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二二 蘇我皇統、終わる
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(そがこうとう、おわる)
「我が、父(穴穂部皇子)からご遺言を拝したのも、そなたの齢」
聖徳(厩戸皇子)は、それで、話を締めくくった。
ここは法隆寺、西の円堂。
卯の正刻(午前六時頃)からおよそ半刻(一時間)、雄略朝から推古朝までの出来事を、泊瀬王に説いたのであった。
とりわけ、泊瀬部皇子については、詳しく話した。
六一五年、五月七日のことである。
この頃、聖徳は、仏道修行の傍ら、密かに倭国記を執筆していた。
大陸の列強国は皆、国記を持っている。
片や倭国には、それが無い。
この事を憂い、聖徳は独自に国記を創るに至った。
時に、推古女帝は、押坂彦人大兄皇子と厩戸皇子が企図していた、冠位十二階を、百済の学者らとともに整え、律令制についても模索しているところである。
政を離れ、出家した身の聖徳には、全く関与の意図も術もなかったが、ただ、私的な使命感によって、国記編纂を思い立ったのであった。
これは単年で成るようなものでは、もちろん無い。
その執筆過程で、残された記録群を紐解くことで明らかになったことも含め、聖徳は泊瀬王に説いたのである。
しかし間もなく、この国記のことは、なぜか、馬子の知るところとなるのである。
それは、奇しくも、都に再び疱瘡が流行りだした頃であった。
疱瘡平癒の祈願として、連日、聖徳は読経の日々であった。
ところが、その聖徳が疱瘡に罹ってしまったのである。
これを聞いた蘇我馬子が直ちに動き始めた。
いやそれ以前に、あの時のように、馬子が再び疱瘡流行を仕掛けたのかもしれなかった。
「これは、お久しゅうございました」
大変に、珍しい訪問者であった。
それは蘇我馬子と、その護持僧ら十数名であった。
偽の護持僧。
その実は、東漢配下の者であった。
「どうぞお構いなく、そのままお休みなさいませ」
馬子は、聖徳が起き上がろうとしたのを制した。
そして、病平癒祈願と称して、阿弥陀経の幾箇所かを転読したのである。
これは時間稼ぎであった。
この間、偽の護持僧の数名が、密かに邸の中を探索した。
国記を盗み出そうというのである。
しかし、結局、それは見つからなかった。
そして、読経後。
「聖徳様、病が治られましたら、是非に、この馬子にご助力いただきたい議がございます」
「ほう、珍しきこと。ただ、我はもはや政には関わりませぬぞ」
「は、それは承知しております。お願いしたき議は、国記の編纂のことにございます。大王様の御発案にて、仰せつかりましたが、我には手に余ります。どうぞ、お力添えをお願いいたします」
聖徳は、これには裏がある、と瞬時に判じた。
「いやはや、拙僧には、何もできません。我の他にも、多くの学者が居られましょう。その方々にお頼みなされませ」
「は、ただ、大王様の直々のご指名であらしゃいますので、どうぞ、ご熟慮いただき、改めて、ご返答をいただきたく、お願いいたします」
こう言いおいて、馬子は辞去した。
聖徳は、邸に国記を置いていなかった。
法隆寺に保管していたのである。
これは、六二一年の年末のことであった。
この一年後、聖徳は国記を脱稿された。
実は、これこそが、厩戸皇子のやり遂げた、歴史上最大の偉業であったろう。
それが現存していれば、であるが。
そしてまさに、この偉業が、厩戸皇子の生涯最後の仕事となったのである。
国記完成から数日後の三月二十二日、聖徳は法隆寺で読経中に倒れ、帰らぬ人となられた。
享年、四十九は、あまりにも若い。
しかし、聖徳に思い残すことは無かったであろう。
その意味で、まさに厩戸皇子は、天寿を全うしたと言える。
聖徳の御遺体は、ご遺言どおり、法隆寺境内の東院円堂下に埋葬された。
一男の、山背王(山背大兄皇子のこと)が葬儀を取り仕切り、読経は二男、泊瀬王が執り行った。
この山背王は、父に反して、政界への野望を持ち続けている。
そして、今回の聖徳の死も、蘇我馬子の陰謀ではないかと、邪推していた。
いや、例えそれが思い過ごしだとしても、亡き押坂彦人大兄皇子と父が目指した政治の道を閉ざした首謀は、馬子に違いない。
