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一 おさなごの戀
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おさなごのこい
障子越しの、座敷の灯りが廊下にこぼれている。
春治とハマは、上手の廊下の暗がりで、いつも盗み聴きをしたものだった。
松一と木 變らぬ色の印とて
今も榮えて在原や 形見の烏帽子狩衣
着つつ馴れにし俤を
うつし繪島の浦風に
(三味線)
床しきつても白浪の
寄する渚に世を送る
いかに此身が蜑ぢやと云うて
辛氣辛氣に袖濡れぬれて
いつか嬉しき逢瀬もと
君にや誰かつげの櫛
さし來る汐を汲まうよ・・・
(長唄『汐汲』より)
春治は目をつむり微笑みを浮かべては時折頷いて、唄に聴き惚れている。
ハマはと言うと、唄よりもそこまで唄に心酔している春治の方にずっと興味があり、薄暗い中で春治の横顔をまじまじと見つめている。
初夏で、これから沖では鱪漁が盛んになる頃であった。
その日は、まさに、鱪漁の「漬入」作業が完了した労いの宴席で、柿崎村の魚料理「立浪」に招かれたのは、今町(直江津)の船元、弥平であった。
宴席を設えたのは、柿崎村の網元、辰治であり、春治の父だ。
辰治は、地引網を行う漁師で、鱪の漬漁の季節だけ、義兄、弥平の手伝いを頼まれるのである。先代から、それは習わしとなっていた。
漬漁とは、鱪の習性を生かした漁で、沖合に孟宗竹の筏を浮かべ、その周りに寄ってきた鱪を釣り上げる漁である。
毎年、漬漁が始まる六月の初めに、その筏をいくつも入れる「漬入」作業に辰治が駆り出されるというわけである。
このあたりの漁場は、領域が決まっており、一応はそれで管理されていた。
柿崎村の砂浜から五十町(約五・四五キロメートル)は、村の地元の漁師の漁場。その沖が今町(直江津)の漁師の漁場である。
しかし、沖の漁場は、幕府領出雲崎の漁師たちも入る権利を持っており、決まり上は「共用」とされていた。
そのため、当然のことながら時に漁場争い「沖合出入」が起こり、怪我人が出るような事があれば、解決するのに何年もかかるような事案もあった。
幸い、弥平の漁場ではそれまで出雲崎の漁師たちとの争いはなかったし、村の漁師との諍いもなく平和に漁が行われているのだった。
春治は、ハマを連れて浜まで行ってみた。
宴席が入ると、ハマの母、タケの帰りが遅くなる。そうした時は、春治がハマのお守り役である。
その夜、暦の上では小暑で、九日月が出ていた。二人は穏やかな波打ち際まで歩いていった。
「春にいちゃ、うた好きか」
「うん、おっしょうさんの唄が、特別好きだ」
おっしょうさんとは、タケのことである。
タケは芸姑であり、江戸から柿崎村に戻ってから、農村の裕福な娘たちに、唄と三味線を教える師匠となった。
芸名は「かつえ(佳つ江)」。
村に戻ったのは、およそ四年前。生家は、六万部村(現吉川町)の破産した元庄屋だった。
帰郷したタケは、身籠っていた。
その当時、ちょうど船宿では、客も増え、芸姑の一人もほしい、と願っていたところだった。
突然船宿の厨房に飛び込んできたタケを女将のサエが辰治に繋いだ。サエは、タケの素性を話すが、辰治は、それはいいから奥の間に通して三味線を弾いてみてもらおうか、と差配した。
辰治の想った通りだった。腕は確か、タケは本物の芸姑だった。そうしてすぐにタケは魚料理「立浪」の住み込み芸姑となったのである。
二年前からは、近隣の農村から弟子を二人抱え、その娘たちも船宿を手伝っている。
「おハマちゃも、おっしょうさんみたいになるのか」
春治は訊いてみた。
ハマは、海の方に向き直り、月明かりが映る海面を見つめて、微笑んだ。
「あたいは、芸者さんにはならんよ」
「ならねえのか。じゃあ、何になるね」
「あたいね、あたいはあ、春にいちゃのおっかちゃみたいになるの」
春治には、にわかに意味が分からない。後から春治は、母、サエに聞いて、その意味が初めて分かったのだった。
それが、噂話となってタケの耳に入った。もちろん、子供の戯言だと、まともに受けあってないのだが。
「おかつさん、聞いたかね。おハマちゃはね、春治のお嫁さんさ、成りたいんだってねえ」
「女将さん、嫌ですよお、からかっちゃあ。誰がそんなことを」
「誰って、決まってるだろうさ。おハマちゃがそう言ったんだがね」
「あの子が。あの子ったら、そんなこと女将さんに言ったんですかあ。まったく。まだ五つ(数え)だってのにさあ」
「私にじゃなく、春治に言ったて。おかつさんね、五歳だって、女に違いはないね」
「すみません、女将さん。そんなこと真に受けないでくださいな」
誰もが、その話を微笑ましく思い、何かにつけて口の端に上ったものであった。
