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二 五七五年の決意
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(けつい)
五八五年という年は、いわば歴史の転換点であった。
しかし、全てが、その年になって、にわかに勃発したわけではない。
過去に密約され、布石が打たれ、また引き金となり、そして発端となった。
それらの結果が出た年。
それが、五八五年である。
その時点から遡ること十年。
「大臣様、磐井が参っておりますが、いかがいたしましょうか」
「通せ」
言い方は尊大だが、若さみなぎる声音であった。
馬子(蘇我馬子)の石川(奈良県橿原市石川町、本明寺付近)邸に来たのは、東韓磐井(東韓駒の父)であった。
常は、配下の者を遣わすはずであるが、直々に磐井が来たということは、大事であろう。
果たして、頭を上げて、姿勢を正した磐井は、直ちに報じた。
「広姫様がお亡くなりになりまして、ございます」
馬子は、一つ小さく頷くと、しばらく沈思した。
父、稲目(蘇我稲目)の遺志を継いで五年。
三年前に、大臣に抜擢されたが、それは親の力である。
齢二十五。
これからが正念場であった。
広姫が立后(第三十代、敏達天皇の皇后)して以来、こうなることを密かに願っていた馬子だが、こうも早くに、その時が訪れるとは考えていなかったのである。
故に、頭の中を整理するのに少しの時を要した。
まず、これで、父、稲目のつけた本来の道筋に戻る。
すなわち、すでに妃となっていた、蘇我系の皇女、額田部皇女(後の推古天皇)が、晴れて第一妃となる。
つまり、蘇我系の皇統の道が開ける、ということであった。
それは、先代の欽明天皇(第二九代)と蘇我稲目が交した密約であった。
暗殺による皇統の修正。
近江王であった、ヲホドが大和に上り始め、史実上、大王(天皇)に即位したのは、五〇七年のことである。
継体大王の即位である。
これは、日本史上初の専制君主として、地方豪族を制圧した、大泊瀬王、雄略大王が、遂に梁(中国)の武帝に「倭の王」と認められ、「征東将軍」の官位を授けられてから、わずか五年後のことであった。
雄略朝から継体朝にかけては、内政においても内紛状態であった。
雄略大王と葛城氏との対立。
継体と九州豪族、磐井との乱。
そして、常に背景には、朝鮮半島内の覇権争いと、その先に帝国、中国があった。
すなわち、極東における国際戦争の只中に、日本も組み込まれていたのである。
その中で、どう皇統が繋がれていったか、それがこの時代の一大画期であった。
そのヲホド(継体)がようやく大和に入朝したのが、即位から十九年後の、五二六年であったことからみても、まさに国内は騒乱状態に近かったのではないかと推測するのである。
よって、日本内政が、ひとまずの平穏状態になるまでにも、相当の年数を要したのであり、継体朝になっても、皇統は落ちつかなかったのである。
この争乱の中から、浮上してきた勢力があった。
他方、その争乱によって、大王家に匹敵する豪族が凋落した。
葛城氏である。
これにより、本来、主人、葛城氏の一配下にあった、渡来系、蘇我氏が突出してくるのである。
この新興豪族の礎を築いたのが、蘇我稲目である。
稲目は、葛城の保有していた土地や、部民を当然のように我がものとして取り込み、勢力を拡大していく。
その中で、密約があった。
稲目と、継体天皇の嫡男(第一皇子)、欽明との密約である。
本来、第一皇子が先帝の跡を継ぐのが正当な形である。
しかし、継体が欽明の実母、手白香皇女(武烈天皇の姉妹)を皇后にしたのは、大和入りを実現するための、一時的な政略でしかなかった。
ゆえに継体は、武烈皇統を断ち切るために、あえて、皇后ではなく第一妃の目子媛の皇子二人を後継にしたのである。
目子媛とは、尾張の豪族、尾張連の娘である。
つまり、尾張の勢力と継体は、緊密な関係にあったことになる。
