TRAFFIC

蒼月さわ

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第一話 エドモンド・ステイリー

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 瑛司はダンボール箱を置くと、肩で大きく息をつきながら、通路へ出た。

「ありがとう、ウォーカー捜査官」
「アリスと呼んで」

 気安くウィンクして、アリス・ウォーカーは離れてゆく。そのスタイリッシュな長身の女性を感謝するようにもう一度眺めて、瑛司も部署へ戻る。
 FBI本部の人事課に勤め始めてから、およそ一ヶ月は経った。人事課はその名称通り、FBIに在籍している捜査官及び、専門家、事務職員など、大勢の個人情報を取り扱っている。それは膨大な量で、国家の安全保障にも関わるので、僅かな情報でも洩れないように細心の注意が払われている。FBIに採用される際には、人事課で徹底的な身元調査も行われるので、その部署の職員たちも石のような口の硬さが求められている。守秘義務は当然だ。
 瑛司は通路の端を歩きながら、いまだに馴れない職場に溜息をついた。FBI本部という特殊さゆえか、ビル内部が非常に複雑な構造になっているのだ。さすがにエリート捜査官たちが迷子になるという事例はあまり聞かないが、瑛司のような新人は、目的地を目指して一心に進まなければ、途中から迷路を彷徨う羽目になるかもしれない。瑛司は上司のありがたい忠告を聞いてから、仕事で他の部署へ向かう場合、脇目も振らずに歩くことにしている。
 瑛司は肩を軽く叩きながら、ちょっと重かったダンビール箱を恨めしく思った。人事課での自分の仕事は、様々な雑用処理なのだと初出勤してから三日で理解した瑛司だが、資料室から捜査に必要な書類を運ぶよう言われた時には、何も考えずに従った。だが資料室で渡されたのはA4サイズの書類が入ったダンボール箱で、両手で持つとそれほど重たくはなかったのだが、それを四階のオフィスまで運ぶとなると、結構な重労働だった。

 ――しょうがないな。

 通路を行き交う職員たちと視線を合わせないように俯きながら歩く瑛司は、何もできない自分がやれるのはそれだけだと理解はしていた。専門的な知識もなく、採用試験を受けたわけでもない。国籍上単なるアメリカ人になった自分が、国のトップエリートが集まるこのビルで生きてゆくためには、誰もやらない重い荷物を運ぶしかないのだ。
 瑛司は階段の前に来た。ちょっと斜面のきつい階段を丁寧に下りながら、ここで足を挫いて転げ落ちたら頭を強く打って死ねるだろうかと、ふと思ったが、このビルに出勤した当日に実行しなかったので無理だろうと悟った。
 瑛司は頭を振った。仕方のない妄想だと一笑して、最後の一段を下りた。



「迷子にならずに帰って来たね、エイジ」

 人事課のオフィスに戻ると、上司にあたるエドモンド・ステイリーが、皮肉っぽく言ってきた。
 瑛司は目だけで頷くと、無言のまま、室内の隅にある自分のデスクに座る。この狭いオフィスはエドモンド専用で、エイジに与えられたデスクは前の部下が使用していたらしい。その部下はエドモンドが気に入らずに別の部署へ叩きだしたという話を、親切にも上司本人が話してくれた。

「私は仕事ができない人間と、お喋りな人間が嫌いなんだ。君の前任者はこの二つがミックスされていたから、その二つが活躍できる場所へ異動させてあげたよ。私はとても親切な男なんだ」

 初日にそんなことを言われて、瑛司は黙ったまま、エドモンドを上目遣いに見た。自分より上背のあるエドモンドは非常に愉しそうな笑みを浮かべて、瑛司の反応を待っている。

「……だったら」

 瑛司はしょうがなさそうに口をひらいた。最初FBI本部に就職すると聞いた時に湧いた馬鹿馬鹿しさが、再び失笑となって口元に出た。

「俺も、そうしてくれていいです。気に入らなかったら、殴ってくれても構わないです」

 本心からの言葉だった。
 エドモンドは顔色も変えずに、しばらく瑛司を眺めた。

「とても斬新な意見だ、エイジ」

 自分の予想通りの反応が返ってこなかったのか、つまらなそうに言うと、あとは興味が失せたように会話を振ってはこなかった。
 瑛司もエドモンドに興味はなかった。ただ命令された雑用をひたすらこなしていった。たまに仕事以外のことでエドモンドが言葉を寄越しても、目で頷くか、あとは顔を振ったり振らなかったりという簡単な仕草でしか返事をしなかった。

 ――どうでもいい。

 クビになっても構わないと思っていた。別に自分が望んだことではないのだから。
 デスクに座った瑛司は、そこに小さなメモが貼られているのに気がついた。長方形の白いメモ用紙に、『PM12:00にギニーで』とだけ書かれていた。
 瑛司は不審げにそのメモ用紙を剥ぎ取ると、じっと見入る。どういう意味だろうと首をひねった。だが全くわからないし、筆跡も誰のものか判断がつかない。
 顔を上げて、エドモンドを見た。エドモンドはパソコンを睨みながらキーボードを叩いている。