それは、文久二年(一八六二年)は、水無月のこと。
まだ、ハマの目が、見えた頃の話であった。
障子越しの、座敷の灯りが廊下にこぼれている。
春治とハマは、上手の廊下の暗がりで、いつも盗み聴きをしたものだった。
松一と木 變らぬ色の印とて
今も榮えて在原や 形見の烏帽子狩衣
着つつ馴れにし俤を
うつし繪島の浦風に
(三味線)
床しきつても白浪の
寄する渚に世を送る
いかに此身が蜑ぢやと云うて
辛氣辛氣に袖濡れぬれて
いつか嬉しき逢瀬もと
君にや誰かつげの櫛
さし來る汐を汲まうよ・・・
(長唄『汐汲』より)
春治は目をつむり微笑みを浮かべては時折頷いて、唄に聴き惚れている。
ハマはと言うと、唄よりもそこまで唄に心酔している春治の方にずっと興味があり、薄暗い中で春治の横顔をまじまじと見つめている。
初夏で、これから沖では鱪漁が盛んになる頃であった。
その日は、まさに、鱪漁の「漬入」作業が完了した労いの宴席で、柿崎村の魚料理「立浪」に招かれたのは、今町(直江津)の船元、弥平であった。
宴席を設えたのは、柿崎村の網元、辰治であり、春治の父だ。
辰治は、地引網を行う漁師で、鱪の漬漁の季節だけ、義兄、弥平の手伝いを頼まれるのである。先代から、それは習わしとなっていた。
漬漁とは、鱪の習性を生かした漁で、沖合に孟宗竹の筏を浮かべ、その周りに寄ってきた鱪を釣り上げる漁である。
毎年、漬漁が始まる六月の初めに、その筏をいくつも入れる「漬入」作業に辰治が駆り出されるというわけである。
このあたりの漁場は、領域が決まっており、一応はそれで管理されていた。
柿崎村の砂浜から五十町(約五・四五キロメートル)は、村の地元の漁師の漁場。その沖が今町(直江津)の漁師の漁場である。
しかし、沖の漁場は、幕府領出雲崎の漁師たちも入る権利を持っており、決まり上は「共用」とされていた。
そのため、当然のことながら時に漁場争い「沖合出入」が起こり、怪我人が出るような事があれば、解決するのに何年もかかるような事案もあった。
幸い、弥平の漁場ではそれまで出雲崎の漁師たちとの争いはなかったし、村の漁師との諍いもなく平和に漁が行われているのだった。
春治は、ハマを連れて浜まで行ってみた。
宴席が入ると、ハマの母、タケの帰りが遅くなる。そうした時は、春治がハマのお守り役である。
その夜、暦の上では小暑で、九日月が出ていた。二人は穏やかな波打ち際まで歩いていった。
「春にいちゃ、うた好きか」
「うん、おっしょうさんの唄が、特別好きだ」
おっしょうさんとは、タケのことである。
タケは芸姑であり、江戸から柿崎村に戻ってから、農村の裕福な娘たちに、唄と三味線を教える師匠となった。
芸名は「かつえ(佳つ江)」。
村に戻ったのは、およそ四年前。生家は、六万部村(現吉川町)の破産した元庄屋だった。
帰郷したタケは、身籠っていた。
その当時、ちょうど船宿では、客も増え、芸姑の一人もほしい、と願っていたところだった。
突然船宿の厨房に飛び込んできたタケを女将のサエが辰治に繋いだ。サエは、タケの素性を話すが、辰治は、それはいいから奥の間に通して三味線を弾いてみてもらおうか、と差配した。
辰治の想った通りだった。腕は確か、タケは本物の芸姑だった。そうしてすぐにタケは魚料理「立浪」の住み込み芸姑となったのである。
二年前からは、近隣の農村から弟子を二人抱え、その娘たちも船宿を手伝っている。
「おハマちゃも、おっしょうさんみたいになるのか」
春治は訊いてみた。
ハマは、海の方に向き直り、月明かりが映る海面を見つめて、微笑んだ。
「あたいは、芸者さんにはならんよ」
「ならねえのか。じゃあ、何になるね」
「あたいね、あたいはあ、春にいちゃのおっかちゃみたいになるの」
春治には、にわかに意味が分からない。後から春治は、母、サエに聞いて、その意味が初めて分かったのだった。
それが、噂話となってタケの耳に入った。もちろん、子供の戯言だと、まともに受けあってないのだが。
「おかつさん、聞いたかね。おハマちゃはね、春治のお嫁さんさ、成りたいんだってねえ」
「女将さん、嫌ですよお、からかっちゃあ。誰がそんなことを」
「誰って、決まってるだろうさ。おハマちゃがそう言ったんだがね」
「あの子が。あの子ったら、そんなこと女将さんに言ったんですかあ。まったく。まだ五つ(数え)だってのにさあ」
「私にじゃなく、春治に言ったて。おかつさんね、五歳だって、女に違いはないね」
「すみません、女将さん。そんなこと真に受けないでくださいな」
誰もが、その話を微笑ましく思い、何かにつけて口の端に上ったものであった。
それは、文久二年(一八六二年)は、水無月のこと。
まだ、ハマの目が、見えた頃の話であった。
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