完結【日月の歌語りⅠ】腥血(せいけつ)と遠吠え

あかつき雨垂

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腥血と遠吠え

番外編 千代にひとつの

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※※作中、ダイラ中を旅していたとき(マチェットフォード後、エリトロスの森前くらい)の二人のエピソードです※※


 ヴェルギルが、その夜の宿を〈金の雌馬ゴールデン・メア亭〉にしようと言い張ったのには確かに理由があったのだが、それをクヴァルドに教えるわけにはいかなかった。
 その宿屋は、記憶にある限りでは二百年に亘って『ドーモンドいちの宿屋』の肩書きを独占している。ドーモンドには、マチェットフォードで荷揚げされた大陸からの荷物をベイルズへと運ぶ商人が立ち寄る。ベイルズの貴族は、とかくフェリジアの味を好む。フェリジア人の末裔であるという自負を保ち続けるためには、それが必要不可欠なのだろう。とにかく、そうした商品を扱う商人たちの舌と目が肥えているのは確かで、〈金の雌馬ゴールデン・メア亭〉は彼らの常宿じょうやどなのだった。
 当然、クヴァルドは反発した。
「そんな贅沢をする必要は無い」
「君ならそう言うだろうと思ったが、ひとつ確かめたいことがあるのだ」
 クヴァルドはわずかに目をすがめた。好奇心を優先したら良いのか、ヴェルギルの言葉を疑えば良いのか迷っている時に、そういう顔をする。
「〈災禍カル・ノグ〉の行方に関係があるのか?」
 あるはずが無い。だが、ヴェルギルはわずかに愁いを帯びた真剣な表情を装った。
「ああ」
 クヴァルドは深々とため息をついて、腹帯ベルトからさげた小物入れスポーランに手を当てた。「ならば仕方が無い。一泊程度なら──」
「宿代はわたしがもとう。食事代も」
「お前が? 何故だ」
 人狼の眼差しが鋭くなる。うまい話をちらつかせると、途端にこうだ。
「あの宿が気になるのは……言うなれば、勘なのだ」
 勘という言葉に、クヴァルドの警戒がさらに強まっていくのが手に取るようにわかる。ヴェルギルは言い添えた。
「〈金の雌馬ゴールデン・メア亭〉に時折おとずれる、盲目の歌い手が居る。彼女はかつて〈災禍カル・ノグ〉に遭遇したが、その美声で生き延びた。会えるかどうか試してみたいのだが、店にいる確証は無い」
 クヴァルドは、わずかに鼻を鳴らして探りを入れていた。血の温かい者が相手であれば、彼の嗅覚を免れて嘘をつき通すのは不可能に近いだろう。
 だがあいにく、どうしても埋めることができない経験の差というものは存在する。百戦錬磨の人狼であっても、千年生きた月の體コルプ・ギャラハから嘘を嗅ぎ分けるのは至難の業だ。
 ややあって、クヴァルドは言った。
「いいだろう」そして、付け加えた。「だが、俺の分まで払う必要はない」
 吸血鬼の施しは受けないと彼はいい、馬首を〈金の雌馬ゴールデン・メア亭〉に向けた。