「……あの」

 瑛司は口ごもった。自分から声をかけるのは初めてだったことに、今になって気がついた。いつもはエドモンドから仕事を振られて、応対していた。

「ステイリーさん、話が……」

 何と呼べばいいのか戸惑って、ミスターと口にした。
 エドモンドはキーボードを叩いていた手を止めると、呆れたような視線を向けた。

「最初に自己紹介しなかったかな? 一ヶ月もすれば、私の名前なんか忘れてしまうんだろう。大して重要なことではないからね」
「……すみません」

 名前を間違えたのだと思った。しまったと感じた。

「私はエドモンドだ。エドと呼びなさい」

 エドモンドは片手で頬杖をつくと、瑛司にさあ、というように首を傾げてみせる。

「……エド」

 瑛司はレッスンでも受けているかのような奇妙な感じを持ったが、上司の名前を間違えたわけではないようなので、少々安堵した。

「用事は何?」
「これが……貼られていたんですけど」

 白いメモ用紙を手渡す。
 エドモンドは手のひらサイズのメモ用紙を、二つの指の間に挟んで受け取る。

「君のデスクに?」
「はい……誰からかわかりますか?」
「いや、私もオフィスを留守にしていたんだ」

 メモ用紙に書かれた文句をしげしげと眺める。

「つまり、無断でここへ誰かが侵入したわけだ」

 エドモンドは何故か面白そうに言う。

「スパイは君にメッセージを残していった。これは事件だ。まずは筆跡鑑定をしよう」
「……でも、そんな大袈裟なことじゃ……」

 ないんじゃないかと瑛司は言いそうになったが、その前にエドモンドが指を小気味よく鳴らした。

「鑑定結果が出た。この字はミザリーだ」
「ミザリー?」

 誰だろうと首をひねった。初出勤から一ヶ月で、顔と名前を覚えた人物は上司だけという低落ぶりである。

「ミザリー・スコットパーカー。同じ本部内で働いている職員だ」
「……えっ?」
「ランチの誘いだろう。ギニーは隣にある小さなレストランだ」

 瑛司は驚いて、上司をまじまじと見た。一瞬にしてメッセージの謎を暴いたことに、不思議な疑問が点滅する。

「色々な感情が表情に出ている。珍しいな、エイジ」

 エドモンドも物珍しそうに瑛司を仰ぎ見ている。

「まずは、何から説明して欲しいのかな?」
「……どうして、わかったんですか?」
「この字には見覚えがある。生憎なことに、一ヶ月前まで私の部下だったんだ」

 形の整った眉を迷惑げに寄せる。

「ミザリーはギニーの常連だった。美味しい料理があるとしつこく誘われたが、この世にはその店以外に美味しいレストランはたくさんある。そのことがミザリーはついに理解できなかった」
「……はあ」

 瑛司は少し面食らったように返事をした。上司の言い回しは、いつも以上に皮肉たっぷりだ。

「でも、どうして俺にこんなメッセージを……」

 その前任者とは一度も会ったことがない。少なくとも自分の記憶にはない。

「それは、エイジ」

 エドモンドは苦笑いしながら、メモ用紙を挟んだ指をひょいとエイジへ向ける。

「デートのお誘いだ」

 瑛司はびっくりして言葉を詰まらせる。

「……え? で、でも……」
「君に興味があるんだろう? とても好奇心旺盛な元部下だったから」

 エドモンドはメモの内容よりも、瑛司の狼狽ぶりの方に興味があるようだ。

「ミザリーはセクシーな女性だ。エイジには刺激が強すぎるかもしれないね」
「……そうですか」

 子供扱いするようなニュアンスを感じ取って、瑛司は話を切り上げることにした。

「教えて下さって、ありがとうございます」

 メモ用紙を返してもらおうと手を伸ばしたが、上司の指の間に強く挟まっていて取れない。

「ひとつ、聞いてもいい?」

 エドモンドは端整な顔立ちに、好奇の色を覗かせる。まるで返して欲しければ答えろと言わんばかりの態度に、瑛司は面倒そうに見返した。 

「何ですか」
「そんなに迷惑そうな顔をするんじゃない。君は恋人がいるの?」

 突然の質問に、瑛司は怪訝そうに眉をしかめる。

「それは……答えなければならないことなんですか」
「いや、そのような義務はないな」

 エドモンドはあっさり言質を翻すと、メモを返すように指を差し向ける。
 瑛司は上司の思惑がわからないまま、メモ用紙を指の間から抜き取ると、背を向けて自分のデスクへ戻った。一日分の会話をした感覚である。日頃会話などしないので、すっかり草臥れてしまった。

「エイジ」

 どこか面白がるような声が呼ぶ。
 瑛司は口元を煩わし気に結んで、目だけを向けた。エドモンドはメモ用紙を挟んでいた二本の指を上へ向けながら、瑛司へ含み笑いを浮かべていた。

「君は、本当に斬新な男だ」

 とても新鮮だと、愉快そうに呟いて、典型的な金髪碧眼の長身の男はまたキーボードを叩き始めた。
 瑛司はデスクの上で狐に包まれた顔になる。皮肉屋の上司が何を言いたいのかよく理解できない。だがいつもそうであるし、エドモンドもそれ以上の会話をする気がないようなので、メモ用紙を自分の目に入らない場所に置き、仕事に集中することにした。
 疲れたようなため息を落として。
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