欽明は、蘇我稲目との密約により、皇統を修正する。
これが、「辛亥の変」である。
時に、欽明が二十二歳、稲目が十九歳であった。
密約の中身、その大筋としては、欽明系の皇統を支えるために、蘇我氏は、代々大王(天皇)家を強力に支持する見返りとして、蘇我氏が大王家の外祖父となる、というものであったろう。
まさに、広姫逝去によって、蘇我系の額田部皇女(後の推古天皇)が、皇后になれば、晴れて密約は成就するとは、このことである。
「皇女(額田部皇女)の立后を合議にかける」
これだけで、磐井には十分すぎた。
「ははあ」
磐井は下がった。
それでも馬子はすぐに、いやそれでも手放しで喜べまい、と表情を固くした。
馬子の深慮遠謀の資質は、実に親譲りであった。
しかし、磐井の前で、不安を吐露するわけにはいかない。
早々と磐井を下がらせると、馬子は、居住まいを正した。
政敵は、簡単には消えまい。
いや、日が経つ毎に、増えていくのが政敵であるのだ。
「まずは」
馬子は呟いた。
最初に手を打つべき人物は、と。
それは、実に、誰もが忘れ去った皇位継承者であった。
泊瀬部皇子。
日本書紀によれば、泊瀬部皇子は、欽明天皇の皇位継承下位の皇子とされている。
しかし、それは後に捻じ曲げられた歴史である。
その実、泊瀬部皇子は、武烈天皇の血統の皇子であるのだ。
武烈天皇の在位期間は、七年。
生年も没年も分かっていない。
いや、記録に残されていない。
皇子女は無し。
これらは、意図的な抹消であり、後の歴史改竄の可能性が高い。
あまりにも、綺麗に消されすぎているからだ。
つまり、泊瀬部皇子は、武烈天皇の実子であるかもしれないのだ。
泊瀬部皇子の生年は、継体天皇十四年(五二〇年)。
継体天皇が大和入りする六年前である。
すなわち、馬子は、武烈以前の、雄略の皇統の復活をこそ、最も恐れたのである。
泊瀬部皇子が、雄略朝の流れを汲んでいることは、第一に、その名が示している。
雄略大王(天皇)、諱は「大泊瀬幼武尊」
武烈大王(天皇)、諱は「小泊瀬稚鷦鷯尊」
そして、日本書紀・古事記において、崇峻天皇とされる、泊瀬部皇子。
諱は、実に「泊瀬部」。
つまり、彼らの養育担当・経済基盤は「泊瀬部」、秦系の部民の経済力であり、技術力であったのだ。
その泊瀬部皇子は、継体による雄略朝断裂によって、皇位継承から実際上は外れている。
齢、五十六はまさに油が乗り切っていた(五七五年当時の泊瀬部皇子)。
そして、新興豪族である蘇我氏の台頭を良しとしない、その他の中央豪族、地方豪族、いやその前に皇族は、数多いる。
それらの勢力が、泊瀬部皇子を今更担ぎ上げる可能性は大いにあると、馬子は考えている。
泊瀬部皇子は、武芸に秀でていた。
武烈天皇の皇子として、外交政策の先頭に立っていたため、幸か不幸か、長らく九州を拠点として、朝鮮にも何度か赴いていたのだ。
それも、このところの百済の衰退によって、撤退すれば、大和に戻ってくるだろう。
しかし、皇位継承者との、直接対決は有り得ない。
外濠から順を経て片付けていくべきである。
それは分かりきっているが、まだ足りない、と馬子は思う。
「父なら、どうするだろうか」
師である父、稲目は、五年前(五七〇年)に他界している。
そう口に出してみて、馬子は閃いた。
「密約か」
炊屋姫尊(額田部皇女、後の推古天皇)が第一妃になったならば、その皇子がしかるべき年齢になるまでの時間稼ぎをしなければならない。
当時の、皇位継承は、兄弟継承であった。
すなわち、現天皇(敏達天皇)の弟が継承第一位である。
それを考慮して、蘇我稲目は、娘の堅塩媛を欽明天皇の第三妃にしたのである。
それも密約の内であった。
広姫亡き後、阻害要因は、その皇子。
「次は、押坂(押坂彦人大兄皇子)の、か」
皇后の皇子であるから、「大兄」付きの皇子であり、先々は皇位継承順位の最上位となる。
まさに、炊屋姫の皇子と、皇位を争う相手となるだろう。
故に、炊屋姫との、密約が必須と、馬子は判じたのである。
