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一 前夜(五八四年)
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(ぜんや)
雨。
五月雨。
いや、似ているが、カラッとして、纏わりつくような音ではない。
「雨のようです」
山背姫は、呟いた。
聞き慣れている音であるのに、今は、どうしても、そう想わずにはいられなかった。
雨音のようだと。
江戸時代であれば、季節は七十二候の小満。
蚕起食桑、である。
しかし、今は、敏達天皇十三年(五八四年)である。
小満の頃であるから、五月雨には少し早かった。
孵化したばかりの毛蚕を、掃き立ててから、半月過ぎた。
春蚕は五齢に入り、最も良く桑の葉を食べる。
蚕が桑をはむ音が雨音に似ている、とは良く言われる。
その音が、今の姫には、殊更、五月雨のように聞こえるのである。
時が経つことが恐ろしい。
それが少しでも遅くなったら、と願うばかりであった。
皇子は、寝返りをうつように、姫の方を向いた。
「姫」
そう口に出したが、言葉の後が続かない。
それは、姫の内心を読み取ったからである。
それでも、掛ける言葉が見つからない。
いっそ、一緒に来てください、と言えるならいいのだが。
姫は皇子の姫ではなく、皇子は姫の皇子ではない。
このまま、皇子が大和の都に伴に居られるなら、二人はあるいは、本当の夫婦になれるのだろうか。
それは今となっては、考えることすら意味がないのだ。
皇子が都を離れることは、決まってしまったのだから。
しかし、その時がはっきりと「いつ」となるかは、姫に告げられることはないのだろう。
あと、何回会えるのだろうか。
今日、昼の給桑の前に、皇子は山背(山城=京都と奈良の境付近)に到着した。
いつもと同じ刻限である。
朝の内に、蜂岡(現、京都南部、太秦付近)を出て、馬で向かってくるのだ。
ただ姫に逢うために。
秦の人々は、そのことを皆知っている。
「蜂岡皇子(蜂子皇子)が来られなさった」と気がついても、皆ことさら大仰に反応しない。
皇子は、今年、二十四歳になった。
山背姫は、六つ年下である。
けれども、皇子には、すぐ上の姉のようにしか思えない。
農事に、桑の収穫、蚕の世話、そういう事を幼き頃よりやってきたからであろうか。
大人びていた。
しかし、その気丈な姫が、今日は年相応の娘に見えた。
そもそも、「姫」と呼ばれるようになったのは、蜂岡皇子の妻になることが間違いないと、考えられていたからである。
つまり、蜂岡皇子は、父、泊瀬部皇子(崇峻天皇になったとされる人物)が即位すれば、皇位継承権を持つことになる人物であり、その妻になる、秦河勝の娘、山背姫は、お妃候補であった。
当初、将来を嘱望された二人であったのだ。
しかし、近江王(後の、継体天皇=第二六代)が大和入りする時からの騒乱が落ち着くことが無かったため、二人の未来も危ういものに成っていったのである。
それは、そもそも、雄略天皇(第二一代)の御代における、宋(中国)との外交の不調に端を発していた。
その雄略を支えたのが大和最大の豪族、葛城氏であり、そこに従属するのが、泊瀬部の部民集団、つまりは秦の人々であった。
泊瀬とは、泊瀬河の河口流域を意味する。
泊瀬河とは、大和(奈良)の湖(古代に存在したとする説がある、現在の奈良盆地)に注ぐ、大和河のことである。
この「泊瀬」は、秦の部民たちが山背に移る前の居住地であった。
つまり泊瀬部は、秦部のことである。
大和湖は、推古天皇七年(五九九年)の推古地震より後、日本が地震の活動期に入って、幾度かの大地震によって約半世紀のうちに、水が地表から無くなり、やがて盆地になっていった、と云う。
大和湖は、舒明天皇(第三四代)の御代(在位:六二九年二月二日~六四一年十一月十七日)には、まだ存在していたのだろう。
舒明天皇は、大和湖をこう詠んでいる。
大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は
(大和には多くの山があるけれど とりわけ立派な天の香具山 その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 湖には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国)
大和湖は、泊瀬(大和)河によって河内湾(大阪湾)に繋がる。
大和に政権ができた最大の理由は、この水運がゆえである。
