羽黒山、開山

季徒川 魚影

文字の大きさ
24 / 25

二三(終話) 蜂俊逝去

しおりを挟む
 (ほうしゅんせいきょ)


 七年春三月、篲星すいせい廻見于東。
 (即位七年春、篲星が廻って、東の空に見ゆ)

 六三五年、三月、彗星すいせいが都の東の空に現れた、という日本書紀、舒明紀の記述である。
 この前年の八月も、彗星が南の空に出現したと記録されている。
 古代において、彗星の出現は「不吉ふきつ」とされた。
 
 弥勒経の転読は続いていた。
 秦黒山(現、羽黒山)、供養堂である。
 先導は、宏俊(かつての泊瀬王)。
 後塵を拝する修験者は、三十名。
 重く、荘厳な読誦どくじゅの声が、本堂から溢れ出し、山々に響いているようであった。
 宏俊の前方には、蜂俊が御身おんみを横たえている。
 しかし、寝ているわけではない。
 胸の前に合掌していた。
 身にまとっているのは、山背姫の形見の、呉藍の法衣である。
 蜂俊は、今朝、自らの死を予言した。
 そして修験者を集め、僧正そうじょう位を宏俊に継ぐことを宣言して、読経を命じたのであった。
 そのうちに、宏俊が誦経の声を止めた。
 瞬時に、その他の僧たちも倣い、本堂は静寂に包まれた。
「いま、蜂俊様は、ご逝去されました」
 まさに、拈華微笑ねんげみしょう
 宏俊には、分かったのである。
 やがて一人、また一人と、すすり泣く声が聞こえた。
 六三五年、九月九日、午の正刻(正午頃)頃であった。
 享年、七十五歳であった。

 「太子」とは、そもそも「皇太子」のことであり、特別な称号ではないが、日本史において、それは最早「聖徳太子」の略号のように使われている。
 そして、日本史上、この「太子」が名に付く人物がもう一人存在する。
 能除のうじょ太子。
 蜂岡皇子、いわゆる蜂子皇子のことである。
 この事実は、実は大変な意味を持ち、特別な暗号のように思えてならない。
 皇統の線上にありながら、皇位に就かなかった二人の皇子。
 比較すると、共通点が多いのだ。
 志の高さ。
 政界に距離を置き、むしろ仏道に身をおいて日本を改革しようとした点。
 彼らが遺した信仰の礎は、廃れることなく、その灯りをともし続け、今に至る。
 法隆寺と羽黒山。
 それを繋ぐ、もう一つの点として、女神山がある。
 能除太子の、「能除」とは、般若心経の中の「能除一切苦」に由来するのだろう。
 民の苦しみに寄り添い、その一切を取り除く為に生きた太子、ということであろう。
 蜂子皇子(蜂岡皇子)が、羽黒にて行った偉業は、まさにそのことであった。
 名が表している。
 きっと、真実、蜂子皇子の羽黒での暮らしは、そういう日々であったろう。
 時に村人の農事を手伝い、収穫を共に祝う。
 山里の風流に親しみ、村人と何ら変わることなく、それらを感じ、愛でる。
 流行り病が起これば、祈祷の経を上げ、死者が出れば、弔いの月山登頂をぎょうする。
 羽黒山信仰は、その偉業を受け継ぎ、伝えて行くことで成っていったのであろう。
 それを当初から、支えた力があった。
 秦氏。
 波多氏とも書く。
 鉄を求めて、この山に住み着き、鍛冶を行い、農具も製作し、農地開拓を行った。
 また、優れた農業技術を伝授したのである。
 そういう意味において、古代、蝦夷の国において、最初に開拓されたのは羽黒山だったかも知れない。
 しかし、彼らの偉業は、伝説になっていて、史実に記載されることはなかった。
 その点も、両太子に共通している。
 まるで彼らの地道な業は、大仰に言い伝えられることによって、かえって深い霧に包まれ真実が見えなくなっていった。
 なぜか。
 歴史が捻じ曲げられ、時の権力者によって、改竄が繰り返されたからである。
 本当の偉業を伝えないために。
 蘇我馬子は、国記の編纂を厩戸皇子に断られた後、諦めずに百済の学者たちの協力を得て、独自に完成させたと思われる。
 これまで発見されず、現存しないとされる、「天皇記」のことである。
 いずれ、蘇我氏の栄光がいかにして成ったかを際だたせるための歴史書であったろう。
 それは、史実を記録しようとした厩戸皇子の「国記」とは性質が異なるものであったろう。
 その「天皇記」は、馬子の孫の代に、焼失したとされる。
 乙巳の変。
 古代史最大の政変であろう。
 これによって、蘇我氏は滅亡したと言われている。
 しかし、この政変は突然起こったのではない。
 中臣勝海が、蘇我馬子に討たれたことに端を発し、蘇我の皇統が起こり、そして終わった後、この中臣の政変によって、修正された歴史の事なのである。
 実に六十年をかけた復讐劇であった。
 蘇我の分子が消え、そして「大化の改新」という政治改革が成就した、と日本書紀は記載する。
 しかし、これも完全には史実とは言えまい。
 なぜなら、繰り返すが、そもそも日本書紀は、時の権力者が自分たちに都合の良いように書かれ、編纂されたからである。
 もしかしたら、日本書紀と対をなす「古事記」は、蘇我馬子が作った「天皇記」に近かったのでは、と想えてくる。
 なぜなら、古事記は、推古紀で終わっているからだ。
 ただ、例えそうだとしても、それは一つの残像に過ぎない。
 その古事記ですら、細部は削除され、書き換えられ、加筆されてきただろうからだ。