思慮は、それでも終わらない。
「ひとまず、次の代は、我らが手の内の大兄皇子(後の用明天皇=第三一代)であるが」
日本書紀の上では、大兄皇子は、「泊瀬部皇子の実兄」とされている。よって、敏達天皇の次代は、大兄皇子で決まっていた。
兄弟継承であるから、普通に行けば、大兄皇子の次代は、泊瀬部皇子である。
しかし、実態は「兄弟では無かった」のであるから、その線において馬子に不安はない。
問題は、遡った話を持ち出される事である。
もう一つの馬子の気がかりは、大兄皇子の資質と、体力であった。
幼い頃から、病弱であり、人望も少なかった。
それでも、ここは大兄皇子に、少しでも長く在位してもらうしかない。
そうでないと、にわかに泊瀬部の線が浮上し兼ねない。
「その後は、いや、それよりも」
消しても、消しても、馬子の不安は尽きない。
敵は、皇族だけではなかった。
豪族をどうするか、であった。
まずは中央豪族、物部氏。
物部が、大伴と協力していることは、馬子にも薄々分かっていた。
物部氏をどう攻略するか。
それは、新興豪族、蘇我氏の悲願であり、宿命であろう。
この時、馬子はそう決心した。
もはや、避けて通れない運命だ、と。
「大義が要る」
単なる勢力争いとなれば、新参者には不利である。
中央ばかりか、地方勢力を含む、すべての豪族を敵に回しかねないからだ。
「それは」
そう呟く前に、馬子には分かっていた。
それは、今や、馬子の身近にあった。
立ち上がると、馬子は足早に歩いていき、母屋を出た。
母屋の東側には池があった。
その池に向かって、馬子は歩いていった。
そして、母屋と池の半ば辺りに来て立ち止まった。
ちょうど、木々が切れて、そこに陽の光が御光のように射していたからである。
「ここにしようではないか」
馬子は力強く呟いた。
この時から下ることの九年後、五八四年に日本最古の寺院とされる「石川精舎」は、まさにその地に建立された。
それは、奇しくも、蜂岡皇子が蜂岡の地に、寺を建てた年であった。
つまり、蜂岡寺も、日本最古の寺院であるのだ。
「仏教を大義とすれば、我に優位になるに違いない」
馬子の深慮遠謀は、そこに帰結した。
五八五年という年は、いわば歴史の転換点であった。
しかし、全てが、その年になって、にわかに勃発したわけではない。
過去に密約され、布石が打たれ、また引き金となり、そして発端となった。
それらの結果が出た年。
それが、五八五年である。
その時点から遡ること十年。
「大臣様、磐井が参っておりますが、いかがいたしましょうか」
「通せ」
言い方は尊大だが、若さみなぎる声音であった。
馬子(蘇我馬子)の石川(奈良県橿原市石川町、本明寺付近)邸に来たのは、東韓磐井(東韓駒の父)であった。
常は、配下の者を遣わすはずであるが、直々に磐井が来たということは、大事であろう。
果たして、頭を上げて、姿勢を正した磐井は、直ちに報じた。
「広姫様がお亡くなりになりまして、ございます」
馬子は、一つ小さく頷くと、しばらく沈思した。
父、稲目(蘇我稲目)の遺志を継いで五年。
三年前に、大臣に抜擢されたが、それは親の力である。
齢二十五。
これからが正念場であった。
広姫が立后(第三十代、敏達天皇の皇后)して以来、こうなることを密かに願っていた馬子だが、こうも早くに、その時が訪れるとは考えていなかったのである。
故に、頭の中を整理するのに少しの時を要した。
まず、これで、父、稲目のつけた本来の道筋に戻る。
すなわち、すでに妃となっていた、蘇我系の皇女、額田部皇女(後の推古天皇)が、晴れて第一妃となる。
つまり、蘇我系の皇統の道が開ける、ということであった。
それは、先代の欽明天皇(第二九代)と蘇我稲目が交した密約であった。
暗殺による皇統の修正。
近江王であった、ヲホドが大和に上り始め、史実上、大王(天皇)に即位したのは、五〇七年のことである。
継体大王の即位である。
