完結【日月の歌語りⅠ】腥血(せいけつ)と遠吠え

あかつき雨垂

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春秋の古言【短編集】

月喰みの夜

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彼方あなたに伸びゆくは
 空疎くうそなるグレンモール
 かつて居並びし 誇り高き兵ども
 煌めくつるぎ掲げて 声高くうたった 
 勇ましき戦歌を』 
    
  
 歌になるよりも、物語になるよりも前のその戦のことを、父の膝の上で聞いたのを覚えている。
 あの夜、広間の中央で赤々と燃える長い炉を取り囲むどの顔にも、満面の笑みが浮かんでいた。芳醇な蜂蜜酒と、皿から溢れんばかりに盛られた料理のにおい。上気した人々の、温かなにおいが城に充満していた。楽の音と豪快な笑い声。そこかしこから乾杯の声があがっていたのを思い出す。他愛ない冗談におこる笑いが、火に投げ込まれた海豹あざらしあぶらのように、あたりを照らした。
 凱旋の高揚は城の隅々にまで行き渡り、冬の夜の長さを感じさせないほどの熱気をもたらしていた。
 エイルとイムラヴ、ふたつの国の本島の間に散らばる島々のひとつ、イニスクラウはつるぎの島とも呼ばれる。剣のように鋭い岩山が海原に突き出したように見えるから──あるいは、海神マルドーホと剣神スヴァールクが戦った後に残された、何千本もの剣が積み重なって島になったからそう呼ばれるのだとも言われている。あたかも神話によって、戦いの地となることを運命づけられたかのような島だった。
 島の中央を貫くグレンモールという峡谷は天然の狭間はざまで、矢の雨を浴びずにそこを通り抜けるのは不可能と言われた。長年にわたってエイルの軍勢の行く手を阻んできた、魔の峡谷だ。しかし今回の戦では、エイルの戦士たちがついに峡谷を抜けた。そして難攻不落と言われたイニスクラウの砦からイムラヴ人たちを追い出したのだ。
 それは輝かしい勝利で、何十年にもわたって歌い継がれることになるのは間違いなかった。
 宴は昼夜通して続き、城の中も外もないほど、みな浮かれ騒いでいた。まるで、冬を飛び越えて春がやってきたかのようだった。
「トルボルの奴め、俺が敵の顔のど真ん中にぶん投げてやった斧を、我が物顔で引っこ抜いて持って行っちまったもんだから、俺は慌ててあたりを探して、ようやく棍棒一本見つけたんだ。そしたらトルボルの野郎、俺を見て『なんだその得物は? ゴルマグ神にでもなったつもりか?』とぬかしやがる」
 どっと笑いが起こり、トルボルは賞賛に答えるかのように杯を掲げた。
 ゴルマグ神は春を司る神だ。彼が手にした巨大な棍棒で地面を突くと、そこから草花や獣たちが生まれ出ると言われている。
「よっぽど奴の顔を棍棒ですり潰してやりたかったよ!」
「お前の自前のよりずっと立派だったもんでな!」トルボルが言い、さらなる笑いが起こった。
 父が身を震わせて笑うたび、身震いする馬のように、シルリクが乗った膝も揺れる。その振動を楽しみながら、少年は父の分厚い胸に頬を寄せた。城の広間の中央で赤々と燃える炉と、豪華な料理や酒のおかげで、父が戦場から──外の世界から持ち帰った冷気は、跡形もなく溶けて消えていた。シルリク自身の恐れと同じように。
 温かい。温かいのはいいことだ。
「父上、自前のって何です?」
 シルリクが尋ねると、父の笑顔が少しだけ揺らいだ。
「それはだな……」父は頬を掻き、助けを求めるような、責めるような目を臣下たちに向けた。
「おそれながら殿下、棍棒というのは」ベルマンと言う名の戦士が言った。「強さと自信が詰まった……モノです。我々、男のど真ん中に……ええと、そびえ立つ塔のような」
 男たちが、悪戯をした子供のように顔を見交わして笑っている。
『棍棒』の話をしていたはずなのに、どこからともなく『塔』が出てきて、シルリクは少しばかり困惑し、眉をひそめた。
「それは、男にしかないものか?」
「女にもございますとも、殿下」母の従妹で、戦士でもあるランドストレムが、顎をつんとあげ、小馬鹿にするようにベルマンを見た。「男だからといって、誰もが持ってるわけじゃありません。そうだよね、ベルマン?」
 これに賛同した兵士たちが囃し声と共に杯を掲げた。ベルマンも顔をしかめながら笑っていた。どうやらこれもまた、大人にしか理解できない領分の話であるらしい。子供と大人の境目に居るシルリクは、ここのところ、こうした不可解な話題にもよく出くわすようになった。わかったような顔をして頷くのも、少しは上達した気がする。
 いずれにしても、多くの臣下が楽しげに言う『いつかわかりますよ』という言葉を信じるしかないのだ。
「シルリク、よく見ておけ」父はシルリクにそっとかがみ込み、低く安らいだ声で囁いた。「いつの日かお前も戦場に赴く日が来るだろう。その時に頼りになるのは、自分一人の強さではない」
 シルリクは勢い込んで父をふり返った。
「棍棒が必要だということですか? それとも、塔が?」
「まあ、それも必要だが」父は唇を歪めて、妙な笑顔を浮かべた。「最も大切なのは、生死を共にする、彼ら臣下たちだ。お前は皆が、お前に命を捧げたいと思うような王にならねばならん」
 シルリクは顔をしかめた。「僕は……命なんか要りません。皆に生きていて欲しい」
「ものの喩えだ」父は微笑んだ。「王たるもの、時には辛い決断を下さねばならぬ時もある。彼らが冥府の門の前で胸を張って『シルリク王のために命を懸けた』と言えるように……そして、神々がそれを言祝ぐように、正しい心を持った王になりなさい」
 この祝いの席で、そんな言葉を聞きたいとは思わなかった。けれど、シルリクは頷いた。
「そうあるように、頑張ります」
 父は深く頷いて、大きな手でシルリクの癖毛を掻き乱した。
「お前は良い王になる」父は言った。
 シルリクはにっこりと微笑んで、喜びそのものであるかのような、父の温もりにすり寄った。
 
 
 目を開けると、すぐ傍に氷の壁が迫っていた。
 洞窟の壁は、鋼のように滑らかな氷に覆われていた。揺らめく焚き火に照らされた青い氷穴ひょうけつは、何百年かぶりに灯された炎に溶かされ、ぽたぽたと水滴を降らせている。火の傍に置かれた背嚢には、二人分の濡れた衣服がかぶせられ、そこから、微かに湯気が立っていた。
 クヴァルドは小さな焚き火を守るように裸の背を丸め、呟くような小声で歌っていた。
 
    
    『彼方あなたに伸びゆくは
 空疎くうそなるグレンモール
 かつて居並びし 誇り高き兵ども
 煌めくつるぎ掲げて 声高くうたった 
 勇ましき戦歌を 
 
 おお グレンモール
 彼らを言祝ぐマルドーホの
 角笛ホルンごと 海鳴りを
 お前は忘れてしまったのか?』
    

 
 いつの間に眠りに落ちてしまったのだろう。
 ヴェルギルは再び目を閉じて、深い呼吸をひとつした。
 深い夢の残滓が、ゆっくりと溶けてゆく。だが、靄のような倦怠感は、ぬくまらぬ身体のうちがわにしつこく居座り続けていた。
「やっと起きたか?」クヴァルドが言った。「火の仕度を俺に押しつけて、さっさと居眠りとは」
「年長者の特権、ということでは不服かな」
 ヴェルギルは言い、自分を包み込んでいる分厚い毛皮の外套マントの中で身じろぎした。素肌に触れる、滑らかな皮の感触が心地よい。使い込まれた外套からは、炎の温かさに燻し出されたクヴァルドの匂いがした。
「何が年長者だ」
 クヴァルドは、いかにも不服そうに鼻を鳴らした。
 そうやって厳しいふりをしてはみても、齢千年を超える吸血鬼を貴婦人のように扱うのが彼という男だ。血の冷たい吸血鬼に自分の外套を貸す人狼など、彼以外にはいないだろう。出会ったばかりの頃、彼に渡された硬い毛布にしがみついて眠ったことを思い出し、ヴェルギルは小さく笑った。
 炎が安定したようで、クヴァルドは満足したように頷いた。「よし」
「さあ、ねぎらって進ぜよう」
 一緒にくるまるつもりでヴェルギルが外套を広げると、彼は躊躇もせずにそれを奪い、両脚の間にヴェルギルを抱いて、外套で包み込んだ。貴婦人のように扱うどころではない。これは『甘やかす』という他に表現のしようが無かった。
 人狼の体温は高い。ヴェルギルは、自分の冷たい肉体にしみこんでゆく温もりに、ほんのひととき目を閉じた。
「わたしを温めようとしても無駄だぞ、クロン」
 心臓の鼓動が止まっているこの体は、死体さながらに冷たい。それを温める方法は一つしかないが、いまはそれを口にする状況ではなかった。
「わかっている」
 クヴァルドはそう呟きながら、両腕をヴェルギルの腰に回して、背中に覆い被さった。満足げなため息が、首筋を温かく撫でていった。
「もう少し離れた方がいい。君が凍えてしまう」
「これしきの寒さ、俺にはどうってことはない」そして、クヴァルドは思い出したように言った。「そういえば、寒さで動きが鈍くなるような吸血鬼は、ほんのひよっこだと言った男がいたな」
「さぞかしいけ好かない男だったのだろうな」ヴェルギルは笑った。「普段は、この程度の吹雪などそよ風も同然なのだ……なぜだろう」
 この雪に、あるいは寒さに、力を吸い取られているような気がする。
 そう思ったが、口に出すのはやめておいた。心配性で過保護な人狼に、いたずらに気を揉ませるのは可哀想だ。
「それより、さっき君が口ずさんでいた歌を聴かせてくれないか」
「〈グレンモールの歌〉を?」
 ヴェルギルは頷いた。「ああ。父のことを思い出すのだ」
「それは──」クヴァルドは一瞬口ごもった。「そうか。確かに、それくらいの時代だったんだな。あの戦いは」
「当時、わたしはほんの子供だった。五つか、六つの頃だったはずだ」
 クヴァルドは気を取り直すように身じろぎした。「お前の子供時代など、想像もつかない」
「純真無垢という言葉を体現したような子供だった」ヴェルギルは言った。「無論、ずばぬけて聡明で麗しくもあったが──」
「わかった、わかった」クヴァルドは笑った。それから鼻の先でヴェルギルの髪をかき分け、耳輪じりんを撫でた。「疑わないから、わざわざ言わなくていい」
「『ずば抜けて聡明』という部分を?」
「そこは曖昧にしておこう」クヴァルドはくつくつと笑った。「俺が疑ってないのは『麗しい』の方だ」
 ここのところクヴァルドは、ヴェルギルが予想していなかった方向から、彼の調子を狂わせてくるようになった。仔犬クロンというものは、かくもあっという間に成長するものだろうか。それとも、これがフィラン・オロフリンという男の素顔なのだろうか。
「それで、歌ってはくれないのか?」ヴェルギルは腕の中で振り返って、クヴァルドを見上げた。「夜は長い。唯一の話し相手が眠ってしまったらつまらないだろう」
 クヴァルドは、不承不承といった風情ながらも、つけいる隙がありそうなあの微笑を浮かべた。そして、長いため息をついた。
「わかったよ」
 
    
彼方あなたに伸びゆくは
 空疎くうそなるグレンモール
 かつて居並びし 誇り高き兵ども
 煌めくつるぎ掲げて 声高くうたった 
 勇ましき戦歌を 
  
 おお グレンモール
 彼らを言祝ぐマルドーホの
 角笛ホルンごと 海鳴りを
 お前は忘れてしまったのか?』
    

 
 触れあった背中と胸を伝って、クヴァルドの歌声が直接、自分の体を震わせる。初めてこの歌声を聴いたとき、蜜に濡れた弦のような声だと思った。我ながら上手い比喩だったとヴェルギルは思う。その声が自分一人のために歌う贅沢を味わいながら、そっと目を閉じた。
 
    
『かつて在りし父の勇姿を
 もはや留めぬ、グレンモールよ
 お前を揺るがす千の足音
 お前を濡らす万の血潮
 お前のかいないだかれた
 同朋はらからの最期の息を
 ゆめ忘れるな、グレンモールの荒れ谷よ
 いつの日か我らが、そこに立つまで』
    

