或ル呉藍月ノ物語リ

蒼月さわ

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 覚えているのは、赤く染まった月だった。
 残業を終えた帰宅途中で、ちょうど近所にある古い神社のそばを通りかかった時だった。
 珍しいと思った。
 けれど、綺麗な月だと感じた。
 紅葉のような色をしていると。
 だが、その後の記憶はない。
 次に目を覚ますと、この世界にいた。
 そして、シキと出会った。



 林をぬけると、河原があり、小さな川が流れていた。
 もう日はかなり落ちて、辺りは薄暗くなっている。河原はひらけていて、空から襲撃者たちに見つかる危険性はあったが、蓮は構わずに着ている衣服を全部脱ぎ捨てると、裸になって川に飛び込んだ。
 川の水は澄んでいて、穏やかな流れだった。それでも足を滑らせないように気をつけながら、川底を歩いてゆく。川の水はそう冷たくはないが、長く漬かっていると体温が低下しそうなので、川の中間あたりで足をとめた。
 腰あたりまで水につかりながら、髪や顔から順序に洗ってゆく。先程の戦いで浴びた返り血を洗い流すと、血が水に交わり、赤く染まってゆらゆらと流れてゆく。
 蓮は何も考えずに、一心不乱に体を洗った。冷たい水に気持ちが幾ばくか洗われてゆく思いで、もう一度両手で水面をすくうと、顔に押し当てた。
 体を洗うと心が落ち着いた。毎晩温かい風呂に入っていたので、川で体を洗うという行為には最初抵抗があったが、次第にどうでも良くなった。体を洗えるだけで満足だった。
 蓮は顔を手でぬぐいながら、川から上がった。バスタオルなどという上等なものは勿論ない。丸めてあった薄い麻の生地をほどいて、全身を拭いた。肌がちくちくと痛むが、濡れネズミ状態よりはましである。湿った生地を両手で絞って、腰に巻いた。この辺の気候は夜でも温かい。周辺の木が青々と息づいているのを見ると、おそらく今は春ではないかと思う。今夜は腰に一枚だけで過ごすとして、汚れた衣類も洗うことにした。
 川べりにしゃがんで、まずワイシャツから洗った。石鹸はないので、手で揉んで洗う。生地が傷まないように、丁寧に。元の世界だったら、替えのワイシャツなどいくらでもあったが、ここにはこの一枚しかない。
 次にズボンや背広を洗った。全部、この世界へ来た時に身につけていた衣服だ。仕事帰りの普通のサラリーマンの格好である。これを見るたびに、自分がサラリーマンとして働いていた事実が呼び覚まされる。こちらの世界が現実であり、向こうの世界が夢であったのではないかという錯覚に囚われてしまうが、この下着や靴が打ち破ってくれる。
 変色した衣類は、時計のない世界で時の流れを率直に教えてくれる。蓮は一通り洗い流すと、大事そうに抱えて立ち上がった。すぐそばの林の木の枝に引っ掛けることにした。
 ちょうど、その林の中からシキが現れた。でこぼこの石が転がる河原の上を、音もさせずに近づいてくると、両手を差し出した。

「ここは、あまり食べる物がない」

 蓮はその手にある物を見た。左手には、枝にたわわに実っている山の野苺。この辺ではいっぱい採れるようで、毎日食べている。右手には、二羽の死んだ鴨。

「今夜はこれを焼いて食べよう。ここで火をおこしても大丈夫だ」
「……ありがとな。何か燃えそうなものを拾ってくる」

 シキはいつも食べ物を調達してくれる。山菜だったり小魚だったりする時もある。今夜は鴨を仕留めてきてくれたようだが、その手からぶら下がっている死骸を見ると、蓮は自分が獲物として狩られた姿を想像してしまった。瞬間的に吐き気がこみ上げてきたが、喉で無理やり押し込んで、逃げるように身をひるがえす。
 シキが何事か言いかける。しかし蓮は聞こえないふりをして、足早に林の中へ向かった。
 手頃な木の枝に、ワイシャツや上着を引っ掛け、ズボンや靴下や下着をかける。靴もその根元に置いた。素足で土の上を歩くのは、もうあまり気にならなくなった。気になっては生きてはいけない。
 蓮は地面に視線を落として、乾いている葉っぱや草を拾った。火をおこせそうな板と棒も探して、燃やせる枝木も一緒に両腕で抱えて持って帰った。
 いつでも林の中に逃げ込めるように、空からは死角になる場所で火をおこした。シキが木の棒を両手で挟み、板に押しあててこすりまわす。その動作は非情に手馴れていて、すぐに白い煙がたちのぼり、蓮が急いで草や葉っぱを回りに置いて、火がつくのを待った。はじめはこんなので火をおこせるのかと半信半疑だったが、シキたちにとっては当たり前の日常行為のようで、何の苦もなく火をおこせた。

「お前の驚いた顔を見るのは、これで二度目だ」

 初めて出会った夜、木の棒と板を前にして黙って見つめるだけの蓮に、やり方を教えながらあっさりと火をおこしたシキはおかしそうに笑った。

「……悪かったな」

 何も出来なかった蓮は罰が悪そうにそっぽを向いた。
 あれから、月日はだいぶ過ぎている。 

「俺も、少しは役に立っているだろう?」

 葉っぱや草に火がつき、枝木を入れて、炎をおこす。

「そうだな」

 シキは鴨を口で食べられるような形にして、細い木に刺すと、炎で強く炙る。

「以前は、何をしても死にそうな顔をしていたものだ」
「俺だって、いい加減に本能が目覚めるさ」

 蓮は子供のように言い返して、諦めたようなため息を洩らした。

「こんな格好で、野生の鴨を焼いて食べることになるなんて、想像もしなかったからな」 

 まるで原始人のようだ、と思った。川で体を洗うのも、服を川で手洗いするのも、腰に巻いた生地も、火のおこすのも、食べ物も、何もかもが、文明以前の生活を連想させる。

「俺も少しは逞しくなったんじゃないのか?」

 棍棒や槍で自分の身を守らなければならないのも……
 シキが踊るように燃える炎の向こうから、じっと蓮を見つめていた。その二つの黄昏色の瞳を向けられると、いつも落ち着かなくなる。――俺は嘘は言っていない。先程の出来事がまだ脳裏から消えないが、じきに薄れていくはずだ。そうやって、自分を襲う半人半獣たちから生き抜いてきたのだから。

「最初に比べれば、確かに良くはなった」

 シキはからかう口調になっている。

「偉大なる種族であるのに、何もできないのかと私も驚いたからな」
「俺は、普通のサラリーマンなんだよ。その偉大な種族さまとは違うんだよ」

 蓮も気安く噛みついた。自分の役立たずぶりを思い出すと、今でも恥ずかしくなる。
 シキは弾けるように笑った。その笑い声は、若者らしい生き生きとしたものだ。

「そんなに派手に笑うなよ」

 わざと怒ったような表情をしながら、蓮は半人半蛇の若者を確かめるように見回した。本当にどこにでもいそうな若者である。顔立ちは端整で、理性的。会社にいたら、女性たちからの人気も凄いだろう。仕事もスムーズにこなして、みんなから頼られる存在になる。そういう雰囲気が滲み出ている。言葉遣いはその分堅いが、たぶん性格からきているのだろう。一緒に旅をしているので、何となくわかってきた。自分より年は下だ。半人半獣に年齢などという概念があればの話だが。
 下半身の蛇の尾は、ゆるく巻かれている。鱗が白いので、暗闇でも目につく。

「――綺麗だよな」

 蓮はぽつりと呟いた。白い腹部に、火の色が赤く映えている。
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