
低く抑えた声に籠もるものに背筋を撫で下ろされたような気がした。
「腕のいい魔女に頼んで、君の声を閉じ込める道具を作らせよう。いつでも取り出せるように」ヴェルギルはいい、微笑んだ。「次に発つのは?」
すると、フィランはにっこりと笑った。
「実を言うと、三日後だ。だから、二晩は一緒に過ごせる」
駆け引き無しで好意を伝えられたときにわきたつ、擽ったいほどの幸福感にヴェルギルは笑みを拡げた。
「ならば、ロドリックに決して見つからない隠れ家を見つけなければ」
名前を口に出したのが悪かったのか、ちょうどその時、ロドリックが自分を探す声が聞こえて、ヴェルギルはうんざりと呻いた。
「明日、ゲラード王子が来るので張り切っているらしい」
「ゲラード王子? ハロルドの息子の?」
「ああ。第三──いや、第四王子だったか」ヴェルギルは頷いた。「ダイラの外交官として来る。どんな無理難題を持ってくるやら」
「助けにはならないだろうが、俺もその場にいる」フィランは言った。
「大いに助けになるとも」ヴェルギルは言い、秘密の逢い引き場所から一歩踏み出した。「最近は、君に見つめられるだけで鼓動が息を吹き返しそうになる」
フィランは眉をひそめた。「それが、何の助けになる?」
「二十三歳の人間が相手なのだぞ、クロン。ほんの赤子のようなものだ。温血の情けを思い出さなければ、うっかり泣かせてしまいかねない」
†
ヴェルギルがエイルの王だという事実を否定しているのはヴェルギル本人だけだった。世界中から毎日のように、どうにかして彼の目に留まりたいと願う貴族や他国の大使らが引きも切らずにやって来ては、謁見の名簿に名を連ねてゆく。
城の他の部分に先駆けて完成した広間で、ヴェルギルが王の代理として客人をもてなすのを、少し離れたところから見ているとよくわかる。訪れた者たちも、ヴェルギルを『陛下』と呼んで訂正させるのと、最初から王の代理として接して不興を買うのと、どちらの危険を冒すかどうか迷っているようで、それが少しばかり可笑しい。
千年前の彼がどんな王だったのか、フィランは知らない。だが、彼が自嘲するような愚王などでは決してなかったはずだ。出会ってからもうすぐ二年になる。当初、思いつく限りの言葉で彼を罵倒したが、愚かだと思ったことは一度もなかった。今も、ありとあらゆる国や地域から訪れる客人を前にして、堂々たる態度で──そして、堅苦しいのを嫌う彼らしくにこやかに──接する様子をみていると、言葉では言い表せないほどの誇らしさを感じる。
彼が自分の王なのだと思えることが嬉しい。
だが同時に、彼は自分だけのものだと思いたがる心──狼にとっては本能のようなものをなだめるのに苦労しているのも確かだった。
「造船の件は、明日の朝にでも烏を送ることにする」
フィランは寝台の上で身を起こし、壁にもたれて座ると、ヴェルギルの髪を手で梳いた。寝台に波打ちながら広がる漆黒の髪は、今さっき飲んだばかりの血のおかげで艶を増している。指触りはシルクのようで、いくらでも触れていられる気がした。ダイラや大陸を巡る旅の至る所で思い知らされたのは、ヴェルギルという名には必ずと言っていいほど『美しい』という言葉がついて回るということだ。フィランとしてはみてくれに重きをおいて考えることはあまりないけれど、それでも、自分の血が彼の評判に貢献しているのだと思うといい気分だった。
「この条件なら喜んで引き受けてくれるだろう──ロドリックは仕事が早くて助かる」
「はじめ、ハロルドの手先だと警戒していたのは誰だったかな」ヴェルギルは、仰向けで寝そべったまま言った。
「俺だ。だが訂正する。周りがナドカだらけでも物怖じしないし、人間にしておくのは勿体ないくらいだ」
「わたしに嫉妬させようとしているように聞こえるが」
ヴェルギルの言葉を、フィランは鼻で笑い飛ばした。「そう思いたいなら、訂正はしないでおこう」
ヴェルギルの天幕──とは言え、本当の天幕ではない。城の敷地内に建てられた、下働きや職人たちの仮住まいよりもすこしばかり大きくて立派な小屋だ。本棚と書き物机と寝台しかないが、どの家具も王の居室に置かれていても見劣りしないものばかりだし、外には護衛も立っている。ここが重要な人物の居場所だと言うことは一目でわかる。
ヴェルギルによれば、今夜ばかりは護衛をつけないようにとロドリックに頼んだが、空飛ぶナメクジでも見たかのような表情で見つめ返されたので引き下がる他なかったらしい。
だから今夜は、少しの血を分け与え、あとは静かに語らうための時間になった。
「フーヴァルが妖精の血を引いているというのは本当だろうか」ヴェルギルが言った。
「匂いは……人間のものではなかったと思う。見た目ではわからなかった。妖精にもいろんな者がいるからな」フィランは言った。「だが、マルヴィナが人魚たちを幻惑して瘴気のただ中に送り込んだことには怒りを露わにしていた」
海にも様々な妖精がいる。人魚は代表的な種族だ。
「人に変化して陸に上がる人魚の話は聞いたことがある。だが、海賊行為にいそしむなんて聞いたことが無いな。人魚のよろこびは船を駆ることではなく、沈める方にあるのだろうし」
「同感だ」フィランはふと、自分の手元を見下ろした。「ああ、しまった」
またやってしまった。ヴェルギルと二人の時間を過ごしていると、無意識に指が動いて、彼の髪に細い三つ編みを作ってしまうことがよくあった。それも、内側の目立たぬところに。
「解くから、動くなよ」
すると、伸びてきた手がそれを止めた。
「いいや。残しておく」
彼の菫色の目は、これが印付けなのはわかっていると言いたげに笑みを湛えて細まった。
「だが、みっともない──」
「君と揃いの髪型だろう」ヴェルギルは言い、フィランの手を口元に当ててキスをした。「こんなに嬉しい贈り物は久しぶりだ」
「そうやって……」
つけあがらせるようなことを言うから、俺は自分の分際というものを忘れてしまいそうになる。
「どうした?」ヴェルギルが眉を上げて、フィランをみた。
ナドカの祖にも等しい存在。千年生きた吸血鬼。正当なるエイルの王。
では、俺は一体何なのだ?
「何でもない。気にするな」
フィランは目を伏せ、輝かしい王の御前には似つかわしくない卑下を飲み込んだ。
†
「また、嫉妬を招くようなことを仰ったのですか」
ロドリックの言葉にふり返る。
「見えていたか? うまく隠したつもりだった」
ロドリックは首を横に振った。「あの方がお帰りになる度に増えていますから」
「そのうち、わたしの髪は一房も残らず三つ編みになるかもしれないな」
広間の次に完成したのが、いま二人が立つ執務室だった。硝子の填まった窓から差し込む朝日が、部屋の中央にある巨大な机と、その上に拡げられた緑海周辺の地図とを照らし出している。
「嬉しそうに仰ることではありませんよ」ロドリックはあきれたように眉をひそめた。「きっとご不安なのです。わたしは貴方ほど手練手管に長けてはいませんが……」
「わたしとて、彼を安心させてやりたいとも」ヴェルギルは言った。「だが、自尊心が水だとするなら、彼の心はさながらアシュモールのデアヴァ砂漠なのだ。注いだそばから消えてゆく」
「これまでの行いの成果でございましょうな」ロドリックは小さくため息をついて、言った。「オアシスが芽吹くのが先か、編む髪がなくなるのが先か」
長くナドカとして生きてきてわかったことの一つは、妖精を除くあらゆる種族の間で争いが起こったとき、そこに吸血鬼がいれば、すべての咎は吸血鬼が負うことになると言うことだ。長年、カルタナの〈陽神〉派が心血を注いで行った印象操作により、吸血鬼はあらゆるナドカのうち最も品性下劣な種族とされてしまった。
ではその責任は誰にあるのかと言われると、答えに窮するほか無いのだが。
「この髪が全て三つ編みになれば、それは見栄えがするだろうな! フェリジアあたりで流行するかもしれない」
ロドリックは身震いする振りをして見せた。彼の美意識は北方山脈よりも高いのだ。
「陛下──失礼、ヴェルギル様。わたしは今年五十五歳になります。騎士として武功を立てるには非力すぎ、また今となっては老いすぎましたが、幸いまだ頭は使い物になるようです。他の連中が故郷に逃げ帰っても、わたしだけは、この国のために働くことこそがデイナに賜った最後の天啓と心得て日夜あなた様に尽くしております」
「感謝しているとも。ありがとう。リオーダン卿」
ロドリックは慇懃に辞儀をした。
「であれば陛──ヴェルギル様。後生でございますから、それ以上三つ編みが増える前に、どうかクヴァルド様のオアシスを見出してくださいませ」
「努力していないわけではない」ヴェルギルは言った。「それは理解していただかなければなりません、ゲラード様」
王子をもてなす宴で、ヴェルギルは上座に着くゲラードの隣に座っていた。
「わかっていますとも、シルリク」ゲラードは言い、ヴェルギルの杯に、手ずからワインをつぎ足した。
島のナドカたちの警戒をよそに、ゲラードはじつに気さくで気持ちのいい赤子だった。同時に冒険心が強く、自己顕示欲も旺盛だ。エイルに大使として赴くという計画は、彼自身の発案──あるいはわがまま──だったのではないかとヴェルギルはみていた。港に降り立ってからというもの、すべての光景をその爛々と輝く目に焼き付けようとするかのように辺りを見回していたのだ。これほどまでに落ち着きのない王族を他に知らなかったが、継承権第四位ともなればそんなものだろうか。だが、好奇心旺盛な彼は多くの国を旅し、その知識を自分の中に留めておくだけの器量も兼ね備えていた。こういう人物は王になるよりも、王の傍らを飛び回る蜂になるほうが、物事が上手く回る。そして、新興国の行く末を担う者として、そうした人物と近づきになれるのは願ってもない好機だった。
「ですが何としても、もっと大勢の……人間を受け入れていただかなくては」
ナドカの間で、その呼び方が侮辱を含んだものであると知っているのだろう。いささかどぎつい自虐だと思いつつ、ヴェルギルは頷いた。
「殿下の仰るとおりです」
こうした意見を耳にしたくないと思うナドカは多いだろう。だが、彼の言葉は正しい。人間が住まぬ島で、ナドカだけが繁栄するのは難しい。それに、人間が住んでいるという事実は、他国の警戒を和らげることにもなるだろう。
「実際にその目でご覧になって頂けたかと存じますが、この国の環境は非常に厳しいのです。殿下」ヴェルギルは言った。「ナドカなら、エイルの冬にも耐えられる。しかし人間が暮らせるようになるには、まだ課題は多い。なにせ去年まではまごうことなき荒れ地でした」
そして、声を落として付け足した。
「殿下を信用しているからこそ打ち明けますが」
すると、ゲラードもそっと身を寄せた。苦みさえ感じられそうなほど若々しい血の匂いが、大事を成し遂げられるやもという興奮に逸っている。
なんといじらしい。この熱情を利用しない手はない。
「人間の移住は、わたしとしても望むところなのです。だが、人間は我々に比べて幾分……繊細です。彼らを生かし続けるためには、安定した国と安定した貿易を続けることが必定なのです。殿下にならご理解頂けると信じております」
するとゲラードは──おそらく酒のせいもあって──キラキラと輝く瞳でヴェルギルをじっと見つめた。