 
 余韻は洞窟の虚ろを一瞬満たし、消えていった。
「悲しい歌だ」ヴェルギルは言った。「祝勝の宴の賑やかさを覚えているから、一層そう感じる」
「イムラヴの歌は両極端なんだ」クヴァルドは言った。「悲惨な物語を底抜けに明るく歌うこともあれば、どん底まで陰鬱なものもある。どちらにしても、歴史を忘れないために、心に残るものでなくてはならなかった」
 瘴気に飲まれて滅んだイムラヴを逃れた民は、ダイラで放浪民エルカンとして生きることを余儀なくされた。国土を失った彼らは、記憶を風化させまいと星の数ほどの歌を作った。そうして、幌馬車で各地を転々としながら歴史を歌い継いできたのだ。彼らが継承してきた歌の中には、自分と息子を呪う歌が数え切れないほどあることも、ヴェルギルは知っていた。
「強い人々だ」ヴェルギルは言った。「ダイラに……溶け込んでしまう道もあったのに、そうはしなかった」
「とにかく頑固な連中なんだ」小さく肩をすくめた。
「わたしが、それを知らないとでも?」
 二人は小さな笑いに肩をふるわせた。
「その頑固さは、数限りなくある、君の美点の一つだ」ヴェルギルは小さくため息をつきつつ、身じろぎした。「寝ているわたしのために火を熾してくれる優しさは言うに及ばず」
「ああ、その通りだ。まだ寒いか?」
 クヴァルドは言い、大きく身震いをした。
「何を──」
 抱擁の中で振り向くと、黄昏色の毛皮を身に纏った半狼が、こちらを見下ろしていた。
 人狼が半狼に変身するのは、ただ狼の姿になるよりもずっと難しい。人と狼の中間に身を置くのは、剣の切っ先に立って均衡をとるようなものなのだ。
 半狼になると、身体は人間の姿だったときよりも一回り大きくなり、全身が毛皮に覆われる。狼の頭と尾を持ちながらも、人と同じように思考し、話すことができる。人狼という種族の真髄であり、彼らの荒々しい美しさが最も際立つ姿でもある。
 この変身に半日かかる者もいる。そもそも変身できぬ者も居る。だが、クヴァルドはあくび一つするのと変わらないほどたやすくやってのけた。腕の中にヴェルギルを抱いたまま。
「これは……」
 ヴェルギルは、細く柔らかな毛に覆われたクヴァルドの胸に指先を潜らせた。地肌に触れることもできないほど密集した毛と、そこに籠もった温もりを感じた。
「あたたかいだろう。もう冬毛に生え替わっているからな」クヴァルドは言った。
 確かに、彼の言う通りだった。抱きしめられると、彼のにおいのする柔らかな毛に、半ば埋もれてしまいそうになる。この世界で温もりを手に入れるための方法はごまんとあるし、その全てを知る術は無いだろう。だが、これに勝る温もりは無いということだけは断言できる。
 ヴェルギルは毛皮に頬ずりをし、深々とため息をついた。
「君の新しい悪癖になりつつあるな」
「何がだ」気を悪くしたような声に、微かな唸りが混じる。
 ヴェルギルは微笑んで、首を振った。「わたしを甘やかすのが」
 クヴァルドは鼻を鳴らして笑った。「ああ、悪癖の一つや二つ身につけておくのも悪くない。だろう?」
「悪癖を? 君が?」わざとらしく眉を上げてから、思い切りしかめて見せた。「誰の影響なのだ、まったく」
 あたたかい胸にもたれて見上げると、面白がるような緑の瞳と目が合った。
「さて、誰だろうな」
 彼は低く豊かな声で囁き、優しく告発するように、濡れた鼻先でヴェルギルの鼻をつついた。
 全身の肌を撫でる毛の感触と、濃厚な獣のにおいに、ヴェルギルは陶然となった。人狼のにおいは吸血鬼にとって耐え難い悪臭だなどと思っていたとは、今となっては信じられない。逞しい獣の肉体を温めている血潮の熱を想うと、まるで変異したての吸血鬼のように牙が疼いて仕方がなかった。
 そういえば、初めてクヴァルドの血の味を知ったときも、半獣の姿で彼と睦み合ったのだ。
 同じことを思い出したらしいクヴァルドが言った。
「あの、最初の満月の夜を覚えているか?」
「忘れるはずがない」ヴェルギルは、胸元の豊かな毛に頬を寄せ、もう一度言った。「忘れるものか」
 月神ヘカの祭壇に捧げるように、しどけない姿をさらしていた彼の姿。埋めようがない空虚を埋めようと手を尽くしながら、それでも満たされずに苦しんでいた彼の姿を思い出す。吸血を求めたヴェルギルの提案を、彼は受け入れた。血の中に過剰にあふれた魔力を吸い出すために、それが必要だったからだ。しかし──。
「ずっと、謝らなくてはと思っていた」
 クヴァルドは首をかしげてヴェルギルの顔を覗き込んだ。「謝る?」
「あのときわたしは、君の窮状につけ込んだ」血を吸うだけのはずだった。「その後に起こったこと……衝動に任せて行き過ぎてしまったことを、申し訳なく思っていた」
 クヴァルドは、しばらく何も言わなかった。人の姿をしているときよりも少しだけ早い鼓動が、二人の間にある唯一の音だった。
 やがて、彼は長いため息をひとついた。
「謝罪を受け入れよう」真摯な言葉とは裏腹に、声には明らかな笑いが籠もっていた。「ずっと、そんなことを気に病んでいたのか?」
 つられてヴェルギルが浮かべた微笑は、しかし、淡雪のように消えた。「ああ」
「確かに、恐怖を感じなかったわけじゃない」
 目を伏せたヴェルギルの顔を見て、クヴァルドは言い添えた。
「俺が知っている『吸血』は」彼は小さく息を吸った。「一族を殺した『吸血』だ。俺が狩ってきた連中が犠牲者にした『吸血』だった。だから、お前に血を飲まれたときに感じたようなことは……」
 言葉を探して、金色の眼が宙を彷徨う。
「覚悟していなかったんだ。あんな感覚は、味わったことがなかった。俺が恐れたのは、どこまで抗えるかわからなかったからだ──あの、どうしようもない感覚に」
「どうしようもない?」
 クヴァルドは小さく笑った。「お前は血を吸われたことがないんだろう。俺には上手く説明できない」
 ヴェルギルはそっと、クヴァルドの腕を撫でた。「話してみてくれないか?」
 クヴァルドは小さく鼻を鳴らして、右の耳をぴくりと震わせた。「そうだな」と前置きして、ヴェルギルの髪をゆっくりと梳く。考え事をするときの、彼の癖だ。
「自分の中から何かが抜かれていくのに、それがどうしようもなく、その……悦いんだ。愛し合うとき、お前が俺の中から引き抜く、あの感じに似ているかもしれない。ぞくぞくする感覚がずっと続く。それから、俺の血を飲んだお前が満足げに呻いて、満たされていることがわかると……もっといい気分になる」クヴァルドはヴェルギルを見下ろし、獣のかおで笑った。「俺が、お前を支配しているようで」
 いま、この心臓が動いていなくて良かったとヴェルギルは思った。もし温かな血がかよっていたら、胸の中で溶けてしまっていただろうから。
「よくわかった」
「よし」クヴァルドは満足げにため息をついた。
「だから、気に病む必要などない。大体、謝るべきことは他に山ほどあるだろう」
 ヴェルギルはクヴァルドの抱擁の中で身じろぎした。
「そうだったか? 君に謝るべきことが、まだ残っているなら教えてくれ」
「俺にじゃない。過去に色々あったはずだ。ゴドフリーのこととか、審問官の妻のこととか……」
 ヴェルギルは身を起こして、クヴァルドの鼻先に口づけをした。それから、鼻と鼻の先端を触れあわせた。
「今ここで、彼女たちへの謝罪を聞きたいのか? 本当に?」
 クヴァルドの金色の眼が、すっと細まる。
「いいや」
「気付いていないのかもしれないが、クロン」ヴェルギルは、クヴァルドの眼を見つめたまま囁いた。「君は間違いなく、わたしを支配している。血によってだけではなく、その魂で」
 クヴァルドの毛皮がわずかに膨らみ、髭が広がる。手を置いた胸の奥で鼓動が早まり、わずかに開いた口元から、舌先が覗いた。
「望むことがあるなら、言ってくれ」ヴェルギルは言った。
 クヴァルドの耳の位置が、わずかに下がる。
「言ってくれ、クロン。わたしには、それを叶える以上の喜びはないのだ」
 観念したように、クヴァルドが目を閉じる。
「お前が欲しい」そして、慌てて付け加えた。「だが人の姿に戻れば、お前が凍えてしまう。だから──」
「戻る必要があるのか?」
 クヴァルドは目を開けた。「しかし……この姿では……」
 狼の顔がこれほど明らかな驚きの表情を浮かべることを面白がりながら、ヴェルギルは言った。
「わたしは構わない」言いながら、頬に、首筋に、胸元に手を這わせる。「君が構わないのなら」
「他の者は、この姿だと嫌がる」
「他の者のことなど、どうでもいいだろう」口走ってから、自分の語気の鋭さに驚いて、かぶりを振った。「フィラン、そもそもこの姿の君に欲情しなければ、あの洞窟で……あんなことはしなかった」
 和らげるために言い添えたものの、効果があったようには感じなかった。クヴァルドはなおもうたぐるような眼差しでヴェルギルを見下ろしていた。だが、そこにあるのが懐疑だけではないことに、気付かないふりはできない。身体を重ねるようになった頃に何度か目にした、こちらを試すかのような臆病さが、彼の目の中に顕れていた。
、その姿では嫌だと言うのなら、尊重する。だが、わかって欲しい」腕に手を置いて、穏やかに言った。「君は美しい。どんな姿にも、君の魂の美しさが顕れている。それを賛美するのは……自然なことなのだ。わたしにとっては」
 赤褐色から白銅色へと移ろう彼の被毛を、そっと撫でる。そうして、短い毛に覆われた手を両手に包んで持ち上げて、その甲に口づけをした。
「わたしを恐れないでくれ」懇願がにじみ出てしまうのを、今だけは誤魔化さなくてもいいと思った。「頼む」
 クヴァルドは、しばらく無言でヴェルギルを見つめていた。
 そして、濡れた鼻先で頬をつつくと、ぐいと持ち上げて顔を上げさせた。彼は言った。
「牙があたっても、怒るなよ」
 見つめ合う二人の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
「それは……お互い様だな」
 
