或ル呉藍月ノ物語リ

蒼月さわ

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 徐々に気持ちが静まってきた。辺りを見回す余裕も生まれて、まだ夜であるのに、妙に明るいことに気がついた。

 ――月だ……

 すぐにわかった。風が吹いて、雲が散り、天空に現れたのだろう。
 蓮は救われたように息を吐いた。この月光は赤くはない。闇を洗浄するように清らかで温かく、心も自然と和いだ。
 干していたはずのワイシャツが、腰まわりにかけられていた。まだ少しだけ湿っているが、おそらくシキがかけてくれたに違いない。
 そのシキは、すぐそばで横になっていた。自分に寄り添うように眠り、小さな寝息をたてている。
 蓮は自分を抱いていた若者の寝顔を、月の明かりを頼りに、しばらく眺めた。

 ――普通の顔をしているよな。

 自分を狙う半人半獣たちと戦うシキは、戦士のように強かった。他の半獣たちが弱いわけではなく、シキが群を抜いて勇猛だったのだ。

(あれは、一族でも猛き者だ)

 白き半人半蛇の里で、年輪を重ねた樹木のような長老が、目の前で語った言葉が甦る。

(出会った其方は、運が良い。あれがそばにいれば、其方の帰路を助けるだろう)

 蓮は二人の周りを守るように囲う尾に視線を流した。その尾の末端が自分の体内へ押し入った興奮が、また下半身を襲った。

 ――馬鹿だな、俺。

 あれだけ抱かれたのにと、性欲の業に呆れ返る。けれど、まるで精神安定剤のように、シキに抱かれると気持ちが休まった。

 ――馬鹿なんだな、俺は……

 自分を貫いた蛇の姿は、全く変化がない。

(……我々には、そのような言い伝えはない)

 ヒトを喰らえばヒトになれる。そう信じて襲ってくる半人半獣たち。しかし、シキの一族は異なった。その理由に対して、蓮に語られたのはまた不可解な言葉だった。

(我々に語り継がれているのは……)

 それを聞かされた夜、里の外れに誘われた蓮は、シキと初めて交わった。
 月の明かりがほんのりと地上を染めあげた下で、蓮は女のように抱かれ、喘いだ。夜風に肌を撫でられながら、恥部を貫かれ、草むらに精液が染みついた。がっしりとした両腕が自分を抱きしめ、自分もその胸に甘えた。汗の臭いが周囲の静寂に消えてゆく中で、蓮は肌のぬくもりに安心した。だが、一瞬長老のその言葉が脳裏をかすめた。

(ヒトと……れば……)

 ――言い伝えは、あくまで言い伝えだったんだ。

 蓮はワイシャツをかけ直すと、再び横になった。眠ることに意識を集中した。明日もどうなるかわからない。
 寝返りをして、両目を瞑った。
 その時、何かが耳奥で聞こえた。
 周辺は夜に呑まれていても、自然の音は絶えない。風や虫の音が子守唄のように奏でている。だが、今耳朶を震わせたのは、明らかに何かがこすれる気配だった。
 蓮は両目をこじ開けた。緊張が極度の警戒に包まれる。ほのかな明かりに目を慣らして、全身で感覚を研ぎ澄まさせた。
 音の正体は、すぐにわかった。
 草上をそろそろと這ってきたのは、小さな蛇だった。
 蓮は横向きになった状態のまま、その蛇が自分の手前まで近づいてくるのを見た。蛇は手のひらにおさまるほどの小ささで、眼が濁った色をしている。
 緊張が急激に低下した。全身の力がゆるんで、思わず安堵の息を吐いた。

 ――まだ小さいな。

 蓮は突然現れた蛇をまじまじと眺めた。この世界にも、普通に生き物たちはいる。鳥も飛んでいるし、野生の猿も見かけたことがある。蛇だって、白き半人半蛇の里にいた。驚いたのは、蛇と半人半蛇たちは意思を交換できることだった。

 ――シキに会いに来たのかな?

