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八 乙巳変の萌芽
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(いっしのへんのほうが)
「大事にござります」
また、直々に磐井が、石川の蘇我宅に馳せ参じ、急報を告げた。
「はじめに、泊瀬部皇子が自死されました」
「な、なにい、それは、まことか」
「先ごろから、秦の者らが何やら動いておりますゆえ、密かに探っておりました。昨日(九月二十二日)、そのうちの一人の後をつけましたところ、判明いたしました。やつらは倉梯宮に集まっております」
「あやつらは、何をしておるのだ」
「それが、皇子を陵(赤坂天王山古墳)に運んでおります」
「なんと」
泊瀬部皇子は、遺書を遺した。
そこには、生前、自分が秦の民に造らせた、陵に葬ること、とあり、かつ自らは仏教に帰依した者であるから、殯の儀式は不要、とあった。
「更にでありまするが、倉梯宮には妃、皇女の姿はございません」
馬子は、しばし考えを巡らせた。
泊瀬部皇子が自害した訳は、自らが穴穂部皇子と守屋の乱に加担したことを疑われることは免れまいと考え、家臣らにも咎が掛かることを案じたためであろうか。
そのため妻子を逃した、ということであれば合点がいく。
「蜂岡の方は調べたか」
「それが」
磐井は珍しく、言葉に詰まった。
「どうしたのだ」
「はあ、姿が見当たりません」
やはりか。
馬子は黙して、考えを巡らせた。
何か企みがあってのことだろうか、と。分からなかった。
磐井が待ちきれずに報じた。
「ただいま、配下の者に探索させております故、しばらくお待ち下さいますようお願い申し上げます」
馬子はただ頷いた。
自らの政敵が居なくなることは、馬子にとって喜ばしいことである。
それが、己の手を汚すこと無く、そうなることは尚の事である。
だが、預かり知らぬところで、何もかもが勝手に動いていることが、馬子にはどうにも気持ちが悪いのである。
磐井が去ると、馬子は広瀬(敏達天皇殯宮)に向かった。
この前日、中臣邸に穴穂部皇子の訃報を知らせるものがあった。
「申し上げます。穴穂部皇子が討たれまして、お亡くなりになりました」
「ふぬぅっ」
勝海(中臣勝海)は、前を見据えたまま、しばらく動くことができなかった。
「大伴様の方からの報せにござりました」
なぜだ。
いや、その前に、であった。
「どこでお亡くなりになったのだ」
「はあ、それが、広瀬宮にござります。守屋様と共にお亡くなりになった、とのことにござります」
「なに、守屋様が。守屋様は、病に伏しているのではないのか」
そう聞き返したが、もはや、勝海には事の大凡がつかめていた。
あれほどまでにお止めしたのに、と。
穴穂部皇子の行動は、いわば暴発であった。
勝つための戦いではない。
守屋は、立場上、これに乗じないわけにはいかなかった。
任那再建の不調の責任を追求されている。
蘇我が、かつて、朝鮮外交のことで、大伴金村を失脚に追い込んだように、自らも責任を取らされるに相違ないと、守屋は踏んでいたのだ。
いや、それ以前に、皇統の事があった。
遅かれ早かれ、現皇統の流れに背く勢力は、蘇我によって排除される運命であった。
理由など、何でも構わないのである。
共に、進むも後退するも、道を絶たれた者同士。
蘇我馬子を討たなければ、ただ野垂れ死にするだけなのであった。
「守屋様のご臣下の報にて、間違いはないかと存じます」
これは、困ったことになる、と勝海は一瞬の内に判じた。
「直ちに、大伴様に繋ぎを取れ」
「ははあ」
時すでに遅しであったが、それと知らずに、勝海はそう命じた。
「世は、常に思い通りにはならぬ」
穴穂部皇子は、そう独り言のように呟いた。
十歳になる息子が文机から顔を上げて、心配そうに父の顔を見つめた。
「案ずる事はないぞ。すべて道筋は付けたからのう」
これは、穴穂部皇子が、広瀬殯宮に攻め入った数日前のことであった。
すでに死ぬ覚悟ができたと見え、穴穂部皇子は、清々しい心持ちであった。
だがしかし、子息の行く末は気がかりであった。
自らの気持ちを落ち着かせるために、息子にそう言い聞かせたのである。
実際、相続の事は抜かり無く済んでいる。