 ただ相容れないと決めてかかり、長いこと人狼という種族を遠ざけてきた。獣じみた本能を崇める、攻撃的で粗野な種族だと。
 エダルトが人狼を生み出したのは、意図してのことではなかった。ウサルノの山奥に隠って修行をしていた語部シャーマンを〈月の體〉にするつもりで吸血したのが、そもそものはじまりだ。エダルトが何を思って彼を求めたのか、今となってはわからない。いずれにせよ、その語部シャーマンは吸血鬼にはならなかった。エダルトによってもたらされた命の隙間に、すでに深く繋がっていた狼の霊が入り込むことによって、彼は新たな人外ナドカ──〈同じ皮膚をもたぬ者エイギ・アインハマ〉になったのだ。
 『人食い』によって魂を作り替えられてしまった語部シャーマンが、故郷に帰ることは、二度と無かった。
 それがこの種族のはじまりだ。そして、人狼ウルフハマが吸血鬼に抱く憎しみのはじまりでもあった。
 相容れないだとか、攻撃的だとか、そうしたものはすべて、エダルトのしたことから己の目をそらしておくための方便だったのかもしれない。
 怯懦を抱いているのはどちらだというのだろう。
 ヴェルギルはクヴァルドの体に触れ、場所によって異なる被毛の手触りを感じ、首筋のたっぷりとした毛に籠もるにおいを嗅いだ。腕を覆う柔らかい毛が背中を擦る感覚に呻き、彼の胸の奥から堪えきれず漏れる小さな声を聴いた。火灯りに照らされた黄昏色の半狼を見つめて、ヴェルギルは感慨深げにつぶやいた。
「君は美しい」
 クヴァルドの尾の先が、ほんのわずかに反応する。けれど、彼の心の中に居座る自嘲は手強い。
 彼は笑おうとしたようだ。だが、咳き込むような声が漏れただけだった。
「そんなことを言うのは、お前だけだ」
 ヴェルギルは微笑んだ。「しかし、わたしの真意を疑ってはいない。そうだろう?」
 クヴァルドは口を開け、閉じ、また開けた。
「まあ……そうだ。お前のことをとんでもない変人だと思ってはいるが」
「なら、それでいい」ヴェルギルは笑みを拡げ、しみじみと言った。「これまで何度も甲斐があったというものだ」
 これまでにどうやってられてきたか思い出したのだろう。クヴァルドの耳の位置がわずかに下がった。
 湿った鼻に揶揄うような口づけをすると、背中に回されていたクヴァルドの手が腰へと滑る。ヴェルギルはその無言の要求に応えて、彼の腿の付け根から、膝を撫でた。彼は切なげなため息を漏らして、身じろぎした。もどかしげに揺れる腰が、彼の望みを暴いてしまっていた。
 絡み合った剥き出しの脚や裸の胸が擦れ合うたび、躰の中心を目指して、さざめくものが奔る。
「フィラン」ヴェルギルは小さな声で言った。「フィラン……」
 ヴェルギルはそっとクヴァルドを引き寄せ、うやうやしく唇を重ねて、ついばんだ。白い紙の上に最初の色をおくように躊躇いがちに、クヴァルドの舌が、ヴェルギルの唇を舐める。ヴェルギルがその舌を捕まえて甘く噛むと、彼は呻いて、口づけを深めた。
 口の中に入り込んできた舌は長く、喉の奥まで届きそうだ。薄く滑らかな舌先に口蓋を擽られて、むず痒いような衝動が腰のあたりに滲んだ。
「ん……」
 思わず漏れたその声が、火に油を注いだらしい。クヴァルドはヴェルギルの唇を舐め、首筋や鎖骨を舐めながら、優しく背中を引っ掻いた。においを嗅ぐのと舐めるのとをいっぺんにするせいで、気持ちがいいと同時に擽ったくもある。
 クスクスと笑いながらヴェルギルが膝立ちになると、彼はそれに応えて、そっと脚を開いた。脚の付け根の薄い毛並みを透かして、いかにも柔らかそうな薄紅の膚を見ることができた。そして腹の下……普段は長い毛足に埋もれている性器は、すでに、半ば露わになっていた。腹部を覆っている象牙色の毛の中にあって、屹立は一層紅潮して見える。そこから先走りが滴り、腹の毛を濡らしていた。
 ヴェルギルの脚の間に潜り込んだ長い尾が、期待と緊張に震えていた。
「シルリク」彼は抑えた声でゆっくりと囁いた。「大丈夫か……?」
 こちらを慮る言葉には、まだ疑念が滲んでいる。だが、ヴェルギルの腰から尻、そして膝の裏へと滑る、彼の熱い手のひらは、切羽詰まった欲望を露わにしていた。
「どう思う、クロン?」ヴェルギルは、掠れた声で言った。
「どう……と言われても」クヴァルドはわずかに目を泳がせた。「無理をするくらいなら、人の姿で──」
 ヴェルギルは、彼の言葉を遮った。
「そうではない」小さくため息をつく。「衝動のまま動いて傷つけないように、自分を抑えているところだ。あのときと同じ過ちはしたくない」
 ヴェルギルが両手に力を込めてクヴァルドの下肢を引き寄せ、言葉にせずに本心を明らかにした。
「理解してもらえたか?」
「あ……ああ……」
 腰を揺らし、屹立したもの同士を沿わせると、彼は観念したように目を閉じた。
「ああ……!」
 頑固な人狼を納得させるには、動かぬ証しを提示するほかない。
「なら、ここからは『無理』などとという言葉は禁物だ」
 そう言って、腰を揺らす。濡れた陰茎は熱く、そこが擦れ合うだけで言葉にならないほどの快感が生まれた。
「あ……!」クヴァルドがおどろいたような声を上げて、それから、今度は陶然と呻く。「ああ……!」
「フィラン……」
 陶酔のひとときに、甘言や睦言を繰り出すのは容易い。口に出した傍から偽りに変わる、束の間の逢瀬を飾る言葉──そうしたものを幾つも枕元に並べては、瞬く間に萎れるのを見てきた。
 だが、フィランと愛し合うとき、ヴェルギルは寡黙になる。彼の美しさの前では、どんな美辞麗句も力を持たないとわかっているから。
 首筋に触れる手に力を込めて引き寄せ、キスをする。
「わたしの言葉を疑わないでくれ」それから、懇願するように告げた。「恥ずかしげもなく、赤裸々に──全てをさらけ出して、君の前にいるのだ」
 ヴェルギルの金色の瞳が輝く。彼は答える代わりにひとつだけ頷いて、ヴェルギルの背中に腕を回した。
 ヴェルギルは、そんなクヴァルドの身体の至る所にキスをしていった。濡れた鼻先。口元の細かなひげ。毛深い首筋や、天鵞絨ビロードのように滑らかな毛に覆われた耳。肘の内側や手の甲、そして温かい手のひらまで。ゆっくりと唇を押しつけ、あたたかく蕩ける熱望を刻み込む──まるで封蝋のように。
 接吻は胸から臍、そしてその下へと移っていった。隠れた臍や、足の付け根の薄い被毛の下にある薄紅色の膚。そして……ヴェルギルは鼻先でを撫で、徐々に芯を持ちつつあるものの先端に口づけた。
「あ」
 思わず漏れた小さな声を、ヴェルギルは聞き逃さなかった。彼は上目遣いにクヴァルドを見つめ、そのまま見せつけるようにゆっくりと、屹立を口内におさめた。
 クヴァルドは息を飲んだ。下半身から頭頂部へ向かって全ての毛が逆立ち、またおさまっていった。
 嬉しい驚きだった。快感の波が駆け抜けてゆくのを、これほど明らかに見ることができるとは。
「シ、シルリク」
「うん?」
「こ、この姿の時にそれを、さ、されると──」
 クヴァルドは息を喘がせながら口にしたが、上手く言葉を紡げていない。彼は爪の生えた両手を半ば宙に浮かせて、それを開いたり握ったりしていた。
「されると、どうなる?」
「そこで喋るな!」声に唸りが混ざっている。「わ……我を忘れてしまいそうになる」
 ヴェルギルはクヴァルドのものを咥えたまま、喉で笑った。それから、口を離して、先端に唇をつけたまま、いたずらっぽく囁いた。
「忘れてしまえばいい」
 彼は言い、返事を待たずにもう一度それを飲み込んだ。喉の奥に当たるほど深く。
「ああ……!」
 クヴァルドの息が抜け、体が仰け反る。逃げるように引けそうになる腰を掴んだまま、ヴェルギルは舌と唇と喉で何度もクヴァルドを苛んだ。
 ひとのものとは違う形を確かめるように舌を這わせて、滂沱と溢れる先走りを味わう。とろりとした塩気のなかに、紛れもなく、濃厚な獣欲の味がした。彼はあられも無い声をあげ、ヴェルギルの髪をぎゅっと握った。腰が揺れ、柔らかな先端が幾度となく喉にまで届いた。先走りが口の端から溢れ、首筋を伝うのはそのままに、ヴェルギルは彼を受け入れ、唆し、掻き立てては、更に深くへと受け入れた。
 そっと、ヴェルギルの頬に手が触れる。
 見上げると、胸を大きく上下させて、こちらを見下ろしているクヴァルドと目が合った。その視線に引き寄せられるように、屈んでいた体を伸ばしてクヴァルドに覆い被さる。そうして、もう一度キスをした。彼が口にしない──だが見るも明らかな望みのままに。
 荒い吐息を混ぜ合わせ、夢中で口づけを交わしながら濡れた陰茎を擦り合わせる。その度に快感が脳天を突き抜け、もっと欲しろと唆す。まるで、欲望に体を乗っ取られてしまったような気がした。
 吐息には抑えきれない声が混ざり、互いを引き寄せる手にも力がこもる。欲情した獣のにおいと相まった、熱い血の芳香に目眩がしそうだった。
「君の中に入りたい」耳朶に唇をつけ、掠れた声でヴェルギルが言った。「いいか?」
「ああ……」彼は切なげに囁いた「ああ……はやく……」
 尾の付け根にある場所を露わにして、クヴァルドはわずかに腰を浮かせた。受け入れるための仕草。出会った頃に交わしたぎこちない……との違いに、胸が熱くなった。
 香油で濡らした屹立で最初の抵抗を割り、それからゆっくりと、滑らかに、押し広げてゆく。
「ん……」
 先に声を漏らしたのはヴェルギルの方だった。クヴァルドの脚を肩に担いだまま、根元まですべてを収め、震える息をつく。
「君の中は……すごくあつい……」
 ざらついた声で囁くと、繋がった場所がひくりと反応する。
 実際、人間の姿で交わるときよりも、ずっと熱かった。火傷しそうなほど──というのは、比喩でもなんでもない。
「お前のは、冷たいな……」長い舌が、口の横にだらりと垂れた。「すごく……おかしな感じだ」
「不快か……?」ヴェルギルはそっと尋ねた。
「いいや。だが──」クヴァルドは、笑みが溶けた瞳でヴェルギルを見た。「すごく……ゾクゾクする」
 自分にも彼のような毛皮が合ったら、きっと逆立っていただろう。
 体内で大きくなったものを感じたのか、クヴァルドが小さく喘いだ。そして、言った。
「飲んでくれ」もどかしげに懇願する声。「血を……」
「悪かった」差し出された手首に口づけして、尋ねる。「やはり、あたたかくしてからの方が良いな」
「そうじゃない──あ……」
 控えめな傷をつけて、あふれる血を舐める。彼の血は、たったいま味わっている官能に熟れて、熱く芳醇だった。痺れるほどの甘さを、喉だけでなく、全身が味わう。温かい血によって、身体の中に根を張っていた霜が解け始めた。
 クヴァルドもまた、血を吸われる快感に震えていた。繋がった場所が蠢き、小さな痙攣に、身体がひくついている。
 やがて、胸の中で小鳥が咳き込むような気配と共に、心臓が、再び動き出した。
「そう、ではなくて……」クヴァルドは、さっき言いかけた言葉を継いだ。「俺の中で、温まっていくお前を感じたかったんだ」
 そして彼は、今まさに、彼の中で熱をもったものを感じて、狼の目を細めた。
「そう……そうだ。こんな風に」
 ヴェルギルは小さく唸ると、クヴァルドの腿を抱えて引き寄せた。
「あ……! シルリク──」
 突き入れた奥で、さざ波立つような蠢動を感じる。
「ああ……!」
「フィラン……!」
 火が薪を食む音も、吹雪の轟音も、いつの間にか遠ざかっていた。荒い息に混じる掠れた声、濡れた肉と肉とが擦れあう音が、狭く薄暗い洞窟の中で混ざりあう。あたたかい空気の中に満ちる汗と、欲望と、二匹の獣の匂い。
「あっ……! あ……!」
 抽挿の度に、抑えきれない声が溢れる。激しい律動と目も眩むような快感に、平衡感覚すら怪しくなってきて、ヴェルギルは、クヴァルドの身体を掻き抱くようにしがみついた。
 突き入れて、引き抜く──その繰り返しが、どうしようもないくらいに互いを掻き立て、追い詰めてゆく。昇華を求めて身のうちで暴れる官能に身もだえながらも、この瞬間を永遠に味わっていたくて、それに抗い……また屈服した。
「フィラン」
 のぼせきった声で、名前を呼ぶ。胸元に当てた手を腹まで撫で下ろし、剥き出しの屹立に触れる。それを握ったまま、強く突き上げた。
「ああ……っ!」
 クヴァルドが、あまりの刺激に身を固くする。体の中にあるものが締め付けられ──震えながら緩む。先端で内壁を擦る度、彼は切ない声を上げて、身を捩った。
「シルリク」啜り泣くような囁きが、幾つも口元から零れる。「シルリク……あ……!」
 浪語ホウニと共通語、懇願と悪態と喘ぎが一緒くたに混ざり合ったものが、勝手に口から溢れ出ていった。
「ああ……」
 ヴェルギルは陶然と呟き、かがみ込んでキスをした。
「んん……っ」
 より一層奥まで入り込んだ屹立で、感じる場所を掻き乱す。クヴァルドはヴェルギルの背中に回した両手の爪を立て、思い切り引っ掻いた。
 ヴェルギルは深い抽挿を繰り返しながら、クヴァルドのものを強く握り、先端を濡らす先走りを指に絡ませ、円を描くように塗り込んだ。喘ぎ混じりの息遣いに混ざった、淫らな音が響く。それがまた、これ以上はないと思っていた欲望の炎を掻き立てた。
「あ……ああ……もう、いきそうだ……シルリク──」
「そう……それでいい」
 濡れた親指で、ヴェルギルがクヴァルドの唇をなぞると、彼は本能的に舌を絡ませた。
 屹立を扱く手を早めて、同時に、叩きつけるように突き上げる。
「ああ!」
「フィラン──」
 大きな波がやってくるのを、五感で──それ以上の感覚で察知する。それは戦慄と共にやって来た。意識を塗りつぶす閃光と、血管を蕩かすような快感を伴って。
 階段を上り詰める勢いのままに、あるいは、空に身を躍らせるような一瞬の後で、絶頂の歓喜が肉体を満たす。隅々まで溢れて、頭の芯まで浸して、したたるほどに。
「ああ……!」
「あ……っ!」
 繋がった場所が激しく震え、強ばり、強く引き絞られる。
 堪えきれない声が喉の奥から迸る。何度も襲いかかる忘我の波に身をさらしながら、ヴェルギルは、なおも腰を突き入れた。
 クヴァルドは自らの体内に注がれたものに小さな声を上げつつ、ヴェルギルの親指を強く噛んだ。その痛みまでもが強烈な快感となって、感覚に火花を散らす。脈打つ度にもたらされる新たな波に体が強ばり、また緩む。吐き出された熱情が彼の中を満たすほどに、抽挿は一層滑らかになった。蜜に濡れた手で容赦なく愛撫されるような……この感覚を、彼もいま、味わっているのだろうか。親指を食む、クヴァルドの舌の動きは艶めかしく、あたかも二つの場所で同時に起こる絶頂を、貪り尽くしているかのようだった。
 ヴェルギルが腰を揺らす度に放たれる吐精はクヴァルドの腹の上にあふれ、毛皮をぐっしょりと濡らした。
 クヴァルドは、それを指で掬って、ヴェルギルに差し出した。
 指を口に含み、舌を絡ませ、喉を鳴らして飲み込む。そして、陶然と息をつくクヴァルドに口づけて、その余韻を味わわせた。
 甘い接吻と微笑みに耽溺しつつも、ふと、妙な違和感が頭の奥底で声を上げる。
 そういえば……我々はここで何をしているのだったか?
 ここは、一体どこだ?
 エイルにこんな雪山はない──そもそも、この小さな島には山というものが存在しない。
 夢だろうか。
 それでもいい。
 きっと、これ以上に素晴らしい夢はないのだから。
 