 薄汚れた旅装束から、手持ちの中で一番マシな服に着替えて食堂に降りてきたクヴァルドは、格式張った店の雰囲気に居心地が悪そうだった。本人の心情はどうあれ、『手持ちの中で一番マシな服』を身に纏う赤毛の偉丈夫が目立たないはずが無い。実際、彼は実に──控えめな言葉をあえて使えば──見栄えがよかった。
 周りの客からの注目に気付いているのか、クヴァルドは周囲を見ずにすむよう視線を動かさなかった。そのせいで、彼の緑の眼差しはヴェルギルに固定されていた。
 わずかに上気した頬とは裏腹の、挑むような目。
 彼に見つめられると、とっくに消滅したとばかり思っていた感情が再び動き出しそうになる。挑発や、揶揄い、駆け引きの末に苦労して手に入れる喜び。さながら狩りをするように。
 クヴァルドは、落ち着いた身のこなしで席についた。こうした場所での振る舞いが身についているのは、彼の師であったエギルの薫陶の賜だろう。エギルは、この赤毛の人狼が上流階級や王族の縄張りでも十分に仕事を遂行できる能力の持ち主だと見抜いていたのだ。
 とは言え、この空気が肌に合っているようには見えなかったが。
「そう堅くならずに」
 ヴェルギルが言うと、彼は凄みの籠もった視線を投げて寄越したが、文句は言わなかった。
「注文は済ませておいた。残念ながら鹿の生肉は取り扱いがないようだ」
「わかっている」
 クヴァルドは言った。首輪を嵌められた狼が唸ったら、こんな声を出すのだろう。
「代金の心配は要らない」という言葉では納得しないだろうとわかっていたので、付け足した。「施しではなく、これまでの迷惑料とでも思ってくれ。君には……君の身体には、負担を強いているのだから」
 すると、彼はほんの少しだけ笑った。「殊勝だな。今後のことを考えて、負債はこまめに返済しておくべきだと考えたわけか?」
 ヴェルギルも微笑み、ワインに口をつけた。「その通り。利息が大きくなりすぎる前に精算しなければ」
「それなら……」クヴァルドは小さくため息をついた。「遠慮はしないでおく」
 程なくして運ばれて来た料理は、いずれも見事だった。とは言え、ヴェルギルは口をつけず、ただワインを飲んでいるだけだったが、退屈はしなかった。
 野山の獣や木の実になれた舌には、さぞ贅沢な味わいだったことだろう。一旦食事が始まると、彼はあまり話さず皿の上のものに集中した。その様子をみれば、ドーモンドいちの宿屋の味が彼の舌を満足させたことがわかる。
 一般的な食物を受け付けない身体となって久しいヴェルギルは、この食用旺盛な連れが何かを食べるところを見るのを楽しむようになっていた。旅芸人として生まれ育った境遇がそうさせるのか、あるいは元からそうした気質の持ち主なのか、彼の舌は喜ぶべきものを素直に喜ぶ。良い食べっぷりであることは言うに及ばず。
 彼の肉体も、そうだ。
 不意に、思考が満月の夜の出来事に飛んでしまう。快感を受け入れた彼の肉体がどんな風だったか……つい思いを馳せてしまいそうになる。
 ヴェルギルは目を閉じて、あの光景を脳裏から追い払った。
「後悔しているのか」
 尋ねられて、ヴェルギルは目を開けた。
「後悔?」
 クヴァルドは、少しだけ気後れしたような表情を浮かべていた。
「自分が食えないものを他人が食っているのは……良い気分では無いだろう」彼は言った。「吸血鬼にならなければ捨てずに済んだ喜びがあったはずだ」
 吸血鬼にならなければ──。
 そんな『もし』を最後に考えたのがいつのことだったか、それさえ思い出せない。
 ヴェルギルは思案げにため息をついてみせた。
「そうだな……だがそのおかげで、私は君の血を味わうという喜びに預かることができるというわけだ」事もなげに肩をすくめてみせる。「それに、君が味わったものは、いずれ私も味わうことになる。結果的にはな」
 ことを想像したのか、クヴァルドの首筋に赤い色が差す。
「やめろ。飯がまずくなる」
 そう言いながらも、皮膚の下では彼の血が滾り、甘みを帯びてゆくのが、ヴェルギルにはわかった。
 その瞬間、食堂に満ちる人間の気配も、物音も、料理の匂いも、全てが消えた。
 彼ののことなど話題に出すのではなかった。ただでさえ、ここのところ我慢が不得手になりつつあるというのに。
「で、お前の言っていた歌い手は?」
 クヴァルドが話題を変えたので、ヴェルギルもそれに乗じて、おざなりに周囲を見回した。
「来ていないようだ」そして、言った。「ツキがなかったな」

