紅風の舞(べにかぜのまい)

滝川 魚影

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 大阪屋は、表が二十五間の大店だった。
 宗助と道之は、女中に案内され、良く手入れされた中庭を周り、奥の客間に通された。
 宗助が先に部屋に入り、畳に座った。座布団が用意されていたが、遠慮したのだった。
 道之も後に続き宗助に倣った。
 屋敷の広さに、正直、道之は度肝を抜かれていた。そのことを道之が宗助に小声で言うと、宗助は、江戸にはこれよりも大きな店がある、と返した。
 ほどなく、店の主、森勘右衛門が現れた。
「宗助さん、お久しぶりですな」
 挨拶をしながら、森勘右衛門は対面に座った。
「いつも、大変お世話になっておりまして」「また、ご無沙汰をいたしまして、三田屋でございます」「お変わりないご様子で何よりでございます」「こちらは、奥州は花山藩小沢村、高田屋の跡継ぎにて、道之でございます。後ほど、改めまして、ご紹介させていただきます」
「そうですか、遠いところを、こちらこそ恐縮でございます」「三田屋さんもお元気そうで何より」
 女中がお茶を運んきた。
「ちょっと、この後、別の来客がありまして、失礼ながら早速本題の入らさせてもらいたいのですが、よろしいですか」
 宗助は、はいと頭を下げた。
「今年の米の出来はいかがでしょう」「私が気になるのはその一点のみです」「いや、わざわざお越しいただくと聞きまして、もしやと」
 宗助は即座に答えた。
「いえ、すでに村々から話は聞こえてきておりますが、今年もまずまずのようでございます」
「さそうですか、それは何より」「それでは今年はこれで」
 森勘右衛門は、取引量を記した紙を宗助に渡した。
 宗助は中身を確かめた。
「はい、確かに承りました」「毎度、ありがとうございます」
 宗助は深々と頭を下げた。
 米の出来が上々であることと、契約が完了したことで、安心したのか、時間がないと言いながらも勘右衛門は三田屋の先代の思い出話をしたりなどして、しばらく和やかに話が弾んだ。
 話の下地ができた頃合いを見計らい、宗助が改めて、道之を紹介した。
「ぜひ、お見知りおきを」
 道之が、うやうやしく頭を下げるのに、半ばかぶせるように大阪屋は話し始めた。
「そう、小沢村の紅餅は取引させてもらっていますよ、花山城下の問屋さんを通して」
「はい、いつも花山の紅餅をご贔屓にしていただき、ありがとう存じます」
 道之は、謙遜のつもりで敢て「花山の紅餅」と言ったのだった。
 大阪屋が微笑んで、道之の次の言葉を待っているようだった。
 ところが次の言葉がなかなか出てこなかった。
 宗助が瞬時に割り込んだ。
「三田屋も何かと、高田屋には、先代の頃からお世話になっておりまして、二代目高田屋清右衛門もなかなかに商い熱心な人物にて、今後は、三田屋同様、高田屋の紅餅のお取引をご検討いただければ、と存じます」
 宗助に、ここまで言わせてしまった段階で、道之の今日の商いは失敗、と言わざるを得なかった。
「河上の紅花は、質が良いことで定評はある」「ただ、如何せん、輸送の費用が余分にかかりますからなあ」
「近年は、西廻り航路も整って参りましたので」
 やっと道之は言葉を継いだ。
 挽回しようと必死だった。
「それでも、高田屋さん、江戸近くの産地から運ぶよりもだいぶお高いでしょ」
 道之は、俄かに答えに窮した。
 この三年の間、道之は高田屋の商い状況、帳簿の把握、そして河上地方の生産について、できる限りを学んでいた。
 しかし、高田屋、河上地方以外の紅花産地の状況については、全くと言っていいほど、調べていなかった。
 江戸に隣接する産地がどこなのか、そして、そこからの輸送費用と、坂田川から西廻り航路を使った場合の費用がどれほどの開きがあるのか、道之の引き出しに答えは無かった。
 商談はそこで終了した。
 それから数日間、宗助とともに、何軒かの問屋に出向いた道之だったが、結果は大阪屋と似たり寄ったりだった。
 道之の落胆ぶりは、尋常ではなく、宗助が話しかけるのを憚られるほどだった。
 江戸へ逗留して七日目の朝、宗助は、道之を江戸で開かれる歌会に連れ出した。
 しかし、好きな俳諧すら手に付かないほど、道之の頭の中は商いのことでいっぱいだった。
 宗助は、まだ早いかとは思ったものの決心して、江戸最後の夜、道之を茶屋遊びに連れ出した。
「之ぼう、商いは息抜きも重要だよ」「気持ちの切り替えができない商人は、大商いはできない」
「はい」
 道之の頬を悔し涙が伝った。
 宗助は、道之の肩に手を載せて、微笑みかけ言った。
「商いは今日明日でどうにかなるほど甘くはないですよ」「長い目でな」
 涙の後に、宗助を見る道之の目には、強い光が宿っているようだった。
 こうして、道之の商人としての人生は始まった。
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