        †
 
 それは、残夜ざんやと呼ぶのにふさわしい時間だった。明け方近く──夜の最も深くなる時間。残された時間は少なく、だからこそ、時を忘れるほど耽溺してしまいたくなる。
 そこは緑海に面した断崖の縁、草原の緑が、海原のみどりと接する場所だった。海上に浮かぶ月がその大いなる力で潮を引き寄せ、他の全てを飲み込むように、海鳴りが轟いている。細かな海の粒子があたりに漂い、冷たい夜気のなかに、潮の香りを運んでいた。
 青々とした草を、小さな野花を、膝と背中とで踏みしだいて、クヴァルドとヴェルギルは、互いを貪った。
 膝の上に腰を下ろしたヴェルギルの頬を両手で包み、クヴァルドは指先で、眉の毛の流れや目のくぼみ、頬骨や鼻梁を辿りながらキスをした。唇を舐め、首筋の膚を味わうと、ヴェルギルはしっとりとした吐息を漏らして、さらに身を寄せた。
「シルリク……」
 腰のくびれに両腕を回して抱き寄せると、革の腹帯ベルトが鳩尾に触れた。それから、その下で熱く、膨らんでいるものも。
 見上げると、こちらを見下ろすヴェルギルと目が合った。わずかに乱れる黒髪の合間で輝く、挑戦的でありながら、婀娜あだめいた眼差し。赤い欠片が燦めく瞳に見つめられて、強烈な疼きがクヴァルドの背筋を伝い降りた。首筋に手を当てて引き寄せ、噛みつくようなキスをすると、彼は喉の奥で満足げなうめきを漏らした。
 左手で彼を捕まえたまま、右手で腹帯をほどくと、ヴェルギルの両手が背中を引っ掻いた。 背中の毛を逆立てるように。欲望を掻き立てるように。
 言い知れぬ戦慄が、身体中を駆け抜けた。
 クヴァルドは優しく促して、ヴェルギルを草の上に寝かせた。月の光を浴びた草の絨毯に寝そべる彼は美しかった。エイルを照らす月影の元で彼を見つめると、不意に全てが、正しい場所におさまっている気がした。この土、この海、この大気こそが、彼をこの世に生み出したのだ。そのただ中で彼を愛するのは、とても自然なことのように思えた。
 脚衣の留め金を外して、もう一つ外して、硬い生地の中で窮屈そうにしていたものを解放する。すでに重みを増しているものに、クヴァルドは恭しい口づけをした。
 先端から根元へとキスを重ねる度に、それは微かに震えた。根元にある柔らかな茂みを鼻先でかき分け、濃厚な、彼の匂いを嗅ぐ。ヴェルギルは笑って、身を捩った。
 クヴァルドも笑って、ヴェルギルの腿を抱きかかえたまま、足の付け根を甘く噛んだ。ヴェルギルが息を呑み、抵抗が緩む。それをいいことに、皮膚の薄いところに唇を当てる。そこは冷たく、何の脈も感じない。
「フィラン……」
 その声に懇願を聞き取る。けれど、もう少し焦らしてみたい。残された時間は短い。だからこそ、余すことなく使わなければ。
 クヴァルドは、細かな産毛を舌先で乱しながら、腹、鳩尾、そして柔らかな乳首へと口づけを重ねた。薄く色づいたその場所を甘く噛むと、組み敷いた身体が震えた。
 濡れた突起を親指の腹で撫でながら、もう一方の乳首に舌を這わせる。
「あ……」切なげな声を溢して、ヴェルギルの腰が揺れる。「クロン──」
 彼はクヴァルドの脚衣に手を伸ばし、指先で留め金を外そうとした。それを邪魔するように胸元に歯を立てると、彼は鋭く息を呑み、留め金から手を放して仰け反った。
 彼が痛みに昂ぶる性質だということを知っているのが、自分ひとりだけであればいい。そう思いながら、皮膚を強く吸う。
「クロン」喘ぎ混じりの声が降ってくる。「フィラン……!」
 顔を上げると、ヴェルギルと目が合った。菫色の虹彩の中で、赤い欠片がぎらついていた。
「はやく、君に触れたい……」
「仰せのままに、陛下」
 囁くと、彼は目を眇めた。いまの当て擦りに、後でどんな意趣返しをしてやろうかと考えているのだろう。
 服を脱ぎ去ると、夜風が素肌を撫で、鳥肌が立つ。不意に吹き付けた強い潮風が服を攫って、夜の奥へと運び去ってしまったけれど、気にならなかった。服になど構ってはいられない。残された時間は短いのだ。
 クヴァルドは、ヴェルギルの腰の曲線を撫であげながら身体を重ねた。腹が重なり、剥き出しのものが擦れ合うと、どちらともなくため息が漏れる。甘い吐息を味わいたくて──あるいは味わわせたくて──クヴァルドは舌で、ヴェルギルの唇をこじ開けた。
 舌を押し込み、鋭い牙の先に、それを押しつける。
 ぷつりと皮膚が破ける感覚と共に、小さな痛みが生じる。だがその痛みはすぐに、ヴェルギルの舌に絡め取られ、跡形もなく飲み下されてしまった。
「ん……」
 血を吸われるほどに頭が痺れて、頭の先から脚の爪先まで、甘美な戦慄が駆け巡る。このまま最後まで上り詰めてしまいたいと思うほど、得も言われぬ感覚。
 唆されるままに、彼の身体に覆い被さり、繋がりあっている時のように、ゆっくりと身体を揺らす。肌と肌が擦れ合うほどに、腰の底に蜜がたまってゆくようだった。それは重く、今にも煮え立ちそうなほど熱い。その熱情を孕んで勃ちあがったものが滑らかなヴェルギルの腹に触れると、それだけで達してしまいそうになる。
 熱い耳輪じりんに噛みつき、濡れた耳の中にそっと囁いた。
「シルリク……」
 彼は、囁きがもたらした快感に身をすくめた。
「シルリク、お前が欲しい」
 次の瞬間、ヴェルギルが膝でクヴァルドの身体を挟んだ。そして身構える隙も与えず、横様に寝返りをうつと、クヴァルドの上に馬乗りになった。彼は勝ち誇ったような笑顔で唇を──牙を舐め、自分の尻の下で脈打つものを指先で確かめると、嬉しげに目を細めた。
「さて、形勢逆転だ。クロン」彼は微笑んだ。「君がそのつもりなら──今夜は存分に、忠誠を尽くして貰うとしようか……?」
 大きな満月を背にして、月の體コルプ・ギャラハの白い肢体が輝いている。豊かにうねる漆黒の長髪は海風に靡き、まるで踊っているかのようだ。荒々しくも妖しい彼の本性が、月影によって描き出されていた。
 彼は言った。
「わたしが欲しいか?」
 呼吸が止まりそうになる。
「ああ、欲しい」
 クヴァルドはヴェルギルの上で腰を滑らせて、胸の上に尻を乗せた。傲然と見下ろす瞳に、我知らず胸が高鳴る。クヴァルドはヴェルギルの腰を引き寄せ、屹立に頬ずりをして、先端に口づけた。そうして、喉の奥を突くほど深くまで、それを飲み込んだ。
「ああ……!」
 ヴェルギルは頭を仰け反らせ、喉仏をさらした。そして、クヴァルドの髪を優しく掴むと、滑らかに腰を揺らしはじめた。
 柔らかい先端が何度も奥に触れ、嘔吐えずきそうになるが、やめなかった。喉の奥まで受け入れて、彼が感じているのままの衝動を受け止めたかった。舌で彼自身を包み込み、撫で上げて、薄い皮膚のすぐ内側に生まれた脈動を、つぶさに感じた。
「ああ……フィラン……」
 ヴェルギルのものを咥えたまま見上げると、彼は、どこか余裕を欠いた笑みを浮かべて言った。
「これ以上熱心に忠誠を示されたら、一人で終わってしまいそうだ」
 せめてもの抵抗のつもりで先端を甘噛みすると、ヴェルギルはまた、喉を鳴らすように笑った。
「忠実な臣下には、褒美を与えねば」
 彼は後退り、痛いほど張り詰めているクヴァルドのものを撫でさすった。あふれた先走りで濡れたものに、彼の長い指が絡み付き、熱っぽく愛撫をする。
「シルリク──」
 目眩を引き起こすほどの快感に耐えながら、香油が──どこかそのあたりに放り投げてあるはずの小物入れの中に──あることを伝えようとしたときには、彼はすでに、入り口に先端をあてがっていた。
「ん、く……」
「シルリク、無理をするな──」
「平気だ」彼は言った。「君は……わたしに触れていてくれ」
 ゆっくりと、時間をかけて身を沈める彼の腰を、そっと支えた。その間ずっと、ヴェルギルはクヴァルドの目を見つめていた。まるで、それが……それこそが自分を昂ぶらせるのだとでも言うように。
 やがて、ヴェルギルは呻きながら、最後の隙間を埋めた。呼吸は速く浅い。だが、満足げだった。かれは淫靡な笑みを浮かべる唇を、ちらりと舐めた。
 全てが収まって、改めて思い知る。ヴェルギルの中は、蕩けそうなほど熱い。
クソシャイテ……」
 キスが降りてきて、悪態を塞いだ。
 舌を繋いだまま、彼の中を愛撫するようにゆっくりと突き上げた。唇を噛み、舌を吸い、首筋に噛みついては、またキスをする。両の尻を掴み、彼の動きに合わせて上下させると、温かく濡れた内壁が、震えながら絡み付いてきた。
「んん……」
 むずがるような、愉しむような、陶然と蕩けるような喘ぎ声が、蜜のように、繋がった口の中にあふれた。その一つ一つに噛みつき、舐め、なぞって、飲み込む。
 強く突き上げると、彼は驚きと悦びが混ざり合った声をあげて、目を閉じた。それから、もう一度と強請ねだるように、クヴァルドの舌を吸った。そして、クヴァルドはその望みを叶えた。何度も。何度も。
 ヴェルギルがおもむろに身を起こし、クヴァルドを見下ろす。悪戯めいたような──それでいて真剣な眼差しに射貫かれる。
 彼は言った。
「今夜は満月だ、フィラン」
 その一言に、心臓が二倍の大きさになったような気がした。
 そうだ──そうだ。今夜は満月だ。
 満月の夜に、月のこんなに近くで──自然に囲まれて、シルリクと睦み合っている。
 なぜ今まで気付かなかったのだろう。
 鼓動が激しくなる。胸のうちで、目覚めた獣が暴れ出す。己を戒めている首輪を引きちぎって、本能を解き放とうと。
「よせ」クヴァルドは言い、ヴェルギルの胸に手を当てて遠ざけた。「とまって……くれ。これ以上は、危ない──」
 だが、彼はとまらなかった。その代わりに、クヴァルドの目を見つめたまま、艶めかしく腰を揺らめかした。まるで、馬を操る騎手のりてのように。
「シルリク……! 頼むから煽るな!」
 彼は言った。
「解き放て。君の中にあるものを」
 白く長い指が伸びてきて、クヴァルドの頬を撫でる。指先が首筋を辿り、鎖骨をなぞり、人間の皮膚に切れ目を入れていくように、胸の真ん中から臍までを、すっと撫でた。
 まずい。
 そう思った時には、手遅れだった。
 ヴェルギルが愛撫した場所から、湧き出るように、毛皮があふれた。息を大きく吸い込み、また吸い込むたびに、肉体が、骨が、軋みながら獣の姿に変化していく。
 鋭敏さを増す感覚に流れ込んでくる、愛しい男のにおいと鼓動、そして温度。それが、変異した直後の狼が抱える飢餓とも言うべき、心の中の虚ろに流れ込み、もっと、もっとと、唆した。
 皓皓と輝く月明かりの下、本能がたける。
 思いを遂げたい。ただ、それしか考えられない。
 自分がどんな姿をさらしているかなど、もはや問題ではなかった。
 クヴァルドは、ヴェルギルの腿を掴んで、思い切り腰を突き上げた。
「あ……!」
 ヴェルギルが息を呑み……吐き出す。
 クヴァルドは獣じみた唸り声をあげながら、柔らかい土に踵を食い込ませ、何度も何度も、ヴェルギルの中に自身を埋め込んだ。律動のたびに黒い髪が揺れ、肌には汗が滲み、受け入れられる以上の快感を受け入れている肉体から、狂おしいほど甘い匂いが溢れ出る。
「ああっ……あ……!」
 ヴェルギルが声を上げ、自らの胸や腹に手を這わす。彼は一番気持ちのいい体勢を探して仰け反り、腹を突き上げるクヴァルドのものに触れようとするかのように、臍の下を引っ掻いた。
「ああ……熱い……!」ヴェルギルが、揺れる声で呟く。「フィラン……!」
「……っ!」
 クヴァルドは身を起こし、ヴェルギルを組み敷いた。
 ヴェルギルは脚を拡げ、腰を掲げて、どこまでもクヴァルドを受け入れた。先走りは彼の中からあふれ、腿や、尻までぐっしょりと濡らしていた。泥濘ぬかるみに踏み入るような音を響かせながら、何度も突き入れ、掻き回し、最奥に先端が擦れるほど深く繋がったまま、ひたすらに揺さぶった。引っ掻き、引っ掛かれ、噛まれては噛みつき、互いがもたらす痛みと快感に、ただ溺れた。
 しなる腰を抱いたまま、何度も打ち付けると、ヴェルギルの脚がクヴァルドの腰に絡み付き、もっと深くと強請ねだった。
 その願いを叶えながら、クヴァルドはヴェルギルの首筋を噛んだ。
「あ……!」
 ヴェルギルの肉体が、ひくひくと震える。
「フィラ、ン……!」
 ヴェルギルの指が背中の毛にしがみつき、爪が肌に食い込む。その痛みが悦かった。まるで痛みを与え、与えられることで、この瞬間を肉体に刻もうとしているかのようだった。
「シルリク」
 深い歯形を癒やすように舐めて、もう一度噛む。そして、舐める。
 ヴェルギルは痛みと快感に身を震わせ、繋がった場所を幾度となく締め付けながら、さらにクヴァルドの背中を掻き抱いた。
「フィラン、もう──」
「ああ……!」
 終わりが近いことはわかっていた。クヴァルド自身、抽挿の度に、身体のありとあらゆる場所で小さな絶頂が弾けて、手に負えない。本能が求めるまま、身のうちの獣に余りにも多くを与えすぎた。これ以上は、本当に獣の領域に踏み入ることになってしまう。
 終わらせたくなかった。だが、終わりは訪れようとしていた。最も慈悲深く……そして残酷な終わりが。
「あ……あ……!」
 抱きしめた身体が震え、ヴェルギルの呼吸が深まる。
 この瞬間、何よりも強く待ち望んでいるものが、すぐそこにある。
「フィラン……」ヴェルギルの声は震えていた。助けを求めるように。
「シルリク」
 額を合わせて、目を閉じる。
 彼は小さく、何度も頷き、手の中のものを大きく扱いた。
「ん、ん……」
 クヴァルドは熱い吐息を吐き出しながら、全ての抑制を捨て去った。
「……っ!」
 汗ばんだ手を握り合わせ、強く握る。
「あ……!」
 ヴェルギルが仰け反り、身体が強ばる。
 繋がった場所をぎゅっと締め付けられて、クヴァルドもまた、ヴェルギルが至った高みに追いついた。
 稲妻に打たれたようなその一瞬、堪えていたものが容赦なくこみ上る。
「ああ……!」
 あたたかいものがヴェルギルの中にあふれ、二人の間に、ほんのわずかに存在する隙間を満たしてゆく。脈打つ度、息が止まるほどの快感に、いちいちおののいた。知らぬ間に自分に覆い被さっていたものを脱ぎ捨て、軽くなった身体でどこまでも浮いていけるような感覚に身を委ねる。それでいて、繋がりあった場所からもたらされる快感が、まるでのように二つの肉体を──魂をつなぎ合わせていることに、深い安堵を覚えた。
 喘ぐ息に波打つヴェルギルの腹に、白いものが零れ、伝い落ちてゆく。乱れた髪を草の絨毯に打ち広げ、夜露のような汗と白濁にまみれた彼は、この上なく美しかった。
 クヴァルドは、彼の上に覆い被さり、まだあたたかい精液を舐めた。ヴェルギルが、絶頂の余韻にまだ敏感な肌を震わせて、身を捩る。クヴァルドは、彼が逃げられないように四肢を掴んだまま、すべてを舐めとった。そして、満ち足りた気持ちになったときの癖で、口の周りをペロリと舐めた。
「フィラン……」
 ヴェルギルの手が伸びてきて、クヴァルドの頬を、そっと撫でた。
 東の空には夜明けが忍び寄っていた。星々は眠るように、白々とした空の中に溶けていこうとしていた。
 身震いをして毛皮を身のうちにしまい込み、人間の肌を取り戻す。そうして、人間の喉の使い方を思い出すために、もぞもぞと舌を動かした。
「自分が」喘鳴のような声が出てしまったので、咳払いをする。「自分がどれだけ危ない真似をしたか、わかっているのか……?」
 ヴェルギルは微笑んだ。
「わかっている」そして、言った。「それでも、満月の夜に、全てを解き放った君と……交わりたかったのだ」
「馬鹿な真似を」そう言いながらも、窘める気力は残っていなかった。「一歩間違えたら……お前を食っていたかもしれないんだぞ」
 するとヴェルギルは、夜明けの空のような薄紫の瞳を細めた。
「それはさぞかし、胸躍る体験だろうな」
「勘弁してくれ!」
 クヴァルドが呻くと、ヴェルギルは笑った。
 そして、クヴァルドもつられて笑った。
 笑いながら顔を寄せ、かがみ込んで口づけをした。
 それからヴェルギルは舌を出して、そこに絡み付いた狼の毛を指で除いた。そんな仕草さえ、彼にかかればどこか煽情的だった。
 ふたりは、まだわずかに荒い息を喘がせながら、一糸纏わぬ姿で草原に横たわった。クヴァルドは目を閉じて、海と緑とが混ざり合った大気のにおいを深く吸い込み──。
 