これは、日本史上初の専制君主として、地方豪族を制圧した、大泊瀬王、雄略大王が、遂に梁(中国)の武帝に「倭の王」と認められ、「征東将軍」の官位を授けられてから、わずか五年後のことであった。
雄略朝から継体朝にかけては、内政においても内紛状態であった。
雄略大王と葛城氏との対立。
継体と九州豪族、磐井との乱。
そして、常に背景には、朝鮮半島内の覇権争いと、その先に帝国、中国があった。
すなわち、極東における国際戦争の只中に、日本も組み込まれていたのである。
その中で、どう皇統が繋がれていったか、それがこの時代の一大画期であった。
そのヲホド(継体)がようやく大和に入朝したのが、即位から十九年後の、五二六年であったことからみても、まさに国内は騒乱状態に近かったのではないかと推測するのである。
よって、日本内政が、ひとまずの平穏状態になるまでにも、相当の年数を要したのであり、継体朝になっても、皇統は落ちつかなかったのである。
この争乱の中から、浮上してきた勢力があった。
他方、その争乱によって、大王家に匹敵する豪族が凋落した。
葛城氏である。
これにより、本来、主人、葛城氏の一配下にあった、渡来系、蘇我氏が突出してくるのである。
この新興豪族の礎を築いたのが、蘇我稲目である。
稲目は、葛城の保有していた土地や、部民を当然のように我がものとして取り込み、勢力を拡大していく。
その中で、密約があった。
稲目と、継体天皇の嫡男(第一皇子)、欽明との密約である。
本来、第一皇子が先帝の跡を継ぐのが正当な形である。
しかし、継体が欽明の実母、手白香皇女(武烈天皇の姉妹)を皇后にしたのは、大和入りを実現するための、一時的な政略でしかなかった。
ゆえに継体は、武烈皇統を断ち切るために、あえて、皇后ではなく第一妃の目子媛の皇子二人を後継にしたのである。
目子媛とは、尾張の豪族、尾張連の娘である。
つまり、尾張の勢力と継体は、緊密な関係にあったことになる。
欽明は、蘇我稲目との密約により、皇統を修正する。
これが、「辛亥の変」である。
時に、欽明が二十二歳、稲目が十九歳であった。
密約の中身、その大筋としては、欽明系の皇統を支えるために、蘇我氏は、代々大王(天皇)家を強力に支持する見返りとして、蘇我氏が大王家の外祖父となる、というものであったろう。
まさに、広姫逝去によって、蘇我系の額田部皇女(後の推古天皇)が、皇后になれば、晴れて密約は成就するとは、このことである。
「皇女(額田部皇女)の立后を合議にかける」
これだけで、磐井には十分すぎた。
「ははあ」
磐井は下がった。
それでも馬子はすぐに、いやそれでも手放しで喜べまい、と表情を固くした。
馬子の深慮遠謀の資質は、実に親譲りであった。
しかし、磐井の前で、不安を吐露するわけにはいかない。
早々と磐井を下がらせると、馬子は、居住まいを正した。
政敵は、簡単には消えまい。
いや、日が経つ毎に、増えていくのが政敵であるのだ。
「まずは」
馬子は呟いた。
最初に手を打つべき人物は、と。
それは、実に、誰もが忘れ去った皇位継承者であった。
泊瀬部皇子。
日本書紀によれば、泊瀬部皇子は、欽明天皇の皇位継承下位の皇子とされている。
しかし、それは後に捻じ曲げられた歴史である。
その実、泊瀬部皇子は、武烈天皇の血統の皇子であるのだ。
武烈天皇の在位期間は、七年。
生年も没年も分かっていない。
いや、記録に残されていない。
皇子女は無し。
これらは、意図的な抹消であり、後の歴史改竄の可能性が高い。
あまりにも、綺麗に消されすぎているからだ。
つまり、泊瀬部皇子は、武烈天皇の実子であるかもしれないのだ。
泊瀬部皇子の生年は、継体天皇十四年(五二〇年)。
継体天皇が大和入りする六年前である。
すなわち、馬子は、武烈以前の、雄略の皇統の復活をこそ、最も恐れたのである。
泊瀬部皇子が、雄略朝の流れを汲んでいることは、第一に、その名が示している。
雄略大王(天皇)、諱は「大泊瀬幼武尊」
武烈大王(天皇)、諱は「小泊瀬稚鷦鷯尊」
そして、日本書紀・古事記において、崇峻天皇とされる、泊瀬部皇子。
