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「あね、ちゃ、ん」
せんの声は弱く、はっきりと届いたわけではなかった。
きちは縁側で繕いものをしていた。
ただ、障子一枚を開け、蚊帳越しでも、せんの顔が見える位置に座っていたし、右耳は客間を向くようにしていた。
蜩が一筋鳴いたので、きちは畑の向こうの雑木林に目をやった。
その直後に、せんの声を聞いたような気がしたのだった。
客間の薄暗がりで、せんの小さい瞳が微かな潤みを帯び、まっすぐにきちを見つめていた。
もう何日も見たことのなかった、せんの小さい瞳だった。
きちが好きな、せんのふっくらとした頬は、この何日かの間にやせ細り、そのせいで目が大きくなったように感じられた。
きちは弾かれるように立ち上がり、蚊帳を潜り、せんの枕元に屈んだ。
「せん、ないだ、おぎだが」
十日ほど前、せんは夏風邪をこじらせて寝込んだ。
もともと、丈夫な方ではないせんには珍しいことではなく、野草を乾燥させ煎じた薬湯だけで、とにかく寝るしかないということで床に伏せっていたのだが、今度ばかりは、いつもと違っていた。
一旦下がりかけた熱が再度ぶり返したと思うと、一昨日の午後には、濡れ手ぬぐいから湯気が出そうなほどの高熱がやってきて、せんはうわごとのようなことを繰り返すようになった。
これは、ということで、せんの父、平五郎はまず名主の家に走り、村に一人しかいない医者を紹介してもらった。
平五郎が案内して、ようやくやってきた医者は、せんの容態を見るや、難しい顔をして、今夜が山場だ、とにかく冷やすように、とだけ言い残して帰って行った。
せんは、この文月(旧暦七月)に五つになったばかりだ。
たったひとりの妹が死にかけていた。
うつるといけないから、という母、きよの言うことも聞かずに、きちは付きっきりの看病をしていた。
せんは、ただただ、きちを見つめていた。
きちは、一旦、声を沈めて、せんを見つめ返した。
「水が」「のど乾いだんだべ」
きちがそう尋ねると、せんは小さく頷いた。
「待ってろな、いま持ってくっから」
きちは台所に急いだ。
「おっかさん、せん、目え覚めだよ」
それを聞くと、きよも前掛けで手を拭きながら、急いで客間に入っていった。
きちは鉄瓶の湯ざましを湯のみに注ぎ、大事そうに両手に抱えながら、きよの後に続いた。
きよは、せんの枕元に座ると、せんの額の手ぬぐいを外して、手を当てた。
しばらくして笑みを浮かべながら、きよはきちの手首を取って、せんの額に持っていった。
「もう、心配ねえ、大丈夫だ」
きよがそう言うと、きちはせんに頬ずりし、泣きながら喜んだ。
「いがったなあ、せん」「いがったよお」「ああ、いがった、いがったあ」
一月ほど前に、きちは年季奉公の話を父から聞いていた。
父の平五郎が決めたことなので、否が応はなかったが、母のきよは大反対した。
「うちは田畑があるんだげ、そごまですねくても」
「先代がらの借金さえなげればな」
寛永の大飢饉は、小沢村にも大きな被害をもたらした。
百姓、特に小作などは一家もろとも餓死した例も少なくなかった。
さらに悪い事に、同時期に洪水があった。
被害を合わせると、相当数の人が犠牲になったと云う。
当然、村単位で納める年貢も滞納となり、村は隣村や商家に借金をすることとなった。
それでも男手が多い家では、労役で税を払うことができたが、平五郎の家ではそれも叶わなかった。
代々なぜか男子に恵まれず、その代も男は平五郎のみだからだ。
平五郎は十一人兄弟の五番目で、間に姉が三人いたので、実質は二男である。
下にも弟が一人いたが、男子は平五郎を除いて、すべて十五歳まで生きなかった。
自分の代こそはと、平五郎は男子を強く望んだが、結局生まれたのは女子二人で、その後の子は諦めざるを得なかった。
妻のきよが、せんを生んだ時の産後の肥立ちが悪く、病気がちで、子作りどころではなかったからだ。
父母は決して口には出さなかったが、できることなら、きちもせんも男子として生まれてほしかったはずだった。
平五郎は、農作業の閑散期に、隣村を流れる坂田川の入田河岸で、荷の積み下ろしをして生計の足しにしていた。
しかし、それも焼け石に水のようなものだった。
宿場町である小沢村には、江戸や上方方面から、物だけでなく人をも運んできた。
人と言っても商人の類だけではなかった。
中には女衒のような怪しい男たちもいた。
平五郎にも、金になる疑わしい話はいくらでも聞こえてきた。
それまで、たまたま縁が無かったのか、自分から遠ざけてきたのか。ただ心のどこかに、それをしたら終わり、という戒めがあったことは確かだったろう。