 叫びながら身を起こした。
 今のは、なんだ?
 混乱が頭の中で渦を捲いていて、自分を取り囲む景色すら、ろくに認識できない。
 おちつけ。
 今いるこの場所は間違いなくエイルの断崖ではないし、野外ですらない。ここは薄暗く、湿った地下で、月の明かりも、松明の明かりすらない。服だって──念のため、両手で触れて確かめてみたが──ちゃんと着ている。
 クヴァルドは立ち上がった。
 あたりにひとの気配はなく、全き闇に包まれている。
 ここはどこだ? こんな場所にシルリクと二人で忍び込んだら、人目を憚ることなく好きなだけ──。
 しっかりしろ!
 歯を食いしばって、思い切り頭を振る。ついでに、自分の頬を強く張っておいた。この痛みが消えるまでの間は、まともにものを考えることができるだろう。
 順を追って思い出そう。
 何日か前、視察という名目で、ヴェルギルと二人してエリマス城を出た。視察をすると言い出したのはヴェルギルだった。ふた月ほど前に、戴冠も無事済ませたことだし、ここらで千年前に暮らしていた島の全容を思い出したいというのが、彼の言い分だ。だが、目的の半分以上はクヴァルドのためだったと思う。移り住んで以来、国外に出る用向きで多忙を極めていたせいで、クヴァルドは、エイルの国内の様子についてはまだ把握しきれていない。もちろん、どの地域に何があって……というようなことは理解しているが、それだけでは不十分なのはよくわかっていた。
 クヴァルドの部屋の衣装入れには、まだ、あの冠帯ミンドがしまい込まれている。
 ふたりで手を携え、ふたりで王になるという約束を、いつかは叶えたい。そのためには、この国のことをもっとよく理解しなくてはならない。
 だから、ヴェルギルに視察に行こうと誘われたときには、一も二もなく賛成したのだった。
 かつて名ばかりの摂政役を引き受け、いまはシルリク王のもと国務秘書を務めるロドリック・リオーダン卿は、護衛が必要ではないかとそれとなく示唆したけれど、ヴェルギルが不要だと言うと、それ以上言いつのったりはしなかった。ヴェルギルを打ち負かすことができる者はそう居ないし、背中を守るという役割はクヴァルド一人でも十分に担える。それに、これほど長い期間を二人きりで過ごせる機会が滅多に訪れないことを、彼は理解していた。ロドリックは、どうもクヴァルドとヴェルギルの……何というか、成り行きに、少なからず心を砕いてくれているようだった。
 ともかく、そんな計画のうちにエイル本島の南東に位置する王都エリマスを出発して、海岸沿いに北上していった。エイルに移住したナドカや人間たちの集落は南に集中していたから、その一つ一つを見て回るのにしっかりと時間を掛けた。気まぐれに顔を見せた王に、住民たちは驚き慌てていたけれど、だからこそ、ありのままの姿を見ることができたと思う。どの村も、まだ豊かさを享受できるほど安定した暮らしを営むわけにはいかないようだ。だが、少なくとも餓えている者は居なかった。虐げられている者も居ない。絶望した者も。
 それは、とても大事なことだ。
 その後、ふたりは集落が集まった地域を抜け、鬱蒼とした森ばかりの中部に至った。
 そこには、千年以上にわたって、瘴気の中で眠り続けた森が広がっていた。豊かな緑の中には、鳥獣はおろか、虫の気配さえない。ただ息苦しいほどに重い空気と、胸が詰まりそうなほどに濃厚な、苔むした薫りが立ちこめていた。木々の枝葉の隙間から差し込む光は、森そのものが抱え込んだ無言の怒りによって、弱々しく減じられているように思えた。そして、森をいくらも歩かないうちに、ふたりは道を見失った。
 覚えている限りではここはまさに、あの森の……どこだったはずだ。
 クヴァルドは、小物入れから〈魔女の灯明〉を取り出した。硝子の筒に入った青い炎に息を吹きかけると、炎は大きく、灯りは強くなる。光に目をしばたきながらも、それを掲げて、改めてあたりを見回した。
 周囲を取り囲んでいたのは、黒々とした石壁だ。自然が生み出したものではなく、何者かの手によって削り出され、ここに積み上げられたものだ。石の壁には、原始的な模様がびっしりと刻まれていた。幾つも繋がりあった渦巻きに、太陽を思わせる輪の重なり。月の満ち欠けを描いたようなものもある。それに、蛇や鳥のような模様も──古の人々が自然の中に見出した、この世の理を表わした文様だ。そこに込められた太古の祈りに触れて、クヴァルドはようやく思い出した。
「そうか……」
 森の中で偶然見つけた広場と、その奥にあった、古びた石の扉。ここは、あの扉をくぐった先の、聖堂の地下だ。
 地図さえ残っていないエイルの地名を、再びこの世によみがえらせる唯一の手がかりはヴェルギルの頭の中にしかない。しかし、千年という年月を生きていく中で、彼は多くの記憶を手放さざるを得なかった。ヴェルギルはクヴァルドの案内役を買って出はしたものの、彼から得た情報はそれほど多くは──いや、ほとんどなかった。
 だから、森を抜ける途中で出くわした広場も、その中央にあった石造りの祭壇跡も、固く閉じられた扉のことも、彼は何一つ覚えていなかった。とはいえ、軽々しく足を踏み入れてはならない場所であることはわかった。エイルの森に、まだ妖精シーは戻ってきていないから、彼らを警戒する必要はほとんどない。だが、その代わり、ここにはもっと危険なもの──古い神の気配が色濃く残っていた。
 古びた神殿には近寄らないというのは、旅人が最初に学ぶ教訓だろう。それが神、あるいは落神らくしんのどちらのためにあるのだとしても、危険なことには変わりない。
 もはや人々の祈りを集めることもなくなって久しい太古の存在は、陽神デイナが支配する世界では、人々の間に災いを振りまく者として語られる。
 信仰を失った神のほとんどは、ただ静かに消滅してゆく。だがごく希に、この世で現身うつしみを得る場合もある。それが落神らくしん──陽神教が言うところの、悪魔である。デーモンは、そうした落神らくしんと人との交わりの中で生まれた者たちだ。だが、ここ数百年の間に、落神やデーモンの種族が誕生したという話は聞かない。落神らくしんの誕生自体が極めて珍しいからだが、理由はそれだけではない。ひとと結び合って子孫を残すほどの『正気』を備えた落神が、ほとんど生まれないせいだ。
 もしも、神というものが祈りを糧にながらえるのだとしたら、長きにわたって顧みられることなく落ちた神は、一体どういう存在になるのだろうか。
 よしんば落神にならなかったとしても、霧深い森の中で、新たな祈りを届ける者の到来を待っていた神は、千年前に恵みをもたらした神と、果たして同じものだろうか?
 ヴェルギルは神経をとがらせていた。だがクヴァルドには、ここを無視して通り過ぎてしまいたくない理由があった。広間にあった祭壇に、ミョルモル島の遺跡で見たのと酷似している彫刻が施されていたのだ。
 エダルトが、ミョルモル島で長い時を過ごしたことは知っている。わからないのは、その理由だ。古い遺跡の他には何も無いあの島の、一体何が彼を引き寄せたのか……クヴァルドはずっと気になっていた。壮絶な戦いによって損なわれたミョルモルの神殿からは失われた手がかりが、ここで見つかりはしないかと思ったのだ。
 そして、仔犬の好奇心がどうとかいう文句を並べるヴェルギルを放って遺跡に夢中になっているうちに、雨が降り出した。
 今思えば、千年以上もの間放置されていた神殿で雨宿りするのは、確かに最善の策ではなかった。だがクヴァルドは、石の扉をこじ開けて神殿の中にはいった。身体が冷えると冬の蜥蜴のように不機嫌になるヴェルギルを、雨に濡れたままにしておくよりはと思ったのだ。
 ふたりは、雨漏りがひどい入り口付近を避けて奥へと進んだ。そして、不意に甘い匂いを嗅いだとおもったが最後、気を失ったのだった。まるで煮え立つ蜜のような濃厚な香りは、今もあたりに充満して、クヴァルドの嗅覚を鈍らせていた。そおそらく、強烈な眠気と、淫らな夢の原因もこの匂いにあるのだろう。
 夢のことを思い出して、またばつの悪さがぶり返す。ばつが悪いだけならまだマシだ。できることなら眠り続けて、あの続きをみたいと思っている自分に気付いてしまったせいで、一層不面目な気分に陥っている。
ちくしょうダムネイ
 ほんの一時。ただの雨宿りのつもりだった。だが、最善の策ではなかったどころか、最悪の事態に陥ってしまったかもしれない。気を失ってからそう時間がたっていないのであれば心配には及ばないけれど、もしそうでなければ、まずいことになる。
 とにもかくにも、まずはヴェルギルを探さなくては。
 クヴァルドはもう一度、さっきよりも強く頬を張ってから〈魔女の灯明〉を掲げ、勘を頼りに進んだ。
 