「カンジーザイボウサツギョウシンハンニャハラミタジーショウケンゴーイッサイクーヤクシャリシ・・・」
 羽黒寺、本堂に読経が鳴り響いていた。
 あの時と同じ光景であった。
 違うのは、読経される経。
 阿弥陀経に加え、インドから帰還した玄奘三蔵が翻訳した「般若心経」も上げられたことである。
 宏俊の御遺体は、本尊の阿弥陀如来像の御前に横たわっている。
 六七〇年、九月二十一日、羽黒寺、二代目僧正、宏俊は逝去された。
 かつて、泊瀬王と呼ばれた、厩戸皇子の二男である。
 奇しくも、その日は、泊瀬部皇子の命日であった。
 読経を先導するのは、三代目僧正、忍慶にんけいである。
 また、一つの時代が終わったのである。
 この凡そ五月前、都でも大事があった。
 法隆寺が焼失したのである。
 落雷による火災が火元と云われている。
 これは、日本史おける最大の損失の一つであったと言えよう。
 なぜなら、法隆寺焼失は、厩戸皇子が書き、編纂し、保管していた「国記」の消滅に他ならないからだ。
 これによって、蘇我馬子の「天皇記」とともに、日本の古代史が全て灰と化したのである。
 つまり、古代の日本の本当の姿に近い記録を、日本人は完全に失ったことになったのだ。
 この大事を受けてか受けずか、この凡そ十年後の六八一年、日本書紀編纂の勅命が出た。
 下したのは、天武天皇である。
 押坂彦人大兄皇子の孫。
 舒明天皇の第三皇子である。
 それから、四十年。
 日本書紀の完成までに掛かった年月である。
 編纂を指揮したのは、藤原不比等ふひと
 中臣(藤原)鎌足の二男である。
 宿敵同士であった、中臣氏と蘇我氏。
 不比等は、書紀編纂に際して、蘇我氏にとって、不名誉となる事を書き、後世に遺そうとした。
 それが彼の最大の目的であったろう。
 もちろん、表向きは、天皇家のための歴史書なのだが。
 勢力が拮抗する中央豪族を殺害し、蘇我の皇統のために邪魔な皇位継承者を、数多く殺めた。
 それが日本書紀における、「蘇我馬子」像である。
 そして、遂には、大王すら(崇峻天皇)殺めた、とまで書いたのである。
 一つの嘘を書けば、それを正当化するために、さらに物語を追記する必要が出てくる。
 その整合性を得るために過去にさかのぼって、史実を改ざんする。
 もちろん、前提となることは、元となる道標がないことだ。
 それを求めて、人の伝承をあたる。
 隋書など、他国の歴史書も参考にした。
 こうして、半ば、継ぎ接ぎで作られていった。
 それが、日本書紀である。
 一方、厩戸皇子像に関しては、日本の古代にも他国同様に、「英雄が必要である」という思想から、無いことも潤色され、作り上げられていったのであろう。
 そして、日本書紀によって、泊瀬部皇子の死の真相や、その皇子である蜂子皇子のこと、秦氏のこと、その他多くの史実が闇に葬り去られてしまった。
 しかし、それでも信仰は、確かに遺った。
 法隆寺信仰。
 羽黒山信仰。
 女神山信仰。
 それは、聖徳太子、蜂子皇子、小手姫が生きた証である。

 時代が下ること、元和五年(一六一九年)。
 第四九代、羽黒山別当、宥俊ゆうしゅんは、弟子の天宥てんゆうとともに朝廷の文書などを調べた上で、能除太子は崇峻天皇の第一皇子であるとし、その開山の偉業を讃え、開山堂を建立した。
 蜂子皇子(蜂岡皇子)、蜂俊の崩逝から、実に、およそ千年の後の事であった。
 さらにその時から、下ること三六六年。
 昭和六十年(一九八五年)七月二十二日。
 この日から、斑鳩の藤ノ木古墳の発掘調査が大々的に行われた。
 調査の結果、藤ノ木古墳は、王陵として築かれたことは確かと結論付けられ、二体の成人が合葬されていることも判明した。
 そして、棺内からは、少なくない量の花の遺物が出土した。
 分析の結果、その遺物は、紅花(呉藍)であることが判った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

処理中です...