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十二 帰郷
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ききょう
幕末から続いた政情不安も、明治になり一旦の治まりを見せる中、逆に庶民生活は新しい制度が矢継ぎ早に敷かれていったことで、様々な変化を余儀なくされていた。
まさにそういう時代に、ハマの年季は明け、新しい門出となったのである。
平生でも慌ただしい暮れと正月は、ひと月早くなったことで、考える余裕もないほどに駆け足で過ぎて行った。
そしてついに、二月一日、ハマの年季明けの朝を迎えることとなった。
ただ、普通、瞽女は終身であり、ハマのように途中で年季明けする事は無いため、特に儀式もなく、あっさりとした終わりであった。前の晩に、総会から戻ったコトが、正式に年季が明けることを野口家の瞽女たちに伝え、ハマも長年の感謝の気持ちを表した。
すでに荷造りを終え、朝餉の後は特にすることもなかったが、その手持ち無沙汰な時も長くは続かなかった。朝五つ頃(約七時半)には、早くもタケが玄関を訪ったのだ。
土産に、ヤナギガレイの一夜干しをどっさり持ってきた、と呼びに来たヤスヨが歓喜して告げる。
「おコトさん、すみません、朝早うに。船頭待たしてあるすけ、ゆっくり出来ませんが、また来るすけ、今日のところは勘弁してくんなせ」
ハマの所帯荷物は、いつもの旅支度だ。それを担ぎ、ハマは旅に出るように、野口家を後にした。
「おかっちゃ、ヤナギガレイの、あんげふっとつ、持って来るの大変だったでしょ」
「いや、私でねえ。春さんが一緒に来てくれたすけ」
(なに、なによ)
朝から、気が抜けてしまったようで、空虚な気持ちに苛まれ、脱力するしかなかったハマの体に、ぱっと緊張が走るのだった。
(なんだ、こんげな再会になるもんかね)
本来、それは嬉しいことに違いない。しかし、心の準備が出来ていないハマにとって、狼狽するどころか、むしろ迷惑にさえ感じるのだった。
ここ数年は、藪入りで帰省しても、子供の頃のように、駆けて会いに来ることがなくなった春治だった。
(名替えの時は、結局一言も話さず仕舞いだった。最後に話したのはいつだったか)
それさえも俄には思い出せないハマだった。
そんなことを考えているうちに、船着き場に着いた。
「おまたせだね、船頭さん」
タケが声をかける。
駆け寄る足音。
ハマは歩みを止め、じっと待った。
「荷物、下ろすよ」
ハマは、ふっと肩が軽くなるのを感じた。
「はい、どうもさん。その声は、春にいちゃ」
それはむしろ、自分に確認する意味だった。
「そう、そうだよ」
明るい声音で、春治はそう応えた。
そして、春治はハマの手を引いて、船に乗せた。
ハマは、もっと話を続けたかった。
「春にいちゃ、カレイ、あんげふっとつ。あれは、にいちゃが獲ったの」
「ああ、俺が獲って、一夜干しにした」
「そう、重いのに、どうもさん。みんな喜んたったよ」
ハマの中で、長く止まっていた時が、春治との時が、不器用にも再び動き出した。それはただ嬉しいという感覚ではなく、良い発案のようだった。
「いいか、動かすよ」
やがて船は、ゆっくり動いた。
冷たい川風が体を冷やしていくのが分かったが、ハマには心地よかった。
新たな門出を象徴する船出だった。動き出した血が体全体に行き届く様が、ハマには手にとるように分かった。
そうして、川船のゆったりとした揺れに身を任せていると、ようやく、ハマは生まれ故郷に帰る実感が湧いてくるのだった。
この時の光景、そして自分の気持をハマは終生忘れることは無かった。
いや、このときの幸せな気持ち、空気や音は、時が経つにつれて重さを増し、ハマが思いだす回数も増えていった。
しかし、そういう何でもない思い出は、誰かに語るほどのことでもなかった。
母タケ、春治、ハマ、その三人で歩く旅など、あれっきりだったのに、語る相手はハマ自身でしかなかった。
(想い返してみれば・・・)
あの、ささやかな幸せの時は、その後のハマの激動の人生の、ほんの小休止だったのかもしれなかった。