        †
 
 ミョルモル島での戦いを経て自分の身に起こった変化を、軽々しく考えるべきでは無いことはわかっていた。だからこそヴェルギルは、枢密院顧問のソーンヒルに指揮をとらせ、文献や伝承の調査を進めさせていたのだ。
 しかし──当然と言えば当然のことではあるが──あるじと共に消滅するはずだったところを、月神ヘカに目こぼしされた吸血鬼に関する伝承など、そうそう見つかるはずもなかった。結局は、場当たり的に発見された限界や綻びを記録に留めておく他に、できることは無かった。
『限界』が生まれる分にはいい。問題は『綻び』の方だ。
 以前は、霧に変化へんげし、また人の姿に戻るという芸当も容易く行うことができた。だが最近、人の姿を捨てると、そのまま大きな力に引きずられて、どこまでも自分が膨張していくのではないかという恐怖に駆られる。人の姿に戻った後にも、抗い難い衝動がいつまでも身のうちに蟠って、ちょっとした刺激でそれがあふれてしまうのではないかという気がするのだ。
 月の満ち欠けから受ける影響にも同じ事が言えた。
 月の子らヘカウが満月から受ける影響は様々だ。人狼は満月の夜になると我を忘れ、夢魔はいつにも増して活動的になる。妖精シーは月影の下で浮かれ騒ぎ、魔女は言い知れぬ昂ぶりに眠れぬ夜を過ごす。
 対して、月の體コルプ・ギャラハが警戒すべきなのは、月が見えない夜の方だ。新月の夜、吸血鬼は深い闇の底を徘徊し、獲物を求める。月の光が見えないことで不安に陥るあまり、そうした行動を取るのだと言われている。吸血鬼は月の子らヘカウの中で、最もヘカに近く、それゆえ最も乳離れが遅い子供だと言える。始祖であるエダルトが変異した時期とも関係しているのかもしれない。彼は幼い頃に母を失い、裏切りに遭って乳母を失い、導き手であったマニバのことは、吸血して自ら死に至らしめた。月の體コルプ・ギャラハの冷たい血肉には、母への思慕が刻み込まれている。
 吸血鬼の深層にある心理がどうあれ、月が見えない夜に凶暴さを増すのは疑いようのない事実だ。ヴェルギルは長い年月のうちに、そうした衝動を制御できるようになってはいた。だが、ミョルモル島での戦い以来、どうもそれがおぼつかなくなっている。新月の夜になるたび、あと一歩で抑制を解いてあふれそうになるものの気配に、ヴェルギルは人知れず怯えていた。
 新月でさえこの有様だ。数年に一度の月食で何が起きるのかは、誰にも予想がつかない。
 もうじき四年ぶりの月食が起こることは、ソーンヒルから忠告を受けていた。城から少し離れた場所に地下室を造り、月食の夜には、そこに籠もる計画まで立てていた。だからこそ、政務のほとんどが自分無しで回るように手配したのだ。それが上手く行き過ぎた結果、ずいぶん余裕ができてしまったから、今回の視察を決めたようなものだった。ロドリックにも、月食の夜までには帰ると約束をしてあった。
 なのに、このざまだ。正体も知れぬ神の神殿に立ち入るなど、無分別にもほどがある。
 寧日ねいじつもなく立ち働いた褒美として、少しは羽を伸ばしても良かろうと……心のどこかで浮かれていたのかもしれない。あるいは、この神殿が持つ、何かを引き寄せる力に抗えなかったのだろうか。
 この甘い香りに頭の芯まで犯され、淫夢にまみれて気絶と覚醒を繰り返しているうちに、ずいぶんと時間を空費してしまったらしい。
 いや。空費という言葉で片付けるには、あまりに素晴らしい夢だった。閉ざされた空間で睦み合うひとときこそ、まさに望んでいたとおりの夢だ。いかなる邪魔も許さず、ただ二人だけで……。
 嗚呼、あれがまことであったらどんなに良かったか。
 だが真実は、この硬く冷たい石の床だ。それと、こうしている間にも隙あらば淫夢に誘い込もうとする、忌々しいほど甘い匂い。それらに一人で立ち向かわなければならない、この現状。
 彼は無事だろうか。よほど不運でなければ、無事だろう。だがきっと、似たような夢に捕らわれて動けなくなっているはずだ。
 彼がここに居てくれたら。
 いや。そうではない。彼がここに居ないことを、喜ぶべきなのだ。
 石の床に這いつくばって起き上がることもできない現状は、全く以て好ましくない。これは、神殿に居座る神の悪戯のせい……いや、そればかりではないだろう。普段なら、どうにか起き上がり、ここから逃げようとすることくらいはできたはずだ。
 原因はわかっている。
 月が、今にも欠けようとしているせいだ。
 いまヴェルギルがいるのは、神殿の深部にある円形の広間だ。三百人程度なら苦もなく収まりそうなほどの広さがあるが、ここにはヴェルギルしかいなかった。かつて行われていた儀式の記憶を留めているのは、其処此処で崩れかけた像や祭壇の他にはない。碗をかぶせたような形状の天井には丸い天窓があり、そこから月の光が差し込んできていた。
 石の床に落ちた月影が、わずかに、だが確かに欠けはじめる。
 月食が、始まってしまった。
「ぐ……!」
 身体の中から、何かが湧き出そうとしている。何か。奔放な何か。放埒ほうらつで貪欲な何かが、薄い皮膚を突き破って、今にも暴れだそうと足掻いている。
 いま最も呼んではならない者の名前が喉から迸りそうになって、慌てて唇を噛む。その名を口にしたら、おそらくはもう、歯止めがきかない。
 滅びの淵からさえ、自分を引き上げることができる唯一の存在。月の見えない夜、不安のどん底で手を伸ばすとしたら、彼しかいない。だが──今までに何度はじらずと罵られたかもわからぬ身でありながら──彼に、己の変わり果てた姿を見られたくは無かった。
 変わり果てたヽヽヽヽヽヽ
 頭の中で、思い醒めたる声が言う。
 そうではない。幾星霜を経て人ならざる者の真髄に至った、これこそがお前のまことの姿なのだ、と。
 
        †
 
 ようやく見つけた。
 甘い匂いの中で頼りなげに揺蕩う、一本の糸のような彼の匂い。
 ヴェルギルを求める本能に、隙あらば纏わり付いてこようとする淫奔な思考を振り払いながら、クヴァルドは匂いを辿って、転がるように駆けた。
 どこまでも続く、筒のような隧道のところどころに、明かり取りの窓があらわれはじめる。地上に出たことを喜んだのも束の間、嫌な予感が的中したのを目の当たりにして、クヴァルドは歯を食いしばった。
 今夜は満月。その月が、もう半分ほども欠けていた。畜生。
 はじまってしまったのだ。月食が。
 城では、月食の夜に備えて入念な準備が行われてきた。今回の月食では、ヴェルギルの身に何が起きるか予想がつかない。本当ならばとっくに引き返して、安全なところに収まっているはずだった。
 ヴェルギルはひとりで地下室に籠もることになっていた。どのみち、満月の夜には何もできないクヴァルドは、せめてできるかぎり近くにと、自分のための狼小屋を地下室の傍に移した。分厚い壁に隔てられてはいても、なんとかしてふたりでこの夜を乗り切ろうと──そう思っていたのに。
 じりじりと身を焦がす満月の力に抗いながら、クヴァルドは先を目指した。
 冷静さを失うまいと拳を握りしめてはいたけれど、自分を突き動かしているのが、獣の本能に限りなく近いものであることはわかっていた。
 彼の元へ。
 何が待ち受けていたとしても、彼の傍にいなければならない。
 頭の中にあったのは、それだけだった。
 