その大和湖が消え、天香久山からの景色が一変し、葛城氏は滅び、秦の人々が集団移住し、皇統の流れが代わった。
まさに、六世紀から七世紀にかけての日本は、あらゆる意味において、激動の時代であった。
激変したものの中心に、皇統の変流があった。
雄略朝から継体朝への大転換である。
その結果、泊瀬部の経済基盤は、武烈天皇(第二五代)で、大王(天皇)家と断絶する。
同時に従属していた秦の民は、大和(奈良)の葛城の地から、山背(京都)に集団移住したのであった。
しかし、それで簡単に移行するような浅い歴史ではなかった。
現に、泊瀬の流れを汲む、蜂岡皇子が生き、秦河勝の姫が居る。
二人が横になっているのは、高床の蚕小屋である。
日暮れまでにはまだ大分時間があった。
この小屋の蚕は、山背姫が中心になって育てていた。
「今の大王(敏達天皇=第三〇代)が亡くなられたら、本当に、世はどうなってしまうのでしょうか」
その問いは、今の蜂岡皇子にはどうでも良いことだった。
むしろ、姫との貴重な時を、政争のことで邪魔されたくない。
「いずれにしましても、元には戻らない、と私は思うております。父(泊瀬部皇子)がどうあろうとしましても、私はこれまでどおり、仏道に励みます」
まるで、政治には関心がない、と言い張る皇子である。
「わたくしが申しておりますのは、政のことではございません」
そうであった、と皇子は目を閉じた。
今度も、泊瀬部皇子(六五歳)が即位する可能性は殆ど無い、という噂が流れている。
皇統の混乱がなければ、年齢的には、敏達天皇の前に即位するべきであったろう。
この噂によって、反蘇我の勢力が密かに反撃に出る可能性も取り沙汰されていた。
泊瀬部皇子が即位しなければ、現主流派は、いよいよ泊瀬の名代の完全な取り潰しにかかってくるに違いないのだ。
いずれ、政争に巻き込まれる。
継体朝から止むことがない政争は、泊瀬部皇子にとって、疎ましく、不愉快極まりないことであった。
このようなことをしていては、新羅・百済に遠く及ばないだけでなく、内(日本国内)の国々すら纏まらないであろう、であった。
これを終わりにしなければならない。
泊瀬部皇子の決意は堅かった。
「朝廷は、蝦夷の国(現在の日本の東北地方)の開国から逃げてきた。彼の国がどうであるかも知らずに、蕃国(野蛮な国)と決めつけているようでは、いずれ任那(古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の出先機関)と同じことになろう」
蜂岡皇子は、そう言われる前から、同じ考えであった。
「仰せのとおりです。大和はおろか、国全部が滅びましょう」
「余はやり残したこともある故、そなたに北行(蝦夷の国へ行き、開拓すること)を任せるぞ」
蜂岡皇子に異存などあろうはずがない。
もとより、政には興味がなかった。
この年、蜂岡皇子が計画した寺が建立された。
実は、その寺が、「蜂岡寺」であった。後の広隆寺である。
寺の建立は、父、泊瀬部皇子の願いでもあった。
朝鮮政策のため、長らく九州に在った泊瀬部皇子は、彦山(現、英彦山。福岡県田川郡添田町)の「秦王国」に度々赴いて、仏教に親しんだ。
彦山は、九州修験の総本山であり、北魏の僧、善正が開山した聖山である。
それは、日本に仏教伝来(公伝)したとされる、五三八年の四年前のことであった。
つまり、公伝以前に、渡来人、秦集団の九州の拠点「秦王国」には、仏教が伝来していたことになる。
この彦山信仰は、のちの蜂岡皇子の思想に影響を与えていくが、それは後に述べる。
その仏教信仰の拠点を、秦河勝ゆかりの「蜂岡」に創る。
それが、蜂岡皇子の計画であった。
それほどまでに、皇子は仏教に傾注していたのである。
その皇子も、ただ、山背姫のことだけは、どうすれば良いか、結論を先送りにしたまま時が過ぎたのである。
蜂岡でも、山背からは近くはないのに、他国に行かれれば、もう逢えないことは、姫には分かっていた。
こうした逢瀬も、あと何回あろうか。
姫の気がかりは、そのことばかりである。
言葉も無く、蜂岡皇子は、姫を抱き寄せる。
それは、姫にとって至福であるが、本当の解決には繋がらない優しさであった。
それでも、今の皇子にできることは、許される限りの時を姫とともに過ごすだけなのであった。
姫の心は痛いほどに良く分かっているが、仕方がないのだ。
いっそ、皇位などと全く関係がなければ良かったのだ。姫と同じ部民であったなら。
しかし、現実はそうではない。
さらに、そういう逃亡に、姫を巻き込むわけにはいかないのである。
皇子は、半身を起こして、姫を見つめた。
姫は怯えているように見えた。
皇子は再び、姫に体を合わせる。