ただ、息子に直接告げたい事があった。
穴穂部皇子は、懐から封書を出して、息子の机の上に置いた。
「ここには、そなたにとって、最も大事なことが書きしたためてある。今はまだ中身を見なくて良い。そなたが冠を付けるようになり(成人して)、これを見て良い、と思うたときに開けなさい」
澄みきり、聡明な、何もかもを見越したような眼差しを父から離さずに、彼は頷いた。
彼は、後に、日本の歴史に名を残す人物である。
記紀(古事記と日本書紀)の上では、出自も経歴も、定かでなく、また、後世に潤色、改竄された歴史書によって、謎が物議を醸し出し、さまざまな呼び名、伝説に彩られた人物。
脚色された歴史書によって、厩戸皇子とも、聖徳太子とも云われた人物である。
彼は、用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれた皇子である、と云われているが、云われているだけで、それは真実ではない。
その実は、穴穂部間人皇女の弟であるとされる、この、穴穂部皇子の子息であるのだ。
そして、この時、敏達天皇十四年(五八五年)、十歳になったばかりの厩戸皇子は、父、穴穂部皇子から、遺書を受け取ったのである。
そこには、蜂岡皇子が穴穂部皇子に願った思いが書かれていた。
すなわち、蜂岡寺(広隆寺)護っていくことによる、真の仏教の布教への願いであった。
厩戸皇子は、伝説上の人物ではない。
日本において、等身大の人間として、政争の具ではない、本当の意味での「仏教」を広め、根付かせることに成功した人物の一人であるのだ。
ただ、人並みより、心が早熟であったことは確かであろう。
そのことは、誰よりも父、穴穂部皇子が分かっていた。
穴穂部皇子は死を覚悟した後、厩戸皇子にすべてを託した、と言っていい。
自らの財、穴穂部の部民、そして泊瀬部のこと、すなわち秦の民のことも、である。
それは、いわば、雄略朝の流れを受け継いだに等しいことであった。
それは、並大抵の財ではない。
故に謀反者の子で有りながらも、馬子に恐れられ、女帝、推古天皇からも、一目置かれた存在に成り得たのである。
しかし、彼もまた、大王(天皇)にはなれなかった。
なぜなら、雄略朝を戻さぬ、とする強大な力が働いたからであろう。
日本書紀という潤色された歴史書は、それでも、興味深い歴史書である。
それは、このときから、百三十五年後の七二〇年の律令制下に完成する。
律令制下といえども、まだまだ、人々が「祟り」を真剣に恐れた時代であった。
政争に敗れ、不本意な亡くなり方をした皇族の「祟り」を恐れ、名誉を守るような書き方、あるいは書き足し方をしたフシが随所に残る。
その最たる例が、厩戸皇子であり、聖徳太子のことである。
「父様、このように書きました」
十歳の厩戸皇子は、表情を緩めて、自ら手習いした仏典の書写を見てくれ、と父にせがんだ。
大人びていること頻りである皇子も、こういうところはまだ子供であった。
「おうおう、良く書けておるぞ、余よりも上手に書けておるぞ」
「大事でございます。大事にございます」
大伴糠手子の所在の確認に出たはずの、配下の者が、屋敷に駆け戻ってきた。
勝海が、声を発する前に、その者は、思いもしないことを報じた。
「蘇我の兵が、こちらに向かっております。すぐにお逃げください」
ご準備ください、とは言わなかったのだ。
「なにぞお」
勝海の予感していたことが、このような形で、こんなにも早くに訪れるとは、さすがの勝海自身も想像していなかった。
仏教を国の宗教として、その上に君臨しようとしている大豪族、蘇我氏と、卜部の流れであり、神道を信奉し、卜筮を生業とする中臣氏は、遅かれ早かれ、対立することになることを、勝海は恐れた。
加えて、守屋が謀反に及んだとすれば、共謀を疑われることは、まず間違いない。
守屋が死んだとの報せを受けた今朝方、勝海はその事を真っ先に案じたのであった。
勝海は、逃げなかった。
間に合うまいし、例え束の間逃げおおせても、もはや生きる道はないと瞬時に判断したのである。
中臣勝海は、この後、蘇我馬子の兵に討たれた。
まさにこの事が、この不本意な死が、中臣(藤原)の積年の怨恨となった。
この恨みは、まさに乙巳の変によって晴らされ、遂に蘇我氏は滅亡するのである。