 手で掴めそうなほど濃くなってゆく匂いの中に分け入りながら、クヴァルドは、目の前に口を開いていた入り口に飛び込んだ。そこは広く、空っぽの広間だった。
 その中央に、夜がうずくまっていた。
 そうとしか形容できそうになかった。
 薄闇の底に、一層深い闇がわだかまっている。無数の黒い蔦のようなものをあたりに伸ばしている様子は、闇雲に何かを探しているようにもみえる。その本体とも言うべき闇の塊にははっきりとした輪郭はない。そのものと、周囲を取り巻く闇との境目は、薄墨に垂らした一滴の墨のように模糊もことしていた。
 クヴァルドは、一歩、前に踏み出した。
 目には見えない抵抗が、そこにあるのがわかった。まるでそこだけ、空気が重たく、硬くなっているようだ。息をするのも苦しいほど。
 物音を聞きつけたのか、宙を手探りしていたえだのうち、何本かがクヴァルドの方を向いた。
 これが、この神殿で祀られていた神のなれの果て──落神らくしんであるなら、今すぐにでも剣を抜いて斬りかからなければ、こちらの命が危ない。
 だが、そうは思えなかった。
 これに似たものを、前にも見たことがあったからだ。ミョルモル島での戦いで──ヴェルギルが命を懸けて、息子と戦っていたときに。あの時見た黒い靄は、ひとの形を保ったままのヴェルギルから溢れ出た一部分にすぎなかった。だが、もし本当にこれが、クヴァルドが思った通りのものなのだとしたら……。
 いぶかりながらも、一歩、また一歩と、闇の塊に近づいてゆく。すると、何本ものえだが頭をもたげ、クヴァルドに向かって、うねりながらその先端を伸ばした。
 それはおそるおそる、クヴァルドの身体の至る所に触れては、まるで熱いものに触れたかのように遠ざかった。そのうち、何本かが思い切って手首に巻き付いたり、胸板に触れたり、頬を撫でたりした。
 その肢は冷たく、まるで夜の空気に触れているようだった。
 この温度を、俺は知ってる。
「シルリク」
 名前を呼ぶと、黒い靄は一気に膨れ上がった。それまでか細い蔦のようだったえだは太く鋭くなり、クヴァルドを取り囲んだ。いまにも獲物を飲み込もうとして開かれた、巨大なあぎとに並ぶ牙のように。
 だが、それは襲っては来なかった。その代わりに、何本ものえだがそろりと延びてきて、クヴァルドの身体に巻き付いた。じゃくように。あるいは……縋るように?
「シルリク」
 一歩踏み出し、思い切って、黒い靄の中に手を突っ込む。すると、怒った肢が蛇のようなシューッという音をたて、クヴァルドに噛みつく仕草をした。
「シルリク、俺だ」
「やめてくれ」と影が言った。
 その声を聞いて、膝から崩れ落ちそうなほど安堵する。「シルリク……! これは一体──」
 影は、その質問には答えなかった。代わりに言った。
「見るな」
 その声は──単なる『声』を超越していた。まるで、鳴り響く鐘の内側にいるかのように、音が震動となって、皮膚を──骨までも揺さぶるような、そんな力を持っていた。声が命じるまま、クヴァルドは黒い靄から顔を背けた。従わないという選択肢が、頭の中に浮かぶことすらなかった。
「見ないでくれ」彼はもう一度言った。「月食が始まってしまった。今のわたしは──とてもひと目に映せるようなものではない」
 幾分、声の力を抑えてくれたようだった。空気が和らぎ、少しだけ、呼吸が楽になる。だが、まだあちらに顔を向けることはできない。
「シルリク」荒い息を整えて、呼びかけた。「どうにかして……お前を助ける方法は無いのか?」
「ない」という言葉と「ある」という言葉が、同時に聞こえた。
 それから、やや強い語気でもう一度「ない」という声がした。
 まるで、葛藤がそのまま口をついてでてしまっているようだ。
「本当なのか?」クヴァルドは食い下がった。「少しでも楽になる方法があるなら、言ってくれ。何でもする」
「月が再び満ちるまで待つより他ない」
 感情のない声が、淡々と告げる。だが、それに続いて聞こえてきたのは、全く別の声色だった。
「とても狂おしいのだ──フィラン」
 その声。濃厚で、甘く、それでいて切なげで──まるで、身体の内側を愛撫されたような気分になる。最も感じる場所の、さらに奥に触れられたかのように。
「これほど沢山の手を、わたしは持て余している」物憂げな声が、さらに続けた。「このえだの一つ一つが、君を求めて、ひどく疼いている……」
 無数のえだが捩れ、くねり、のたうち、とぐろを巻いた。
 その動きに魅入られなかったといえば、嘘になる。幾つもの手が自分に求めていることが何であれ、それを叶えたらどうなるのかと思うと、鼓動が逸った。満月がもたらす飢餓感はすでに限界を超えている。そこへ来て、あの悩ましい声で誘われたいま、クヴァルドの理性は瓦解の一歩手前というところまで来ていた。
「俺は……どうすればいい……?」
「何もするな!」と、厳しい声が言う。「出口に向かって走れ。神殿の外に出るまで、後ろを振り向くな!」
 クヴァルドは、振り上げられた鞭を見た馬のように戦き、是が非でもその命令に従わなければと思った。だが、じりじりと後退った足を止めたのは、またしても、もう一つの声だった。
「フィラン……行かないでくれ」
「何をしている、行け!  さあ!」
 クヴァルドは目を閉じ、拳を握りしめた。そして、絞り出すように言った。
「無理だ」
「早く行け! さもないと──」
 無理だ。抗えるはずがない。
 彼が助けを求めている。その声に、抗えるはずがなかった。
 クヴァルドは返しかけた踵を戻し、黒い靄をしっかりと見据えて、歩を進めた。無数の手は、突然の反抗に驚くように揺らめいた。
「俺は、お前の元から離れない」クヴァルドは言った。「お前に対して偽ることも、お前の中にあるものから目をそらすこともしない。俺の息が絶えるその瞬間まで、決して」
 彼が王になった日に、忠誠の──真心の証しとして口づけを捧げながら、同じ事を誓ったのだ。いまクヴァルドは、黒いえだのなかから一つを手に取り、あの日と同じように口づけをした。
「駄目だ、フィラン──」頑なな声が、わずかに揺らいだ。「自分でも、何をしでかすかわからないのだ」
 二つに分かたれていた声が、徐々に一つに重なってゆく。
「君を傷つけたくはない」
 クヴァルドは、黒い靄の前に膝をつくと、両手をそっと、闇のなかに差し込んだ。
「心配なんかせずとも、俺は丈夫だ。知っているだろう」
「よせ──」
 無数の肢が、クヴァルドの腕を掴んで留めようとする。
 彼は言った。「君には、見られたくないのだ」
 ヴェルギルの声に怯えを聞き取ったのは、これが初めてだった。クヴァルドは一つ息をついて、言った。
「どんな姿にも、お前の魂の美しさが顕れている」すると、腕に巻き付いた手から、ほんのわずかに力が抜けた。「それを賛美する機会を……俺には与えてはくれないのか?」
 彼は答えなかった。だがその代わりに、腕を戒めていた手が、緩んで……解けた。
 クヴァルドは、捉えどころの無い影に差し込んだ手を、幕を開くようにゆっくりと、左右に拡げた。
 彼が、そこにいた。
 ヴェルギルの言葉通り、それはクヴァルドの見知った姿ではなかった。
 彼の肌は黒く、朧気おぼろげだった。まるで、ひとの形をした暗雲のように──あるいは、無数の獣の輪郭が混ざり合うように、絶えず揺らぎ、蠢いているのだ。どれが手で、どれが脚だという区別をつけることはできなかった。混沌──そう呼ぶにふさわしい容貌だった。
 一方で、頭から肩に掛けては、ある程度の形を保っていた。口元には鋭い牙が並び、その奥には、うかがい知ることもできないほど深い闇が潜んでいる。最も驚かされたのは、目だった。大きな眼窩には、菫色の双眸の代わりに、燃え上がる星のような青白い光がおさまっていた。古の人々が彼に与えた海の光ガーリンネの異名を思い出しながら、クヴァルドはしばらくの間、その目に見蕩れた。
 そうしているうちに、無数の黒いえだが手に巻き付いて、クヴァルドを遠ざけようとした。彼が全身に覆い被さっていたそれは、あの美しい髪が変化したものだったのだ。
「きれいだ」
 クヴァルドは、本心から言った。
「クロン……」ヴェルギルは俯き、小さな声で言った。「嘘が、上達したようだな。だが──」
 最後まで言わせないうちに、クヴァルドはその口を、口づけで塞いだ。すべての肢が驚いたように震え、それから、床の上にくたりとおちる。
 躊躇いがちに、ヴェルギルが口づけに応えると、幾十いくそものえだもまたおそるおそる、身をくねらせながら、クヴァルドを包み込んだ。
 それは、はじめて味わう抱擁だった。まるで、という海の中に沈み込んだような。
 口づけも、いままでとは違っていた。濡れた舌の感触は同じなのに、その動きや形は……もっと、自由だった。口だけで睦みあえるのではないかと思うほど。
「君のことを……喰らってしまうかもしれない」彼は囁いた。
「それは」冷たい蔓が首筋に、腰に巻き付くのを感じて、クヴァルドはそっと目を閉じ、微笑んだ。「それはさぞかし、胸躍る体験だろうな」
「恐ろしくはないのか?」ヴェルギルが、小さな声で尋ねる。
「いいや」クヴァルドは、一瞬も悩まずに答えた。
 すると、腰に巻き付いた手が腰を抱き、クヴァルドを引き寄せた。
「これでも?」
 無数の手が、裾や襟の隙間から滑り込んできた。肌と布地の間で艶めかしく蠢く肢の感覚に圧倒されながらも、ゾクゾクと戦慄が沸き起こる。まるで……何人ものヴェルギルに愛撫されているようだ。
「これでもか……?」
「ん……」
 口づけが降りてくる。差し込まれた舌は、ため息交じりの声をかき混ぜ、舌に絡み付いた。
 脚に巻き付いたえだが、ゆっくりと、付け根に向かって這い上がってくるのを、クヴァルドは感じた。そこに籠もった熱を暴かれたら──それに触れられたら、もうこれ以上は理性を保っておくことはできないだろう。満月の魔力に抗う時間が長ければ長いほど、ほんのわずかな刺激にさえも過剰に反応するようになってしまう。今夜のクヴァルドは、今までに無いほど強い意志の力で衝動を抑え込んでいた。だがこれ以上は、もう堪えておけそうにない。
 数え上げることさえできないほど沢山のえだのそれぞれが、ヴェルギルの欲望を体現しているようだった。あるえだが舐めあげるように耳輪じりんを愛撫し、また別の肢が髪を結んでいた革紐を解く間、異なる肢が首筋をゆっくりと下に辿りながら、革の防具の留め金を外してゆく。下から這い上がってくる肢もまた、巧みな動きで腹帯ベルトを外した。重厚な長衣も、その下の帷子も音を立てて床に落ち、身に纏うのものは、厚手のシャツと脚衣だけとなった。
 呼吸は更に荒くなり、熱に浮かされたような声が漏れてしまう。石の床の上で揺蕩う、闇の化身のようなヴェルギルに覆い被さられて、ただ為す術もなく、官能の虜になるしかなかった。
「ああ……っ、シルリク……!」
 あられもない声を堪えなければと思う余裕もないほど、無尽蔵に与えられる快感に没頭していた。
 緩んだ襟から新たな肢が忍び込み、汗ばんだ胸元や、脇腹の薄い皮膚を愛おしげに撫でた。臍の周りを舐めつつ、脚衣の隙間を探り当てた肢が、そこからするりと中に潜り込み、脚の付け根へと這い寄る。それは腿の内側を擦りながら、さらに奥へと先端を伸ばした。彼を迎え入れ、奥深くで感じたいという、満たされぬ疼きを秘めた場所へと。
「あ……!」
 長い肢の先端が、そこに触れた。試すように縁をなぞっていた肢から、まるで皮を脱ぐように、別の感触のものが現れたのがわかった。それは太く、とろみのあるもので濡れていた。盲目の蛇が巣穴を探るように、その肢が、尻の割れ目を行ったり来たりしつつ、這入りこむための綻びを探っていた。
「は……、ん、ん……」
 期待をせずにはいられない。本能はすでに満月の力に屈していたし……ヴェルギルと結び合うことに、恐怖を抱く必要などどこにもない。
 濡れたものが、ようやくその場所を探り当てた。肢はくねくねと身を捩りながら、ゆっくりとなかに這入り込んでくる。いつものヴェルギルとは違う、慣れない感覚に思わず息を呑んだ。
「あ……!」
「これで、怖ろしくなったか……?」
 クヴァルドは首を横に振った。
「なら、これは……?」
 彼はそう言いながら、舌を絡め取り、扱くような動きをしながら口づけを深めた。そして、うねる肢でクヴァルドの体内をゆっくりと掻き回し、押しひろげ、擦りながら、言葉にせずに何度も問いかけた。
 わたしが恐ろしいか? 恐ろしいはずだ、と。
 だがクヴァルドは、恐ろしさなど微塵も感じなかった。ただただ今までとは違う、新しい……そして途方もない陶酔に溺れていた。
「んん……!」
 いまにも蕩けてしまいそうなほど昂ぶる身体は絶え間なく震え、抑圧から解放された欲望は血のなかで暴れていた。
「シルリク」クヴァルドは、ようやく口にすることができた。「どんな姿だろうと、お前がお前である限り……少しも、怖ろしくなどない」
 沈黙が降りる。真実を受け入れ、噛みしめ、飲み込むための沈黙が。
 しみじみと、ヴェルギルが言った。「ああ、フィラン……」
 密のように甘く濃厚な口づけが、クヴァルドの息を奪う。分厚く長い舌は口蓋を愛撫しながら歯列をなぞり、舌を擽って、喉の奥にまで押し込まれる。溺れるような感覚に、気が遠くなりそうだった。
「君が欲しい」口づけの隙間にねじ込むように、ヴェルギルが言った。
「ああ」うめき声ともつかない声で答える。
「君を、永遠にわたしの虜にできたら」懇願するような声で、彼が言う。「身のうちに留めて離さず、どこにも行けないようにできたら……」
 ヴェルギルが言い、クヴァルドの首筋を、牙と舌とで擽った。
「あ……」
 ヴェルギルは、力が入らないクヴァルドの身体を引き寄せ、闇が二人を包み込んだ。
「いっそ、君を喰らい尽くしてしまいたい」ヴェルギルは甘噛みで、首筋や鎖骨、胸元の感じやすい部分を味わった。「そうすれば、久遠の果てまで共にいられる」
 彼は本気だった。
 彼はクヴァルドの腹の皮膚に歯を立て、牙で引っ掻くように齧り付いた。あと少しでも、そのあぎとに力を込めれば、腹が破れ、臓腑があふれる。彼は、それを喰らうだろう。あの恍惚の表情をありありと浮かべて。そうすれば、彼の言った通り、二人は真に一つになる。
 それを想像して、頭の髄が痺れるほどの陶酔に包まれた。
「ああ……」
 牙をもつ肢たちの試すような甘噛みが、腹や、首筋、腿の内側や尻の肉を、次々と食んでゆく。その感触に……食欲と性欲とが混然と混ざり合った執着に、全身がゾクゾクと震えた。
「だが、それではあまりに惜しい……」ヴェルギルは、掠れた声で囁いた。「それよりも甘美なことは、他にいくらでもある……」
 クヴァルドの下半身に巻き付いた肢が膨れ上がり、脚衣の縫い目が、音を立ててほつれた。剥き出しになった臀部に新たな肢が群がり、濡れた先端が、痛いほど硬くなっていた屹立に巻き付いた。
「あ……!」
 穏やかな律動を思わせる動きで、体内に潜り込んだ肢が動く。その動きに合わせるように、ヴェルギルはクヴァルドの臍に舌先を指し込み、奥を穿った。
「シル……リク……!」
 まるで青天の霹靂のように、強烈な戦慄が沸き起こる。その甘美な震えは腹の底から興り、ありとあらゆる毛の先端までを駆け抜けた。
 激しい痙攣と共に、欲望の堰が切れる。堪える間もなく、クヴァルドは吐精していた。
「あ……あ……っ!」
 ヴェルギルは満足げに喉を鳴らした。零れる白濁の上で肢がのたくり、あたたかなぬめりを腹の上に塗り拡げてゆく。
「ああ……精液と混ざり合う、君の血のにおい」彼はうっとりと言った。「こんなにも香しい……」
 酔いしれたように、目が細まる。
 その目──どんな姿をしていようが、その目で見つめられたら、すぐにわかる。彼が欲しているものが何なのか。そして、そんな彼に全てを与えたいと思う己の本心も。
「シルリク」啜り泣くような声が出てしまうのにも構わず、クヴァルドは言った。「シルリク……早く、楽にしてくれ……」
 頭を傾けて、首筋を晒す。
 彼は微笑みながらかがみ込み、煙のように揺らぐ身体で、クヴァルドの身体をすっぽりと包み込んだ。
「君は本当に、わたしが怖ろしくはないのか……?」彼は言った。「だが、今さら恐れても……もう遅い」
 脅しを含む轟くような声が、触れあった全ての場所を震えさせた。それだけで、一度達したクヴァルドのものに、もう一度血が集まりはじめる。
「恐れるものか」とクヴァルドは言った。「俺が恐れるのは……お前を失うことだけだ」
 すると、ヴェルギルは小さく呻いて、それまで這入り込んでいた肢をずるりと引き抜いた。
 鋭い牙が首筋にあたる。そして、絶頂の余波に震える秘処ひしょには、別の柔らかいものが押し当てられた。
 牙の先端が食い込み、痛みを伴って、皮膚を穿つ。それと同時に、ゆっくりと、肢ではなくヴェルギル自身が、身体の中に滑り込んできた。目には見えないけれど、わかる。
 これは、だ。間違いない。
 今までに幾度も、その感触に貫かれて来たのだから。
「あ……あ……!」
 首筋の鋭い痛みに、身体が収縮する。その瞬間──肉を穿って挿入された彼の形を、はっきりと感じ取った。
 シルリク。ああ、シルリク。
「んん……」
 血を貪りながら、陶然と震えるヴェルギルの声。自分の身体が──血が、彼を昂ぶらせているのだという証しを、聴覚で感じた。触れあった皮膚で、感じた。背骨が萎え、溶けて、官能に滾る熱そのものに変わってしまいそうだった。
 血によって、ヴェルギルの身体に脈動が蘇り、じわりと温かくなる。
「すなない」ヴェルギルは囁いた。「今夜は──君の身体をいたわることが……できそうにない」
「それでいい、シルリク」そう言いながらも、さらなる快感を求めて、腰は勝手に揺れていた。「いたわりなど必要ない……ただお前を満たし……お前で満たされたいんだ……」
 彼は、その言葉に小さくうなった。
「ああ……!」
 クヴァルドを包み込んでいた闇の身体が、百──いや、千もの指で、全身を愛撫する。それはまるで、体内の蠢動に包み込まれたかのような感覚だった。
「あ……」
 その時、緩く立ち上がりかけていたクヴァルドのものが、何かに触れた。ヴェルギルの闇の身体が身じろぎするほどに、屹立は、微かな強ばりの中に飲み込まれ、温かく、しっとりと濡れて、微かに蠢く何かに包み込まれていく。
「は……あ……」
 深く満ち足りた、ヴェルギルの声が降ってきた。
「これで……これでいい……」彼は、勝ち誇ったように言った。
 ああ。これ以上に満ち足りた瞬間などあり得るだろうか?
 クヴァルドの中にはヴェルギルが、そして、ヴェルギルの中にもクヴァルドが居る。
 結合は果たされた。完璧な結合が果たされたのだ。
 ヴェルギルの身体が波のように揺れ、クヴァルドの身体の内側に、わずかに残っていた隙間も消えた。
「ア……っ!」
 先端が腹の奥を突き、身体が無意識に締まる。そのせいで、ヴェルギルを──その大きさを、ありありと思い知った。彼が動く度に体内を擦られ……同時に、自らの屹立を包み込む温かい壁が震えて、うねる。
「あ、あ……っ!」
 打ち寄せる波を思わせる、大きく、それでいて優しい動きに、クヴァルドは何度も揺さぶられた。
 ヴェルギルのものが押し込まれては引き抜かれ、無数の肢が全身を愛撫し、屹立は甘く温かい痙攣に締め付けられる。戦慄は、まるで無秩序に膚の上を駆け巡った。思いも寄らなかった場所で快感の泡が弾け、それが次々に連鎖して……手に負えない。
 腰、脇腹、肘の内側に腿の付け根……敏感な部分を撫でさすられながら、止めどなくあふれる喘ぎ声を貪るような口づけに喉の奥までも容赦なく愛撫される最中さなか、臍の裏側の感じる場所を何度も突かれ、吸い付くような肉壁を、本能のまま穿つ。
 もう、何も考えられない。息ができない。苦しい。だが、途方もなく気持ちがいい。
 もはやこの身のうちに、快感が存在しない場所など無かった。頭の先から爪先まで、全てがこの結合に歓喜していた。
 思考がおぼつかなくなり、意識がゆっくりと溶け始めているのがわかった。徐々に早まってゆく脈動の中、さらに熱を帯びてゆく肉体に包まれ、揺さぶられ、ひとつ突かれるごとに濃くなってゆく忘我の靄に身を委ねると……皮膚が薄くなり、じわりと、溶ける。
 ああ──もう少しで、手が届く。
「ン、あ……!」
 脳裏で白いものが弾け、意識が、光で塗りつぶされる。
 堰は切れた。ガクガクと震える身体の中から、温かいものが止めどなく溢れ、流れ出てゆくのを感じた。それは繋がりあった部分を満たし、濡らして……だがクヴァルドは、それでもなお硬さを失わなかった。
 まだだ。まだ、この瞬間を終わりになどしたくない。
「フィラン──」
「もっと」クヴァルドは言い、ヴェルギルの唇を噛んだ。「もっとだ」
 すると、まだ達していないヴェルギルの屹立がうねりながら、最奥のさらに奥まで潜り込んできた。
「あ……!」
「ああ……フィラン……!」
 後ろから、前から、至る所からクヴァルドを抱くヴェルギルの、感じきった吐息が耳を擽る。彼は抽挿を繰り返しながら、無数の手でクヴァルドの身体に手を這わせた。胸や、腹や、腿──慄く全身を、膨張する快感に今にも弾けてしまいそうな身体を、愛おしげに撫でさすった。
「フィラン──ああ……」
 幾つもの肢が腹をまさぐり、ぐっとおさえつける。そうして、ヴェルギルは再び、律動を早めた。
「あっ、あ、シルリク……シルリク……!」
「君は……なんて素晴らしいのだ……」
 賞賛を隠そうともしないヴェルギルの声に、聴覚が蕩け、目に涙が滲んだ。
 無数の肢に全身を愛撫され、敏感になった乳首が痛むほどに屹立している。その疼きを宥めたくて身を捩ると、肢が即座に望みを叶えてくれた。
 だが、ああ──これは、強すぎる。快感が、あまりに。危なすぎる。逃れたい。この瞬間に留まっていたい。永遠に。
 クヴァルドのものを飲み込んだままの闇の体が、抽挿にあわせるように、それを扱く。身動きするたびに、密着した身体が擦れ、濡れた肉の音が響いた。
「あっ、いい──シルリク……!」
 まるで、快感だけを追求する生き物になってしまったかのように、腰が動くのを止められない。触れたものを闇雲につかんだ手の指に、ヴェルギルの指が絡み付く。ぴったりと重なり合った身体が立てる淫靡な音を、濡れそぼった肌が直接味わっている。ヴェルギルの掠れた荒い呼吸を聞くだけで、耳の奥まで、悦びに痺れる。
「ああ……、あ……っ」
 二人分の快感を受け止めきれない意識が、いまにも、甘い蜜の中に崩れ落ちてゆこうとしていた。
 今度こそ。完膚なきまでに。跡形もなく。
「あ、シルリク……」
「フィラン……」
 強請ねだるような甘噛みが、首筋をかじる。
「シルリク、お願いだ──このまま……!」
「……っ!」
 首筋に、深々と、牙が食い込む。痛みと快感が爆発し、頭の後ろを突き抜けた。
「あ……!」
 長く掠れた声を上げて、ふたりは達した。
 呼吸すらままならない絶頂の中、意識は、あまりにも濃厚な官能の中に霧散した。肉体から解き放たれ、骨も、血も、肉も、まるで意味を成さない次元に至った。その一方でクヴァルドは、身体の中心に流れ込んでくる生々しい熱をつぶさに感じた。それは脈打つものに塞がれた穴の中を隅々まで侵し、満たして、ついには溢れ出た。
 まるで嵐雲に遊ぶ稲妻のように、絶頂の余韻が、身体の内を這い回る。声ならぬ声を漏らしながら、二人はただ、互いにしがみついていた。そうしなければ、肉体がばらばらに解けてしまうような気がした。
 クヴァルド自身の激しい鼓動と、それを包み込む闇の脈動が、すべてを出し切った互いの虚ろに響く。ゆっくりと、呼び合うように。
「あ……は……」
 激しく息をつきながらも、闇雲に両手を動かして、クヴァルドはヴェルギルを抱きしめた。
「は……」
 荒い呼吸に膨らんでは萎む身体が、ゆっくりと、元の姿を取り戻してゆく。まるで、嵐雲が溶けてゆくのを見るようだった。
 そんなことを考えていたせいだろうか。どこか遠くで、春雷が轟くようなゴロゴロという音を聞いたような気がした。
 春雷。いや、違う。あれは笑い声だと、僅かに残っていた獣の本能が言った。再会を嘉する笑い声。
 だが、誰と誰の再会だ? ヴェルギルと、いったい誰の?
 当のヴェルギルは、元の姿に戻ってもなお、言葉を発することもできないほどの余韻に囚われたままだった。荒い呼吸に喘ぐ彼は、クヴァルドの胸に突っ伏したまま身動きもせず、長いことそうしていた。彼を見つめているうちに疑問は霧散し、いつの間にか意識の隅に追いやられてしまった。
 ふたりは、しばらくそうして、打ち上げられた遭難者のように寝そべっていた。やがてクヴァルドが、ぼさぼさに乱れた黒髪を持ち上げてヴェルギルの顔を覗き込むと、彼は疲れ切った顔に、なんとか笑みを浮かべて見せた。
「は……」
 力なく笑うと、彼は目を閉じ、そのまま眠ってしまった。
 天窓から差し込む明かりは、いつの間にか、白い朝の光に変わっていた。
 