「すみませぬ」
姫が小さく呟いた。
謝るのは自分の方なのだが、と皇子は思った。
雨音は止まなかった。
雨。
五月雨。
いや、似ているが、カラッとして、纏わりつくような音ではない。
「雨のようです」
山背姫は、呟いた。
聞き慣れている音であるのに、今は、どうしても、そう想わずにはいられなかった。
雨音のようだと。
江戸時代であれば、季節は七十二候の小満。
蚕起食桑、である。
しかし、今は、敏達天皇十三年(五八四年)である。
小満の頃であるから、五月雨には少し早かった。
孵化したばかりの毛蚕を、掃き立ててから、半月過ぎた。
春蚕は五齢に入り、最も良く桑の葉を食べる。
蚕が桑をはむ音が雨音に似ている、とは良く言われる。
その音が、今の姫には、殊更、五月雨のように聞こえるのである。
時が経つことが恐ろしい。
それが少しでも遅くなったら、と願うばかりであった。
皇子は、寝返りをうつように、姫の方を向いた。
「姫」
そう口に出したが、言葉の後が続かない。
それは、姫の内心を読み取ったからである。
それでも、掛ける言葉が見つからない。
いっそ、一緒に来てください、と言えるならいいのだが。
姫は皇子の姫ではなく、皇子は姫の皇子ではない。
このまま、皇子が大和の都に伴に居られるなら、二人はあるいは、本当の夫婦になれるのだろうか。
それは今となっては、考えることすら意味がないのだ。
皇子が都を離れることは、決まってしまったのだから。
しかし、その時がはっきりと「いつ」となるかは、姫に告げられることはないのだろう。
あと、何回会えるのだろうか。
今日、昼の給桑の前に、皇子は山背(山城=京都と奈良の境付近)に到着した。
いつもと同じ刻限である。
朝の内に、蜂岡(現、京都南部、太秦付近)を出て、馬で向かってくるのだ。
ただ姫に逢うために。
秦の人々は、そのことを皆知っている。
「蜂岡皇子(蜂子皇子)が来られなさった」と気がついても、皆ことさら大仰に反応しない。
皇子は、今年、二十四歳になった。
山背姫は、六つ年下である。
けれども、皇子には、すぐ上の姉のようにしか思えない。
農事に、桑の収穫、蚕の世話、そういう事を幼き頃よりやってきたからであろうか。
大人びていた。
しかし、その気丈な姫が、今日は年相応の娘に見えた。
そもそも、「姫」と呼ばれるようになったのは、蜂岡皇子の妻になることが間違いないと、考えられていたからである。
つまり、蜂岡皇子は、父、泊瀬部皇子(崇峻天皇になったとされる人物)が即位すれば、皇位継承権を持つことになる人物であり、その妻になる、秦河勝の娘、山背姫は、お妃候補であった。
当初、将来を嘱望された二人であったのだ。
しかし、近江王(後の、継体天皇=第二六代)が大和入りする時からの騒乱が落ち着くことが無かったため、二人の未来も危ういものに成っていったのである。
それは、そもそも、雄略天皇(第二一代)の御代における、宋(中国)との外交の不調に端を発していた。
その雄略を支えたのが大和最大の豪族、葛城氏であり、そこに従属するのが、泊瀬部の部民集団、つまりは秦の人々であった。
泊瀬とは、泊瀬河の河口流域を意味する。
泊瀬河とは、大和(奈良)の湖(古代に存在したとする説がある、現在の奈良盆地)に注ぐ、大和河のことである。
この「泊瀬」は、秦の部民たちが山背に移る前の居住地であった。
つまり泊瀬部は、秦部のことである。
大和湖は、推古天皇七年(五九九年)の推古地震より後、日本が地震の活動期に入って、幾度かの大地震によって約半世紀のうちに、水が地表から無くなり、やがて盆地になっていった、と云う。
大和湖は、舒明天皇(第三四代)の御代(在位:六二九年二月二日~六四一年十一月十七日)には、まだ存在していたのだろう。
舒明天皇は、大和湖をこう詠んでいる。
大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は
(大和には多くの山があるけれど とりわけ立派な天の香具山 その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 湖には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国)
大和湖は、泊瀬(大和)河によって河内湾(大阪湾)に繋がる。
大和に政権ができた最大の理由は、この水運がゆえである。
その大和湖が消え、天香久山からの景色が一変し、葛城氏は滅び、秦の人々が集団移住し、皇統の流れが代わった。
まさに、六世紀から七世紀にかけての日本は、あらゆる意味において、激動の時代であった。