 結局、盲目の歌い手に会うことは叶わなかった。
 当然だ。そんな者は初めから存在していない。だが、クヴァルドに話した嘘の中には真実もあった。
 ひとつ、確かめたいことがある。『運命の血』について。
 その言い伝えは、ナドカを題材にした恋愛叙事詩の中で飽きるほど繰返し語られてきた。
 吸血鬼の止まった心臓を動かす、たったひとりの『運命の血』
 ヴェルギル自身、そんなものは作り話だろうと思っていた。だが、どうやら違ったらしい。この千年ぴくりともしなかった心臓が動き出すという異常事態に遭遇したいまとなっては、出鱈目だと断じることもできなくなってしまった。
 クヴァルドの頑迷さにくらべれば、自分は柔軟な方だと思っていたが、運命の血の存在を認めるのは……自分でも不思議に思えるほど難しかった。
 彼の血が自分の心臓を動かす理由について……可能性のようなものは、いくつか思い付いた。
 同じナドカの血だから。今まで好んで口にしてこなかった戦士の血だから。人狼には満月という特殊な呪いがかけられているから……だが、どれも決定的ではない。
 もっともありそうに思えるのは、人狼かれが口にするものが、まだかすかに生気の残る獣の生肉だから──というものだ。吸血鬼は他者の生気を喰らって生きる。生気そのものが濃厚であるなら、心臓が動くというような事があってもおかしくないのではないだろうか。故に、試してみたかった。〈金の雌馬ゴールデン・メア亭〉では、入念な下ごしらえを経た食材ばかりが使われている。生肉とはほど遠い。
 結果は……自分の愚かさを思い知っただけだった。

 料理のせいか、それとも思わせぶりな会話のせいなのか、その夜のクヴァルドの血は殊更ことさらに甘かった。休み休み飲まなければ、喉が焼けてしまう気がするほど。そして当然ながら、その夜もヴェルギルの心臓は動いた。
 頭の隅では、試すまでも無くわかっていたのかもしれない。無駄なあがきに過ぎないと。だが心臓が動き出したとき、ヴェルギルは目を閉じ、事実が頭の隅々にまで染みこんでゆくまでそうしていた。
 認めざるを得ない。
 だが、認めてどうなるというのだ? いつまでも手元に置くことなど出来はしない。人狼は吸血鬼の天敵だ。そればかりか、エダルトの命を狙う刺客でもある。
 全てを知れば、彼はきっと──わたしを憎む。
 薄明かりの中、気付かれないようにそっと、クヴァルドの横顔を伺う。声が漏れないように唇を噛みしめるせいで、下唇は僅かに腫れていた。普段は己とヴェルギルを厳しく律する強い瞳もいまは弛み、潤み、柔らな光が滲んでいる。
 その目元に口づけたら、彼の睫毛はどんな風に震えるだろう。
 それを知る日は──来てはならない。
「気分は?」
 囁くと、クヴァルドの背筋が僅かに震えた。
「気が遠くなるような感覚はないか? 血を頂戴しすぎていないといいのだが」
 クヴァルドは咳払いをひとつした。すると、甘い余韻に耽るような雰囲気は掻き消える。彼は息を吸い、そして吐いた。
「平気だ」
「それは結構」ヴェルギルは言った。「だが、少し横になった方がいい。仔犬クロン
 クヴァルドが振り向き、じろりと睨んだ。「その呼び方はやめろと、何度言えばわかる」
「おっとすまない。また忘れていたようだ」
 クヴァルドはため息をつきつつ、頭を振る。「そんなに忘れやすいなら、手の甲にでも書いておけ」
「それは良い考えだ。君も四六時中目にすることになるだろうし──いっそ刺青でも彫ってもらうべきかな」
 彼はそれ以上言わせまいと片手をあげた。
「もういい。黙れ。俺は寝る」
「ああ。おやすみ、仔犬クロン
 クヴァルドはうんざりと呻いて、寝台に横になった。
 煩わしげに振る舞ってはいても、彼とて理解しているはずだ。
 この奇妙で親密な、吸血という行為の後には──ヴェルギルに対して怒り、突き放すきっかけが必要だと。そうしなければきっと、いつか歯止めがきかなくなってしまう時が来るだろう、と。
 理性では、望んではいけないと思う。だが心の底にある本能は、その瞬間を待ちわびていた。草むらに伏せて獲物を見つめる獣のように貪欲に。
 次の満月までは、まだ遠い。それでも夜ごとに月は満ち、夜ごとに冴えてゆく白い光から逃れる術もない。
 ヴェルギルは、蘇った心臓が再び眠りにつく前の、かすかな痛みを覚えながら、思った。
 そろそろ認めるべきなのかも知れない。運命の血であろうがそうでなかろうが、黄昏の狼クヴァルド・ウルヴは──千年にひとりの男なのだと。
 
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