 やっとのことで広間を抜け出したのは、昼も遅くになってからだった。二人とも消耗しきっていて、身を起こすのにもかなりの時間を要す有様だったのだ。
「二度と、由縁もわからない神殿には足を踏み入れない」ヴェルギルはしつこいほど何度も言った。「君の好奇心がどれだけ疼こうと、絶対に同じ過ちは犯すまい」
「ああ、本当に面目なかった」
 普段なら、窘めるのはクヴァルドの役目と決まっていた。だが今回は確かに、己の非を認めざるを得ない。とはいえ、滅多にない叱責の機会を、彼が十分過ぎるほど楽しんでいるのはなんとなくわかったから、クヴァルドも次第に彼のを受け流しはじめた。何しろ、広間を出てから神殿の扉に至るまでの間に、十五回は同じことを言われているのだ。
「怪我がなかったから良かったものの、一歩間違えば、二度と太陽の光を拝めなかったかもしれないのだ」
 自分の後ろを歩くヴェルギルに見えないのをいいことに、クヴァルドはぐるりと目を回した。
「おまけに、あんな危ない真似をして──」
「もうわかったと言っているだろう」
 クヴァルドは振り向いて、ヴェルギルト顔をつきあわせた。
「確かに、軽率だった。お前を危険な目に遭わせたことは、心から謝る。もう二度と同じ間違いはしない」一息に言ってから、ヴェルギルの目を見て続けた。「だが、一つだけ反論させて貰うが……危ない真似を楽しんだのはお互い様じゃないのか?」
 すると、ヴェルギルは眉を上げ、一瞬だけ目を伏せて考え込むふりをした。彼が再び顔を上げた時、そこには悪戯めいた微笑が浮かんでいた。
「楽しまなかったと言えば、嘘になる」そして、少しだけ真顔で付け加えた。「だが、これきりだ。次も上手くいく保証はない」
「もちろん」クヴァルドはしかつめらしく頷いた。「当然だ」
 そうして、二人は神殿の外に出た。
 日は高く登っていて、神殿の前の広場に降り注ぐ日差しもあたたかかった。
 驚いたことに、広場の風景はがらりと変わっていた。あまりの変わりように、神殿に入ったときとは別の場所から外に出たのかと思ったほどだ。早春の頼りない緑に覆われていた広間に、いつの間にか、色とりどりの野花が咲き誇っていたのだ。どうやら、ふたりが神殿に囚われていた間に、この森に春が訪れたようだった。森にはなっておいた二人の馬は、広場の向こう側で柔らかい新芽をのんびりと食んでいたが、主人の姿を見ると安心したようにいなないた。
 出し抜けに、ヴェルギルが声を上げた。
「ああ! 思い出した!」
「何がだ」
 ヴェルギルがクヴァルドを見た。「この神殿が、どの神に捧げられたものだったのか、やっと思い出したのだ」
 クヴァルドは眉を上げた。「そうなのか? それで、誰なんだ」
 ヴェルギルはゆっくりと息を吸い込んでから、言った。
「ゴルマグだ」
「ゴルマグ? それは……昔話に出てくる、棍棒を持って旅人を襲う巨人のことか?」
 ヴェルギルは首を横に振った。「そういうことにされてしまったが、本来は春を司る神なのだ」
 ますますわけがわからない。
「なら、俺たちはなぜあんな風に……その……」言葉を濁す。
「ゴルマグは春の神で、春というのは芽吹きの季節だ。ゴルマグが、彼の巨大な棍棒で地面を突くと、そこから草花や獣たちが生まれ出ると言われている……つまり、棍棒は生殖能力の象徴なのだ」
 ヴェルギルは眉をあげて、それ以上の説明を省いた。
 クヴァルドは、息を吸い込んだ。そして、その息を胸の中にとどめてから、ゆっくりと吐き出した。
「なるほど」そして、もう一度言った。「なるほどな」
「春になると、ここで祭りが行われていた。多くの若者がここで出会い、夫婦の誓いを結んでいた」ヴェルギルはしみじみと言った。「大人になるまでは絶対に、この神殿に近づくなと念を押されていたのだ。冬から春に移り変わる時期は特に危険だ、と」
 彼は深々とため息をついた。
「ようやく、その理由がわかった」
「今まで知らなかったということは……その祭りには参加しなかったのか?」
 ヴェルギルは肩をすくめた。「必要がなかったのだ。ムールンとの結婚は、六歳の時に決まっていたからな」
「そうか……」
 二人は改めて、神殿を見た。
「この場所のことを、皆に知らせた方がいいだろうか」クヴァルドは言った。
「さて、どうしたものか」ヴェルギルは眉をひそめたまま、笑った。「知らせれば、皆が殺到するか、封鎖しろと言われるかのどちらかだろう。あるいは封鎖をかいくぐった人びとが殺到するか」
 ふたりは、春を一杯に湛えた盆のような広場を見つめた。そこでは、冬を脱ぎ捨てた太陽の光を、ありとあらゆる生き物が謳歌していた。
 そう。いつの間にか、森には生き物たちの姿が蘇っていた。
 そよ風に揺れる何百種もの花々。その合間を飛び交う蜜蜂の、上機嫌の鼻歌のような羽音。ひたきは楽しげに鳴き交わし、つぐみは喉を震わせて美声を誇る。緑に埋もれた祭壇の上では、一匹のリスが日向ぼっこにいそしんでいた。どこからともなく顔を見せた鹿の親子は、二人の珍客に気付くと、再び森の奥へと消えていった。
「どちらに転んでも、ゴルマグは喜ぶまい」ヴェルギルは言った。
「ああ、そうだな」クヴァルドも言い、微笑んだ。
「それに、我々には別荘が必要だ」
 ヴェルギルの言葉に意表を突かれて、クヴァルドは間の抜けた声を出した。
「別荘?」
「息抜きをする場所のことだ。どんな王にも、息抜きは欠かせない。だろう?」
 クヴァルドは、呆れるのも忘れてヴェルギルを見た。
「息抜きのたびにあんな目に遭っていては、身が持たないんじゃないか」
 彼は揶揄うようにクヴァルドを見上げた。「君は、そうかもしれないが」
 クヴァルドはハッと笑って、ヴェルギルの肩を小突いた。
「よくそんなことが言えるな!」
 ヴェルギルは笑いながらその手をよけ、そして再び、クヴァルドに寄り添った。
「やはり、この場所は秘密にしておくべきだな」彼は言った。「でなければ、ここで起こったことをすべて報告する羽目になる」
「すべて報告する必要はないとおもうが……そうだな」
 生命に満ちた春の光景を、しみじみと眺める。そこには喜びがあった。芽吹きの勢いのままに溢れかえる歓喜があった。この森をひとの手に取り戻すことを、急ぐ必要は無い。エイルは蘇ったのだから。
 クヴァルドは頷いた。
「俺も、秘密にしておいた方がいいと思う」
「では、決まりだ」ヴェルギルは言った。
 二人は、太陽が陰り始める少し前に、その広場を後にした。
 
 結局、あれからそう間を置かずに、二人はあの神殿を探そうとした。しかし、何度試してみても、あの場所にたどり着くことはなかった。きっと、二度と見つけることはできないのだろう。
 あれは、ゴルマグが千年ぶりの王に与えた贈り物だったのではないだろうかと、ヴェルギルは言う。ずいぶん変わった贈り物だとクヴァルドが言うと、彼は静かに笑ってこういった。
「わたしにとっては、何よりも嬉しい贈り物だった」
 そしてクヴァルドの手を取り、微笑みを込めて口づけをした。
「フィラン……感謝する」彼は言った。「ありがとう。わたしを受け入れてくれて」
 クヴァルドは、その手を自分の口元に引き寄せて、口づけを返した。
「それは、こちらの台詞だ」
 ふたりは、互いが見た夢の話をした。奇妙に似通った夢を分かち合い、結び合わされた魂の妙を感じた。
 それからいくらかの時を経たのち、ふと思い立って、荒々しさの中にある美や、限りない受容についての話をすることもあった。
 時には失うことへの恐怖と、自分をさらけ出すことへの躊躇いについての話もした。それから、愛について話した。
 長い、長い時間と、幾千もの言葉を費やして、ふたりは、愛についての話をした。

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