「あなたが望むなら、一ヶ月後にはダイラの商人を満載した船で帰ってきます」無視できないほど明らかな、言葉に籠もる熱。「僕には何でも言ってください、シルリク。伝説にうたわれたあなたとこうして話が出来るだけで、僕には信じられないくらいの喜びなんだ」
若さ故の、奔放なまでの情熱を笑い飛ばすのは大きな過ちだ。ヴェルギルはグラスを掲げ、同じくらい強い瞳で見つめ返し、頷いた。
覗き込んだ瞳の中、榛色の虹彩に彩られた瞳孔が開くのを見て、罪悪感のようなものに駆られそうになる。その熱意を微笑ましく思えど、たぶらかしたいわけではないのだ。
ふと、フィランの様子が気になって目を泳がせる。彼は上座の反対側に座っていた。ロドリックと何やら話をしながらこちらを見ていたが、陽気な顔をしているとは言えない。
「シルリク」
ゲラードに呼ばれて、素知らぬ顔で視線を戻す。「はい、殿下」
「わたしは幼い頃、ナドカになりたいと言っては周りのものを困らせていました」
彼はうっとりとした眼差しで広間を見渡した。
「光栄です」ヴェルギルは言った。「ですが、どうか忠告に感謝されますよう。物語の中で描かれる以上の労苦を負うことになります」
それでも、と彼は言った。「こんなに美しい種族は他にない」
その言葉に、胸を打たれなかったと言えば嘘になる。たとえ、ナドカが背負う運命の片鱗さえ理解していなかったとしても。
「出来ることなら、ダイラの大使としてこの国に留まりたい」酒に潤んだ瞳がわずかに揺れる。「そのためなら、わたしは何でもするつもりです」
「ありがとう」ヴェルギルは本心から言った。「ありがとう。しかと覚えておきます、殿下」
ことが順調に運んだのは、翌日の早朝、ゲラードを乗せた船が港を発つまでだった。
ヴェルギルはあらかじめ、王子の接待という大役を務め仰せたら一日姿を消すとロドリックに宣言していた。ゲラードは二日酔いに苦しみながらも、昨夜の会話は全て覚えていると念を押してくれたから、成果は充分だ。一日自由に過ごす程度の贅沢は許されてもいいだろう。
これで、フィランが再び島を発つまでは二人きりで過ごすことができる。そう思って、彼のために用意された仮住まいを尋ねると、中から出てきたのは黄昏色の毛皮を纏った巨大な狼だった。
「フィラン!」ヴェルギルは声を上げた。「どうした? 具合が悪いのか?」
膝を突いて、身体の至る所に触れてみたが、おかしいところはなさそうだ。さらに詳しく看ようとすると、フィランが低く唸って噛みつく真似をしてきたので、手を放した。
「一体──」
すると、彼はヴェルギルの脇をすり抜け、のしのしと歩き始めた。
「フィラン!」
こうなってしまっては、後を追う以外に一体何が出来るというのだろう。
土壌さえあれば、エイルでは木々がよく育つ。雨がちなこの島の植物は渇きを知らず、青々とした葉を存分に茂らせることができる。かつて、美しい緑の森を湛えたこの島が、宝玉の島と呼ばれた由縁だ。
千年に亘って島を覆い続けた瘴気がひとの営みを遠ざけた結果、島の南にもとからあった小さな森は勢力を増していた。フィランは城の建設予定地のすぐ傍まで枝を伸ばす森の奥深くへと分け入っていった。ヴェルギルも、戸惑いながら後を追った。
夏の盛りの森ほど、祝福という言葉が似合う場所はない。鳥たちが楽しげに歌い交わす中、穏やかな風に揺れる木々から降り注ぐ木漏れ日が苔むした地面の上で踊る。風は薫り高く、柔らかく湿った土壌を踏みしめる度に深い芳香が立ち上る。だが、いまこの瞬間は、祝福や風や土、鳥の歌にも、何の価値も無い。
城を出て、およそ一刻。つかず離れずの距離でここまで歩いてきた。こんなことになっている理由については、さほど頭を巡らせる必要はなかった。
「フィラン、わたしが悪かった」
狼は森の奥で振り返り、ならば聞いてやると言わんばかりに両の耳をピンと立ててこちらに向けた。
「昨日のことに腹を立てているのはわかる」ヴェルギルは言った。「きちんと謝罪させてくれないか」
すると、フィランは再び顔を背けて歩き出した。
内心で呻いて後を追ったものの、幾ばくもしないうちに彼に追いつくことが出来た。そして、目の前に広がる光景に思わず目を瞠った。
「ここは……」
森のただ中に、美しい泉が姿を現した。丸い泉を取り囲むようにして立つ五つの石柱。表面を覆う苔の下に、三叉の渦巻きが彫り込まれているのを辛うじて見て取ることが出来る。ヴェルギル自身もこの場所にまつわる伝承を聞いた覚えはなかった。もしかすると、この島がエイルと言う名で呼ばれるようになる前に住んでいた誰か──あるいは何か──の手によるものなのかも知れない。ここは聖域であり、忘れ去られてしまった遺跡なのだ。
フィランは、泉の畔に広がる白詰草の絨毯の上で腰を下ろすと、金色の瞳でじっとヴェルギルを見つめた。
「やっと追いついた」
ヴェルギルは言い、狼の傍らに膝をついた。そして、肺に空気を送り込み、また吐き出した。
「昨日はすまなかった。つい昔の癖が出て、君を不快にさせた」
狼は目を眇めてから、ダニでも振い飛ばすかのように身震いした。どうやら、旗色はよくないようだ。
「吸血鬼は、ひとを誑かすのが天性なのだ。あれでもだいぶ抑えたつもりだが」
狼は勢いよくフンと鼻を鳴らすと、ヴェルギルに背を向けて草むらに寝そべった。
「クロン」
ヴェルギルは言い、温かい毛をそっと撫でた。拒絶されなかったので、またほんの少しにじり寄る。背中からそっと覆い被さってなだらかな額にキスをしようとすると、素早く寝返りを打ってふり返った彼の肉球に阻まれてしまう。
「フィラン・オロフリン」
湿った土の匂いがする温かい肉球に唇を寄せると、金色の瞳が微かに揺れた。
「許しを請いたい。これからも、君の傍にあり続けるために」
狼はわずかに眉根を寄せ、小さな声でウウと唸った。両脚でもって押しのけようとしながらも、尾がパタパタと振れている。
「ああ、フィラン」真面目な顔は、あえなく綻んでしまった。頭を垂れて、柔らかな脇腹の毛に顔を埋める。「もっと叱ってくれ」
横腹にもたれたまま見上げると、狼が小さく首をかしげた。どういうつもりだと問う、彼の声が聞こえるようだ。
「どうやらわたしは……少々浮かれているらしい」
黄金色の視線が『何に』と問いかけている。ヴェルギルはそっと手を伸ばし、頬のあたりに生える豊かな毛を撫でた。
「君に、これほど想われることに」
フィランは少しだけ目を見開いて、ふいと顔をそらした。困惑と、ほんのわずかな怯懦の気配。
ゆっくりと身を起こし、顔を寄せる。
「フィラン」
名前を呼ばれた彼が再びこちらをみたとき、その目に宿っていたのは、何かを結びたいと願う真摯な思いだった。言葉を交わさずともわかる。
なぜなら……自分も同じ気持ちだったから。
短い毛に覆われた、口の先端にキスをする。一瞬の躊躇いの後で、温かい舌が伺うように唇に触れた。
不意に湧き上がる強烈な渇望に唆されるまま、その舌を受け入れた。長く、薄い。だが驚くほど柔らかくて繊細だった。慣れ親しんだキスとは異なる感覚に、彼の血を飲まずとも心臓が動き出しそうになる。
「君さえ構わないのなら……このまま愛し合ってもいい」
鼻先で囁くと、小鼻の髭がぴくりと震えた。
「だが、ひとつ我が儘を言ってもいいだろうか──わたしは、快感を受け入れるほどに紅く染まる君の肌をみるのが好きなのだ」
フィランの耳が下がり、後ろにぺたりとつきそうになっている。彼は小さく鼻を鳴らした。
「服のことなど気にしなくていい。どうせ脱ぎ捨ててしまう」
余裕など無かった。許されるためなら、文字通り跪きもしただろう。千年も存えておいて、まるで熱に浮かされた子供のようだと思う。それでも、止めることが出来ない。
柔らかな頬に頬を寄せ、分厚い耳を甘く噛んだ。
「このまま、ここで」そして、囁いた。「君が欲しい」
フィランは大きく身を震わせた。と思ったら、次の瞬間には人の姿をした彼に押し倒され、噛みつくような口づけのただ中にいた。
背中の下で潰れる青草の匂いが大気中にはじけ、官能に甘く熱した、彼の血の匂いと混ざり合う。
激しい悦びがわき上がり、裸の肩に腕を回した。熱く濡れた舌を受け入れ、抑えきれない衝動に揺れる腰を合わせながら、おぼつかない指で服の留め具を外す。荒々しくシャツを引き上げて潜り込んでくる熱い手に触れられて、頭の後ろが泡立つような感覚に襲われる。
「フィラン──」
名を呼びかけた唇を噛まれる。味わうように、何度も。
長靴を脱ぎ捨てた踵で湿った土を抉り、脚を絡ませる。こうして、薄い皮膚を二枚隔てたすぐ向こう側で激しく脈打つ彼の血と熱を感じると、触れあった場所から一つに溶け合ってしまえそうな気がする。あるいは、彼の中に飲み込まれてしまえそうだと思う。生温かく滑らかな春泥に沈むように。
†
「クロン」ヴェルギルが、そっと囁いた。「わたしを許すと言ってくれ」
剥き出しの胸を合わせただけで……その感触だけで陶然としかけている。フィランは目を閉じ、脇に追いやられていた理性を少しだけこちらに引き寄せた。
ヴェルギルがその手管を存分に振るうのは間違ったことではない。むしろ手腕として、人をたらし込むというのは正しいやり方だと思う。いたずらに戦をけしかけたり、頑なに閉じた国を作り上げるよりはずっといい。それを理解しているからこそ、王子に身を寄せた彼の眼差しに不快感を覚えた自分を許すことが出来なかった。
「許すことなどない」フィランは言った。「お前のやり方は間違っていない」
すると、ヴェルギルはすこしばかり眉を上げた。「ならば、何故……?」
うやむやにすることも出来る。だが、この男に対してはそういう真似をしたくなかった。
「狼に変化したのは……言いたくもない文句を封じるためだ」目を閉じて、一息に言う。「俺に嫉妬は似合わないし、そういう子供じみた感情は邪魔になるだけだから」
「フィラン」
ヴェルギルの声に聞き慣れない響きがあったので、フィランは目を開けた。
「わたしには、全てを見せて欲しい」
濃い緑に包まれたこの空間で、彼の菫色の瞳が翳ると、なんとも底知れぬ色になる。フィランはじっと、その双眸を見つめ返した。
「君が思い劣ることなどない。君の気持ちも、意思も、わたしにとっては全てが重要なのだ」
彼にそんな言葉を差し出される度、決まって湧き上がる気後れが胸の中に膨らむ。
「お前──」口ごもり、俯く。「あなたは千年の王。引き換え、俺は野良から成り上がった兵卒だ。ダイラの王に直談判することも、商人を引き連れてくることも出来ない」
言うべきではないと思いながらも、言葉を食い止められない。
「確かに俺の血は、あなたの心臓を動かすかも知れない。でも、そのことに意味など無かったら?」
口に出してしまうことで、恐怖が足下をぐらつかせる。フィランは我知らず、白詰草の絨毯を両手で握りしめていた。
「意味はある」ヴェルギルが、断固とした声で言った。「意味はあるとも、フィラン」
「どうして言い切れる?」
すると、彼は菫色の目を優しく細めて微笑み、言った。
「君を愛しているから」
その言葉が、光の矢のように胸を貫く。
「そ……れは」また、言いようのない恐怖。「今は、そうかも知れないが」