そしてまた、その政変は、長く続く「藤原の世」の、終わりの始まりとなった。
「大事にござります」
また、直々に磐井が、石川の蘇我宅に馳せ参じ、急報を告げた。
「はじめに、泊瀬部皇子が自死されました」
「な、なにい、それは、まことか」
「先ごろから、秦の者らが何やら動いておりますゆえ、密かに探っておりました。昨日(九月二十二日)、そのうちの一人の後をつけましたところ、判明いたしました。やつらは倉梯宮に集まっております」
「あやつらは、何をしておるのだ」
「それが、皇子を陵(赤坂天王山古墳)に運んでおります」
「なんと」
泊瀬部皇子は、遺書を遺した。
そこには、生前、自分が秦の民に造らせた、陵に葬ること、とあり、かつ自らは仏教に帰依した者であるから、殯の儀式は不要、とあった。
「更にでありまするが、倉梯宮には妃、皇女の姿はございません」
馬子は、しばし考えを巡らせた。
泊瀬部皇子が自害した訳は、自らが穴穂部皇子と守屋の乱に加担したことを疑われることは免れまいと考え、家臣らにも咎が掛かることを案じたためであろうか。
そのため妻子を逃した、ということであれば合点がいく。
「蜂岡の方は調べたか」
「それが」
磐井は珍しく、言葉に詰まった。
「どうしたのだ」
「はあ、姿が見当たりません」
やはりか。
馬子は黙して、考えを巡らせた。
何か企みがあってのことだろうか、と。分からなかった。
磐井が待ちきれずに報じた。
「ただいま、配下の者に探索させております故、しばらくお待ち下さいますようお願い申し上げます」
馬子はただ頷いた。
自らの政敵が居なくなることは、馬子にとって喜ばしいことである。
それが、己の手を汚すこと無く、そうなることは尚の事である。
だが、預かり知らぬところで、何もかもが勝手に動いていることが、馬子にはどうにも気持ちが悪いのである。
磐井が去ると、馬子は広瀬(敏達天皇殯宮)に向かった。
この前日、中臣邸に穴穂部皇子の訃報を知らせるものがあった。
「申し上げます。穴穂部皇子が討たれまして、お亡くなりになりました」
「ふぬぅっ」
勝海(中臣勝海)は、前を見据えたまま、しばらく動くことができなかった。
「大伴様の方からの報せにござりました」
なぜだ。
いや、その前に、であった。
「どこでお亡くなりになったのだ」
「はあ、それが、広瀬宮にござります。守屋様と共にお亡くなりになった、とのことにござります」
「なに、守屋様が。守屋様は、病に伏しているのではないのか」
そう聞き返したが、もはや、勝海には事の大凡がつかめていた。
あれほどまでにお止めしたのに、と。
穴穂部皇子の行動は、いわば暴発であった。
勝つための戦いではない。
守屋は、立場上、これに乗じないわけにはいかなかった。
任那再建の不調の責任を追求されている。
蘇我が、かつて、朝鮮外交のことで、大伴金村を失脚に追い込んだように、自らも責任を取らされるに相違ないと、守屋は踏んでいたのだ。
いや、それ以前に、皇統の事があった。
遅かれ早かれ、現皇統の流れに背く勢力は、蘇我によって排除される運命であった。
理由など、何でも構わないのである。
共に、進むも後退するも、道を絶たれた者同士。
蘇我馬子を討たなければ、ただ野垂れ死にするだけなのであった。
「守屋様のご臣下の報にて、間違いはないかと存じます」
これは、困ったことになる、と勝海は一瞬の内に判じた。
「直ちに、大伴様に繋ぎを取れ」
「ははあ」
時すでに遅しであったが、それと知らずに、勝海はそう命じた。
「世は、常に思い通りにはならぬ」
穴穂部皇子は、そう独り言のように呟いた。
十歳になる息子が文机から顔を上げて、心配そうに父の顔を見つめた。
「案ずる事はないぞ。すべて道筋は付けたからのう」
これは、穴穂部皇子が、広瀬殯宮に攻め入った数日前のことであった。
すでに死ぬ覚悟ができたと見え、穴穂部皇子は、清々しい心持ちであった。
だがしかし、子息の行く末は気がかりであった。
自らの気持ちを落ち着かせるために、息子にそう言い聞かせたのである。
実際、相続の事は抜かり無く済んでいる。
ただ、息子に直接告げたい事があった。
穴穂部皇子は、懐から封書を出して、息子の机の上に置いた。