山背王は、復讐の時を伺っていたのである。
他方、弟の泊瀬王は、仏門を目指した。
「母様、それでは私は参ります」
それは、六二三年、五月十日のことであった。
「そうですか。都のことは気になさらずに、しかと仏道に励まれなさい。それから、少し待たれよ」
そういうと、山背姫は奥に下がって、何やら二つの包を持ってきた。
「これは、絹の法衣です。私が縫い上げました」
「これは、ありがとうございます」
「呉藍(紅)の方は、そなたの師となられます、蜂俊様にお渡しなさい。白き法衣は、そなた自身が使われよ」
山背姫は、その絹をこの年の春蚕の糸で織った。
まさに、織り上げたばかりであった。
それは、形見になろう、衣であった。
しかも、それは、蜂俊にも捧げられたのだ。
山背姫。
泊瀬王の母。
そして、かつては、蜂俊いや蜂岡皇子の許嫁であった、あの山背姫である。
山背姫は厩戸皇子の第二妃となり、泊瀬王を産み育てたのである。
その名の通り、泊瀬部がこの二男の後ろ盾となった。
泊瀬王は一男の山背王(山背大兄皇子)とは性質が正反対で、父に考えが似ていた。
かたや山背王は、厩戸皇子の父、穴穂部皇子に似たのかもしれなかった。
出自と育ち、そして性質。
このような縁で、泊瀬王は蜂俊の弟子となったのである。
「母様を都に残して旅立つことをお許しください。この法衣を、母様の形見として、仏道に入ります」
泊瀬王は、深々と頭を下げた。
そして、この日、泊瀬王は都を離れ、蝦夷国に向かわれた。
目指すは、秦黒山。
都は、垣津播が咲く頃であった。
二年後。
泊瀬王は開眼し、宏俊を号した。
そこまでの修業は、蜂俊と同じようであったと云う。
六二五年。
それはまさに、時代の境目だったろう。
この翌年、遂に、蘇我馬子が死去する。
最大の政敵、厩戸皇子が逝去された後、政の実務からは遠ざかっていた。
最後の足掻きで、蘇我家のために、旧葛城領の割譲を直々に推古天皇に申し出たが、あえなく却下された。
その推古天皇も、この二年後、六二八年三月に崩御された。
すなわち、蘇我の皇統は、終焉を迎えたのである。
波乱に満ちた推古朝の最後は、実にあっけないものであった。
時が、すべてを洗い流すように。
そして、推古の次代。
それは実に、押坂彦人大兄皇子の第一皇子、田村皇子が担うこととなるのである。
「我が、父(穴穂部皇子)からご遺言を拝したのも、そなたの齢」
聖徳(厩戸皇子)は、それで、話を締めくくった。
ここは法隆寺、西の円堂。
卯の正刻(午前六時頃)からおよそ半刻(一時間)、雄略朝から推古朝までの出来事を、泊瀬王に説いたのであった。
とりわけ、泊瀬部皇子については、詳しく話した。
六一五年、五月七日のことである。
この頃、聖徳は、仏道修行の傍ら、密かに倭国記を執筆していた。
大陸の列強国は皆、国記を持っている。
片や倭国には、それが無い。
この事を憂い、聖徳は独自に国記を創るに至った。
時に、推古女帝は、押坂彦人大兄皇子と厩戸皇子が企図していた、冠位十二階を、百済の学者らとともに整え、律令制についても模索しているところである。
政を離れ、出家した身の聖徳には、全く関与の意図も術もなかったが、ただ、私的な使命感によって、国記編纂を思い立ったのであった。
これは単年で成るようなものでは、もちろん無い。
その執筆過程で、残された記録群を紐解くことで明らかになったことも含め、聖徳は泊瀬王に説いたのである。
しかし間もなく、この国記のことは、なぜか、馬子の知るところとなるのである。
それは、奇しくも、都に再び疱瘡が流行りだした頃であった。
疱瘡平癒の祈願として、連日、聖徳は読経の日々であった。
ところが、その聖徳が疱瘡に罹ってしまったのである。
これを聞いた蘇我馬子が直ちに動き始めた。
いやそれ以前に、あの時のように、馬子が再び疱瘡流行を仕掛けたのかもしれなかった。
「これは、お久しゅうございました」
大変に、珍しい訪問者であった。
それは蘇我馬子と、その護持僧ら十数名であった。
偽の護持僧。
その実は、東漢配下の者であった。
「どうぞお構いなく、そのままお休みなさいませ」
馬子は、聖徳が起き上がろうとしたのを制した。
そして、病平癒祈願と称して、阿弥陀経の幾箇所かを転読したのである。
これは時間稼ぎであった。
この間、偽の護持僧の数名が、密かに邸の中を探索した。