ナドカにとって、二年という歳月など一瞬と同じだ。熱に浮かされているのは自分も同じで、だからこそ怖かった。二人の間にあるものが意味を失うときが来るのではないだろうか? そうなったときに、この幸福を呪わずにいられる自信が無い。
「これ程の時を生きていると、多くのものは意味を失う」ヴェルギルが言った。「だが君のことは、ずっと特別だった。出会ったその時から、一瞬の例外もなく」
彼はフィランの頬に手を添えて、自分の眼差しを受け止めさせた。
「君を愛している、フィラン・オロフリン」
その言葉に、身のうちを流れる血という血が、じわりと熱を帯びる。言うべき言葉を見つけることが出来ないフィランを見つめたまま、彼は続けた。
「帆が風を愛するように、鳥が止まり木を愛するように、君を愛している。夜が夜明けを愛するように、朝が黄昏を愛するように、君を愛している。草木が雨を愛するように、雪が春の日差しを愛するように、君を愛している」
時が止まったかのようだった。止まった時の中で動いているものは、自分の心臓だけであるかのように、フィランには思えた。
「だが、クロン、最も根源にあるわたしの想いは、他の何をもってしても喩えることが出来ない。我々の舌には、それを言葉で伝えるだけの力がない」
瞬きをすると、温かい雫が零れて、頬を伝った。
ヴェルギルは言った。
「この想いを伝えるに能う言語が、ただひとつだけある」
そして、ヴェルギルはフィランにキスをした。それは優しくて力強く、むず痒いほど清らかで、同時に深い熱情を宿し、そして神聖な口づけだった。
彼は正しい。これを言い表すことが出来る舌は存在し得ない。
「我々の愛は、我々だけのものだ」彼は言った。「こうして触れ合い、想いを分かち合わなければ死んでしまう。だがフィラン、出来ることなら、わたしの身体が本当に朽ちてこの地の塵に還るまで、この想いを育み続けたいと思っている。君と二人で」
頬の涙を拭って、彼は言った。
「君は……どう返事をするだろうか」
想いが溢れて、喉が詰まる。
「ヘカの手から、お前を奪ったとき」フィランは訥々と言った。「大それたことをしたとは思わなかった」
彼は頷いて、静かに続く言葉を待っていた。
「俺とお前は、一緒にいるのが正しいことなのだと確信していた。お前にとって俺が運命の血であるのと同じように、お前も……俺にとってはただ一人の伴侶なんだ」
ヴェルギルの瞳が、きらりと輝く。「つまり?」
「つまり……」フィランは言った。「俺も、お前を愛している」
そのとき彼の顔に浮かんだ微笑──そして、フィラン自身が浮かべた微笑が全てだった。それ以上の言葉は必要なかった。彼が語ったように、二人の間にあるものを言い表すには、ありふれた言語ではあまりにも力不足だった。
透き通るように白い肌。その上に落ちるすべての木漏れ日に口づけながら、自分の血が、彼の身体に及ぼす変化を味わう。
「シルリク」
フィランは背中からヴェルギルを抱きしめ、首筋の肌を強く吸った。温かな血が通っている間にしか施せない刻印を、そうしていくつも作っては、愛おしむように甘噛みする。
「出来れば……あまり軽々しく他人に呼ばせて欲しくない」
すると、ヴェルギルはニヤリと笑った。「やっと言ったか!」
「何がだ」フィランは肩を噛みながら唸った。
「最も根深い不満はどれだろうと考えていた」ヴェルギルは悦に入った顔で、フィランの胸にもたれかかった。「君の言うとおりだ。次からは窘めよう」
フィランは鼻を鳴らしながらも、その実、艶やかな黒髪が胸から腹──そして、そのさらに下にあるものをくすぐる感触にゾクリとしていた。
「他に、望みは?」胸に頭をつけたまま、ヴェルギルが見上げる。
フィランは後ろからかがみ込み、唇でこじ開けた唇の隙間から舌を差し込んだ。彼の牙に舌を押し当て、溢れる血と共に熱を注ぎ込むような口づけをした。
「ん……」
抱え込んだ首の皮膚の下で咽頭が上下するのを待ってから、掠れた声で言った。
「わかっているはずだ」
†
生来の生真面目さゆえ、ボタンや留め金と名のつくものをひとつ残らず締めなければ気が済まない彼を文字通り一糸纏わぬ姿にして、逃げ場のない状況で快感を味わわせる。何かに耐えるように唇を噛む彼を見上げて、口淫をするのが好きだった。フィランを木の幹に寄りかからせてから、大きな彼のものを奥深くまで飲み込み、舌で甘やかし、牙で脅かす。眉根を寄せ、小さな声や吐息を噛み殺しながら、それでもバラ色に染まってゆく肌が、身のうちで渦を巻く欲情の程を暴いていた。
脚の付け根の茂みを鼻先で擦るほど深く飲み込むと、フィランは震えながら息をついて、置きどころの無い手でヴェルギルの髪をそっと握った。
「ああ……!」
感じる度に溢れ出す先走りは、彼自身を伝い、結合を待つその場所までも濡らしている。懐で温めていた香油を塗り、傷つけないようにそっと撫でると、その場所は期待するように締まり、また綻んだ。
「ヴェルギル、もう──」
その声に懇願を聞いて、ヴェルギルは焦らすように吸い上げながら口を離し──秘所に触れていた指を沈めた。
「あ……っ!?」
狼狽しきった声を上げて、フィランが目を見開く。紅い睫毛に彩られた緑の瞳は森の輝きを映して一層美しい。その目が不意の驚きに揺れ……やがて、とろりと蕩ける。滑り込ませた指で内部に香油を塗りつけると、熱い内壁が締まり、絡みついてきた。感じる場所を探り当てて指先で撫でる。
「う、あ……ヴェルギル」
快感を受け入れてじわりと潤む瞳に、獣欲をほのめかす金色の破片が浮かび上がる。短い呼吸を繰り返す唇の隙間から、濡れた舌先が覗いていた。
「何が欲しい? クロン」
フィランはむずがるような声を上げて腰を揺らした。「ヴェルギル……頼むから──」
望みを叶えないまま、もどかしい動きで彼の中を愛撫する。「うん?」
「そ……それ以上されたら、達してしまう」啜り泣きにも似た音を立てて、息を呑み、言葉を継ぐ。「もう、一人で終わるのは嫌だ。お前に抱かれて、お前のものでいきたい。一緒に」
天地が一回転したかのような一瞬の目眩。彼に求められることは奇跡だと思う。この世で自分ただひとりが、その望みを満たせるのだということも。
ヴェルギルはフィランを抱きしめ、すでに整ったものにフィランの先走りを絡めた。熱っぽいため息をキスで味わってから、柔らかくほぐれた場所にそっとあてがい、沈めてゆく。
「あ、あ……!」
フィランは悦びの小さな声をあげながら、腰を浮かし、揺らして、それを受け入れた。傷だらけの膚をなだめるように撫でると、彼は薄く開いた瞼の向こう側から、うっとりとした眼差しでヴェルギルを見た。
「やっとだ」と彼は言った。「この数ヶ月……ずっと、待っていた」
彼は熱い吐息を溢しながら、自身の胸に這わせた手をゆっくりと撫で下ろすと、二人が繋がる場所に触れた。収まりきっていないところを指先で愛撫する。
「脈打ってる」そう言って笑う彼の口元から、鋭く伸びた牙が覗いた。「俺の血だ」
「そうだ、クロン」圧倒され、今にも押し流されそうな男の弱り果てた笑みが浮かぶ。「君だけが、わたしに熱をくれる。これほどまでの熱を──」
優しく腰を押しつけ、わずかな隙間も残さず繋がる。
「ああ……」
フィランは睫毛を震わせながら目を閉じ、甘い吐息を漏らした。
まるで、温かい蜜に身を浸しているかのよう。ゆっくりと身体を揺らすと、全身に悦びが溢れる。
「シルリク」
と彼が囁く。その声で真の名を呼ばれると、歓喜のあまり耳朶が焦げ付きそうになる。
「シルリク、キスしてくれ……」
重ねた唇の中、もはやどちらのものかわからぬほど絡み合った舌で、甘美な呻きをかき混ぜる。縋るような手が背中を引っ掻き、腰を抱いて、さらに奥へと引き寄せる。
「フィラン──」
誘われるまま腰を押しつけ、奥を穿つと、フィランは小さな声を上げ、さらに深く爪を食い込ませた。
口づけによって混ざり合う吐息の中で、甘い痺れとともに広がる戦慄の中で、互いの肉体を疼かせる血の中で生まれたリズムが、徐々に重なり合い、高まってゆく。温かく濡れそぼつ場所から引き抜いては埋め込む程に、律動は大胆になり、優しさは荒々しさに塗り替えられてゆく。
「ああっ!」
打ち付ける度に彼があげる声が、震えながら高く、そして細くなってゆく。揺さぶられながらフィランは自身を握り、濡れ濡れとした音を立ててそれを扱いた。
赤と、それに類するあらゆる色彩をすべてそろえた彼の体毛が、イムラヴ人らしい色白の肌を彩っている。その流れにそって手を滑らせ、戦いが残した痕跡を辿り、優美で力強い曲線を描く腰の輪郭をなぞる。鮮やかに紅潮する首筋を舐めあげ、牙の先端で愛撫すると、彼は大きく身を震わせた。
「ん、シルリク……」
ねだるような声をあげて首をかしげる彼の肩から溢れた乱れ髪から、官能に煮詰められた甘やかな匂いが一層濃厚に立ち上った。
打ち寄せる波のような抽挿で彼を揺さぶりながら、張り詰めた肌に牙を突き立てる。
「あ……!」
大きく息を呑み、フィランが身体を震わせる。重なり合う胸で感じる、おぼつかない呼吸と、早鐘のような鼓動。限界が近づいている。
「あ……あ……シルリク」その声は、ほとんど嗚咽に近かった。「やめるな。そのまま──」
快感に震える愛しい男を抱いて、ヴェルギルは、硝子細工の花を揺らすように優しく彼を感じさせたいと思った。だが同時に、壊れるほど激しく揺さぶり慈悲を請わせたいという欲望が、胸の奥を強く疼かせる。
あるいは、慈悲を請いたいのはわたしの方だろうか。
ヴェルギルはフィランを抱き起こすと同時に寝そべった。その拍子につながりが解け、フィランがあっと声を上げる。上気した頬のまま、目を眇めた表情さえも扇情的だ。
「シルリク……」
「フィラン」
両手を拡げて招くと、彼はヴェルギルの意図を酌み、腰の上に跨がった。そのまま、後ろ手に屹立を掴んで、濡れた割れ目に擦りつける。見下ろす瞳はほとんど金色に塗りつぶされ、淫蕩な喜びに輝いている。
「狼に腹を晒すのが、どういう意味を持つか知っているのか?」
彼は空いた方の手で、ヴェルギルの腹をゆっくりと愛撫した。
「腹を晒していようが、いまいが」ヴェルギルは、背筋を這い降りる戦慄のままに震えた。「わたしは、君のなすがままだ」
フィランはゆっくりとかがみ込み、伸びきった牙でヴェルギルの唇や顎を、耳を、首筋を甘く噛んだ。そして満足げに、低く歌うように唸った。
「欲情しているときの、お前の匂いが好きだ」
彼はそう言ってヴェルギルの屹立を撫で下ろし、そしてゆっくりとその上に腰を落とした。
「は、あ……」
わななきながら喉元を反らし、腰をくねらせて迎え入れる。それから彼は、まっすぐ、深く飲み込むために半身を起こした。
「お前に、組み敷かれたい願望があったとは知らなかった」
喘ぎ混じりの囁きと挑発的な笑みに、征服される歓びが湧き上がる。フィランの腿の、皮膚の薄いところをさすると、彼の屹立がぴくりと震えた。
「君が相手だからだ」ヴェルギルは言った。「わたしは……どちらでも味わってみたいと思っている。君さえよければ」
フィランはほんの少し驚いたような顔を浮かべてから、「ほお」と呟き、唇を舐めた。
「なら……それは次の機会に」
そう言うと、彼はゆっくりと腰を揺らして、快感を追い求め始めた。
均整の取れた見事な肉体が汗を纏い、動く度に艶めかしい光を踊らせる。