激変したものの中心に、皇統の変流があった。
雄略朝から継体朝への大転換である。
その結果、泊瀬部の経済基盤は、武烈天皇(第二五代)で、大王(天皇)家と断絶する。
同時に従属していた秦の民は、大和(奈良)の葛城の地から、山背(京都)に集団移住したのであった。
しかし、それで簡単に移行するような浅い歴史ではなかった。
現に、泊瀬の流れを汲む、蜂岡皇子が生き、秦河勝の姫が居る。
二人が横になっているのは、高床の蚕小屋である。
日暮れまでにはまだ大分時間があった。
この小屋の蚕は、山背姫が中心になって育てていた。
「今の大王(敏達天皇=第三〇代)が亡くなられたら、本当に、世はどうなってしまうのでしょうか」
その問いは、今の蜂岡皇子にはどうでも良いことだった。
むしろ、姫との貴重な時を、政争のことで邪魔されたくない。
「いずれにしましても、元には戻らない、と私は思うております。父(泊瀬部皇子)がどうあろうとしましても、私はこれまでどおり、仏道に励みます」
まるで、政治には関心がない、と言い張る皇子である。
「わたくしが申しておりますのは、政のことではございません」
そうであった、と皇子は目を閉じた。
今度も、泊瀬部皇子(六五歳)が即位する可能性は殆ど無い、という噂が流れている。
皇統の混乱がなければ、年齢的には、敏達天皇の前に即位するべきであったろう。
この噂によって、反蘇我の勢力が密かに反撃に出る可能性も取り沙汰されていた。
泊瀬部皇子が即位しなければ、現主流派は、いよいよ泊瀬の名代の完全な取り潰しにかかってくるに違いないのだ。
いずれ、政争に巻き込まれる。
継体朝から止むことがない政争は、泊瀬部皇子にとって、疎ましく、不愉快極まりないことであった。
このようなことをしていては、新羅・百済に遠く及ばないだけでなく、内(日本国内)の国々すら纏まらないであろう、であった。
これを終わりにしなければならない。
泊瀬部皇子の決意は堅かった。
「朝廷は、蝦夷の国(現在の日本の東北地方)の開国から逃げてきた。彼の国がどうであるかも知らずに、蕃国(野蛮な国)と決めつけているようでは、いずれ任那(古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の出先機関)と同じことになろう」
蜂岡皇子は、そう言われる前から、同じ考えであった。
「仰せのとおりです。大和はおろか、国全部が滅びましょう」
「余はやり残したこともある故、そなたに北行(蝦夷の国へ行き、開拓すること)を任せるぞ」
蜂岡皇子に異存などあろうはずがない。
もとより、政には興味がなかった。
この年、蜂岡皇子が計画した寺が建立された。
実は、その寺が、「蜂岡寺」であった。後の広隆寺である。
寺の建立は、父、泊瀬部皇子の願いでもあった。
朝鮮政策のため、長らく九州に在った泊瀬部皇子は、彦山(現、英彦山。福岡県田川郡添田町)の「秦王国」に度々赴いて、仏教に親しんだ。
彦山は、九州修験の総本山であり、北魏の僧、善正が開山した聖山である。
それは、日本に仏教伝来(公伝)したとされる、五三八年の四年前のことであった。
つまり、公伝以前に、渡来人、秦集団の九州の拠点「秦王国」には、仏教が伝来していたことになる。
この彦山信仰は、のちの蜂岡皇子の思想に影響を与えていくが、それは後に述べる。
その仏教信仰の拠点を、秦河勝ゆかりの「蜂岡」に創る。
それが、蜂岡皇子の計画であった。
それほどまでに、皇子は仏教に傾注していたのである。
その皇子も、ただ、山背姫のことだけは、どうすれば良いか、結論を先送りにしたまま時が過ぎたのである。
蜂岡でも、山背からは近くはないのに、他国に行かれれば、もう逢えないことは、姫には分かっていた。
こうした逢瀬も、あと何回あろうか。
姫の気がかりは、そのことばかりである。
言葉も無く、蜂岡皇子は、姫を抱き寄せる。
それは、姫にとって至福であるが、本当の解決には繋がらない優しさであった。
それでも、今の皇子にできることは、許される限りの時を姫とともに過ごすだけなのであった。
姫の心は痛いほどに良く分かっているが、仕方がないのだ。
いっそ、皇位などと全く関係がなければ良かったのだ。姫と同じ部民であったなら。
しかし、現実はそうではない。
さらに、そういう逃亡に、姫を巻き込むわけにはいかないのである。
皇子は、半身を起こして、姫を見つめた。
姫は怯えているように見えた。
皇子は再び、姫に体を合わせる。
「すみませぬ」
姫が小さく呟いた。
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