国記を盗み出そうというのである。
しかし、結局、それは見つからなかった。
そして、読経後。
「聖徳様、病が治られましたら、是非に、この馬子にご助力いただきたい議がございます」
「ほう、珍しきこと。ただ、我はもはや政には関わりませぬぞ」
「は、それは承知しております。お願いしたき議は、国記の編纂のことにございます。大王様の御発案にて、仰せつかりましたが、我には手に余ります。どうぞ、お力添えをお願いいたします」
聖徳は、これには裏がある、と瞬時に判じた。
「いやはや、拙僧には、何もできません。我の他にも、多くの学者が居られましょう。その方々にお頼みなされませ」
「は、ただ、大王様の直々のご指名であらしゃいますので、どうぞ、ご熟慮いただき、改めて、ご返答をいただきたく、お願いいたします」
こう言いおいて、馬子は辞去した。
聖徳は、邸に国記を置いていなかった。
法隆寺に保管していたのである。
これは、六二一年の年末のことであった。
この一年後、聖徳は国記を脱稿された。
実は、これこそが、厩戸皇子のやり遂げた、歴史上最大の偉業であったろう。
それが現存していれば、であるが。
そしてまさに、この偉業が、厩戸皇子の生涯最後の仕事となったのである。
国記完成から数日後の三月二十二日、聖徳は法隆寺で読経中に倒れ、帰らぬ人となられた。
享年、四十九は、あまりにも若い。
しかし、聖徳に思い残すことは無かったであろう。
その意味で、まさに厩戸皇子は、天寿を全うしたと言える。
聖徳の御遺体は、ご遺言どおり、法隆寺境内の東院円堂下に埋葬された。
一男の、山背王(山背大兄皇子のこと)が葬儀を取り仕切り、読経は二男、泊瀬王が執り行った。
この山背王は、父に反して、政界への野望を持ち続けている。
そして、今回の聖徳の死も、蘇我馬子の陰謀ではないかと、邪推していた。
いや、例えそれが思い過ごしだとしても、亡き押坂彦人大兄皇子と父が目指した政治の道を閉ざした首謀は、馬子に違いない。
山背王は、復讐の時を伺っていたのである。
他方、弟の泊瀬王は、仏門を目指した。
「母様、それでは私は参ります」
それは、六二三年、五月十日のことであった。
「そうですか。都のことは気になさらずに、しかと仏道に励まれなさい。それから、少し待たれよ」
そういうと、山背姫は奥に下がって、何やら二つの包を持ってきた。
「これは、絹の法衣です。私が縫い上げました」
「これは、ありがとうございます」
「呉藍(紅)の方は、そなたの師となられます、蜂俊様にお渡しなさい。白き法衣は、そなた自身が使われよ」
山背姫は、その絹をこの年の春蚕の糸で織った。
まさに、織り上げたばかりであった。
それは、形見になろう、衣であった。
しかも、それは、蜂俊にも捧げられたのだ。
山背姫。
泊瀬王の母。
そして、かつては、蜂俊いや蜂岡皇子の許嫁であった、あの山背姫である。
山背姫は厩戸皇子の第二妃となり、泊瀬王を産み育てたのである。
その名の通り、泊瀬部がこの二男の後ろ盾となった。
泊瀬王は一男の山背王(山背大兄皇子)とは性質が正反対で、父に考えが似ていた。
かたや山背王は、厩戸皇子の父、穴穂部皇子に似たのかもしれなかった。
出自と育ち、そして性質。
このような縁で、泊瀬王は蜂俊の弟子となったのである。
「母様を都に残して旅立つことをお許しください。この法衣を、母様の形見として、仏道に入ります」
泊瀬王は、深々と頭を下げた。
そして、この日、泊瀬王は都を離れ、蝦夷国に向かわれた。
目指すは、秦黒山。
都は、垣津播が咲く頃であった。
二年後。
泊瀬王は開眼し、宏俊を号した。
そこまでの修業は、蜂俊と同じようであったと云う。
六二五年。
それはまさに、時代の境目だったろう。
この翌年、遂に、蘇我馬子が死去する。
最大の政敵、厩戸皇子が逝去された後、政の実務からは遠ざかっていた。
最後の足掻きで、蘇我家のために、旧葛城領の割譲を直々に推古天皇に申し出たが、あえなく却下された。
その推古天皇も、この二年後、六二八年三月に崩御された。
すなわち、蘇我の皇統は、終焉を迎えたのである。
波乱に満ちた推古朝の最後は、実にあっけないものであった。
時が、すべてを洗い流すように。
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