肉で肉を穿つ淫靡な音と、遠くで鳴き交わす鳥たちの声。愉悦に満ちた獣の唸りと、森を渡る風のざわめき。官能に没頭するふたりの男のざらついた吐息と、音も無く揺れる千億もの木漏れ日。すべてが混ざり、一つになって高まってゆく。
「ああ、フィラン……!」
腿を抱きかかえ、思い切り突き上げる。
「あ……!」
張り詰めた肉体が再び緩み、頽れて、フィランは両手をついた。ヴェルギルは彼の腰を押さえたまま、何度もその中に自らを突き入れた。
「あっ、あ……!」
酔いしれたように紅潮する肌、貪欲な視線を放つ黄金の瞳、二人を包み込んで燃える緑の森が溶け合う。
額を合わせ、乱れたほつれ髪を両手で掻き上げる。喘ぐあまりキスさえままならない口を唇で塞ぐと、どちらとも無く縋るように舌が絡み合った。
「一緒に」キスの合間に、フィランが言った。「一緒にいきたい」
ヴェルギルは、彼の言葉で答えた。
「君の望むままに、愛しい人」
「あ」息をのみ、それから大きな震えが起こった。「あ、あ……!」
繋がった場所が、震えながら締まる。彼の中を駆け巡る血がかっと熱を帯び、心臓が、ほんの一瞬だけ動きを止める。
「……っ!」
そしてヴェルギルも、握りしめていた戒めを手放し、身のうちに荒れ狂っていたものを解き放った。
死に肉薄するその一瞬──手を繋ぎ、身体を繋いで、見えない境界を共に飛び越えようとする。最初から、それがふたりの交わり方だと運命づけられていたかのように。
フィランの手の中の屹立が、濃厚な白い精を迸らせる。
「あ……!」
と同時に、脈打つヴェルギル自身から溢れ出すものが、彼の中を満たした。収縮を繰り返すあたたかい肉はまるで、その熱情を味わおうとしているかのようだった。絶頂の余韻に囚われて、本能の赴くままに腰を揺らす。敏感になったフィランの中をゆっくりと擦りあげると、そこは一層熟れたように蕩け、やわらかく震えた。
「は……っ」
最奥に収めてから、そっと引き出す。精液が、放ったときとは別の温度になって彼の中から溢れた。
結合をとくと、フィランは長いため息をつきながら、ヴェルギルの横に寝そべった。
消えない炎のような髪をそっと掻き上げ、耳にかけると、彼は目を細めてヴェルギルを見つめた。
「血を飲んだ後、お前の目が菫色に戻っていくところを見るのが好きだ。薄い青から、ゆっくりと」
ヴェルギルは思い切り顔をしかめた。〈月の體〉の瞳を美しいと形容するものは少ない。そう言うフィランの瞳の中では、金色のかけらが閃きながら緑の中に沈んでゆくところだった。
「君の目ならば、日が沈むまで見つめていられるだろうが──」
「本当だ」フィランは顔にかかるヴェルギルの髪を一房つまんで、よけた。「とても美しい。夜明けの空が移ろうようで」
そんな風に言われて、ヴェルギルは、自分がどれだけこの瞳を疎ましいと思っていたのかを思い知った。だがこの男は、それさえも愛おしんでくれる。真心から、偽りなく。
ヴェルギルは微笑んだ。「ならば何度でも、君に夜明けを捧げよう」
†
いつの間にか日は暮れていた。
大きな木の幹に寄り添ってもたれ、ふたりは西空に燃える熾火を眺めていた。
ふと、何かを思いついたらしいヴェルギルが、脱ぎ散らかした服を探り、中から細長いものをとりだした。そして、不思議そうにそれを眺めていたフィランに手渡した。
「受け取ってくれないか」
「これは……」これには見覚えがあった。手の上に乗せて、まじまじと見る。
「新しい冠帯を作らせた。君のために」
不意に、足下に穴が開いたような気分になる。そんなフィランをよそに、ヴェルギルは話し続けた。
「古いエイルの冠帯と対をなす意匠だ。是非、わたしと共に王座について欲しい」
つまり彼は……俺に……なんてことだ。
なんてことだ。
フィランは狼狽し、片手を頭にあてた。「自分が何を言っているか、わかっているのか?」
「もちろん」ヴェルギルは自信たっぷりに言った。「ロドリックも賛成してくれた。ハロルドは喜ばないだろうが、王はひとりまでだと言われた覚えはないからな」
呼吸がままならない。「俺は……まだ何も知らないし」
「これから知ることになる」
「駆け引きだってできないぞ」
「駆け引きに長けたものが、ここにいるだろう?」ヴェルギルは上機嫌で言った。
「王がふたりだなんて、聞いたことが無い」
すると、ヴェルギルはフィランの手をとった。「ナドカが支配する国というものを、他に聞いたことがあるか?」
おずおずと、彼の瞳を覗き込む。夜明けを待つばかりの空の色の瞳を。
「今すぐでなくていい」彼は言った。「いろいろな国へ行き、学ぶべきことを学んで、君の準備が出来たらでいいのだ。だが、わたしはそのつもりで待っていると知っておいて欲しかった。その希望が無くては、とても再び王になる決心など出来ない」
冗談めかして肩をすくめるヴェルギルを見つめる。危ういほどの動揺は、すでに収まっていた。
「長く待たせるかも知れない」ぽつりと、フィランは言った。
「いくらでも待つ。その価値はある」ヴェルギルは、フィランの手をぎゅっと握った。「新しい国を作りたいのだ。正義が意味を持つ国を。そのためには、君が必要だ。わたしの隣に」
エイルに初めて足を踏み入れた日、海原を見つめて立ち尽くすヴェルギルの背中を、遠くから見つめることしか出来なかった。
「一緒に」彼は言った。「君と一緒に、わたしたちの故郷を作り上げたい」
海よりも深い彼の哀しみを、分かち合うことは赦されないのだろうと思っていた。
「光栄だ」フィランはそっと囁き、ヴェルギルの手を握り返した。
「わたしの方こそ」ヴェルギルは言った。
忘れ去られた聖域で交わされた密やかな口づけがあったことを、歌や物語に残した者はいない。
その口づけは、ただふたりの胸の内にだけ輝き続けた。
この日の誓いと同じように。
晴れている日には翠玉のように輝く緑海も、鈍色の空の下では錆びついて見える。海原を見つめて立ち尽くすヴェルギルの長い髪や外套を強い西風がたなびかせる。フィランはその背中を、遠くから見つめることしか出来なかった。胸中で吹き荒れているはずの嵐を──分かち合うことなど出来ないほど深い、彼の哀しみを思いながら。
†
「あなたはダイラで、『野ざらしの王』と呼ばれているのですよ」ロドリック・リオーダンはヴェルギルの二歩後ろを歩きながら言った。「城の完成が最優先事項です。治水がその次、港の整備はさらに後です」
吸血鬼と人間とが、積み上がった石と足場と、作業にいそしむ石工たちの合間を縫って歩いている。雨がちなエイルにつかの間訪れる輝かしい夏の盛り、城の建設予定地に生い茂る緑は日の光に照り映え、久々の晴天を味わい尽くそうとしているかのようだった。
ヴェルギルは歩調を緩めずに答えた。
「ひとつ、わたしは王ではないから、見当違いな評判に耳を傾ける必要はない」言い返そうとしたロドリックを遮って続ける。「ふたつ、城など天幕があれば事足りる。すでに大勢の移住者が毎日船に乗ってやって来ているのだ。物資も足りない。船着き場の増設は喫緊の課題だろう。水の確保は言うに及ばず」
「ハロルド王のお越しまでには、大広間の他に塔一つでも完成していないことには示しがつきません! もちろん、王座を空席のままにしておくなど言語道断です」
エイルの再興のために志願した者たちのうち、ヴェルギルが選んだ少数のナドカと、ダイラ王ハロルドの家臣団とを引き連れてこの島に上陸して半年。家臣団の連中は新天地で立身しようという野心を抱いていたようだが、文明というものが文字通りの遺跡と化したこの島に恐れを成して早々に本国に帰っていった。いま残っているのは、家臣団の中では最年長で、なおかつ最も気骨のありそうなロドリックという騎士とその付きの者たちだけだ。ハロルドの正式な叙任が下れば、彼がダイラの代弁者、および監視者として摂政の座につくだろうと噂されている。だが、当初の約束どおり、エイルを統治するのはナドカの王だ。
とは言え、肝心の王に誰がなるのかは、日々議論が続いている。
ロドリックは出会った頃のフィランと同じかそれ以上に生真面目で、諦めの悪さは他に類を見ないほどだ。彼は──おそらくハロルドに厳命されているのだろう──何が何でもヴェルギルをエイルの王に据えるつもりでいた。物わかりのいい彼と話をしていてうっかり油断していると、さりげなく裁定や陳情の決を委ねてくる。そうして王としての仕事を次々と隙間にねじ込み、身動きが取れなくなったところで冠をかぶせる魂胆らしかった。
王になるのは無理だ、とは思わない……今は。しかし、どうにも動かしようのない迷いがあって、潔く引き受けることが出来ずにいた。
高く低く積まれた石の壁越しに差し込む陽光が、埃だらけの床にくっきりとした陰影を描いている。石工が石を削る小気味よい音や、木槌と木とがぶつかり合う音、素朴な作業歌があたりに響き渡り、ほんの少し眠たげな昼下がりの時間を彩っていた。
「ハロルドは待たせておけばいい」ヴェルギルは立ち止まり、ロドリックを振り向いた。「そもそも、あの痛風持ちが本当にこんなところまで来ると思うか? 羽毛を敷き詰めた船でもなければ無理だろう」
ロドリックが真面目な顔を取り繕う前に口元がピクリと動いたのを、ヴェルギルは見逃さなかった。彼はこほんと咳払いをして、言った。
「せめて、南の塔の建設に充てる人員だけは確保させていただきます。あなたはこれまでどおり天幕でお休みになればよい」
ヴェルギルは満足げに頷いた。「贅沢だろう? 夜空こそが我が天蓋、というわけだ」
ロドリックは「同意いたしかねます」と呟き、前からやってくるひと影に目を向けた。
こちらに向かってくるのは、ダイラでは禁じられていたイムラヴの伝統装束を身に纏った人狼の偉丈夫。人目を引くのは、その長身や鍛え上げられた体躯のせいばかりではない。日差しを受けて燃え立つような赤毛の美しさは、他に類をみないほどだ。
「黄昏の狼殿」低く呟き、辞儀をする。
ハロルド王からエイルの総轄責任者に任命されたヴェルギルと、〈クラン〉の人狼として、またヴェルギルの補佐としてダイラとエイルを往復しているフィランが顔を合わせるのは、月に三日もあれば多い方だった。
フィランはエイルの建国を先触れするため三月ほど前に大陸に発ち、フェリジアやカルタナ、ヴァスタリアにアシュモール、そしてマルディラを巡り、ダイラのヨトゥンヘルムを経由して再びエイルに戻ったばかりだ。だが休む間もなく、今度は〈クラン〉の所用でエイルの島という島を巡っている。海の防衛のため、ダイラの北岸を根城にしていたナドカばかりの海賊〈吼浪団〉を味方につけた。その折衝をフィランが担っているのだ。
「ご苦労だった」
肩を叩く。分厚い外套と長衣越しでは体温を感じるのも難しいが、それでもこうして触れあうことが出来るだけで、気力が持ち直す。
「フーヴァルは何と?」
〈吼浪団〉を率いるのは、フーヴァル・ゴーラムという名の船長だ。防衛力を増すため、こちらが選んだ人材の受け入れと養成の打診をしていたのだ。
フィランは肩をすくめた。「ひきうけてやるから島をひとつ寄越せ、だそうだ」
この案にははじめから反対していたロドリックは眉間の皺をさらに深めた。
「また、無理難題を……」
「思ったんだが、島の代わりに船二隻の建造を約束するのはどうだろうか」フィランが言った。
ヴェルギルは眉を上げた。そして、ロドリックも。