ある日、平五郎は入田河岸で一人の京男と知り合った。
男の名は、中村十吉郎。
自らを京の商人だと言った。
直感的に平五郎は、女衒を疑ったが、それまでのそういう輩とは違う十吉郎の言葉づかいや物腰に、つい話だけでも聞いてみようという気になったのだった。
平五郎はその日、仕事の後に十吉郎が逗留する旅籠に立ち寄った。
奉公先の仕事の中身について、十吉郎はいろいろと話したが、聞いても聞いても、平五郎には実態が見えてこなかった。
ただ、それはつまるところ、身売りだということに変わりはなかった。
やっぱりか、と思った。
越えてはならない橋だった。
しかし、もはや背に腹は代えられないところまで来ていた。
気がつけば、後戻りするという選択肢はなくなっていた。
後はお互いの条件だけだった。
ひと目見て、十吉郎はきちを気に入ったようだった。
きちの色白は母からのものだった。均整のとれた顔立ちと体型は父親似。そして、歌が上手なのとよく通る声は、亡き祖母に似ていた。
これなら良い働き口がある、ということで、十吉郎は早速きちのことを京に伝えた。
二月ほど後に、忘れかけていた平五郎の元に京から文が届いた。
十吉郎からのその文には、奉公の条件が書かれていた。
前借金は、十両。
それは、平五郎がこれまで人づてに聞いたことがあるどの条件よりも良い金額だった。
その文が届いてから十日近く経ったある日、平五郎はようやく決心して、奉公の話をきちにしたのだった。
十一歳のきちにあれこれ説明しても分からないだろうと、平五郎は「京の料理屋への奉公」とだけ伝えたのだった。
せんの熱が下がった次の日、居間で縄をなう平五郎の横にきちが正座して言った。
「おら、奉公さ行ぐさげ」
それを聞くなり、きよは台所に立って行き、見えないところで涙をぬぐった。
その小さな胸に、どんな複雑な気持ちが宿っているのかは計りかねたが、きちの強い決心が現れた黒い瞳が平五郎を見上げていた。
秋泊りで婿嫁が里帰りをする葉月(延宝七年、一六七九年)の月末のことだった。
その翌年から三年間、日本は異常気象から作物の不作が続いた。
小沢村も例外なく大きな被害を被った。
ただ、きちの家は、比較的楽に持ちこたえることができた。
もちろん、食い扶持が一人減ったことも大きい要因ではあったが、きちの前借金が家を助けたことは疑いようがなかった。
せんの声は弱く、はっきりと届いたわけではなかった。
きちは縁側で繕いものをしていた。
ただ、障子一枚を開け、蚊帳越しでも、せんの顔が見える位置に座っていたし、右耳は客間を向くようにしていた。
蜩が一筋鳴いたので、きちは畑の向こうの雑木林に目をやった。
その直後に、せんの声を聞いたような気がしたのだった。
客間の薄暗がりで、せんの小さい瞳が微かな潤みを帯び、まっすぐにきちを見つめていた。
もう何日も見たことのなかった、せんの小さい瞳だった。
きちが好きな、せんのふっくらとした頬は、この何日かの間にやせ細り、そのせいで目が大きくなったように感じられた。
きちは弾かれるように立ち上がり、蚊帳を潜り、せんの枕元に屈んだ。
「せん、ないだ、おぎだが」
十日ほど前、せんは夏風邪をこじらせて寝込んだ。
もともと、丈夫な方ではないせんには珍しいことではなく、野草を乾燥させ煎じた薬湯だけで、とにかく寝るしかないということで床に伏せっていたのだが、今度ばかりは、いつもと違っていた。
一旦下がりかけた熱が再度ぶり返したと思うと、一昨日の午後には、濡れ手ぬぐいから湯気が出そうなほどの高熱がやってきて、せんはうわごとのようなことを繰り返すようになった。
これは、ということで、せんの父、平五郎はまず名主の家に走り、村に一人しかいない医者を紹介してもらった。
平五郎が案内して、ようやくやってきた医者は、せんの容態を見るや、難しい顔をして、今夜が山場だ、とにかく冷やすように、とだけ言い残して帰って行った。
せんは、この文月(旧暦七月)に五つになったばかりだ。
たったひとりの妹が死にかけていた。
うつるといけないから、という母、きよの言うことも聞かずに、きちは付きっきりの看病をしていた。
せんは、ただただ、きちを見つめていた。
きちは、一旦、声を沈めて、せんを見つめ返した。
「水が」「のど乾いだんだべ」
きちがそう尋ねると、せんは小さく頷いた。
「待ってろな、いま持ってくっから」
きちは台所に急いだ。
「おっかさん、せん、目え覚めだよ」
それを聞くと、きよも前掛けで手を拭きながら、急いで客間に入っていった。
きちは鉄瓶の湯ざましを湯のみに注ぎ、大事そうに両手に抱えながら、きよの後に続いた。