 そう蓮は考えてしまった。
 しかし、蛇は目の前にいる半人半蛇を気にかける素振りを見せなかった。なぜか、蓮にだけその丸く濁った眼を向けている。
 蓮も息をひそめて、突然の来訪者の様子をうかがう。と、蛇が身をくねらせ、土の上に伏せるように長く伸びた。そこから、わずかな音をさせながら、辺りを這ってゆく。
 蛇はまるで何かを探すかのように、蓮たちの周りをゆっくりと這い回る。そのうちに、口元から皮が剥がれ始めた。だが蛇は動きをとめず、草や土や木の葉の上をずっと這いずり回る。皮はどんどんめくれていき、裏返しになる。それはまるで皮を脱いでゆくかのような現象で、尾の先まで剥がれると、蛇の形をした皮の抜け殻ができた。

 ――脱皮だ……

 蓮は知識で知っている蛇の生態行動を目撃できて、少なからず驚いた。古い皮を脱ぎ捨てた蛇は、心なしか鱗が鮮やかで、身の丈も大きくなったように見える。
 濁っていた眼は、深めいた色合いになっていた。
 脱皮を終えた蛇は、これで用が済んだというように、抜け殻を残して離れてゆく。
 その姿を目で追いながら、蓮は腕を伸ばして抜け殻を手に取った。抜け殻は柔らかく、とても軽かった。

 ――白蛇だったのか。

 抜け殻の色は真白だった。
 ふと、白蛇は山の神の使いだと誰かが喋っていたのを思い出した。
 蓮は背後で眠っているシキの息遣いを背中で感じながら、白蛇の抜け殻を胸に抱いた。赤子が母に見守られるようにして、やがて目を閉じた。




 ――眠ったか。

 シキは蓮が眠りに落ちるのを待ってから、静かに目をひらいた。
 蓮が飛び起きた時、シキもほぼ同時に意識を覚醒させていた。だが蓮に気づかれないように、敢えて瞼を閉じていた。
 蓮を起こさないように身を起こすと、辺りを睥睨した。蓮を襲う輩が潜んでいないか全身で警戒する。しかし幾ばくの危機もさし迫っていないことを感じ取ると、集中心を霧散させた。
 傍らでは、蓮が背中を向けて寝入っている。飛び起きて荒い息をついていたとは思えないような安らかな寝顔をしていた。

 ――今度は良い夢を見ていればよいが。

 シキはその寝顔を見下ろしながら案ずる。度々蓮が夢にうなされているのは知っていた。本人は何も言わないが、時折、寝床から苦しげに「……月が……」と呻いているのを、シキは聞いていた。

 ――月か。

 シキは頭上を仰ぎ見た。木々の合間からこぼれてくる月の明かりは、夜を慰めるためにある。シキたちは暗闇でも昼間同様に視界がはっきりしているが、蓮は明かりがあって、初めて夜の世界が感じられるようで、それは面白い現象だと思った。

 ――恐らく呉藍月だな。

 淡い光を浴びながら、蓮が以前に語ってくれた話を思い出す。

(……覚えているのは、真っ赤に染まった月なんだ……)

 夜、焚いた火を前に、ぽつりぽつりとしぼり出すように喋った。

(夜に、随分と明るいなと思って振り返って……そうしたら、月が赤くて……)

 敗残者のように打ちひしがれた蓮の姿に、シキは思わず胴を伸ばして両腕で抱きしめた。
 赤い月は、呉藍月と呼ばれている。それは、異なるものだ。白き蛇の里では、禍つ月とも、荒ぶる月とも呼ばれている。
 シキは蓮の寝入っている顔を優しく眺めながら、己の眼に未だある光景を甦らせる。
 闇に沈んだような深い夜、ふいに目覚めて、誘われるように里の外れへ向かった。そこで仰ぎ見たのは、雲一つなく星が煌く夜空に浮かんだ大きな呉藍月だった。

(その月が現れたのなら、逃げなさい)

 幼い頃母が語ってくれた言い伝えが、脳裏をかすめる。

(眼にしてしまえば、魂を奪われてしまいます。気をつけなさい、シキ)

 シキはしばらくその場に立ち尽くしたまま、微動だにしなかった。取り付かれたように巨大な赤い月から眼を離さなかった。
 それから、シキはそのまま里を後にした。

 ――母者の言うとおりだった。

 自分は魂を奪われたのだ。
 呉藍月を追って、出会った者に。
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