「どうぞ続けてください」
フィランは頷いた。
「彼らの船を見るかぎり、いつ沈んでもおかしくなかった。〈吼浪団〉には自前の船大工がいる。腕のいいデーモンの一族だ。彼らにこの島に移住してもらえたら、双方にとっていい結果になるかも知れない」
「悪くない案です」未来の摂政は慎重に言った。「しかし、返事をする前に検討させてください」
「わかった」
「では、また後で」
さりげなく視線を合わせ、うなずき合って別れる。
「それで、明日の段取りですが──」
ヴェルギルはロドリックを先に歩かせ、曲がり角の手前で静かに足を止めた。話し続けるロドリックはそのまま角を曲がってゆき、ヴェルギルはほんのつかの間、責務から逃れることに成功した。
誰も見ていないことを確認してから、静かに霧に変化して、日陰の中をそっと漂う。自分と反対に向かっていったフィランの先回りをして物陰で実体を取り戻す。
近づいてくる足音に耳を澄ませて、ヴェルギルは待った。物陰から手を伸ばし、襟元を掴んで引き寄せ、躊躇う余裕さえ与えずに唇を重ねるつもりで。忙殺される日々の合間に、ほんの少しばかり許された逢瀬は情熱的な、だが束の間の触れ合いだけで終わってしまう。だがそれさえあれば、続く日々を耐え抜くこともできる。
重い足音が近づいてくる。あと三歩近づいたら目が合うだろう──と思っていたところで温かい身体が覆い被さってきて、不意打ちをするつもりでいたヴェルギルは虚を突かれた。だが驚きが思考を麻痺させたのはほんの一瞬だった。広い背中に腕を回して、愛しい男の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「人狼を待ち伏せできると思うなんて、思い上がりもいいところだ」笑みを含んだ声でフィランが言う。
「君の鼻が鈍っていないかどうか確かめたくてね」
「言うに事欠いて──」
夏の日差しの強さとは対照的な濃い日陰の下で、互いの目があう。見つめただけで、それ以上の言葉は要らないと理解し合った。緑の瞳の中に散らばる黄金は抑えきれない欲望に煌めいている。
そしておそらくは、この目の中にも、それとよく似た赤い輝きが宿っているのだろう。
切羽詰まった動きでどちらともなく力任せに身体を抱き寄せ、唇を重ねる。しっとりとした唇の感触が、頭の中で何度も蘇らせていた記憶をあっさりと追い払った。
「ん……」
少し汗ばんだ首筋の、薄い皮膚の下を勢いよく流れる血の匂いに、渇望が頭の中で渦を巻く。大きな身体でもって壁に押しつけられたまま、しっかりと着込んだ装束の隙間からあふれる彼の匂いと温度に溺れていると、脚の間で昂ぶるものの存在を感じた。
「このまま、ここで」ヴェルギルは、繋がったままの唇の隙間に囁いた。「君を奪えたらどんなにいいか」
「ああ……」フィランは呻き、再び唇を塞いだ。
牙の隙間から滑り込む温かく柔らかな舌の感触に目を閉じた瞬間、口の中に広がる血の味を感じて思わず身を退きそうになった。だがフィランはますます強く身体を押しつけてきて、さらに首の後ろをそっと掴んで顔を逸らせぬようにしてきた。
「ん……!」
これは危険な戯れだ。いますぐやめさせなくてはと思うのに、理性はたやすく溶かされてしまう。血まみれの彼の舌先がなおも牙を弄び、塗りつけるように舌を愛撫する。肋骨の中で、鼓動を思い出した心臓が転がる。不意に夏の暑さが身に迫ってきて、着込んだ長衣の内側に、うっすらと汗が滲んだ。
膝を萎えさせるほどの口づけをしたのは君が最初で最後だと彼に告げようと、ぼんやりと思った。だが彼が優しく唇を噛んで口づけを終わりにした後も、強烈な血の恍惚に囚われたまま、そんな言葉も忘れてしまった。
「フィラン」絶え絶えの息の合間に、ようやく言った。「今のは──」
すると、彼は手の甲でそっとヴェルギルの頬を撫でた。
「顔色が悪い」
ヴェルギルは本気で余裕を失っていた。「吸血鬼にむかって『顔色が悪い』? 海賊の間ではそういう冗談が流行っているのか」
フィランはむっとした振りをして、脇腹を小突いた。「無理をしすぎるなと言いたかっただけだ」
「無理などしていないさ」ヴェルギルは額をフィランの肩に預けて、言い直した。「いや、本当になんと言うことはないのだ。ただ……君と離れているのが辛い」
こんな弱音は、鼻で笑われてしまうだろうかと思う。だが、フィランはもたせかけた頭にそっと頬を寄せて、こう呟いた。
「俺もだ」そして、ため息がそっと耳朶を撫でた。
「満月の夜には、君を閉じ込めておける」
そう言っておいて、あと半月はその日が訪れないことを思い出す。とは言え、満月の夜だからといって、共に過ごせるとは限らないのだ。前回とその前の満月に、同じ島内にいることさえ叶わなかったことを思えば。
「満月の夜、君がどこぞのうらぶれた小屋でひとり過ごしているのかと思うと……」
「アシュモールの狼小屋は快適だったぞ」
ヴェルギルはフィランを睨んだ。その顔を見て、フィランはクククと笑った。そして、わずかに首をかしげて、長い黒髪を指先でそっと梳いた。
「自分を慰めながら、何度もお前の名を呼んだ。ここまで届くかと思ったが」
低く抑えた声に籠もるものに背筋を撫で下ろされたような気がした。
「腕のいい魔女に頼んで、君の声を閉じ込める道具を作らせよう。いつでも取り出せるように」ヴェルギルはいい、微笑んだ。「次に発つのは?」
すると、フィランはにっこりと笑った。
「実を言うと、三日後だ。だから、二晩は一緒に過ごせる」
駆け引き無しで好意を伝えられたときにわきたつ、擽ったいほどの幸福感にヴェルギルは笑みを拡げた。
「ならば、ロドリックに決して見つからない隠れ家を見つけなければ」
名前を口に出したのが悪かったのか、ちょうどその時、ロドリックが自分を探す声が聞こえて、ヴェルギルはうんざりと呻いた。
「明日、ゲラード王子が来るので張り切っているらしい」
「ゲラード王子? ハロルドの息子の?」
「ああ。第三──いや、第四王子だったか」ヴェルギルは頷いた。「ダイラの外交官として来る。どんな無理難題を持ってくるやら」
「助けにはならないだろうが、俺もその場にいる」フィランは言った。
「大いに助けになるとも」ヴェルギルは言い、秘密の逢い引き場所から一歩踏み出した。「最近は、君に見つめられるだけで鼓動が息を吹き返しそうになる」
フィランは眉をひそめた。「それが、何の助けになる?」
「二十三歳の人間が相手なのだぞ、クロン。ほんの赤子のようなものだ。温血の情けを思い出さなければ、うっかり泣かせてしまいかねない」
†
ヴェルギルがエイルの王だという事実を否定しているのはヴェルギル本人だけだった。世界中から毎日のように、どうにかして彼の目に留まりたいと願う貴族や他国の大使らが引きも切らずにやって来ては、謁見の名簿に名を連ねてゆく。
城の他の部分に先駆けて完成した広間で、ヴェルギルが王の代理として客人をもてなすのを、少し離れたところから見ているとよくわかる。訪れた者たちも、ヴェルギルを『陛下』と呼んで訂正させるのと、最初から王の代理として接して不興を買うのと、どちらの危険を冒すかどうか迷っているようで、それが少しばかり可笑しい。
千年前の彼がどんな王だったのか、フィランは知らない。だが、彼が自嘲するような愚王などでは決してなかったはずだ。出会ってからもうすぐ二年になる。当初、思いつく限りの言葉で彼を罵倒したが、愚かだと思ったことは一度もなかった。今も、ありとあらゆる国や地域から訪れる客人を前にして、堂々たる態度で──そして、堅苦しいのを嫌う彼らしくにこやかに──接する様子をみていると、言葉では言い表せないほどの誇らしさを感じる。
彼が自分の王なのだと思えることが嬉しい。
だが同時に、彼は自分だけのものだと思いたがる心──狼にとっては本能のようなものをなだめるのに苦労しているのも確かだった。
「造船の件は、明日の朝にでも烏を送ることにする」
フィランは寝台の上で身を起こし、壁にもたれて座ると、ヴェルギルの髪を手で梳いた。寝台に波打ちながら広がる漆黒の髪は、今さっき飲んだばかりの血のおかげで艶を増している。指触りはシルクのようで、いくらでも触れていられる気がした。ダイラや大陸を巡る旅の至る所で思い知らされたのは、ヴェルギルという名には必ずと言っていいほど『美しい』という言葉がついて回るということだ。フィランとしてはみてくれに重きをおいて考えることはあまりないけれど、それでも、自分の血が彼の評判に貢献しているのだと思うといい気分だった。
「この条件なら喜んで引き受けてくれるだろう──ロドリックは仕事が早くて助かる」
「はじめ、ハロルドの手先だと警戒していたのは誰だったかな」ヴェルギルは、仰向けで寝そべったまま言った。
「俺だ。だが訂正する。周りがナドカだらけでも物怖じしないし、人間にしておくのは勿体ないくらいだ」
「わたしに嫉妬させようとしているように聞こえるが」
ヴェルギルの言葉を、フィランは鼻で笑い飛ばした。「そう思いたいなら、訂正はしないでおこう」
ヴェルギルの天幕──とは言え、本当の天幕ではない。城の敷地内に建てられた、下働きや職人たちの仮住まいよりもすこしばかり大きくて立派な小屋だ。本棚と書き物机と寝台しかないが、どの家具も王の居室に置かれていても見劣りしないものばかりだし、外には護衛も立っている。ここが重要な人物の居場所だと言うことは一目でわかる。
ヴェルギルによれば、今夜ばかりは護衛をつけないようにとロドリックに頼んだが、空飛ぶナメクジでも見たかのような表情で見つめ返されたので引き下がる他なかったらしい。
だから今夜は、少しの血を分け与え、あとは静かに語らうための時間になった。
「フーヴァルが妖精の血を引いているというのは本当だろうか」ヴェルギルが言った。
「匂いは……人間のものではなかったと思う。見た目ではわからなかった。妖精にもいろんな者がいるからな」フィランは言った。「だが、マルヴィナが人魚たちを幻惑して瘴気のただ中に送り込んだことには怒りを露わにしていた」
海にも様々な妖精がいる。人魚は代表的な種族だ。
「人に変化して陸に上がる人魚の話は聞いたことがある。だが、海賊行為にいそしむなんて聞いたことが無いな。人魚のよろこびは船を駆ることではなく、沈める方にあるのだろうし」
「同感だ」フィランはふと、自分の手元を見下ろした。「ああ、しまった」
またやってしまった。ヴェルギルと二人の時間を過ごしていると、無意識に指が動いて、彼の髪に細い三つ編みを作ってしまうことがよくあった。それも、内側の目立たぬところに。
「解くから、動くなよ」
すると、伸びてきた手がそれを止めた。
「いいや。残しておく」
彼の菫色の目は、これが印付けなのはわかっていると言いたげに笑みを湛えて細まった。
「だが、みっともない──」
「君と揃いの髪型だろう」ヴェルギルは言い、フィランの手を口元に当ててキスをした。「こんなに嬉しい贈り物は久しぶりだ」
「そうやって……」
つけあがらせるようなことを言うから、俺は自分の分際というものを忘れてしまいそうになる。
「どうした?」ヴェルギルが眉を上げて、フィランをみた。
ナドカの祖にも等しい存在。千年生きた吸血鬼。正当なるエイルの王。
では、俺は一体何なのだ?