晩年、ハマはそう、しきりに想うのであった。
幕末から続いた政情不安も、明治になり一旦の治まりを見せる中、逆に庶民生活は新しい制度が矢継ぎ早に敷かれていったことで、様々な変化を余儀なくされていた。
まさにそういう時代に、ハマの年季は明け、新しい門出となったのである。
平生でも慌ただしい暮れと正月は、ひと月早くなったことで、考える余裕もないほどに駆け足で過ぎて行った。
そしてついに、二月一日、ハマの年季明けの朝を迎えることとなった。
ただ、普通、瞽女は終身であり、ハマのように途中で年季明けする事は無いため、特に儀式もなく、あっさりとした終わりであった。前の晩に、総会から戻ったコトが、正式に年季が明けることを野口家の瞽女たちに伝え、ハマも長年の感謝の気持ちを表した。
すでに荷造りを終え、朝餉の後は特にすることもなかったが、その手持ち無沙汰な時も長くは続かなかった。朝五つ頃(約七時半)には、早くもタケが玄関を訪ったのだ。
土産に、ヤナギガレイの一夜干しをどっさり持ってきた、と呼びに来たヤスヨが歓喜して告げる。
「おコトさん、すみません、朝早うに。船頭待たしてあるすけ、ゆっくり出来ませんが、また来るすけ、今日のところは勘弁してくんなせ」
ハマの所帯荷物は、いつもの旅支度だ。それを担ぎ、ハマは旅に出るように、野口家を後にした。
「おかっちゃ、ヤナギガレイの、あんげふっとつ、持って来るの大変だったでしょ」
「いや、私でねえ。春さんが一緒に来てくれたすけ」
(なに、なによ)
朝から、気が抜けてしまったようで、空虚な気持ちに苛まれ、脱力するしかなかったハマの体に、ぱっと緊張が走るのだった。
(なんだ、こんげな再会になるもんかね)
本来、それは嬉しいことに違いない。しかし、心の準備が出来ていないハマにとって、狼狽するどころか、むしろ迷惑にさえ感じるのだった。
ここ数年は、藪入りで帰省しても、子供の頃のように、駆けて会いに来ることがなくなった春治だった。
(名替えの時は、結局一言も話さず仕舞いだった。最後に話したのはいつだったか)
それさえも俄には思い出せないハマだった。
そんなことを考えているうちに、船着き場に着いた。
「おまたせだね、船頭さん」
タケが声をかける。
駆け寄る足音。
ハマは歩みを止め、じっと待った。
「荷物、下ろすよ」
ハマは、ふっと肩が軽くなるのを感じた。
「はい、どうもさん。その声は、春にいちゃ」
それはむしろ、自分に確認する意味だった。
「そう、そうだよ」
明るい声音で、春治はそう応えた。
そして、春治はハマの手を引いて、船に乗せた。
ハマは、もっと話を続けたかった。
「春にいちゃ、カレイ、あんげふっとつ。あれは、にいちゃが獲ったの」
「ああ、俺が獲って、一夜干しにした」
「そう、重いのに、どうもさん。みんな喜んたったよ」
ハマの中で、長く止まっていた時が、春治との時が、不器用にも再び動き出した。それはただ嬉しいという感覚ではなく、良い発案のようだった。
「いいか、動かすよ」
やがて船は、ゆっくり動いた。
冷たい川風が体を冷やしていくのが分かったが、ハマには心地よかった。
新たな門出を象徴する船出だった。動き出した血が体全体に行き届く様が、ハマには手にとるように分かった。
そうして、川船のゆったりとした揺れに身を任せていると、ようやく、ハマは生まれ故郷に帰る実感が湧いてくるのだった。
この時の光景、そして自分の気持をハマは終生忘れることは無かった。
いや、このときの幸せな気持ち、空気や音は、時が経つにつれて重さを増し、ハマが思いだす回数も増えていった。
しかし、そういう何でもない思い出は、誰かに語るほどのことでもなかった。
母タケ、春治、ハマ、その三人で歩く旅など、あれっきりだったのに、語る相手はハマ自身でしかなかった。
(想い返してみれば・・・)
あの、ささやかな幸せの時は、その後のハマの激動の人生の、ほんの小休止だったのかもしれなかった。
晩年、ハマはそう、しきりに想うのであった。
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