諱は、実に「泊瀬部」。
つまり、彼らの養育担当・経済基盤は「泊瀬部」、秦系の部民の経済力であり、技術力であったのだ。
その泊瀬部皇子は、継体による雄略朝断裂によって、皇位継承から実際上は外れている。
齢、五十六はまさに油が乗り切っていた(五七五年当時の泊瀬部皇子)。
そして、新興豪族である蘇我氏の台頭を良しとしない、その他の中央豪族、地方豪族、いやその前に皇族は、数多いる。
それらの勢力が、泊瀬部皇子を今更担ぎ上げる可能性は大いにあると、馬子は考えている。
泊瀬部皇子は、武芸に秀でていた。
武烈天皇の皇子として、外交政策の先頭に立っていたため、幸か不幸か、長らく九州を拠点として、朝鮮にも何度か赴いていたのだ。
それも、このところの百済の衰退によって、撤退すれば、大和に戻ってくるだろう。
しかし、皇位継承者との、直接対決は有り得ない。
外濠から順を経て片付けていくべきである。
それは分かりきっているが、まだ足りない、と馬子は思う。
「父なら、どうするだろうか」
師である父、稲目は、五年前(五七〇年)に他界している。
そう口に出してみて、馬子は閃いた。
「密約か」
炊屋姫尊(額田部皇女、後の推古天皇)が第一妃になったならば、その皇子がしかるべき年齢になるまでの時間稼ぎをしなければならない。
当時の、皇位継承は、兄弟継承であった。
すなわち、現天皇(敏達天皇)の弟が継承第一位である。
それを考慮して、蘇我稲目は、娘の堅塩媛を欽明天皇の第三妃にしたのである。
それも密約の内であった。
広姫亡き後、阻害要因は、その皇子。
「次は、押坂(押坂彦人大兄皇子)の、か」
皇后の皇子であるから、「大兄」付きの皇子であり、先々は皇位継承順位の最上位となる。
まさに、炊屋姫の皇子と、皇位を争う相手となるだろう。
故に、炊屋姫との、密約が必須と、馬子は判じたのである。
思慮は、それでも終わらない。
「ひとまず、次の代は、我らが手の内の大兄皇子(後の用明天皇=第三一代)であるが」
日本書紀の上では、大兄皇子は、「泊瀬部皇子の実兄」とされている。よって、敏達天皇の次代は、大兄皇子で決まっていた。
兄弟継承であるから、普通に行けば、大兄皇子の次代は、泊瀬部皇子である。
しかし、実態は「兄弟では無かった」のであるから、その線において馬子に不安はない。
問題は、遡った話を持ち出される事である。
もう一つの馬子の気がかりは、大兄皇子の資質と、体力であった。
幼い頃から、病弱であり、人望も少なかった。
それでも、ここは大兄皇子に、少しでも長く在位してもらうしかない。
そうでないと、にわかに泊瀬部の線が浮上し兼ねない。
「その後は、いや、それよりも」
消しても、消しても、馬子の不安は尽きない。
敵は、皇族だけではなかった。
豪族をどうするか、であった。
まずは中央豪族、物部氏。
物部が、大伴と協力していることは、馬子にも薄々分かっていた。
物部氏をどう攻略するか。
それは、新興豪族、蘇我氏の悲願であり、宿命であろう。
この時、馬子はそう決心した。
もはや、避けて通れない運命だ、と。
「大義が要る」
単なる勢力争いとなれば、新参者には不利である。
中央ばかりか、地方勢力を含む、すべての豪族を敵に回しかねないからだ。
「それは」
そう呟く前に、馬子には分かっていた。
それは、今や、馬子の身近にあった。
立ち上がると、馬子は足早に歩いていき、母屋を出た。
母屋の東側には池があった。
その池に向かって、馬子は歩いていった。
そして、母屋と池の半ば辺りに来て立ち止まった。
ちょうど、木々が切れて、そこに陽の光が御光のように射していたからである。
「ここにしようではないか」
馬子は力強く呟いた。
この時から下ることの九年後、五八四年に日本最古の寺院とされる「石川精舎」は、まさにその地に建立された。
それは、奇しくも、蜂岡皇子が蜂岡の地に、寺を建てた年であった。
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