「何でもない。気にするな」
フィランは目を伏せ、輝かしい王の御前には似つかわしくない卑下を飲み込んだ。
†
「また、嫉妬を招くようなことを仰ったのですか」
ロドリックの言葉にふり返る。
「見えていたか? うまく隠したつもりだった」
ロドリックは首を横に振った。「あの方がお帰りになる度に増えていますから」
「そのうち、わたしの髪は一房も残らず三つ編みになるかもしれないな」
広間の次に完成したのが、いま二人が立つ執務室だった。硝子の填まった窓から差し込む朝日が、部屋の中央にある巨大な机と、その上に拡げられた緑海周辺の地図とを照らし出している。
「嬉しそうに仰ることではありませんよ」ロドリックはあきれたように眉をひそめた。「きっとご不安なのです。わたしは貴方ほど手練手管に長けてはいませんが……」
「わたしとて、彼を安心させてやりたいとも」ヴェルギルは言った。「だが、自尊心が水だとするなら、彼の心はさながらアシュモールのデアヴァ砂漠なのだ。注いだそばから消えてゆく」
「これまでの行いの成果でございましょうな」ロドリックは小さくため息をついて、言った。「オアシスが芽吹くのが先か、編む髪がなくなるのが先か」
長くナドカとして生きてきてわかったことの一つは、妖精を除くあらゆる種族の間で争いが起こったとき、そこに吸血鬼がいれば、すべての咎は吸血鬼が負うことになると言うことだ。長年、カルタナの〈陽神〉派が心血を注いで行った印象操作により、吸血鬼はあらゆるナドカのうち最も品性下劣な種族とされてしまった。
ではその責任は誰にあるのかと言われると、答えに窮するほか無いのだが。
「この髪が全て三つ編みになれば、それは見栄えがするだろうな! フェリジアあたりで流行するかもしれない」
ロドリックは身震いする振りをして見せた。彼の美意識は北方山脈よりも高いのだ。
「陛下──失礼、ヴェルギル様。わたしは今年五十五歳になります。騎士として武功を立てるには非力すぎ、また今となっては老いすぎましたが、幸いまだ頭は使い物になるようです。他の連中が故郷に逃げ帰っても、わたしだけは、この国のために働くことこそがデイナに賜った最後の天啓と心得て日夜あなた様に尽くしております」
「感謝しているとも。ありがとう。リオーダン卿」
ロドリックは慇懃に辞儀をした。
「であれば陛──ヴェルギル様。後生でございますから、それ以上三つ編みが増える前に、どうかクヴァルド様のオアシスを見出してくださいませ」
「努力していないわけではない」ヴェルギルは言った。「それは理解していただかなければなりません、ゲラード様」
王子をもてなす宴で、ヴェルギルは上座に着くゲラードの隣に座っていた。
「わかっていますとも、シルリク」ゲラードは言い、ヴェルギルの杯に、手ずからワインをつぎ足した。
島のナドカたちの警戒をよそに、ゲラードはじつに気さくで気持ちのいい赤子だった。同時に冒険心が強く、自己顕示欲も旺盛だ。エイルに大使として赴くという計画は、彼自身の発案──あるいはわがまま──だったのではないかとヴェルギルはみていた。港に降り立ってからというもの、すべての光景をその爛々と輝く目に焼き付けようとするかのように辺りを見回していたのだ。これほどまでに落ち着きのない王族を他に知らなかったが、継承権第四位ともなればそんなものだろうか。だが、好奇心旺盛な彼は多くの国を旅し、その知識を自分の中に留めておくだけの器量も兼ね備えていた。こういう人物は王になるよりも、王の傍らを飛び回る蜂になるほうが、物事が上手く回る。そして、新興国の行く末を担う者として、そうした人物と近づきになれるのは願ってもない好機だった。
「ですが何としても、もっと大勢の……人間を受け入れていただかなくては」
ナドカの間で、その呼び方が侮辱を含んだものであると知っているのだろう。いささかどぎつい自虐だと思いつつ、ヴェルギルは頷いた。
「殿下の仰るとおりです」
こうした意見を耳にしたくないと思うナドカは多いだろう。だが、彼の言葉は正しい。人間が住まぬ島で、ナドカだけが繁栄するのは難しい。それに、人間が住んでいるという事実は、他国の警戒を和らげることにもなるだろう。
「実際にその目でご覧になって頂けたかと存じますが、この国の環境は非常に厳しいのです。殿下」ヴェルギルは言った。「ナドカなら、エイルの冬にも耐えられる。しかし人間が暮らせるようになるには、まだ課題は多い。なにせ去年まではまごうことなき荒れ地でした」
そして、声を落として付け足した。
「殿下を信用しているからこそ打ち明けますが」
すると、ゲラードもそっと身を寄せた。苦みさえ感じられそうなほど若々しい血の匂いが、大事を成し遂げられるやもという興奮に逸っている。
なんといじらしい。この熱情を利用しない手はない。
「人間の移住は、わたしとしても望むところなのです。だが、人間は我々に比べて幾分……繊細です。彼らを生かし続けるためには、安定した国と安定した貿易を続けることが必定なのです。殿下にならご理解頂けると信じております」
するとゲラードは──おそらく酒のせいもあって──キラキラと輝く瞳でヴェルギルをじっと見つめた。
「あなたが望むなら、一ヶ月後にはダイラの商人を満載した船で帰ってきます」無視できないほど明らかな、言葉に籠もる熱。「僕には何でも言ってください、シルリク。伝説にうたわれたあなたとこうして話が出来るだけで、僕には信じられないくらいの喜びなんだ」
若さ故の、奔放なまでの情熱を笑い飛ばすのは大きな過ちだ。ヴェルギルはグラスを掲げ、同じくらい強い瞳で見つめ返し、頷いた。
覗き込んだ瞳の中、榛色の虹彩に彩られた瞳孔が開くのを見て、罪悪感のようなものに駆られそうになる。その熱意を微笑ましく思えど、たぶらかしたいわけではないのだ。
ふと、フィランの様子が気になって目を泳がせる。彼は上座の反対側に座っていた。ロドリックと何やら話をしながらこちらを見ていたが、陽気な顔をしているとは言えない。
「シルリク」
ゲラードに呼ばれて、素知らぬ顔で視線を戻す。「はい、殿下」
「わたしは幼い頃、ナドカになりたいと言っては周りのものを困らせていました」
彼はうっとりとした眼差しで広間を見渡した。
「光栄です」ヴェルギルは言った。「ですが、どうか忠告に感謝されますよう。物語の中で描かれる以上の労苦を負うことになります」
それでも、と彼は言った。「こんなに美しい種族は他にない」
その言葉に、胸を打たれなかったと言えば嘘になる。たとえ、ナドカが背負う運命の片鱗さえ理解していなかったとしても。
「出来ることなら、ダイラの大使としてこの国に留まりたい」酒に潤んだ瞳がわずかに揺れる。「そのためなら、わたしは何でもするつもりです」
「ありがとう」ヴェルギルは本心から言った。「ありがとう。しかと覚えておきます、殿下」
ことが順調に運んだのは、翌日の早朝、ゲラードを乗せた船が港を発つまでだった。
ヴェルギルはあらかじめ、王子の接待という大役を務め仰せたら一日姿を消すとロドリックに宣言していた。ゲラードは二日酔いに苦しみながらも、昨夜の会話は全て覚えていると念を押してくれたから、成果は充分だ。一日自由に過ごす程度の贅沢は許されてもいいだろう。
これで、フィランが再び島を発つまでは二人きりで過ごすことができる。そう思って、彼のために用意された仮住まいを尋ねると、中から出てきたのは黄昏色の毛皮を纏った巨大な狼だった。
「フィラン!」ヴェルギルは声を上げた。「どうした? 具合が悪いのか?」
膝を突いて、身体の至る所に触れてみたが、おかしいところはなさそうだ。さらに詳しく看ようとすると、フィランが低く唸って噛みつく真似をしてきたので、手を放した。
「一体──」
すると、彼はヴェルギルの脇をすり抜け、のしのしと歩き始めた。
「フィラン!」
こうなってしまっては、後を追う以外に一体何が出来るというのだろう。
土壌さえあれば、エイルでは木々がよく育つ。雨がちなこの島の植物は渇きを知らず、青々とした葉を存分に茂らせることができる。かつて、美しい緑の森を湛えたこの島が、宝玉の島と呼ばれた由縁だ。
千年に亘って島を覆い続けた瘴気がひとの営みを遠ざけた結果、島の南にもとからあった小さな森は勢力を増していた。フィランは城の建設予定地のすぐ傍まで枝を伸ばす森の奥深くへと分け入っていった。ヴェルギルも、戸惑いながら後を追った。
夏の盛りの森ほど、祝福という言葉が似合う場所はない。鳥たちが楽しげに歌い交わす中、穏やかな風に揺れる木々から降り注ぐ木漏れ日が苔むした地面の上で踊る。風は薫り高く、柔らかく湿った土壌を踏みしめる度に深い芳香が立ち上る。だが、いまこの瞬間は、祝福や風や土、鳥の歌にも、何の価値も無い。
城を出て、およそ一刻。つかず離れずの距離でここまで歩いてきた。こんなことになっている理由については、さほど頭を巡らせる必要はなかった。
「フィラン、わたしが悪かった」
狼は森の奥で振り返り、ならば聞いてやると言わんばかりに両の耳をピンと立ててこちらに向けた。
「昨日のことに腹を立てているのはわかる」ヴェルギルは言った。「きちんと謝罪させてくれないか」
すると、フィランは再び顔を背けて歩き出した。
内心で呻いて後を追ったものの、幾ばくもしないうちに彼に追いつくことが出来た。そして、目の前に広がる光景に思わず目を瞠った。
「ここは……」
森のただ中に、美しい泉が姿を現した。丸い泉を取り囲むようにして立つ五つの石柱。表面を覆う苔の下に、三叉の渦巻きが彫り込まれているのを辛うじて見て取ることが出来る。ヴェルギル自身もこの場所にまつわる伝承を聞いた覚えはなかった。もしかすると、この島がエイルと言う名で呼ばれるようになる前に住んでいた誰か──あるいは何か──の手によるものなのかも知れない。ここは聖域であり、忘れ去られてしまった遺跡なのだ。
フィランは、泉の畔に広がる白詰草の絨毯の上で腰を下ろすと、金色の瞳でじっとヴェルギルを見つめた。
「やっと追いついた」
ヴェルギルは言い、狼の傍らに膝をついた。そして、肺に空気を送り込み、また吐き出した。
「昨日はすまなかった。つい昔の癖が出て、君を不快にさせた」
狼は目を眇めてから、ダニでも振い飛ばすかのように身震いした。どうやら、旗色はよくないようだ。
「吸血鬼は、ひとを誑かすのが天性なのだ。あれでもだいぶ抑えたつもりだが」
狼は勢いよくフンと鼻を鳴らすと、ヴェルギルに背を向けて草むらに寝そべった。
「クロン」
ヴェルギルは言い、温かい毛をそっと撫でた。拒絶されなかったので、またほんの少しにじり寄る。背中からそっと覆い被さってなだらかな額にキスをしようとすると、素早く寝返りを打ってふり返った彼の肉球に阻まれてしまう。
「フィラン・オロフリン」
湿った土の匂いがする温かい肉球に唇を寄せると、金色の瞳が微かに揺れた。
「許しを請いたい。これからも、君の傍にあり続けるために」
狼はわずかに眉根を寄せ、小さな声でウウと唸った。両脚でもって押しのけようとしながらも、尾がパタパタと振れている。
「ああ、フィラン」真面目な顔は、あえなく綻んでしまった。頭を垂れて、柔らかな脇腹の毛に顔を埋める。「もっと叱ってくれ」
