紅風の舞(べにかぜのまい)

滝川 魚影

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 店の離れで三日が過ぎた。
 その間、きちは考えうるあらゆる可能性に対しての覚悟を決めたのだった。
 そもそも、この庵自体、実際には客を取るような場所に違いなかった。
 寝具なども、異様なほどに豪勢だった。
 もはや十吉郎は戻っては来ないのだろう、ときちは思い始めていた。
 あるいは、いきなり十吉郎が客を連れて現れるに違いない、と。
 どれも転落への想像だった。
 湧いては消えていくことを繰り返すうちに、きちは自然と無の境地に至り、まるで世捨て人のように一日のほとんどを庭を眺めて過ごすようになっていった。
 三日目もそうしているうちに過ぎていった。
 そして四日後の朝、朝飯が済み、いつも通り庭の竹が風そよぐ音を聞いているところへ、十吉郎が現れた。
 十吉郎は一人だった。
「待たしてしもて」
 すぐに支度するように言われて、きちは少ない荷物をまとめ、挨拶もそこそこに店を後にしなければならなかった。
 女が何やら言ったので、きちはお辞儀を返した。
 半時とちょっとの道のりだった。
 場所は高台寺の門前にほど近い、旅籠の裏手の屋敷だった。
 民家然とした建物の引き戸を開け、十吉郎が訪いを入れた。
「ごめんやす、女将はん」
 奥から、はい、という声が聞こえ、すぐに女将が現れた。
 屋敷は間口が一間ほどで、奥行きがあり二階建てだった。
 きちが想像していたものとはまるで違う。
 少なくとも料理屋には見えなかった。
「どうぞ、上がっておくんなはれ」
「おおきに」
 二人は奥の居間に通された。
「長旅、疲れはったやろ」
 きょとんとして座っているきちに、十吉郎が簡単に通訳してくれた。
 きちは、慌てて、首を横に振った。
 女将は、歳の頃は五十前。背丈は四尺半ほど。全体的にきりっと引き締まった体つきをしていた。
 色白で細面、目鼻がはっきりとした顔立ちだった。
「そない怖い顔せんと、取って食うたりしまへん」
 異様なほどにきちが見つめていたらしい。女将が笑ってそう言った。
「まあ、無理もおへんけど」「遠くから、連れられてきたんやさかい」
 それから女将は、ちょっと、と言って立って行くと、茶碗に甘酒を二つと、何やら綴じ本のようなものを持って戻ってきた。
「うちの名は、ひらの、みずえどす」
 そう言うと、女将は綴じ本の藍の表紙をきちに見せた。

 中島屋
       平野 瑞恵

「ここの女将どす、おまはんの名は」
 十吉郎がすかざす通訳する。
「きち、です」
「おきちはんか、よろしゅう」
 こんな形で、時間をかけて、きちの氏素性のあらましを女将は訊ねていった。
 瑞江は、聞いたことを綴じ本の新しい頁に書き留めた。
「まずは、言葉から覚えんとあきまへんなあ」「十吉郎はん、証文のことは主人と済んだやろ」「ほなら、もうおらんでもよろしおす」
「へぇ、おおきに」「おきばり、きち」
 十吉郎はそれだけ言って帰っていった。
 瑞江は座りなおして、きちに今後について話し始めた。
「察しはついてはると思いますけど、中島屋は表向きは旅籠どすけど、中身は妓楼どす」
 瑞江は単刀直入に切り出した。
「ただし、中島屋は芸事がでけへん子はおけまへんえ」「ことばや作法はあたりまえ、唄も三味線も一から叩きこみます」「見習いが終わても、年季中は修行やと思わんと、あきまへんえ」
 ここで、瑞江は一旦話を止めて、きちをじっと見つめた。
 黒い瞳が見つめ返していた。
 瑞江は、まだまだ幼いきちの表情に、歳に似合わない力強さを感じた。
 さすが十吉郎は、中島屋の主人が見込んだだけの男だった。
 十吉郎の知らせ通り、筋の良い娘だと、女将は改めて確信した。
 他方、きちは、実際には瑞江の言うことの半分も理解していなかった。
 きちは、瑞江の表情や話し方からしぐさの全てに全神経を集中させていた。
 結果、きちが感じたのは、そこに来るまでの不安からはほど遠い安堵のような気持であった。
「きち、そう呼ばしてもらうえ」「きち、今から、うちのことは、おかあさんと呼びなはれ」
「はい」
「ちがう、はい、おかあさん、や」
 きちの目は涙に潤んでいた。
「はい、おかあさん」
 きちは背筋を正し、お辞儀をした。
 そのようにして、きちの修行の日々が始まったのである。
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