「ここには、そなたにとって、最も大事なことが書きしたためてある。今はまだ中身を見なくて良い。そなたが冠を付けるようになり(成人して)、これを見て良い、と思うたときに開けなさい」
澄みきり、聡明な、何もかもを見越したような眼差しを父から離さずに、彼は頷いた。
彼は、後に、日本の歴史に名を残す人物である。
記紀(古事記と日本書紀)の上では、出自も経歴も、定かでなく、また、後世に潤色、改竄された歴史書によって、謎が物議を醸し出し、さまざまな呼び名、伝説に彩られた人物。
脚色された歴史書によって、厩戸皇子とも、聖徳太子とも云われた人物である。
彼は、用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれた皇子である、と云われているが、云われているだけで、それは真実ではない。
その実は、穴穂部間人皇女の弟であるとされる、この、穴穂部皇子の子息であるのだ。
そして、この時、敏達天皇十四年(五八五年)、十歳になったばかりの厩戸皇子は、父、穴穂部皇子から、遺書を受け取ったのである。
そこには、蜂岡皇子が穴穂部皇子に願った思いが書かれていた。
すなわち、蜂岡寺(広隆寺)護っていくことによる、真の仏教の布教への願いであった。
厩戸皇子は、伝説上の人物ではない。
日本において、等身大の人間として、政争の具ではない、本当の意味での「仏教」を広め、根付かせることに成功した人物の一人であるのだ。
ただ、人並みより、心が早熟であったことは確かであろう。
そのことは、誰よりも父、穴穂部皇子が分かっていた。
穴穂部皇子は死を覚悟した後、厩戸皇子にすべてを託した、と言っていい。
自らの財、穴穂部の部民、そして泊瀬部のこと、すなわち秦の民のことも、である。
それは、いわば、雄略朝の流れを受け継いだに等しいことであった。
それは、並大抵の財ではない。
故に謀反者の子で有りながらも、馬子に恐れられ、女帝、推古天皇からも、一目置かれた存在に成り得たのである。
しかし、彼もまた、大王(天皇)にはなれなかった。
なぜなら、雄略朝を戻さぬ、とする強大な力が働いたからであろう。
日本書紀という潤色された歴史書は、それでも、興味深い歴史書である。
それは、このときから、百三十五年後の七二〇年の律令制下に完成する。
律令制下といえども、まだまだ、人々が「祟り」を真剣に恐れた時代であった。
政争に敗れ、不本意な亡くなり方をした皇族の「祟り」を恐れ、名誉を守るような書き方、あるいは書き足し方をしたフシが随所に残る。
その最たる例が、厩戸皇子であり、聖徳太子のことである。
「父様、このように書きました」
十歳の厩戸皇子は、表情を緩めて、自ら手習いした仏典の書写を見てくれ、と父にせがんだ。
大人びていること頻りである皇子も、こういうところはまだ子供であった。
「おうおう、良く書けておるぞ、余よりも上手に書けておるぞ」
「大事でございます。大事にございます」
大伴糠手子の所在の確認に出たはずの、配下の者が、屋敷に駆け戻ってきた。
勝海が、声を発する前に、その者は、思いもしないことを報じた。
「蘇我の兵が、こちらに向かっております。すぐにお逃げください」
ご準備ください、とは言わなかったのだ。
「なにぞお」
勝海の予感していたことが、このような形で、こんなにも早くに訪れるとは、さすがの勝海自身も想像していなかった。
仏教を国の宗教として、その上に君臨しようとしている大豪族、蘇我氏と、卜部の流れであり、神道を信奉し、卜筮を生業とする中臣氏は、遅かれ早かれ、対立することになることを、勝海は恐れた。
加えて、守屋が謀反に及んだとすれば、共謀を疑われることは、まず間違いない。
守屋が死んだとの報せを受けた今朝方、勝海はその事を真っ先に案じたのであった。
勝海は、逃げなかった。
間に合うまいし、例え束の間逃げおおせても、もはや生きる道はないと瞬時に判断したのである。
中臣勝海は、この後、蘇我馬子の兵に討たれた。
まさにこの事が、この不本意な死が、中臣(藤原)の積年の怨恨となった。
この恨みは、まさに乙巳の変によって晴らされ、遂に蘇我氏は滅亡するのである。
そしてまた、その政変は、長く続く「藤原の世」の、終わりの始まりとなった。
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