横腹にもたれたまま見上げると、狼が小さく首をかしげた。どういうつもりだと問う、彼の声が聞こえるようだ。
「どうやらわたしは……少々浮かれているらしい」
黄金色の視線が『何に』と問いかけている。ヴェルギルはそっと手を伸ばし、頬のあたりに生える豊かな毛を撫でた。
「君に、これほど想われることに」
フィランは少しだけ目を見開いて、ふいと顔をそらした。困惑と、ほんのわずかな怯懦の気配。
ゆっくりと身を起こし、顔を寄せる。
「フィラン」
名前を呼ばれた彼が再びこちらをみたとき、その目に宿っていたのは、何かを結びたいと願う真摯な思いだった。言葉を交わさずともわかる。
なぜなら……自分も同じ気持ちだったから。
短い毛に覆われた、口の先端にキスをする。一瞬の躊躇いの後で、温かい舌が伺うように唇に触れた。
不意に湧き上がる強烈な渇望に唆されるまま、その舌を受け入れた。長く、薄い。だが驚くほど柔らかくて繊細だった。慣れ親しんだキスとは異なる感覚に、彼の血を飲まずとも心臓が動き出しそうになる。
「君さえ構わないのなら……このまま愛し合ってもいい」
鼻先で囁くと、小鼻の髭がぴくりと震えた。
「だが、ひとつ我が儘を言ってもいいだろうか──わたしは、快感を受け入れるほどに紅く染まる君の肌をみるのが好きなのだ」
フィランの耳が下がり、後ろにぺたりとつきそうになっている。彼は小さく鼻を鳴らした。
「服のことなど気にしなくていい。どうせ脱ぎ捨ててしまう」
余裕など無かった。許されるためなら、文字通り跪きもしただろう。千年も存えておいて、まるで熱に浮かされた子供のようだと思う。それでも、止めることが出来ない。
柔らかな頬に頬を寄せ、分厚い耳を甘く噛んだ。
「このまま、ここで」そして、囁いた。「君が欲しい」
フィランは大きく身を震わせた。と思ったら、次の瞬間には人の姿をした彼に押し倒され、噛みつくような口づけのただ中にいた。
背中の下で潰れる青草の匂いが大気中にはじけ、官能に甘く熱した、彼の血の匂いと混ざり合う。
激しい悦びがわき上がり、裸の肩に腕を回した。熱く濡れた舌を受け入れ、抑えきれない衝動に揺れる腰を合わせながら、おぼつかない指で服の留め具を外す。荒々しくシャツを引き上げて潜り込んでくる熱い手に触れられて、頭の後ろが泡立つような感覚に襲われる。
「フィラン──」
名を呼びかけた唇を噛まれる。味わうように、何度も。
長靴を脱ぎ捨てた踵で湿った土を抉り、脚を絡ませる。こうして、薄い皮膚を二枚隔てたすぐ向こう側で激しく脈打つ彼の血と熱を感じると、触れあった場所から一つに溶け合ってしまえそうな気がする。あるいは、彼の中に飲み込まれてしまえそうだと思う。生温かく滑らかな春泥に沈むように。
†
「クロン」ヴェルギルが、そっと囁いた。「わたしを許すと言ってくれ」
剥き出しの胸を合わせただけで……その感触だけで陶然としかけている。フィランは目を閉じ、脇に追いやられていた理性を少しだけこちらに引き寄せた。
ヴェルギルがその手管を存分に振るうのは間違ったことではない。むしろ手腕として、人をたらし込むというのは正しいやり方だと思う。いたずらに戦をけしかけたり、頑なに閉じた国を作り上げるよりはずっといい。それを理解しているからこそ、王子に身を寄せた彼の眼差しに不快感を覚えた自分を許すことが出来なかった。
「許すことなどない」フィランは言った。「お前のやり方は間違っていない」
すると、ヴェルギルはすこしばかり眉を上げた。「ならば、何故……?」
うやむやにすることも出来る。だが、この男に対してはそういう真似をしたくなかった。
「狼に変化したのは……言いたくもない文句を封じるためだ」目を閉じて、一息に言う。「俺に嫉妬は似合わないし、そういう子供じみた感情は邪魔になるだけだから」
「フィラン」
ヴェルギルの声に聞き慣れない響きがあったので、フィランは目を開けた。
「わたしには、全てを見せて欲しい」
濃い緑に包まれたこの空間で、彼の菫色の瞳が翳ると、なんとも底知れぬ色になる。フィランはじっと、その双眸を見つめ返した。
「君が思い劣ることなどない。君の気持ちも、意思も、わたしにとっては全てが重要なのだ」
彼にそんな言葉を差し出される度、決まって湧き上がる気後れが胸の中に膨らむ。
「お前──」口ごもり、俯く。「あなたは千年の王。引き換え、俺は野良から成り上がった兵卒だ。ダイラの王に直談判することも、商人を引き連れてくることも出来ない」
言うべきではないと思いながらも、言葉を食い止められない。
「確かに俺の血は、あなたの心臓を動かすかも知れない。でも、そのことに意味など無かったら?」
口に出してしまうことで、恐怖が足下をぐらつかせる。フィランは我知らず、白詰草の絨毯を両手で握りしめていた。
「意味はある」ヴェルギルが、断固とした声で言った。「意味はあるとも、フィラン」
「どうして言い切れる?」
すると、彼は菫色の目を優しく細めて微笑み、言った。
「君を愛しているから」
その言葉が、光の矢のように胸を貫く。
「そ……れは」また、言いようのない恐怖。「今は、そうかも知れないが」
ナドカにとって、二年という歳月など一瞬と同じだ。熱に浮かされているのは自分も同じで、だからこそ怖かった。二人の間にあるものが意味を失うときが来るのではないだろうか? そうなったときに、この幸福を呪わずにいられる自信が無い。
「これ程の時を生きていると、多くのものは意味を失う」ヴェルギルが言った。「だが君のことは、ずっと特別だった。出会ったその時から、一瞬の例外もなく」
彼はフィランの頬に手を添えて、自分の眼差しを受け止めさせた。
「君を愛している、フィラン・オロフリン」
その言葉に、身のうちを流れる血という血が、じわりと熱を帯びる。言うべき言葉を見つけることが出来ないフィランを見つめたまま、彼は続けた。
「帆が風を愛するように、鳥が止まり木を愛するように、君を愛している。夜が夜明けを愛するように、朝が黄昏を愛するように、君を愛している。草木が雨を愛するように、雪が春の日差しを愛するように、君を愛している」
時が止まったかのようだった。止まった時の中で動いているものは、自分の心臓だけであるかのように、フィランには思えた。
「だが、クロン、最も根源にあるわたしの想いは、他の何をもってしても喩えることが出来ない。我々の舌には、それを言葉で伝えるだけの力がない」
瞬きをすると、温かい雫が零れて、頬を伝った。
ヴェルギルは言った。
「この想いを伝えるに能う言語が、ただひとつだけある」
そして、ヴェルギルはフィランにキスをした。それは優しくて力強く、むず痒いほど清らかで、同時に深い熱情を宿し、そして神聖な口づけだった。
彼は正しい。これを言い表すことが出来る舌は存在し得ない。
「我々の愛は、我々だけのものだ」彼は言った。「こうして触れ合い、想いを分かち合わなければ死んでしまう。だがフィラン、出来ることなら、わたしの身体が本当に朽ちてこの地の塵に還るまで、この想いを育み続けたいと思っている。君と二人で」
頬の涙を拭って、彼は言った。
「君は……どう返事をするだろうか」
想いが溢れて、喉が詰まる。
「ヘカの手から、お前を奪ったとき」フィランは訥々と言った。「大それたことをしたとは思わなかった」
彼は頷いて、静かに続く言葉を待っていた。
「俺とお前は、一緒にいるのが正しいことなのだと確信していた。お前にとって俺が運命の血であるのと同じように、お前も……俺にとってはただ一人の伴侶なんだ」
ヴェルギルの瞳が、きらりと輝く。「つまり?」
「つまり……」フィランは言った。「俺も、お前を愛している」
そのとき彼の顔に浮かんだ微笑──そして、フィラン自身が浮かべた微笑が全てだった。それ以上の言葉は必要なかった。彼が語ったように、二人の間にあるものを言い表すには、ありふれた言語ではあまりにも力不足だった。
透き通るように白い肌。その上に落ちるすべての木漏れ日に口づけながら、自分の血が、彼の身体に及ぼす変化を味わう。
「シルリク」
フィランは背中からヴェルギルを抱きしめ、首筋の肌を強く吸った。温かな血が通っている間にしか施せない刻印を、そうしていくつも作っては、愛おしむように甘噛みする。
「出来れば……あまり軽々しく他人に呼ばせて欲しくない」
すると、ヴェルギルはニヤリと笑った。「やっと言ったか!」
「何がだ」フィランは肩を噛みながら唸った。
「最も根深い不満はどれだろうと考えていた」ヴェルギルは悦に入った顔で、フィランの胸にもたれかかった。「君の言うとおりだ。次からは窘めよう」
フィランは鼻を鳴らしながらも、その実、艶やかな黒髪が胸から腹──そして、そのさらに下にあるものをくすぐる感触にゾクリとしていた。
「他に、望みは?」胸に頭をつけたまま、ヴェルギルが見上げる。
フィランは後ろからかがみ込み、唇でこじ開けた唇の隙間から舌を差し込んだ。彼の牙に舌を押し当て、溢れる血と共に熱を注ぎ込むような口づけをした。
「ん……」
抱え込んだ首の皮膚の下で咽頭が上下するのを待ってから、掠れた声で言った。
「わかっているはずだ」
†
生来の生真面目さゆえ、ボタンや留め金と名のつくものをひとつ残らず締めなければ気が済まない彼を文字通り一糸纏わぬ姿にして、逃げ場のない状況で快感を味わわせる。何かに耐えるように唇を噛む彼を見上げて、口淫をするのが好きだった。フィランを木の幹に寄りかからせてから、大きな彼のものを奥深くまで飲み込み、舌で甘やかし、牙で脅かす。眉根を寄せ、小さな声や吐息を噛み殺しながら、それでもバラ色に染まってゆく肌が、身のうちで渦を巻く欲情の程を暴いていた。
脚の付け根の茂みを鼻先で擦るほど深く飲み込むと、フィランは震えながら息をついて、置きどころの無い手でヴェルギルの髪をそっと握った。
「ああ……!」
感じる度に溢れ出す先走りは、彼自身を伝い、結合を待つその場所までも濡らしている。懐で温めていた香油を塗り、傷つけないようにそっと撫でると、その場所は期待するように締まり、また綻んだ。
「ヴェルギル、もう──」
その声に懇願を聞いて、ヴェルギルは焦らすように吸い上げながら口を離し──秘所に触れていた指を沈めた。
「あ……っ!?」
狼狽しきった声を上げて、フィランが目を見開く。紅い睫毛に彩られた緑の瞳は森の輝きを映して一層美しい。その目が不意の驚きに揺れ……やがて、とろりと蕩ける。滑り込ませた指で内部に香油を塗りつけると、熱い内壁が締まり、絡みついてきた。感じる場所を探り当てて指先で撫でる。
「う、あ……ヴェルギル」
快感を受け入れてじわりと潤む瞳に、獣欲をほのめかす金色の破片が浮かび上がる。短い呼吸を繰り返す唇の隙間から、濡れた舌先が覗いていた。
「何が欲しい? クロン」
フィランはむずがるような声を上げて腰を揺らした。「ヴェルギル……頼むから──」
望みを叶えないまま、もどかしい動きで彼の中を愛撫する。「うん?」
「そ……それ以上されたら、達してしまう」啜り泣きにも似た音を立てて、息を呑み、言葉を継ぐ。「もう、一人で終わるのは嫌だ。お前に抱かれて、お前のものでいきたい。一緒に」
天地が一回転したかのような一瞬の目眩。彼に求められることは奇跡だと思う。この世で自分ただひとりが、その望みを満たせるのだということも。
