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第9章
#3
しおりを挟む「すみません、急に押しかけてしまって」
「本当ですよ。あんな勢いでインターホン鳴らす人、初めて会いましたよ」
二人でカップやグラスにそれぞれ口をつけながら、軽口を叩く。
そのやりとりになんだか懐かしい気持ちになる。
僅かに鼻を掠めるバニラの香りに気付きながら、コーヒーのエッセンスとして楽しむくらいの余裕はまだあった。
(頓服飲んでおいて正解だったな)
文月さんと自分の間の香りの中に、文月さんが焚いてくれた康祐さんへの線香の香りが混じる。
半袖姿の文月さんの額には汗が滲んでいて、どうしてか焦って俺の家にきたことが分かる。
「今日はどうしたんですか?もう匂いがなくなってしまいました?」
ホットコーヒーにした俺は、カップをソーサーに置き直して文月さんに問う。
彼は「いえ、それは問題ないです」と相変わらず硬い口調で言った。
「じゃあどうして?」
純粋な疑問をぶつければ文月さんは、僅かに眉を寄せて表情を歪めながら、バッと勢いよく頭を下げた。
(え)
今度は驚きすぎて声が出なかった。
「ちょ、っと……どうしたんですか?」
驚きすぎて喉が詰まり、変な言い方になってしまった。
けれど、顔を上げない文月さんの肩に触れようとしたが、それはなんとなく怖くてやめた。
また、ヒートが急にきてしまったり、強い香りを嗅いでしまったら俺は本能の元に欲を無理やり曝け出されてしまう。
……そんな醜い姿をこの人に見せたくなかった。
文月さんは頭を下げながら口を開く。
「この間、中庭で朔と話していましたよね」
「え、ああ」
なんだ見ていたのか。
まあ、あの中庭なら院内の廊下からどこからでも見ることができる。
文月さんが見ていても不思議ではない。
文月さんはゆっくりと顔を上げて、きゅっと眉を寄せたまま下唇を少し噛んでいた。
「……俺、殴っちゃいました」
「ん?」
(殴っちゃいました?)
この人の話題転換は唐突なんだよな。
俺がため息を吐いて、文月さんを見つめる。
「ちょっと全く理解が追いついてないです。順番に説明してくれません?」
そう告げると、文月さんはハッとした顔をして「そ、そうですよね」とやっと体裁くらいは取り繕う気になったのか、俺から顔をそらしてグラスにあるアイスコーヒーを一気飲みした。
(それそうやって飲むもんじゃないだろう……)
「お代わりいりますか?」
そう聞けば、文月さんは「す、すみません」と、どっちとも取れる返事だったので、ちょっとムカついた俺は問答無用でお代わりを作りに行くことにした。
「それで?一体どうしたんですか?朔さんに何かありましたか?」
キッチンから作業をしながら声を掛ければ、文月さんは「いえ」と返事をする。
「……なんで朔が美澄さんといるのかと思って結城さんに聞きに行ったら、あの人が仕組んだことだって知って……」
(朔って呼び捨てか……)
まあ元パートナーだもんな。
手元で氷をグラスいっぱいに入れていく指先が冷えて少し痛かった。
「俺、カッとなって殴ってしまって」
「え?」
その台詞に俺は思わず注ごうとしていた熱々の熱湯をこぼすところだった。
「な、殴ったんですか?結城先生を?」
一旦ポットを置いてそう聞けば、文月さんは「はい」となんでもないような顔で言った。
(結城先生を殴った?なんで?)
そう思いながらもとりあえず、目の前の作業に集中してアイスコーヒーを再び完成させてソファに戻る。
どうぞ、という形式的なやりとりだけ済ませて「それで?」と話の続きを促した。
「なんで殴っちゃったんですか」
そう聞きながら文月さんの右手を見ると、人差し指から薬指までの第二関節に絆創膏が巻かれていた。
(本当に殴ったのかよ……)
まざまざと見せつけられ、尚更疑問の色が濃くなる。
文月さんは喉が乾いていたのか、アイスコーヒーをまた煽る。
カラン、と氷がグラスに当たった。
「俺の……あ、いや、美澄さんに何させてんだよってムカついて」
「え?」
あっけらかんと言ったその台詞は特大爆弾ではなかったか?と、目を丸くするも、文月さん的には普通のことだったみたいで話を続けていく。
(特大爆弾を急に落とすのは血筋か?)
と、かつての佐々木先生とのやりとりを思い出しながら、黙って文月さんの話を聞くことにした。
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