きよは、せんの枕元に座ると、せんの額の手ぬぐいを外して、手を当てた。
しばらくして笑みを浮かべながら、きよはきちの手首を取って、せんの額に持っていった。
「もう、心配ねえ、大丈夫だ」
きよがそう言うと、きちはせんに頬ずりし、泣きながら喜んだ。
「いがったなあ、せん」「いがったよお」「ああ、いがった、いがったあ」
一月ほど前に、きちは年季奉公の話を父から聞いていた。
父の平五郎が決めたことなので、否が応はなかったが、母のきよは大反対した。
「うちは田畑があるんだげ、そごまですねくても」
「先代がらの借金さえなげればな」
寛永の大飢饉は、小沢村にも大きな被害をもたらした。
百姓、特に小作などは一家もろとも餓死した例も少なくなかった。
さらに悪い事に、同時期に洪水があった。
被害を合わせると、相当数の人が犠牲になったと云う。
当然、村単位で納める年貢も滞納となり、村は隣村や商家に借金をすることとなった。
それでも男手が多い家では、労役で税を払うことができたが、平五郎の家ではそれも叶わなかった。
代々なぜか男子に恵まれず、その代も男は平五郎のみだからだ。
平五郎は十一人兄弟の五番目で、間に姉が三人いたので、実質は二男である。
下にも弟が一人いたが、男子は平五郎を除いて、すべて十五歳まで生きなかった。
自分の代こそはと、平五郎は男子を強く望んだが、結局生まれたのは女子二人で、その後の子は諦めざるを得なかった。
妻のきよが、せんを生んだ時の産後の肥立ちが悪く、病気がちで、子作りどころではなかったからだ。
父母は決して口には出さなかったが、できることなら、きちもせんも男子として生まれてほしかったはずだった。
平五郎は、農作業の閑散期に、隣村を流れる坂田川の入田河岸で、荷の積み下ろしをして生計の足しにしていた。
しかし、それも焼け石に水のようなものだった。
宿場町である小沢村には、江戸や上方方面から、物だけでなく人をも運んできた。
人と言っても商人の類だけではなかった。
中には女衒のような怪しい男たちもいた。
平五郎にも、金になる疑わしい話はいくらでも聞こえてきた。
それまで、たまたま縁が無かったのか、自分から遠ざけてきたのか。ただ心のどこかに、それをしたら終わり、という戒めがあったことは確かだったろう。
ある日、平五郎は入田河岸で一人の京男と知り合った。
男の名は、中村十吉郎。
自らを京の商人だと言った。
直感的に平五郎は、女衒を疑ったが、それまでのそういう輩とは違う十吉郎の言葉づかいや物腰に、つい話だけでも聞いてみようという気になったのだった。
平五郎はその日、仕事の後に十吉郎が逗留する旅籠に立ち寄った。
奉公先の仕事の中身について、十吉郎はいろいろと話したが、聞いても聞いても、平五郎には実態が見えてこなかった。
ただ、それはつまるところ、身売りだということに変わりはなかった。
やっぱりか、と思った。
越えてはならない橋だった。
しかし、もはや背に腹は代えられないところまで来ていた。
気がつけば、後戻りするという選択肢はなくなっていた。
後はお互いの条件だけだった。
ひと目見て、十吉郎はきちを気に入ったようだった。
きちの色白は母からのものだった。均整のとれた顔立ちと体型は父親似。そして、歌が上手なのとよく通る声は、亡き祖母に似ていた。
これなら良い働き口がある、ということで、十吉郎は早速きちのことを京に伝えた。
二月ほど後に、忘れかけていた平五郎の元に京から文が届いた。
十吉郎からのその文には、奉公の条件が書かれていた。
前借金は、十両。
それは、平五郎がこれまで人づてに聞いたことがあるどの条件よりも良い金額だった。
その文が届いてから十日近く経ったある日、平五郎はようやく決心して、奉公の話をきちにしたのだった。
十一歳のきちにあれこれ説明しても分からないだろうと、平五郎は「京の料理屋への奉公」とだけ伝えたのだった。
せんの熱が下がった次の日、居間で縄をなう平五郎の横にきちが正座して言った。
「おら、奉公さ行ぐさげ」
それを聞くなり、きよは台所に立って行き、見えないところで涙をぬぐった。
その小さな胸に、どんな複雑な気持ちが宿っているのかは計りかねたが、きちの強い決心が現れた黒い瞳が平五郎を見上げていた。
秋泊りで婿嫁が里帰りをする葉月(延宝七年、一六七九年)の月末のことだった。
その翌年から三年間、日本は異常気象から作物の不作が続いた。
小沢村も例外なく大きな被害を被った。
ただ、きちの家は、比較的楽に持ちこたえることができた。
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