ヴェルギルはフィランを抱きしめ、すでに整ったものにフィランの先走りを絡めた。熱っぽいため息をキスで味わってから、柔らかくほぐれた場所にそっとあてがい、沈めてゆく。
「あ、あ……!」
フィランは悦びの小さな声をあげながら、腰を浮かし、揺らして、それを受け入れた。傷だらけの膚をなだめるように撫でると、彼は薄く開いた瞼の向こう側から、うっとりとした眼差しでヴェルギルを見た。
「やっとだ」と彼は言った。「この数ヶ月……ずっと、待っていた」
彼は熱い吐息を溢しながら、自身の胸に這わせた手をゆっくりと撫で下ろすと、二人が繋がる場所に触れた。収まりきっていないところを指先で愛撫する。
「脈打ってる」そう言って笑う彼の口元から、鋭く伸びた牙が覗いた。「俺の血だ」
「そうだ、クロン」圧倒され、今にも押し流されそうな男の弱り果てた笑みが浮かぶ。「君だけが、わたしに熱をくれる。これほどまでの熱を──」
優しく腰を押しつけ、わずかな隙間も残さず繋がる。
「ああ……」
フィランは睫毛を震わせながら目を閉じ、甘い吐息を漏らした。
まるで、温かい蜜に身を浸しているかのよう。ゆっくりと身体を揺らすと、全身に悦びが溢れる。
「シルリク」
と彼が囁く。その声で真の名を呼ばれると、歓喜のあまり耳朶が焦げ付きそうになる。
「シルリク、キスしてくれ……」
重ねた唇の中、もはやどちらのものかわからぬほど絡み合った舌で、甘美な呻きをかき混ぜる。縋るような手が背中を引っ掻き、腰を抱いて、さらに奥へと引き寄せる。
「フィラン──」
誘われるまま腰を押しつけ、奥を穿つと、フィランは小さな声を上げ、さらに深く爪を食い込ませた。
口づけによって混ざり合う吐息の中で、甘い痺れとともに広がる戦慄の中で、互いの肉体を疼かせる血の中で生まれたリズムが、徐々に重なり合い、高まってゆく。温かく濡れそぼつ場所から引き抜いては埋め込む程に、律動は大胆になり、優しさは荒々しさに塗り替えられてゆく。
「ああっ!」
打ち付ける度に彼があげる声が、震えながら高く、そして細くなってゆく。揺さぶられながらフィランは自身を握り、濡れ濡れとした音を立ててそれを扱いた。
赤と、それに類するあらゆる色彩をすべてそろえた彼の体毛が、イムラヴ人らしい色白の肌を彩っている。その流れにそって手を滑らせ、戦いが残した痕跡を辿り、優美で力強い曲線を描く腰の輪郭をなぞる。鮮やかに紅潮する首筋を舐めあげ、牙の先端で愛撫すると、彼は大きく身を震わせた。
「ん、シルリク……」
ねだるような声をあげて首をかしげる彼の肩から溢れた乱れ髪から、官能に煮詰められた甘やかな匂いが一層濃厚に立ち上った。
打ち寄せる波のような抽挿で彼を揺さぶりながら、張り詰めた肌に牙を突き立てる。
「あ……!」
大きく息を呑み、フィランが身体を震わせる。重なり合う胸で感じる、おぼつかない呼吸と、早鐘のような鼓動。限界が近づいている。
「あ……あ……シルリク」その声は、ほとんど嗚咽に近かった。「やめるな。そのまま──」
快感に震える愛しい男を抱いて、ヴェルギルは、硝子細工の花を揺らすように優しく彼を感じさせたいと思った。だが同時に、壊れるほど激しく揺さぶり慈悲を請わせたいという欲望が、胸の奥を強く疼かせる。
あるいは、慈悲を請いたいのはわたしの方だろうか。
ヴェルギルはフィランを抱き起こすと同時に寝そべった。その拍子につながりが解け、フィランがあっと声を上げる。上気した頬のまま、目を眇めた表情さえも扇情的だ。
「シルリク……」
「フィラン」
両手を拡げて招くと、彼はヴェルギルの意図を酌み、腰の上に跨がった。そのまま、後ろ手に屹立を掴んで、濡れた割れ目に擦りつける。見下ろす瞳はほとんど金色に塗りつぶされ、淫蕩な喜びに輝いている。
「狼に腹を晒すのが、どういう意味を持つか知っているのか?」
彼は空いた方の手で、ヴェルギルの腹をゆっくりと愛撫した。
「腹を晒していようが、いまいが」ヴェルギルは、背筋を這い降りる戦慄のままに震えた。「わたしは、君のなすがままだ」
フィランはゆっくりとかがみ込み、伸びきった牙でヴェルギルの唇や顎を、耳を、首筋を甘く噛んだ。そして満足げに、低く歌うように唸った。
「欲情しているときの、お前の匂いが好きだ」
彼はそう言ってヴェルギルの屹立を撫で下ろし、そしてゆっくりとその上に腰を落とした。
「は、あ……」
わななきながら喉元を反らし、腰をくねらせて迎え入れる。それから彼は、まっすぐ、深く飲み込むために半身を起こした。
「お前に、組み敷かれたい願望があったとは知らなかった」
喘ぎ混じりの囁きと挑発的な笑みに、征服される歓びが湧き上がる。フィランの腿の、皮膚の薄いところをさすると、彼の屹立がぴくりと震えた。
「君が相手だからだ」ヴェルギルは言った。「わたしは……どちらでも味わってみたいと思っている。君さえよければ」
フィランはほんの少し驚いたような顔を浮かべてから、「ほお」と呟き、唇を舐めた。
「なら……それは次の機会に」
そう言うと、彼はゆっくりと腰を揺らして、快感を追い求め始めた。
均整の取れた見事な肉体が汗を纏い、動く度に艶めかしい光を踊らせる。
肉で肉を穿つ淫靡な音と、遠くで鳴き交わす鳥たちの声。愉悦に満ちた獣の唸りと、森を渡る風のざわめき。官能に没頭するふたりの男のざらついた吐息と、音も無く揺れる千億もの木漏れ日。すべてが混ざり、一つになって高まってゆく。
「ああ、フィラン……!」
腿を抱きかかえ、思い切り突き上げる。
「あ……!」
張り詰めた肉体が再び緩み、頽れて、フィランは両手をついた。ヴェルギルは彼の腰を押さえたまま、何度もその中に自らを突き入れた。
「あっ、あ……!」
酔いしれたように紅潮する肌、貪欲な視線を放つ黄金の瞳、二人を包み込んで燃える緑の森が溶け合う。
額を合わせ、乱れたほつれ髪を両手で掻き上げる。喘ぐあまりキスさえままならない口を唇で塞ぐと、どちらとも無く縋るように舌が絡み合った。
「一緒に」キスの合間に、フィランが言った。「一緒にいきたい」
ヴェルギルは、彼の言葉で答えた。
「君の望むままに、愛しい人」
「あ」息をのみ、それから大きな震えが起こった。「あ、あ……!」
繋がった場所が、震えながら締まる。彼の中を駆け巡る血がかっと熱を帯び、心臓が、ほんの一瞬だけ動きを止める。
「……っ!」
そしてヴェルギルも、握りしめていた戒めを手放し、身のうちに荒れ狂っていたものを解き放った。
死に肉薄するその一瞬──手を繋ぎ、身体を繋いで、見えない境界を共に飛び越えようとする。最初から、それがふたりの交わり方だと運命づけられていたかのように。
フィランの手の中の屹立が、濃厚な白い精を迸らせる。
「あ……!」
と同時に、脈打つヴェルギル自身から溢れ出すものが、彼の中を満たした。収縮を繰り返すあたたかい肉はまるで、その熱情を味わおうとしているかのようだった。絶頂の余韻に囚われて、本能の赴くままに腰を揺らす。敏感になったフィランの中をゆっくりと擦りあげると、そこは一層熟れたように蕩け、やわらかく震えた。
「は……っ」
最奥に収めてから、そっと引き出す。精液が、放ったときとは別の温度になって彼の中から溢れた。
結合をとくと、フィランは長いため息をつきながら、ヴェルギルの横に寝そべった。
消えない炎のような髪をそっと掻き上げ、耳にかけると、彼は目を細めてヴェルギルを見つめた。
「血を飲んだ後、お前の目が菫色に戻っていくところを見るのが好きだ。薄い青から、ゆっくりと」
ヴェルギルは思い切り顔をしかめた。〈月の體〉の瞳を美しいと形容するものは少ない。そう言うフィランの瞳の中では、金色のかけらが閃きながら緑の中に沈んでゆくところだった。
「君の目ならば、日が沈むまで見つめていられるだろうが──」
「本当だ」フィランは顔にかかるヴェルギルの髪を一房つまんで、よけた。「とても美しい。夜明けの空が移ろうようで」
そんな風に言われて、ヴェルギルは、自分がどれだけこの瞳を疎ましいと思っていたのかを思い知った。だがこの男は、それさえも愛おしんでくれる。真心から、偽りなく。
ヴェルギルは微笑んだ。「ならば何度でも、君に夜明けを捧げよう」
†
いつの間にか日は暮れていた。
大きな木の幹に寄り添ってもたれ、ふたりは西空に燃える熾火を眺めていた。
ふと、何かを思いついたらしいヴェルギルが、脱ぎ散らかした服を探り、中から細長いものをとりだした。そして、不思議そうにそれを眺めていたフィランに手渡した。
「受け取ってくれないか」
「これは……」これには見覚えがあった。手の上に乗せて、まじまじと見る。
「新しい冠帯を作らせた。君のために」
不意に、足下に穴が開いたような気分になる。そんなフィランをよそに、ヴェルギルは話し続けた。
「古いエイルの冠帯と対をなす意匠だ。是非、わたしと共に王座について欲しい」
つまり彼は……俺に……なんてことだ。
なんてことだ。
フィランは狼狽し、片手を頭にあてた。「自分が何を言っているか、わかっているのか?」
「もちろん」ヴェルギルは自信たっぷりに言った。「ロドリックも賛成してくれた。ハロルドは喜ばないだろうが、王はひとりまでだと言われた覚えはないからな」
呼吸がままならない。「俺は……まだ何も知らないし」
「これから知ることになる」
「駆け引きだってできないぞ」
「駆け引きに長けたものが、ここにいるだろう?」ヴェルギルは上機嫌で言った。
「王がふたりだなんて、聞いたことが無い」
すると、ヴェルギルはフィランの手をとった。「ナドカが支配する国というものを、他に聞いたことがあるか?」
おずおずと、彼の瞳を覗き込む。夜明けを待つばかりの空の色の瞳を。
「今すぐでなくていい」彼は言った。「いろいろな国へ行き、学ぶべきことを学んで、君の準備が出来たらでいいのだ。だが、わたしはそのつもりで待っていると知っておいて欲しかった。その希望が無くては、とても再び王になる決心など出来ない」
冗談めかして肩をすくめるヴェルギルを見つめる。危ういほどの動揺は、すでに収まっていた。
「長く待たせるかも知れない」ぽつりと、フィランは言った。
「いくらでも待つ。その価値はある」ヴェルギルは、フィランの手をぎゅっと握った。「新しい国を作りたいのだ。正義が意味を持つ国を。そのためには、君が必要だ。わたしの隣に」
エイルに初めて足を踏み入れた日、海原を見つめて立ち尽くすヴェルギルの背中を、遠くから見つめることしか出来なかった。
「一緒に」彼は言った。「君と一緒に、わたしたちの故郷を作り上げたい」
海よりも深い彼の哀しみを、分かち合うことは赦されないのだろうと思っていた。
「光栄だ」フィランはそっと囁き、ヴェルギルの手を握り返した。
「わたしの方こそ」ヴェルギルは言った。
忘れ去られた聖域で交わされた密やかな口づけがあったことを、歌や物語に残した者はいない。
その口づけは、ただふたりの胸の内にだけ輝き続けた。
この日の誓いと同じように。
11
あなたにおすすめの小説
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
---
いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる